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仕事が行き渡らない世界がやってきたら、我々はどうやって生きていけばいいのか?──『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』

近年、AIなどのテクノロジーの進歩は、人間から仕事を奪う。いや歴史が証明しているようにテクノロジーの進歩は新しい仕事を作り出すから人は新しい仕事へと移るだけだ。その移行には数十年かかるから現代を生きる我々の救いにはならない! など、さまざまな「テクノロジーの進歩と仕事」についての主張が交わされてきた。

数十年に渡るそうした論争の末、近年のノンフィクションでは、「多かれ少なかれテクノロジーの進歩は人間の仕事を奪う」方向に傾いているように思う。たしかにこれまで多くの仕事は、自動車やトラクターが馬を(少なくとも移動の手段としては)不要としたように、テクノロジーの進歩によって消え、また新たな仕事を作り出してきた。だが、それはいうても新しいテクノロジーが結局人間の完全な代替にはならなかったからだ。車ができたからといって、それを運転する人間は必要であった。

今も完全に人間を完全に置き換えるAIは存在しないが、かといって世の中に存在する仕事の大半は人間をそっくり代替しなくても問題ないものばかりである。運転でも、囲碁でも、将棋でも、がんの診断でも、狭い領域であればプログラムは人間よりもうまくこなす。しかも、プログラムが担当できる領域は広がり、逆に人間にしかできない領域はこれまでよりも格段に高スキルを必要とするようになっている。

一部の仕事は間違いなく当面は存続する。だが、その仕事は徐々に多くの人にとって手の届かないものになっていくだろう。そして21世紀が進むにつれ、人間が行なう仕事に対する需要は徐々に目減りしていくだろう。最終的に、従来のように仕事をして稼ぎたいと望む人全員に割り当てられるだけの仕事がない、という状態になる。

仕事がなくなった世界で

本書『WORLD WITHOUT WORK』は、テクノロジーによって人間の仕事は失われていく一方だという前提を置き、それではそうなった時、我々はどのような社会を構築していけばいいのか? と問いかける一冊だ。富はこれまで基本的に労働に対しての報酬という形で分配がなされてきた。もしその前提が崩れ、つける仕事がなくなるのだとしたら、我々は労働以外の形で富を分配する必要がでてくるだろう。

本書は、そうした状況の解決に際し、副題にも入っているように「大きな政府」、国家が社会の富の分配に大きな役割を果たすべきだ、としている。たとえばベーシックインカムもその選択肢のひとつだが、多くのBI論者が無条件に全国民への配布を前提としているのと違って、条件付きベーシックインカム(CBI)を提唱している。

また、仕事がなくなる社会において考えなければいけないのは、富の分配だけではない。たとえば、人生の意味や目的をどう見つければよいのか。仕事一筋で生きてきた人が定年後抜け殻のようになってしまった、というのはよくきく話だが、これからの世界はそれがもっと大規模に、世界的に起きる可能性がある。仕事から解放される喜びにひたる人も多いだろうが、増えた余暇をどう扱えばいいのか、娯楽に興じるだけでいいのかなど、「余暇多き人生」について考えるべきことは多い。

本当に仕事は減っていくのか?

本書で最初に論じられるのは、そもそも本当に仕事は減るのか? という前提部分の詰めだ。進歩が仕事を奪うという時、多くの人は「無くなる職種は何なのか?」と問いかけるが、実際はこの問いは間違っている。というのも、特定の職業、仕事を分割不可能なひとかたまりの活動と想定しているからだが、たとえば「医師」と一言でいってもその仕事は多岐に渡る。診断もあれば手術もあり、書類仕事もあるのだ。

そうした無数のタスクは「やり方を手順化できる定型タスク」と「言葉にできない暗黙知に頼る非定形タスク」に分けられ、前者は自動化できる。マッキンゼーの調査結果によれば、エレベーターガールのように既存の技術によって完全に自動化可能な職業は5%にも満たない。だが、すべての職業のうち60%以上は、行っている作業のうち3割は自動化可能であるという。つまり、私の仕事は人間にしかできない部分があるから、機械に奪われることはないというのは、安心できる根拠ではない。

非定形タスクは自動化できないなら、人間はそうした仕事に移っていくはず(だから仕事はいつも生み出される)だ、というのは理屈は通っているが、人間にしかできない領域は日々少なくなっている。かつて起こったような、農場から工場への移行は、たしかに仕事は変わったが、必要とされる新たな技術の習得は充分に可能だった。

今では、それは難しくなってきている。必要とされる仕事のスキルはより深くなり、その習得はより困難になっている。それでも──と反論する人は多い。人間はそ簡単には置き換えられないはずだ、と。著者は、それは人間は特別な存在だと思い込みたがった人間の決めつけであり、経済が成長しあらたに生み出されたタスクは結局人間にしかできないという思い込みのことを、「優越想定」と呼んでいる。

僕はこれを「優越想定 superiority assumption」と呼ぶ。未来を楽観視する根拠として、過去に威力を発揮した補完力の効果を持ち出すときにも、この思い上がりassumptionが強く作用している。

たしかに、歴史的にみてこれまでは人間の領域は機械に侵されてこなかったかもしれないが、これからも変わらないというのはあまりに楽観的にすぎる。

対策

では、今後どうしたらいいのか? ほとんどの同じテーマを扱った本が大きく語るのは、まずなにをおいても「教育」だ。これから先人間に必要とされるより複雑な仕事をこなすために、より長い時間をかけて教育するのだ、生涯学習だ! と。

本書も教育の重要性は認めつつも、新しいスキルなんてそう簡単に身につかない、と一蹴しているのがおもしろい。はじき出された労働者は新たなスキルを学べばいい、簡単にいうが、人間には適正や生まれ持った才能があり、新しいスキルを本当に学ぶには時間と労力がある。必要なスキルはこれだと指示されたからといってそれが学べるわけではない。また、構造的テクノロジー失業が発生する社会では仕事そのものが社会に充分になくなるので、そうなれば世界トップの教育も無用の長物である。

つまり、仕事を通じての金銭の分配は諦め、労働市場に頼らない別の方法である必要がある。そこでようやく「大きな政府」論、どのようなベーシックインカムが必要とされているのか、その財源は──が本書では論じられていくことになる。

尊厳と価値があらためて問われる時代

その具体的な試算についてはぜひ読んで確かめてもらいたいところだが、おもしろかったのは最初にも書いたように本書が「余暇」や「尊厳」の問題も扱っているところだ。仮にBIが実現したとして、仕事がなくなった人たちはどうしたらいいのか?

近年、あなたの学歴や収入は、勤勉さや努力の結果ではなく、運の影響も大きいのだと主張したサンデルの『実力も運のうち』。給料は政治権力によって決定すると論じ、給料はあなたの価値ではなく、低くとも自尊心を傷つけられる必要はないと論じたローゼンフェルドの『給料はあなたの価値なのか』など、「あなた個人の価値をどこに見出すべきなのか」をあらためて問い直す本が立て続けに出ている。

それは、本書が論じているように、我々は今後仕事や給料の存在しない世界に突入していくから、というのが背景にあるのだろう。その時、我々は仕事以外の場所に自分の価値や尊厳を求める必要がある。本書では、その展望のひとつの例として、受給者に有償のしごとではない、「自分が選ぶ活動」と「コミュニティから求められる活動」に従事する条件を課した「条件付きベーシックインカム」を提案している。

それは芸術活動や文化活動かもしれない。読書や執筆、楽曲の制作かもしれない──。これは単なる推測にすぎないが、仕事なき時代にどのような社会をデザインするべきなのか、金銭の分配にとどまらず考えなければいけない領域は多い。断言できることは多くはないが、そうした未来を考えるきっかけになってくれる一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
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