基本読書

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がんを根絶するのではなく、コントロールするという選択肢──『がんは裏切る細胞である――進化生物学から治療戦略へ』

この『がんは裏切る細胞である』は、書名通りがんについて書かれた一冊である。がんがどのように生まれ、現代まで生き残ってきたのか。いま、どこまで研究が進展しているのか。なぜ転移し、がんを根絶することが今までできていないのかといった基本的なところから、新しい切り口として、これまで「排除すべき敵」として捉えられてきたがんを、「厄介なルームメイト」として捉え直し、完全な排除を目指すだけではなく共に生きていけるようにコントロールする治療法について書かれている。

え、それは抗がん剤を使わないなどのインチキ医療のこと? と思うかも知れないが、そうではない。がんは多細胞生物である以上まず発生するもので、それを抗がん剤などで完全に根絶しようとしても、がん細胞が進化し抵抗性が生じることで治療が不可能になってしまうことがある。そこで、がんの根絶を目指すのではなく、一定の大きさまでの腫瘍を許容し、基準を超えたときだけ抗がん剤を用いることで、腫瘍を薬剤が効く、コントロール可能な状態に維持し続ける治療手法が存在するのである。

著者はアリゾナ州立大学の准教授で、がん研究の最前線にいる専門家であり、自身の研究事例も交えながら、こうした治療の前提情報となる「がんとは何なのか」を解説してくれている。僕もある程度がんのノンフィクションは読んでいるつもりだったが、本書には知らなかったことが数多く書かれていて、楽しませてもらった。この手の本は何を言っているのかちんぷんかんぷんなこともあるが、本書は専門的ながらも筆致も比較的わかりやすく、比喩が多いのも良い*1

がんの発生原因と、それを止めるのが難しい理由

我々多細胞生物の体をつくる細胞は、当然ながら共同体全体に害をもたらさないように自分たちのふるまいを調節・連携していて、そこには基本的なルールがある。無秩序に分裂してはならないとか、集団への脅威となったら自らを破壊せよとか、肝細胞は血液を解毒し、心臓の細胞は血液を送り出し──と、各細胞は与えられた仕事を果たせ、老廃物を蓄積させないように除去せよ──などなどである。

どのルールも多細胞生物が健康に生きるために必要なことだが、DNAの塩基配列が変異したり、エピジェネティクスの変化が起こったりして、こうした多細胞のルールに従わない細胞が出てくる。そうすると、ルールを守る真面目な細胞を利用し、体内の整備された環境にタダ乗りし、自分だけ無尽蔵に増殖できるようになったりする。これが、がんであり、本書のタイトルである「がんは裏切る細胞である」の意味だ。

裏切り者であるがんは、しかしそう簡単に我が世の春を謳歌できるわけではない。体にはそうした異常をきたした細胞を見つけ取り除くメカニズムが備わっていて、たいていの場合駆除されてしまう。たとえば、細胞は相互監視を行っていて、異常な増殖をする細胞がいた場合、周囲の細胞が自死を促したりする。『細胞同士は「生存せよ」というシグナルを絶えず交わし合っている。しかし、近くのいずれかの細胞から「気に食わない」とされたら、自死のプロセスを開始することができる。』

とはいえ、現実にがんは存在するわけで、様々な方法でそうしたチェックをすり抜けることがある。たとえば、細胞のDNAが修復不可能なまでに変異した時に細胞死を引き起こすTP53という遺伝子があるが、この遺伝子に変異が生じてしまえば、DNAが重傷を負っていても細胞は増殖してしまう*2。細胞は分裂と変異を繰り返すから、いずれ検知システムをすり抜けるがんが現れるのは、これはもう止めようがない事態である。『がんとは進化そのものだ。進化が形を得た存在。それががんである。この惑星に多細胞生物が存在する限り、がんが消えてなくなることはない。』

治療について

こうした基本的な話を経て、本書の最終章では「がんをいかにコントロールするか」として、がんのコントロールを目指す治療法(適応療法)について語られていく。この治療法の着想元になっているのは、農薬とそのコントロールだ。

たとえば、農薬を頻繁に散布しすぎると、抵抗力を持った虫だけが残り、結果的に病害虫を長期的にコントロールすることが不可能になる。そのため、比較的低用量の農薬を使用することで、農薬に抵抗できない個体も一定数生き残らせ、長期的な個体数管理を行う。そうした手法のことを、IPM(総合的病害虫・雑草管理)という。

このIPMと同じことをがん治療でもやってみたのが、ざっくりいえばこの適応療法である。化学療法などの治療を行うと、それが効くがん細胞は死滅するが、残ったがん細胞は進化し治療への感受性を失い、効かなくなる。こうした事態を避けるため、がん細胞の殲滅を目指すのではなく、腫瘍が存在することを認め、長期にわたる腫瘍のコントロールを目指すのだ。そうすれば、結果的に農薬と同様に、同じ薬剤を使うことができ、患者の体へのダメージも低減させることができる。

 ゲイトンビーの手法は「適応療法」と呼ばれる。これは、腫瘍の状況に合わせて治療法自体を適応させる(変化させる)という意味から命名された。適応療法では、画像技術や血液検査によって腫瘍の状態を綿密にモニターする。腫瘍が成長しているのかいないのかがわかったら、その情報をもとに抗がん剤の容量を定める。どのように定めるかには何通りかのアルゴリズムがあるが、大原則は、腫瘍を安定した状態に保つとともに、患者へのダメージが大きくなりすぎないような腫瘍サイズを維持することである。

これは、仮説に終わらず2016年にはヒト(ホルモン療法に反応しなくなった、転移性前立腺がんの患者11名)にたいしての臨床試験も行われている。臨床試験の詳しい諸条件は読んで確かめてみてもらいたいが、通常の継続治療の場合、中央値として16.5ヶ月経過した時点で腫瘍の進展が認められるが、この適応療法臨床試験参加者のがんが進展するまでの期間の中央値はこれを大幅に上回る27ヶ月だった。

しかも、臨床試験中にがんが進展する患者の数が少なかったため、実際はこの期間は長くなったと思われる。加えて、患者が投与された治療薬であるアビラテロンの総容量は推奨される標準医療時の半分にも満たなかった。

おわりに

これだけで素晴らしい治療法だ! と絶賛できるわけではないが、希望の見える治療法の一つとはいえるだろう。上記の臨床試験を行ったゲイトンビーは、これに続いてメラノーマ、甲状腺がん、卵巣がんについても臨床試験を開始すべく準備を進めているという。本書では他にも、近年わかってきたがんの性質から、どのようにすれば転移を防ぎ、がんの進展を止められるのかという新しい治療法の可能性についても触れられていて、長期的ながんのコントロールに希望が持てる内容になっている。

本書とは関係ないものの、mRNAによるがん治療も有望だし、僕ががんになる前に世界中のみんな、がんばってくれよな……! とひたすらに願う日々である。ちなみに、まだまだ研究途上の内容なので、この記事だけを読んで医療上の判断を下すのは大変にリスキィであることは念のため書いておきます。中ではより専門的な議論と情報が乗っているので、読んでね。

追記

追記:はてぶで「別にがんの完全な排除を諦める必要はどこにもないのでは。」とコメントいただいていたが、本書は別にがんの(生物である以上一生は無理だが)完全な排除をやめろとか無理だと言っているわけではなく、完全な排除が難しいものにたいして(それをどうやって見分けるのかについても触れている)こういう治療法と考え方が選択肢としてありえると示しているだけであることは追記しておきたい。

完全な排除が低リスクでできるのであればそのほうがいいのは間違いない。わかりづらい書き方で申し訳なし。

*1:比喩が多いのはなんとなくわかった気にさせるということもあり、必ずしも良いことではないが、本書の場合は専門的な解説と合わせて用いられている

*2:TP53は体内で細胞死を引き起こし警察活動を行うためにも、細胞にがん化の脅威があるかどうかを判断しなければならない。が、その判定は完全なわけではない。見逃しもあるし、誤検出もある。この二つはトレードオフの関係になっている。見逃しを少なくしようとチェック数を上げれば、誤検出(正常な細胞を殺す)が増える。誤検出を少なくすれば、見逃しが増える。実験でマウスのTP53遺伝子の活動を高めてやると、がんになるリスクは低減するものの、老化のスピードは速くなったという(正常な細胞が破壊されるので)。