基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

旧石器時代の人間の意識、世界の認識を「体験」する過程──『人間のはじまりを生きてみる: 四万年の意識をたどる冒険』

この『人間のはじまりを生きてみる』は『動物になって生きてみた』で知られるチャールズ・フォスターの最新邦訳作。『動物になって生きてみた』は、僕も刊行当時読んで記事を書いているが、衝撃的な傑作であった。『動物になって〜』の中で、チャールズはアナグマやキツネ、カワウソといった動物になりきって生活し、その過程で彼らがどのような世界を観ているのかを実際に体験している。

それが、仲間や撮影スタッフを引き連れて数時間アナグマ的な体験をしました〜といった内容だったら微笑ましい内容だが、彼の凄いところは普通の人間がやらないレベルまでやっていたところにあった。アナグマとして生きる章では、巣穴を本格的に彫り始めるところからはじめ、何日もそこで泊まり込み、ミミズを生で食い、雨が降っても家に戻らず、川や地面に落ちていて食べれそうなものを何でも食う。道路でぺちゃんこになったリスから、カタバミ、野ニラ──そして、そうした壮絶な体験、その主観を、仔細にレポートしていくのである。これは、かなりイカれた本だった。
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で、そんな彼の最新作、それも「人間のはじまりを生きてみる」というタイトルなので、今度はもっと凄いこと──たとえば狩猟採集民の生活を何ヶ月にも渡って実際にやってみたり──に挑戦しているのかと思うだろう。実際、その推測はあっている。今度のテーマは、アナグマやキツネではなく、「人間とはいったいどんな生き物なのか」だ。われわれは人間だから人間をよくわかっていると思うかも知れないが、実際にはわれわれは「現代人」なのであって、その来歴がわかっているわけではない。

そこで、彼は人間にとって三つの重要な時代──狩猟採集民時代、新石器時代、啓蒙時代──の人間の生活様式を追体験することで、人間の歴史を生きなおそう、その過程で人間とはいったいどんな生き物なのかについて答えを出そうというのでる。

 これは旅行記だ。この旅では過去に向かい、人間とは何か、自我とは何か、過去は現在の私たちとどのようにつながっているのかを探る。ひとりの男が、そのつながりを感じようと試みる──私がどうやって狩猟採集民に、農民に、そして啓蒙思想をもつ還元主義者に変身しようとしたかの物語で、そのすべては、私とはいったい何者なのか、私はどう生きるべきなのか、そして意識というものが人間の体に組み込まれるとき、それはどんな形をとるのかを死にもの狂いで知ろうとする旅になる。

ある意味では『動物になって生きてみた』の続篇ともいえる本作だが、その向いている方向は実は異なっている。『動物になって〜』の路線を踏襲するのであれば、彼は狩猟採集民と同様の生活をして、その苦境を赤裸々に臨場感たっぷりに語っていくことになっただろう。だが、本作はそうではないのだ。

思索と感覚

確かに、苦境は語られる。たとえば最初はいきなり狩猟採集民の生活を「冬」に体験しようとするので、何も食べるものはなく、何日も飢餓状態でさまよい歩くことになり、食べるものといえば車にはねられた動物の残骸ばかり。だが、そうした苦境の描写、彼の行動を直接的に示すパートは、本作のわずかな部分を占めるにすぎない。

ではそれ以外の大半のパートで本作は何を書いているのか? といえば、思索と感覚である。狩猟採集民のように生活をして、何を感じたのか。森と一体化する方法、またその感覚について。森に、鳥に、カエルに、キツネに、煙に、雨に、何を感じたのか。『学者が過去に関する本を書くときは事実からはじめる。私は自分の感覚ではじめる』と語るように、森の中で狩猟採集民として暮らし、彼らがどのような感覚で世界を認識しているのか? その感覚をただひたすらに書き連ねていくのである。

必然、その描写は時折スピリチュアル性を帯びていく。霊のキツネが当たり前のように彼の周囲を走り回り、いるんだかいないんだかわからない謎の人物(トムやその父親のX)との対話が常に繰り広げられる。かなり特殊な本だ。

 意識を呼び起こすのに、大げさな幽体離脱体験など必要ないように思えてくる。その代わりに、炎をじっと見つめ続ければいい。炎は文字通りの生き物を、記号を表現するものに変えてしまう。炎はすべての人を、隠喩的で物語を話す動物に変えてしまう。

抽象的だが、だいたいこうした文章が全体に渡って続く本である。こうした、個人が森の中で暮らした感覚を(本書後半では新石器時代、啓蒙時代が続くが)ひたすら読まされて、それにいったい何の意味があるのか? と疑問に思う人もいるかもしれない(正直僕も最初は読みながら思わずにはいられなかった)。しかし、当たり前のように暖房があり、捨てるほどのカロリーがある生活に浸った人間が、こうした野生の中に帰り、感覚、感性を一度ゼロリセットしようとする試み、その描写には、異様なまでの迫力とスペシャリティ(唯一性)があり、読んでいておもしろいのである。

また、『動物になって〜』も彼の実体験と共に動物の細かな生態などの純ノンフィクション的な記述のレベルが高くておもしろかったが、その筆致は本作でも健在。狩猟採集民の生活が現在の最先端の研究で判明している限りどのようなものだったのか、思考や行動、言語の成立過程まで、詳しく語られていて、「いや、そんな感覚の話なんか興味ないよ」という人も読める本にはなっている(満足はしないだろうが)。

おわりに

 この本はマニュアルではない。トナカイ肉のシチューのレシピもガンの皮で作る脚絆の型紙もないし、丸いキノコで火を運ぶ方法も、フリントの斧を柄に取りつける方法も、石柱を立てる方法も書いてはいない。別の時代の暮らしを再現しようとする体系的な試みの記録でもない。そうしたことを書いた本もウェブサイトも、たくさんある。

しかし、本書に書いてあるようなこと──、その狩猟採集民の視点からみた世界の認識とその感覚──を書いた本やウェブサイトは、そうそうないだろう。少なくとも僕は本書ではじめて読み、そこには斬新な驚きがあった。興味がある人は、ぜひ手にとって観てね。