基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

注意力を取り戻し、社会に潜むコンテクストを深く理解するための「なにもしない」という方法──『何もしない』

この『何もしない』は、「何もしない」ための行動計画書というか、思索書というか、自己啓発書というか、そんな感じの本である。何もしないなんて簡単だろう、何もしないだけなんだから、と思うかもしれないが、自分や他人の生活を考えて見るに、何もしていないだけの時間というのはほとんど存在しないのではなかろうか。

僕も朝起きた瞬間からとりあえずネットを開いて、なんかおもしろそうなニュースや新しい動画がアップされていないか探してしまう。トイレにいってもスマホを持っているので、わずかなスキマ時間も何かをみたり、読んだり、ゲームをしてしまう。最近はポケモンユナイトがスマホでもリリースされたので、トイレで起動するとうんこが終わっても30分ぐらいトイレに座っていることがある(それはただのアホだが)。

「何もしない」時間は、ほぼない。本書はそうした「何もしない」時間の意味をあらためて問い直すための一冊ではあるのだが、たとえばよくあるような、一時的にインターネットや電子機器から離れたデジタル・デトックスの期間をもうけて、生産性を向上させよう! という本ともまた異なっている。

 私が定義する「何もしない」の重要なポイントは、リフレッシュして仕事に戻ったり、生産性を高めるために備えたりすることではなく、私たちが現在「生産的」だと認識しているものを疑ってかかるということだ。私の主張が反資本主義なのはまぎれもない事実であり、時間、場所、自己、コミュニティを資本主義の観点から捉えるよう促すテクノロジーにたいしてはとりわけ警戒している。

本書は、この引用部にあるように、現行のテクノロジー、中でも我々の注意力を奪う技術への警告の書でもある。FacebookやTwitterやInstagramは、絶え間ない通知や不規則的に更新されるタイムラインによって、我々の限りある資源である注意と注意力、わずかな余暇を奪い取っていく。SNSでは多くのニュースが流れてくるが、その多くはクリックを誘導するために無意味に扇動的・釣り的なもので、不安や怒りを煽り、コンテキストや背景といったものがわからない断片的なものだ。我々はその背景を知ることもないし、そもそも知る必要のない情報にさらされつづけている。

注意力を取り戻す

本書でいうところの「何もしない」とは、目をつむってじっとしているような本当の意味での「何もしない」ではなく、上記のようなSNSや、休日も圧倒的成長! とかいって自己の能力をアップさせたり生産性を向上させるのが素晴らしいことだ! といった生産性至上主義を拒絶し、生産性がないことをやろう! という意味である。

公園にいって鳥をじっくり観察したり、道行く人を眺めてその人生を想像してみたり。それらは生産性が高い行動とはとても思われないが、普段の情報の波と狂騒から頭を離し、目的もなく周囲を観察することで、そこに存在するコンテクストに目がいくようになり、注意はより深くなると著者は語る。たとえば、公園での鳥の観察なら、最初は大雑把に「いろんな鳥がいるな」ぐらいにしか捉えられていなかったのが、カラス、ゴイサギ、ミソサザイモドキがよくいる場所が異なることに気がついたり、いる時間といない時間があることに気がついたりする。

それじゃ「何もしない」人じゃなくてただバードウォッチングが趣味の人になっただけじゃねえか、と思うかもしれないが(僕は思った)、いわんとしているところはわかる。決して「公園にいって鳥をみろ」といっているわけではなくて、SNSやニュースから一歩離れ、無目的に周囲を観察し、音を深く聞け、ということである。そして、それが注意を深くする訓練になるのであって、その部分こそが本書の肝にあたる。

デジタルデトックスなどでよくいわれる、SNSアプリを削除したり使用する時間を制限しよう、というわかりやすい決別をするのではなく、その前段階の準備として、注意をコントロールする力をトレーニングで取り戻すことを求めているのである。

注意を向けるのをやめるという営みは、本来は何よりも先に心のなかでなされるものだ。その場合、必要となるのは、何かときっぱり決別することではなく、継続的なトレーニングだ。

おわりに

注意経済と化し、人間の注意をハックしようと手ぐすね引いている企業が大勢いるこの余白が縮小した世界で、我々は自分の注意力を取り戻し、コンテクストを回復しなければならない──というのが本書では著者の実体験や様々な思想書、哲学、科学書を絡めて語られていくことになる。思索書的なのはそうした側面だ。

全体的にもっともな話だと思ったが、何もしないで公園にいったり散歩をしたりして周囲の音をよくきいたり観察することで本当に注意力は深くなるのか? という疑問は残ったままだった。まあ、これについてはやってみなければわからないだろう。僕自身、失敗を繰り返しながら4年ぐらいのチャレンジの末に、TwitterなどのSNSを観る時間を相当に減らすことに成功しているので、少なくとも「注意力を取り戻すためには継続的なトレーニングが必要である」という面には実体験からは同意したい。