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認知科学の観点からいえる、最強の英語学習法──『英語独習法』

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

この『英語独習法』は、認知科学や発達心理学を専門とする今井むつみによる、認知科学の観点から考えた最強の英語学習について書かれた一冊である。『「わかりやすく教えれば、教えた内容が学び手の脳に移植されて定着する」という考えは幻想であることは認知心理学の常識なのである。』といったり、多読がそこまで良くはない理由を解説したり、一般的に良しとされる学習法から離れたやり方を語っている。

特徴としては、「何が合理的な学習方法なのか」を披露するだけではなく、「なぜそれが合理的なのか」という根拠を説明しているところにある。だから、これを読んだらなぜ一般的な英単語の学習法(たとえば、英単語と日本語の意味を両方セットで暗記していく)が成果を上げないのか、その理屈がわかるはずだ。認知科学のバックボーンから出てくる独習法も納得のいくものばかりである。僕も様々な理由(英語圏Vなどの英語が聞き取れるようになりたい、洋書のSFやノンフィクションをたくさん読みたい)から30を超えてなお英語を勉強し続ける日々であり、大変有益だった。

スキーマの違いが学習を妨げる

認知科学的に最適な学習とはどういうことなのか。いくつかの概念を通してそれを説明していくわけだけれども、中でも重要なのはスキーマだ。スキーマとは体系化された知識のまとまりであり、その詳細が意識されることはない。母語をしゃべる時に、主語がこれで述語はこれで……と考えたりしないのと同じことだ。文法を知識として知っていることと、文法を使いこなすことはまったく違うことだ。

本書では、スキーマを通して言語を学習するとはどういうことかについて、最初に英語の可算・不可算文法を通して説明している。可算・不可算文法の定義はシンプルだ。数えられるものが可算で、数えられないものが不可算。可算名詞で一つなら名詞の前にaがつき、複数なら名詞の語尾にs、不可算名詞には付けない。シンプルなようだが、これがなかなか面倒くさい概念だ。たとえば、名詞で表される概念は、可算・不可算のどちらかに分類されなければならないが、使い分けが難しいケースもある。

キャベツやレタスはどちらも使われるし、idea(可算)やevidence(不可算)といった抽象概念も可算・不可算で判断する必要があり、判断が難しい。母語の学習過程を考えてもらえればわかると思うが、英語を母語として学習する子供は、名詞を覚えて後からそれが可算なのか不可算なのかを覚えるわけではない。aがついているか、sがついているのか、何もついていないのかといった(当然そこに冠詞なども絡んでくる)文脈と文章におけるかたまりごとに覚えていく。そして、かたまりごとに覚えていくうちに、そこに可算・不可算といった区別が存在することにいつか気がつく時がくる。

つまり、母語を覚える子供はスキーマを自分で作り上げるのである。スキーマが形作られると、今度はそれに基づいて意味の推論が行われる。teaと言われた時、可算・不可算文法を熟知していれば、その文脈の中でteaが液体としての中身(不可算)の方を指しているのか、コップ(可算)の方を指しているのかが自然と判断できる。そして、可算・不可算の形に常に注意を向けているから、ideaやevidence,jewelly(宝石。数えられるように見えるが、実際には不可算名詞)のような場合分けの難しい名詞が出てきた時に、その用法を聞いてああ、これは可算/不可算なのね、と深く納得する。

日本語では、ある名詞が数えられるか否かで何も変化しないので、文法的に意識することはない。『このため、日本語話者は、英語話者のように名詞の文法形態に自動的に注意を向けるということをしない。これが英語の名詞の可算・不可算を覚えることを難しくする。』英語を読んだり聞いたりした時も、名詞の意味にばかり注意を向けて、可算・不可算の形態に向かないので、いつまで経っても覚えられないのだ。

誰もが母語に対しては豊かなスキーマを持っているのだが、そのことを知らずに、聴いたり読んだりしたことを理解したり、話したり書いたりするときに無意識に使っている。暗黙の知識を無意識に適用しているので、外国語の理解やアウトプットにも母語スキーマを知らず知らずに当てはめてしまうのである。

単語について

重要なのは単語もだ。ある単語がどのくらいフォーマルかという感覚は、意味だけみていたらわかりづらい部分だ。日本語でいえば、「選ぶ」と「選定」は辞書的にはほぼ同じ意味になる。しかし、友人同士が学食で話していて「先に席とっとくからお前早く選定してこいよ」といったら「お前はアーサー王かよ」とツッコミが入るだろう。意味は同じでも、使うシチュエーションは異なることが日本語話者にはわかる。

つまり、ある単語を使うときにはその単語の意味を知っているだけではダメで、その単語の類義語、その単語の使用頻度、どのような文脈で使われるのか、といった氷山の下の広い知識が必要になってくる。日本語でカンガルーが歩く、と言われたら違和感を覚えるが、それは普通、カンガルーは跳ぶからだ。それに違和感をおぼえ、跳ぶを使うためには、日本語には移動するための動詞に、歩く以外に跳ぶだとか這うだとか走るだとかがあることをしっていなければならない。

では、どう学習すればいいのか

では、どう学習するのが最適なのか。そこは本書の肝の部分なので、詳細に紹介はしないけれど、単語学習で一つだけあげると英単語と日本語の意味の関係性を調べるだけでは不十分である。英単語の類義語を調べ、使われるシチュエーションや一緒に使われることの多い単語を調べと、単語の周囲の世界も含めて調べる必要がある。
skell.sketchengine.eu
本書ではいくつかの英語学習に最適なwebサイトが紹介されているが、「SkeLL」は、英単語を入力すると大量の類例、共起される言葉、一緒に使われることの多い単語を視覚的にわかりやすく表示してくれる優れたサイトだ。たとえばevidenceを入れると、類義語にはinformation,knowledge,statement,analysisという情報や知識、分析に関連した単語が並ぶ。共起語にはsuggest,support,present,provideといった単語がそれぞれ表示されている。これを繰り返していくと、一つの単語を覚える過程で他何十もの単語をその関連の中で頭に入れていくことができるだろう。
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日本語と英語のようにスキーマが大きく異なる言語圏だと語学学習については高いハードルになる。しかし、その違いをきちんと認識して、これまで見過ごしてきたスキーマに意識を向けるようにすれば、その差は乗り越えることができるはず。そう実感させてくれる、心強い新書であった。

意外な形で大気と人間の関係を描き出してみせた化学ノンフィクション──『空気と人類 ―いかに〈気体〉を発見し、手なずけてきたか』

この『空気と人類』は、『スプーンと元素周期表』など様々な化学/科学系のトピックスを扱ってきた作家サム・キーンによる、気体についてのノンフィクションである。一緒にいるのがあたり前の相手を「空気のような存在」というぐらいには身近なものだが、その性質、歴史、役割に注意を払う人は多くはないのではないか。

カエサルの最後の息を一日に何回吸い込んでいるのか?

本書の原題は『Caesar's Last Breath』という一風変わったもので、最初の話題は「我々は一日に何回カエサルの息を吸い込んでいるのか?」という問いかけから始まる。カエサルは有名な逸話の中で、自身が裏切られ殺された場に、寵愛していた相手ブルータスがいたことから、「息子よ、お前もか?」と問いかけたという。

そんな台詞は言っておらず、単なる伝説という話もあるが気体的にはどうでもよく、肺は通常、息を吐くごとに0.5リットルもの空気を排出する。カエサルは最後の一息だったので、その時は通常よりも多い一リットルの空気を吐き出したとすると、その分量は地球全体の大気と比べる0.00000000000000000001%の割合であると考えられる。吐かれた息は2ヶ月で北半球に広がり、1、2年もすれば地球全体に伝搬する。そんなに薄い割合であれば、我々はその最後の一息とは縁がないように見える。

だが、一リットル分の空気の中には約250該もの分子が存在していて、それらがバラバラに世界に向けて拡散していったと考えると、実は我々は相当な頻度でカエサルが吐いた最後の一息(に含まれていた分子)を吸っているのだ。『私たちはおよそ4秒に1回の頻度で呼吸をおこなうので、カエサルの息は毎日2万回あなたの肺に入り込んでいることになる。もしかすると、長年にわたって体の一部として組み込んでいる場合すらもあるかもしれない。ユリウス・カエサルの肉体を構成していた液体や固体が何一つ残っていないとしても、あなたとユリウスは遠い親戚みたいなものだ』

カエサルと遠い親戚だったらなんなんだ感はあるが、気体は我々にとって意識しないほどに身近なものだからこそ、それがどのような性質を持っていて、生活にどう関わっているのかをいろんな観点から知るのはおもしろいとはいえるだろう。本書では、一部は火山や地球大気の誕生の歴史を扱い、二部では人間がどのように気体を扱ってきたのかを、産業革命に繋がる蒸気機関や手術を一変させた麻酔を通して描き、三部では気候工学に宇宙人探査など、気体と人類の未来の話をしていくことになる。

人間を蒸発させるために必要なエネルギー量

僕がサム・キーンの本で好きなのが、メイントピックスに対しての余談が多いことだ。たとえば本書でいうと、第一章で語られている人間が蒸発するために必要なエネルギー量についての話をしているところなどがそれにあたる。

この章では初期地球の大気として、地球が生まれたばかりの頃から今のような状態になるまでにどんな変化が起きたのかを詳述していくのだが、それと同時にアメリカのセント・へレンズ山で起こった大噴火の話も語られている。この山は1980年に噴火し、50人以上を殺したが、この時山から5km以内という距離に、避難勧告を出した政府は嘘をついているといって残ったトルーマンというお爺さんがいたのだ。

当然嘘ではなくすぐ後に噴火したのだけれども、その際に、16km以内に居たものは全滅している。8〜16km地点ではそのほとんどが灰を吸い込んだことによる窒息死。8km以内については遺体の捜索すら行われなかった。5km以内に住んでいたトルーマンは跡形もなく消失したが、では、人間を蒸発させるためにはどれだけのエネルギー量が必要なのだろうか。これについて、人間の蒸発に関する研究というものが存在するらしく、その過程を水分の蒸発、内臓の蒸発、骨の蒸発に分けている。

人間の水分含有量は、トルーマンの年齢と体重でいうと45リットル。この分量の水の温度を100度にするためには、約2900キロカロリーが必要だ。しかしこれをすべて水蒸気にするにはさらにエネルギーが必要で、2万4000キロカロリーが必要になる。紀元79年に噴火したヴェスヴィオ山の犠牲者の中には、高温の火山ガスで脳が沸騰し、その蒸気が逃げ道を作ろうとして、頭頂が吹き飛んだ人間がいたという。おそらく即死で苦しみもなかったと思うが、ごめん願いたい死に方のひとつである。

続いて内臓は、軟骨、脂肪もあわせると約11キロ。内蔵の分子に化学変化を加えるためには、2万7000キロカロリーが必要になる。骨が一番たいへんで、骨の主成分であるハイドロキシアパタイトは沸点がとても高くて蒸発させるのは骨が折れる。おそらくトルーマンの骨は失われずに残ったと思われるが、骨を含めて蒸発させようと思ったら、およそ7万5000キロカロリーを一瞬のうちにぶつける必要があるという。

気体からわかること

大気の組成によって、地球環境は大きく変わる。46億年前、誕生まもない地球の大気は高温の水蒸気が大部分で、その後数億年かけて冷えていくことで水蒸気が雨になって降り注いで海ができ、二酸化炭素と窒素が大気の主成分になった。

そうすると海に二酸化炭素が溶け込んで、カルシウムイオンと結合すると石灰岩として海底に堆積し、大気の主成分は窒素に。その後、光合成を行うシアノバクテリアが海中に誕生し、二酸化炭素と自ら有機物と酸素が生み出されると、メタンなどの温室効果ガスがそれと反応して、循環から取り除かれる。これによって地球の表面温度が低下、その後地球の酸素濃度は高くなったり低くなったりを繰り返していく。

酸素濃度が高くなると少しの火花でも大きく燃え上がるなどいろいろな変化があるが、一つおもしろいトピックとしては昆虫の大きさに関係してくることだ。小型の昆虫は肺を持たないが、体表にあいた小さな孔を通して細胞内に酸素を行き渡らせる。この仕組みは、昆虫があまり大きくなければうまく機能する。だから大半の昆虫は小さいわけだけれども、酸素濃度が35%あるエネルギッシュな時代(3億年前)には、簡単に酸素が取り込めるので、巨大な昆虫が生存可能になり、カラスほどの大きさのトンボに似た生物や一メートル近くのムカデ、タイヤ幅のクモが存在していたのだ。

おわりに

このように、惑星の大気の組成は、生物や海洋、大陸に変化を与える。逆に人間含む生き物の活動もまた、大気に影響を与えることから、遠くの惑星の大気の組成を調べるだけで生物の有無を判定できるのではないか、とする研究もあるぐらいだ。大気中にメタンと酸素が共存する場合、互いに反応しあって消えていく傾向にあるので、この二つが豊富に共存していたら何かがそれを絶えず供給している可能性がある。

と、地球から火山、昆虫に異星の知的生命探査まで、気体をめぐる話はあらゆる領域にまたがっている。気体テーマは非常に大きく、本書だけで扱いきれているとは言えないが、カエサルの息を我々は一日何回吸い込んでいるのか? というように、意外な形で大気と人間の関係を描き出してみせた、素晴らしいノンフィクションだ。

同じ著者の『スプーンと元素周期表』もめっちゃおもしろいのでこっちもオススメ
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

地下を通して、数千、数万年後の祖先に我々は何を遺せるのかを考える一冊──『アンダーランド──記憶、隠喩、禁忌の地下空間』

この『アンダーランド』は、大自然を相手にした旅行記に定評のあるロバート・マクファーレンによる、地底をめぐる紀行文学である。マクファーレンは本書の中で、イングランド南西部で青銅器時代の墳墓を探索し、ダークマターの検出など、科学的な実験のために用いられている地下科学施設におもむき、ある時は氷河の中にロープを用いて降りていき、最終的には核廃棄物を収容する地下施設にまでいってみせる。

「地底」と一言でいっても、訪れる場所の種類がやけにバラついていて、話にまとまりがあるのかなと少し心配しながら読み始めたのだけれども、地底の旅に「時間」と「人新世」という二つの中心を付け足すことで一貫性が生み出されている。様々な文学作品や神話からの引用に彩られた文章も素晴らしく、たいへんおもしろかった。

時間と人新世というテーマ

地下には嫌なもの、見たくないもの、隠しておきたいものが送り込まれるものだ。また、意図せずして地下の奥深くに物がしまいこまれ、何万年も経った後に表出してくることもある。そうした、場合によっては何万年も開けられることのない地下空間には、地上とは隔絶した時間が流れている。本書の原題は『Underland: A Deep Time Journey』で、悠久の時間の旅についての話なのだ。

また、我々は地下から目を逸らそうとするが、時には地下から漏れ出てくるものに相対しなければならない。「目を逸らすことができない地下から漏れ出る物」その具体例として本書で取り上げられていくのが、もうひとつのテーマである「人新世(ひとしんせい)」だ。現代においては人類の活動が地球の生態系や土壌、気候に支配的な影響を与えるようになっていて、こうした新しい地質年代を表すものとして、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが考えだしたのがこの人新世である。

北極圏では、古い時代にたくわえられたメタンガスが、永久凍土の融解にともなって地球地表上に漏れ出ている。著者が一見したところ地下とあまり関係がない北極圏にまでいって氷河の中に入っていくのは、こうした地球環境の変化をとらえ、長大な時間の視点から地球の過去と未来を考えるというテーマに沿ったものだからだ。ダークマターについて語った章だけ浮いているが、これも宇宙創成にふれることで、有給の時間に触れるという観点から。読んでいてかなり強引に感じはしたけれども。

悠久の時間を意識することによって、人は過去から未来へつながる数百万年もの時間のなかで贈られ、引き継がれ、遺されてきたものの網目のなかにいると感じ、自分たちのあとに来る時代や存在に何を遺せばよいかを考えることもできる。

氷河

個人的におもしろかったのは、氷河の中に入っていく章と、核廃棄物の処理場についての話だ。そもそも、グリーンランドの章が始まった時は氷河って入るような地底なくないか?? と思いながら読んでいたが、氷河にはムーランと呼ばれる穴が空いていて、著者はそこに入っていく。ムーランとは、氷の溶けた水が溜まって、それが氷点をわずかに上回っているため、溜まった場所が次第に窪んでいき、最終的に窪みが大きくなっていって、巨大な穴になった場所のことをいう。

ムーランは、数センチ程度のものから、100メートル以上の物もある。氷河の融解が進むにつれムーランの数も増えていき、ムーランが増加することによって、氷河の中に水が流れ込むことでさらに氷が溶けてしまう。著者は体にロープを結びつけ、ムーランの一つに降りていく。結局、氷河に穴が空いた部分でしかないので、降りていった先に特別な景色があるわけではないのだが、降りるまでの過程が旅行記として実に楽しい。ムーランの奥深くで流れる、水によって空気が動いて鳴る特殊な音。三頭の雄大なクジラとの遭遇、巨大な氷塊が海に落ちていき浮き上がっていく瞬間、燃えるようなオーロラ。ほぼ文章だけだが、非常に美しく、雄大な景色の描写が続く。

核廃棄物

ラストは核廃棄物補完所。これも、行くのはフィンランドのオルキルオト島にある核廃棄施設で、その施設自体は順当に案内係の人間に案内されるだけでたいしておもしろくはないのだけど、核廃棄所にまつわる話がおもしろい。たとえば、核廃棄物について考えるためには、通常の時間尺度から離れる必要がある。ウラン235の半減期は約7億万年だ。そのようなものを保存し、しまっておくためには、新しい記号論が必要とされる。たとえば、時代を超えて文明が移り変わったり崩壊しても、それが危険なものだと後世の人間に示すためにはどのような記号を用いるのが良いのか。

人間が人間である限り「危険だ」と認識できる記号など、存在するのだろうか。まさにそうした疑問を検討するために、1990年頃には、原子力記号論という研究分野が生まれた。そして、アメリカでは、ユッカマウンテンやニューメキシコ州で建設中だった核処理廃棄物施設で、今後一万もの間、埋蔵場所への侵入を防ぐための標識システム構築のために、ふたつの独立した委員会が設立され、人類学者、建築家、歴史家、グラフィック・アーティストらが意見を述べた。

そこで出てきた意見に、棘の景観やブラックホールの絵、威嚇するブロックを設置してはどうかというものがあったが、そうした攻撃的な構造は「ここには竜がいる」という警告ではなく「ここにはお宝がある」という誘因として働いてしまう危険性もある。ムンクの叫びのような恐怖を感じるイメージを残すという案も出されたが、記号学者にして言語学者であるトーマス・シーべオクは変化しても働きを失わない超越的なシニフィエを見つけることはできないとして、別の案を提案している。

長期的で能動的なコミュニケーション・システムを作って、その場所の性質を物語や民話、神話などを使って伝達していくことだという。ようは原子力教団みたいなのを作って、そこに改作や修正を許容した柔軟さを持つ、神話を作り出すのだ。SFではよく使われている手段ではある(何千年も経って、意味は殆ど失われていても近寄ってはいけない、触れてはいけないなどの単純な感情だけは伝わっている)。うまくいくかどうかはともかくとして、なかなかに物語的な興味を惹句する案である。

しかし、数千、数万年残る伝達手段を、と考えた場合は、こうした発想の飛躍が必要になってくるのだろう。ニューメキシコ州にある廃棄物隔離パイロットプラント(WIPP)は現在のところ2038年に封鎖されることになっているが、その場所につける標識はまだ検討中で、その計画には社会学者やSF作家が加わっているという。

おわりに

我々は数千、数万年後の人々にとってよい祖先になるために何ができるだろうか。地の底に行くことで悠久の時間にふれ、ダークマターにふれることで宇宙の始まりに、核廃棄物にふれることで何十世代もあとの人類の行末に思いを馳せさせてくれる、優れた紀行文学だ。

意図的なSNS上の誘導にどうやって対抗すればいいのか──『操作される現実―VR・合成音声・ディープフェイクが生む虚構のプロパガンダ』

この1年の間に、無数の「SNSがいかに操作されているのか」についてのノンフィクションが刊行されてきた。三例あげると、ガザ侵攻でどのようにSNSが戦線で用いられたのかを描いた『140字の戦争』。YouTubeでの操作が行われている実態について書かれたピーター・ポメランツェフ『嘘と拡散の世紀』。ロシアの手先としてフェイスブックで大統領選を操作しようと画策したケンブリッジ・アナリティカから内部告発者として現れたクリストファー・ワイリーによる『マインドハッキング』など。

ようは非常にホットな分野なわけだけれども、これだけ本が出始めたのはやっぱり2016年の米大統領線が大きいだろう。そこでのツイッター&フェイスブック上での選挙誘導は大規模なもので、ワイリーによる告発などもあってそれが世間の目にさらされることになった。「我々は操作されている」と。今回ツイッターは米大統領選に備えて情報を拡散させる前に一拍呼吸をおけとリツイートの仕様変更を行ったが、それはこうした操作が行われている明らかな証拠がいくつも存在しているからである。

本書『操作される現実』は、そうしたコンピュータ・プロパガンダについて、2012年と初期の頃から研究を重ねてきた専門家のサミュエル・ウーリーによる、2020年の1月に刊行されたばかりの最新の動向と、こうした状況にどう対抗していけばいいのかについて書かれた一冊だ。類書と異なるのは、SNS上でのプロパガンダだけでなく、VRやARといった新しいテクノロジー領域の危険性について触れているところにある。さらに、類書が引用している情報も多くはこのウーリーの研究が元だったりするので、知見としては本書が最先端・最大ボリュームといえる。

これまでのコンピュータ・プロパガンダ

コンピュータ・プロパガンダがどこから始まったのかを特定するのは難しいが、最初に裏付けのある形で存在が確認されたのは、2010年のマサチューセッツ州上院議員特別選挙の最中だったという。マサチューセッツ州は長い間米民主党の牙城で、この時は民主党候補であったコークリーを攻撃するツイッターユーザーの集団がいた。

その攻撃者たちは、コークリーが反カトリック的であると主張していたのだが、これは人口の半数がカトリック教会のメンバーであるとするマサチューセッツ州では選挙結果を左右する重大な主張だ。結局、その集団攻撃はボットによって引き起こされていたことが判明するわけだけれども、実際にこれが効果をあげたのか、さまざまなメディアがコークリーの反カトリック傾向とされるものを取り上げ、最終的には大方の予想を覆して共和党が選挙戦を制して、上院の議席を獲得してしまった。

このボットによる集団攻撃の背後にいたのは、アイオワ州のティーパーティー運動家(保守派の政治活動を行う人々)の小さなグループで、自分たちが支援する候補者を応援し、反対派を攻撃していた。ボットによる総攻撃は、複雑なことをやろうとしなければ少しでも技術があれば同じことができるので、これと同じことは(政治的利用だけではなく、個人への攻撃でも)今でも世界中で起こっている。

ソーシャルメディアの専門家は、選挙戦から選挙戦へと渡り歩き、ボットや偽情報、政治的スパムを使ったキャンペーンにミームを用いたものなど、様々な手法を試しながらどれが最も効果的かを計測しているという。初期の頃はボットの稼働テストなどを4chanのような掲示板を使ってテストしていたが、次第にサブレディット(特定の話題について話し合う日本の掲示板の板のような場所。僕もよく読んでる)へと移行し、炎を背景にヒラリー・クリントンとキリストがボクシングをしているようなミームを用いて、フェイスブックやツイッター、ユーチューブに拡散させたりする。

著者はボット開発者らやこうしたソーシャルメディア専門家に知り合いが多く、こうした具体的なSNSを用いた選挙戦の手口が広く書かれているのもおもしろいポイントのひとつ。本当に幅広くボット開発の仕事がばらまかれているようだ。

未来のプロパガンダ

と、このあたりまではこれまで行われてきたプロパガンダだが、未来にはどのようなことが起こり得るだろうか? 一つには、人工知能の高度化による影響があるだろう。たとえば、最近RedditのサブフォーラムでOpenAIの言語モデルGPT-3がコメントをしていたのに、誰も気づいていなかったことが明らかになった。それも、判明したのは文章の内容が変だったからではなくて、コメントがあまりに早い割に文章が長いという、人間には難しい速度でなされていたことがきっかけだった。
www.gizmodo.com.au
少なくとも掲示板上では、我々は相手が人工知能なのか人間なのか、判別しがたくなってきている。これが政治的な誘導に用いられるのは明らかだろう。こうした動きは、機械学習によってより効果的に相手にフィッシングサイトを踏ませるようパーソナライズさせたAIボットの出現などと相まって、今以上に驚異になると考えられる。

じゃあ我々はこうしたボットにされるがままってこと? と思うが、こうしたボットに対する対抗策も生み出されつつある。ソーシャルメディア観測所(OSOMe)は、機械学習を利用してボットを検出するツールを開発している。このツールは、アカウントのプロフィール、友人、社会的ネットワーク構造、行動パターンなどの特徴を把握してボット・スコアを出す。こうした技術が普及すれば、大量のボット&それを検知するボット判定ボットがしのぎを削る世界が訪れるのかもしれない。

未来に起こり得るプロパガンダの一つに、ディープフェイクがある。これはAIを使って偽の動画を生成する技術で、オバマ前大統領夫人がストリップをしている映像を生成して嫌がらせするなど、動画の情報量は文字とは比べ物にならないからその被害も大きい。だが、こちらもすでに対抗手段が作られていて、映像に映っている人のまばたきのパターンからフェイク映像であるかどうかを判定する技術がある。これ、ディープフェイクのアルゴリズムが人間の顔の画像を使って学習しているはずで、ほとんどの画像は目が開いている写真だから、それを元につくられたディープフェイクの画像・映像は、まばたきのパターンが自然ではなくなることに注目しているらしい。

フェイクを作り出すAIとそのフェイクを見破るための技術の攻防は、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『ブレードランナー』に出てくる、自分自身ですらも機械であることを認識できないほどのアンドロイドを人間が非人間か判定するフォークト=カンプフ検査を思い起こさせる。「お前は人間か、アンドロイドか?」という問いかけが現実になってるのだ。

おわりに

中国共産党は、政治的な忠誠心を確認して強化するための道具としてVRを活用している。仮想空間で党の理論や自身の日常生活、共産党の先駆的な役割をどう理解しているかなど数々の質問をされるのだ。効くのかよくわからんが、VRの方が没入感が強いから活用しているようで、この流れもVRの発展に伴って強化されていくだろう。

というわけで、けっこうな文字数になってしまったのでここらで紹介を終わりにするが、本書には他にもARがどのようにフェイク生成に使われていくのかという未来の可能性についても語られている。一般の人間はコンピュータ・プロパガンダにおいて金も権力もある勢力に、意図せずして歩兵として利用されやすい。そんなのまっぴらだ、と思うひとにとって、本書はかなりおもしろいので、ぜひ手にとってみてね。

最近読んだ中での類書としてはこのマインドハッキングが特におもしろかった。

都市ならではの生物多様性──『都市で進化する生物たち』

通常、都市は人間以外の生物にとって良い環境とは思われていないだろう。緑や自然を切り開き、種の多様性を減少させる、必要悪的な存在である。野生の生き物たちの居場所は、都市から離れた自然豊かな世界中にあるのであって、都市ではない。

だが──、実はそうした都市の中には、むしろ「都市だからこその」生態が広がっている、と主張し、その概観を眺めていくのがこの『都市で進化する生物たち』である。進化は人が猿から進化していったように、何十、何百万年といった時間をかけて変化していくものだと思われていると思うが、実際には世代交代の速度が早ければ変化は数年、数十年といった短い単位でも現れる。たとえば、ガの200世代は100年未満で達成されるので、それだけの期間があれば自然選択は十分効果を発揮する。歴史の浅い人間が作り出した”都市”の中でも、動植物は独自の進化を遂げているのだ。

ロンドンチカイエカ

たとえば、ロンドンの地下鉄のトンネルに住むカは、地下鉄の路線それぞれによって異なる遺伝的特徴を備えている。このカは、通常はヒトではなく鳥から吸血し、大きな群れとなって交尾し、冬眠を行う。が、地下鉄のカは、通勤者の血を吸い、交尾のための群れを形成せず、冬眠せずに年間を通して活動する。つまり、活動期間から交尾活動、栄養補給の方法まで何もかもが都市用に変わっているのだ。

 さらに、このカの事例がもしすでに例外的でないとしたら、どうだろうか? もし地下鉄のカが、人間と人間が創り出した環境に接触をはかる全植物および動物種の代表例にすぎないとしたら? 地球の生態系に対するわたしたち人間の支配力が非常に揺ぎないものとなった結果、地球上の生命が、全面的に都市化していくこの惑星への適応手段を進化させる過程にあるのだとしたら、どうだろう? わたしたちがこの本で取り組むことになるのは、このような問題である。

都市に適応した生物たち

そうはいっても、そんなにたくさんの都市進化生物がいるかねと思いながら読んでいたのだけれども、読み進めると、思いのほか多くの生き物が都市に適応していることがわかってくる。たとえば、わかりやすい例にサンショクツバメの翼の長さがある。

1980年代から10年代までの30年に渡って、サンショクツバメの翼を計測し続けたデータによると、生きているツバメの翼が10年に約2ミリメートルの割合で短くなっていることがわかった。一方、10年代までに道路際で死んでいたツバメの翼は、元気に飛び回っているツバメの翼と比べると、約5ミリメートル長かったそうだ。この期間で交通量は増加し、交通事故の圧力は増していたにも関わらず、死んだツバメの数は90%も減少している。おそらく、向かってくる車を避けるのに舗装路面から垂直に飛び立つのに都合が良い短い翼を持ったツバメが生き残ってきたのだろう。

ニューヨークで暮らすネズミは公園ごとに遺伝的な特徴を持っていることもわかってきている。セントラルパーク公園のネズミは、長距離を移動しないので基本その周辺で繁殖し、生涯を終える。そのため、彼らはカビの生えたナッツなどに発生する菌が生みだす発ガン性物質を中和する役割を持つ遺伝子(AKR7)や、高脂肪食の処理に関連する遺伝子(FADS1)を持っていて、公園レベルでの特徴を際立たせている。

都市は夜も煌々と街灯が光っているものだが、そこに群がっているガなどの虫を見たことがあるだろう。普通に考えたら、光に集まる習性は虫生に良い結果をもたらさない。標的になるし、熱で死んでしまう。都市での生息期間が長い虫は、光に集まらないような特性を持ったものの方が残りやすいのではないか。まさにその実験を行ったスイス人研究者フロリアン・アルタマットによると、『田園のガの40%が真っすぐに灯りに向かって飛んで行ったのに対し、都会のガで同様の行動を示したものはわずか25%ほどであった──残りのガは放たれた場所にそのまま留まった。』という。何十年かしたら、灯りに群がるガび光景をみることもなくなるのかもしれない。

都市という自然

著者らのもう少し大きな主張は、「都市もまた自然の一部である」ということだ。都市は一切の自然を破壊する敵であると。だがこうやって都市の中にも独自の自然が息づいている。それだけでなく、住民たちが裕福であればあるほど植物の多様性は大きくなり、時折都市には驚くほどの生物的な多様性がみられる。

それは、そもそも都市とは河口域、氾濫原、肥沃な低地帯を始めとした多様なニッチが獲得可能な恵まれた場所に作られることが多いこと、多くの個人宅で多種多様な庭が作られていること。都市部の周縁部の田園では、機械的で大規模な工作によって逆に生物多様性が減少しており、都市は逆に避難場所になり、都会では動物たちは人からひどい迫害を受けないことなど、いくつかの理由がある。都市もまた、自然の一部なのだ。『少なくとも、長い距離を移動した末にこのような小さく孤立した生息地で生存し続ける能力を有する動物や植物にとって都市は驚くほど変化にとんだ、モザイク状の景域であり、非常に多くの種に微小生息地を提供しているのである。』

おわりに

注意しておきたいのは、著者は別に、都市には都市なりの生態系が存在しているから、世界を都市化してもかまわないとか、都市以外の生物多様性を気にしなくても大丈夫だといっているわけではないということだ。『都市とは、進化を強力に推し進める拠点でありながら、多様性の大いなる喪失が生じる場所でもあるのだ。』というように、適応できた動植物の裏で、何倍もの動植物が失われている。

ただ、そこに都市ならではの生態系が育っているのも確かであり、本書はその様相をしっかりと描き出してくれる。本書を読むことで、都市の生き物を見る目が(ありふれたスズメやハトやカラスでさえも)大きく変わることだろう。

言語発明&形成の進化史──『言語の起源 人類の最も偉大な発明』

言語はいつ生まれたのか。この問いに何万何千年前のある瞬間──というわかりやすい答えが現状あるわけではない。そのうえ、音声がどのような形であれ残っているはずもないから、遺跡や痕跡からその地点を確定させることも難しい。いまだに、人類史のどのタイミングで言語が生まれたのか、そこではどのような言語を使ったのか、様々な説があり、確かにこうだ! といえることは多くはない。

ただ、人体の構造や残された文明の痕跡、石器などから、ある程度の推測をすることができる。本書は、特殊な言語を持つ少数部族である「ピダハン」への研究を行った成果をまとめた『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)で日本でも名が(一部で)知られるようになった、ダニエル・L・エヴェレットによる、「人間がいかに言語を発明したのか」、そして、一度発明された言語がどのように変化していったのか、その進化史を明らかにしていく物語である。

『ピダハン』でみせたように、難解な内容を自身の調査体験をはじめとした様々なエピソードで軽快に伝えてくれる。そんな著者による、言語の起源についての見解は、100万年以上前から存在していたホモ・エレクトゥスにある。エレクトゥスのコミュニティは、シンボルや言語を発明し、言語はその後、約6万世代にわたって、ホモ属の人体構造上と文化の変遷に伴ってその形を変えてきたとするのが主張だ。

そういう意味で、本書のヒーローはホモ・エレクトゥスだ。この直立する人類は、地球にそれまで誕生した生物の中で最も知的な存在だったし、言語と文化の先駆者にして、人類による大移動と冒険の草分けでもあった。

エレクトゥスが我々と同じように喋っていたかどうかと言うと、それはわからない。単語のみだったかもしれないし、文法のようなものを備えていた可能性もあるが、発声器官や神経生理の限界からみるに、その可能性は高くなさそうだ。ただ、シンボル(象徴)を扱う能力は確かに存在していたし、それらはジェスチャーやイントネーションと相まって、原初的な「言語」になっていたはずだ、とエヴェレットは指摘する。

おもしろいのが、著者はこうした言語を、比喩的な意味ではなく、人類が「発明した」と表現することである。『しかし、本書で用いる「発明」という語は、比喩ではなく文字通りの意味だ。つまり人類のコミュニティは、何もないところから、シンボル、文法、言語を創造したのである。』これは、言語はチョムスキーのいうような人間という生き物に備わっている生得的なものではなく、人間が創造した文化に立脚し、歴史の中で形を変えながら発展してきたものであることを強調している。

著者は昔から反チョムスキーの筆頭だから当然だが、本書には随所でチョムスキーへの反論・否定がみられる。『各種エビデンスは、人類が「突然の跳躍」によって独自の言語的特徴を得たわけではかったこと、現代人類に先行する種(ホモ属、あるいはそれ以前のアウストラロピテクス属に分類されるもの)がゆっくりと着実に発展して言語を手に入れたことを示している。』

最初の言語

ホモ・エレクトゥスは、初めて恒常的に直立したヒト属であり、ネアンデルタール人とサピエンス両方の祖先であるとされている。エレクトゥスは190万年前にはおそらく言語を発明する途上にあったと本書ではされているが、その根拠は明確なものではない。装飾や石器などの高度な道具を使っていて、継続的なつがい形成に適応していたなど、エレクトゥスに「文化」が存在していた形跡があることからの推測になる。

今の言語は、段階的な変化を重ねて至ったと考えられており、考古学的な証拠に照らすと、最初はインデックス(指標記号)、次にアイコン(類像記号)、それからシンボル(象徴記号)へ、という流れが受け入れられているようだ。エレクトゥスが持っていたとされる「文化」は、単純に道具を使った狩りの仕方を教える、といった技術継承のことをさすわけでなく、「人や創造物に価値、知識構造、社会的役割を付与するもの」で、つまり「シンボル(象徴)」を使いこなす能力を持っていたことをさしている。なので、エレクトゥスが言語を持っていたという主張につながるわけだ。

 これまでに得られている証拠は、ホモ・エレクトゥスが言語を有したという主張を強固に支持する。文化の証拠──価値、知識構造、社会組織があり、(ホモ・サピエンスと比べればゆっくりではあるが)道具使用と道具の改良があり、目に見える範囲を超えた、想像できる陸地や海への探検があり、さらに、装飾や道具の形でのシンボルがある。ホモ・エレクトゥスの認知革命を説明できるのは言語だけだ。

広範な取り扱い内容

本書のおもしろさは、こうした歴史・人類学的な観点からの言語だけでなく、手話やジェスチャー、脳科学と神経科学に、発声器官からの考察、さらには言語が影響を受ける「文化」や「社会」と言葉の対応関係についてまで、言語に関わる多面的な視点からその進化史を浮かび上がらせているところだ。そうしたすべてが相互発展的に言語を変化させてきたとして、文法が最初にあり、言語は人間に生得的なものであるとするチョムスキー的な考えに対する批判に向かっている。

たとえば、脳科学で言えば、人間の脳が言語用に配線されている説が科学による裏付けは存在しないという話や、脳の特定部位に傷害をおうことで特異的言語障害などの言語に関連した機能が失われることがあるが、これもより高次の部分が損傷したことによって結果的に言語に影響が出ているだけで、一対一で脳と言語に対応関係があるわけではないとする説の紹介などなど。あまりにも頻繁にチョムスキーに対する批判が繰り返されるので「わかった、チョムスキーが間違ってるのはもうわかったから」とウンザリさせられるところもあるのだが、文法を軽視しているわけでもなく(別問題だ)、一章かけて文法がいかにして生まれて、発展してきたのかもまとめてみせる。

おわりに

400ページ超えの大著だが、その分広範な見地から我々が扱う言語がいつ発明され、どのようにして今のような形に変遷してきたのか、その見取り図を提供してくれる。なかなかここまでの本は出るもんじゃないので、言語について興味がある人や『ピダハン』がおもしろかったひとには、ぜひ手にとってもらいたい。

VRの父がインターネットの黎明期を通して「あらためて我々はどこへ向かうべきなのか」と問いかけてみせた一冊──『万物創生をはじめよう』

この『万物創生をはじめよう』は、最初期のVR技術の探求、起業者であり、VRの父と呼ばれるジャロン・ラニアーによる自伝的な一冊である。幼少期からはじまり、VRとは何なのか、どこを目指すことが可能なのかというVRそれ自体への問をはさみながら、彼が設立したVR系企業VPLリサーチを去る92年までが描かれていく。

ジャロン・ラニアーは1960年生まれで、まさにインターネットの草創期、そしてシリコンバレーが盛り上がっていく渦中に働き盛りの若者としてその現場にいた人間である。のちのインターネットの巨人たちがガレージで作業に勤しんでいる間、彼もまたVR技術を発展させようと実験・研究を続けていた。そうした草創期の混乱、そしてまだまだ技術としては不完全なVRをなんとかして商業ルートに載せられる物にして、未来のあるべき形はどのようなものなのか、その理想を議論していく様は、今まさに新しい「産業」が生まれつつある熱狂に満ちていて、大変におもしろいものだ。

同時に僕が強く惹かれたのは、彼の人生それ自体だ。デジタル革命によって「個」が消され、正当な評価を受けることが難しくなっていく状況への批判と改善の提案について書かれた『人間はガジェットではない』を読んだときから僕は彼のファンで、邦訳されていないものを原書で読むぐらいにはハマっていた。それは彼の考えに納得・共感する部分が大きかったのもあるが、それ以上に彼の語り口が好きだったからだ。

幼少期や彼自身のことが赤裸々に書かれている本書を読んで、彼のそうしたスタイルがどのような体験からもたらされたのかがよく理解できるようになった。

幼少期

というのも、彼の幼少期はかなり異質というか異常なのである。両親はともにユダヤ人で、ウィーン生まれの母は強制収容所からの生還者、父親の親族もほとんど大虐殺の犠牲を受けて亡くなってしまっていた。そんな状況からメキシコのすぐ近く、米国の奥地に引っ越して生活を立て直し始めたところで、母親が免許証をとった帰りに自動車事故にあって死亡してしまう(運転ミスではなく、車の故障だったようだ)。

同じ車に乗り合わせ、かろうじて生き延びた父親と二人でラニアーは生活を再開するが、学校では激しいいじめにあい、母親が死ぬ前に家族で買っていた家に引っ越そうとするも、完成した翌日になぜか何者かによって放火され全焼(何らかの恨みか差別なのか?)。そもそも生活資金を稼いでいたのは母親であったのもあって、途端に二人は無一文どころかマイナスの生活を強いられることになる。

だが、そこで父親はニューメキシコ州の不毛な地を買い、二人はテントを張ってくらしはじめる。野菜を栽培し、鶏を飼い、父親は教師の仕事を始め、しばらくテント暮らしをした後に二人はその土地に自分たちだけの家を建てることになる。

SFとの関わり

かつて建築家としての仕事も行っていた父親が主導になるのではなく、ラニアーがどのような家にするかの構造を決め、彼が主導で建築を進めていった。ラニアーの父親は50年代にはSF系の雑誌三誌でSFにおける科学的事実のコラムの連載も持っていて、アシモフとの交友譚もあるなど、SF業界との関わりも深かったようだ。

ラニアーも後にSFコンベンションに行ったり、ウィリアム・ギブスンらとの交友が語られたりするなど、SFとの関わりは深い。当時(80年代)、ラニアーーはサイバーパンク運動をもっと明るくするのは自分の使命だという考えを抱いていて、「なぜニューロマンサーみたいなネガティブな未来を描くのか? もっとポジティブな未来を描けばいいのに」とギブスン自体に問いかけたところ『「試してみてもいいが、自然に出てくる物語はこれなんだ」』と返ってきたという。Oculusの創設者の二人はニール・スティーヴンスンの『スノウ・クラッシュ』に大きな影響を受けていると公言しているし、SF小説(というかサイバーパンクか)とVRの関係性は切っても切れない。

そう考えていくと、父親の影響、教育方針はラニアーを形作る上で大きかったのではないだろうか。その後も高校を卒業しないまま大学に潜り込んだり、その大学も卒業しないまままた別の芸術学校にいき──と転々としていくのだけど、その辺は割愛。

VRについて

幼少期の話を大きく取り扱ってしまったが、本書のメインはVRについてだ。

第四章「私がVRを大好きなわけ」では、彼がVRに見出している可能性について無数に述べられていく。たとえば、『VRは情報に対する最も人間的なアプローチだ。それは人生について、またコンピュータを使ってできることについての内面中心の見方を提示する。そういう考えは、ほとんどの人がなじんでいる考えとは真逆である。そしてこの転換には非常に多くの意味がある』と語る。

たとえば、フェイスブックページやTwitterのアカウントはその人の死後も存続する、その人と切り離されたものだ。だが、VR体験はあなただけのものである。多くのテクノロジーがガジェットの海にあなたを投入させるのに対して、VRはあなた自身の体験を変様させる。たとえば、空を飛ぶとか、都市よりもでかい手を持つとか、ロブスターになるとかして。それは我々の感性や意識を変容させるきっかけになる。

ラニアーは15歳頃にVRの着想を得て、最終的に自分で作り上げたいと思うのだが、70年代にそんなキャリアパスは存在しない。そこで彼は近いところとしてゲーム会社にもぐりこみ、ゲームを作ることで得た金を使ってガレージでVRの原型となるものを作り始める。それが後のVPLリサーチ(設立は1984年)になるわけだけれども、そこでの試みはまさに現代のVRでできること・やれることの先駆的な実験だった。

最初に作られたデモは、手をのばしてバーチャル世界に触れて干渉できる、「グローブ」だった。これは、技術的に視覚系を再現するのが難しかったのがあるが、先に書いた「体験を変容させるものこそがVRだ」という話と繋がっている。入力はディスプレイよりも重要であり、VRにおける入力とはあなた自身のことだからだ。『手をのばしてバーチャル世界に触れ、それに対して何かすることができないなら、あなたはその世界の二級市民にすぎない。そこにあるほかのすべてが、その世界の組織に結びつき、組み込まれているのに、あなただけは孤立している。』

彼らはその後、全身のモーションを読み取れるスーツを開発するが、その全身スーツに対応した「人間以外のアバター」を作った時の話が興味深い。ボディスーツの各部位にたいして、人間外の身体を紐付けるのだけど、たとえば人間をロブスターにマッピングしてもほとんどのひとは容易にロブスターになることを学んだという。『私が常々考えているのは、いつかVRが成熟したら、そのときはVRの中での芸術や訓練や会話は予想としてよく言われているようなあなたが訪れる場所についてのものではなく、あなたが変わる形についてのものになるだろうということだ。』

実際、すでに自分自身の身体をゴジラにしたりして遊んでいる人も多くいるが、今後はそれがもっと様々な形で展開することになるだろう。当時、すでに「ほかの人と目を交換する」実験などを行っていたという。似た実験は現代でも行われているが、開拓すべき荒野は広い。

尊厳を取り戻す社会へ

本書の後半ではAIとはVRと正反対のものであるという論をうったり、これまでの本(『Who Owns the Future』)に書いてきたことをおさらいしたりしているので、一度もラニアーの本を読んだことがない、という人が手に取るのもいいかと思う。

ラニアーが一貫して主張してきているのは、「インターネットが奪い取っている我々の価値・尊厳を取り戻せ」ということである。たとえば、Googleの機械翻訳はすごい精度を持っている。ただ、それが何を元にしているのかといえば我々がアウトプットした文章なのだ。であれば、Googleの成果は無名(にされてしまっている我々の)おかげである。それなのに、Googleはそこで得た利益を我々に還元しようとしない。

ラニアーが提唱するのは、そうした全ての情報をトラッキングできるようにし、GoogleやAmazon、Facebookといった企業が我々の個人情報を用いて利益をあげている構造に対して、「どれほど僅かな利用であっても、それにたいして彼らはコストを払うべきだ」というものである。たとえば、自動翻訳にあなたの文章の成果が反映されていた場合、0.00001円だかなんだかわからないが利益が発生するようにする。重要なのは、その金銭的価値というよりも、「あなたは決してインターネット上で役に立たない人間なんかではない」と価値・尊厳を取り戻させることだ。

ノーベル経済学賞をとった二人によって書かれた『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』でも「こぼれおちてしまった市民の尊厳を、いかに尊重した政策を設計するのか」が重要な焦点として挙げられていた。たとえば、ベーシック・インカムが実装されたとして、その時我々の尊厳はどうなっているのか。これからの時代、個々人の尊厳をどのようにして取り戻すのかというのは重要なテーマなのではないかと思う。VRのみならず、インターネットの黎明期を通して「あらためて我々はどこへ向かうべきなのか」と問いかけてみせた一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

認知症患者にはどのように世界が見えているのか?──『今日のわたしは、だれ?』

今日のわたしは、だれ? (単行本)

今日のわたしは、だれ? (単行本)

この『今日のわたしは、だれ?』は、2014年に58歳で若年性の認知症の診断を受けた女性が綴ったブログ記事を中心にまとめたエッセイ/体験記である。

認知症といえばしだいに記憶が失われていき、簡単な単語が思い出せない、見えているはずのものが見えなくなる、おそろしい病気として知られている。著者ウェンディ・ミッチェルは、認知症を発症する前は国民保健サービスでバリバリ働く知性的な人間だったが、だからといって彼女がそうした病気の流れに逆らうことができるわけではない。徐々に記憶が、能力が失われていく過程が本書には克明に記されていく。

記憶が失われ、ほんの少し前のことも思い出せない人間が、そんな自分の状態を文章に落とし込めるものだろうかと疑問に思うかもしれない。が、本書には幸いにもその光景がクリアに描きこまれている。ある時突然前は覚えていたはずの簡単な単語が思い出せなくなる恐怖。死んだはずの自身の母親がみえる。自転車でなぜか右に曲がることができない。そうした異常事態を前に、混乱し、立ち止まって、「何が起こっているのか」と自問自答しながらその恐怖をしっかりと書き残していく。

認知症患者がどのようなことに困っていて、彼らはどのような世界を見ているのか。何をしてもらったら嬉しくて、何が悲しいのかといった彼らから見えている世界。認知症はただ喪失の過程であるだけではなく、楽しめることもまだまだたくさんあって──とポジティブな側面についてたくさん触れられているのも本書の特徴である。認知症は恐ろしい病気だ。自分はなりたくないし、身近な人にもなってほしくないと目をそむけたくなる。でも、それは確かに存在するのだから、その時にどのようなことが起こり得るのか、知っておいても悪くはないだろう。

何が起こるのか

最初はそもそも病院にかかりはじめるところから話がはじまる。なんだか頭がぼんやりして、集中できないことが続く日々。そんなある時、いつものコースをジョギングしている最中に突然転倒してしまう。かかりつけ医にかかっても、年齢のせいでしょうとしかいわれない。確かに58歳というのは若くはない年齢だ。

だが、ある時から舌のもつれを感じるようになり、検査入院にまで至り、卒中の可能性を指摘される。その後、「三つの単語を覚えておいてください」といわれ、その単語を時間をおいて聞かれる簡単な記憶テストを受けるが、それが答えられず、認知症の可能性が高まっていく。実際、この時すでに認知症の傾向は出始めている。著者が会議で発言中、どうしてもある言葉がでなくてどもってしまう。その会議後にようやく思い出すことができたのだが、その単語とは「and」だった──というように、物凄く一般的な言葉が思い出せなくなってしまっているのだ。

で、アルツハイマー型認知症と診断されてしまうわけだけれども、そこからは失われていく記憶との戦い、撤退戦の記憶である。勤めている会社に打ち明け、稼ぐ必要もあって自分としてはまだ働く気があるもののゆるやかに退職を促される。アガサ・クリスティーの小説を読めば、途中で出てきた登場人物が突然出てきたのか最初から出ていたのかわからなくなる。自転車に乗ってでかけるのだけど、脳の配線が狂っているのか、どうしても右にまがることができない。

窓から外を眺めた時、存在していたはずの物置小屋がなくなっていて、論理的思考力は強盗が小屋を盗んでいったのではないかと推察してパニックになりかける。しかし、同時に別の部分は突然物置小屋がなくなることなどないとわかっていて、『30分後にまたここへ戻ってこよう。それでもまだ小屋がなかったら、現実と言えるだろう。』とストップをかけ、実際に30分後に戻ってきたら小屋は変わらずそこにあった。彼女には、認知症になってからこの手のことがよく起こるのだという。

ポジティブな側面

これらは、認知症におけるネガティブな側面といえるだろう。幻覚に惑わされ、今までできていたことができなくなる。だが、喜びがなくなったわけではない、と語る。

認知症を抱えながら生きる道はある、完全な終わりはほど遠く、終わりの始まりで、ただの読点にすぎないのだ、と。わたしは長編小説から短編小説に切り替えて、筋そのものよりもページの一節に喜びを見出だせている。詩や、幼い娘たちに読んで聞かせた本の楽しさも再発見した。いろいろ失ったが、得たものもある。そして、ふとした瞬間に、進行性の病はきわめて特殊な形で精神を集中させるのだと、わたしは気づく。こうした考えが、このごろはよく頭に浮かぶ。

自転車で右にまがれなくなったこともそうだ。たしかに右に曲がれない、だが左にしか曲がれなくとも大きく円をかけば右の方にいくこともできる。チャレンジするだけの価値はある。それができなければ家に縛り付けられているだけだからだ、といって見事成功させてみせる。非認知症患者からすればこんなのできて当たり前のことだが、認知症患者からすれば勝利の一歩であり、自由の獲得なのである。そこには、たしかに高揚がある。『わたしは顔に笑みをたたえて、あちこち出かけるだろう。またしてもアルツハイマー病の裏をかいたのだ、と喜びつつ。』

おわりに

毎日お前はばかだと言われたらそう思いこむようになるのと同じで、認知症の病人だとしょっちゅう言われたら、たとえ事実だとしてもよりその傾向が加速してしまう。だから、できればポジティブな言葉をなげかけてほしいといったり、どのように接することが認知症患者にとって楽なのか、という書き込みも多く、これらは自分が認知症を患っている人に対しどう対応すればいいかの指針になってくれるだろう。

彼女は現在、アルツハイマー協会のアンバサダーを勤めていて、講演などで多数の活躍をしている。そのような活動を通して彼女が出会ってきた相手の中には、認知症を患った結果、スイスの安楽死クリニックにいって自分の人生を終わらせようとしている人のエピソードも出てくる。徐々に失われていく「わたし」を抱えて、残された生をどのように生きるべきなのか。そこに普遍的な正解はないのだろう。

これは完全に余談だけど、本書を読んで思い出したのは福本伸行の漫画『天 天和通りの快男児』であった。こちらも、その最終章についてはアルツハイマーと安楽死の問題、「どう生きるのか」を扱った傑作のひとつである。中心人物であるアカギは最後の最後、自死を選ぶが、それはすっぱりと割り切った果にあるものではなくて、アカギなりの無念や葛藤を抱えた上で「それでも良し」と死んでいくのがアカギなんだよなあ。思わず今回、『今日のわたしは、だれ?』を読み終わった後いてもたってもいられずKindleで最終巻付近を買って、読み直してしまった。

科学書の歴史であるだけでなく、科学の歴史でもある──『世界を変えた150の科学の本』

世界を変えた150の科学の本

世界を変えた150の科学の本

この『世界を変えた150の科学の本』は、科学の歴史上重要とみられる科学ノンフィクションを150冊以上紹介した本になる。本は270ページだが、大判のフルカラーで、150冊の本の中身だったり図版だったり表紙だったりが所狭しと並んでいて、ずっしりと重厚で、中身が詰まっている。記述がおもしろいのはもちろんだが、図版などをぱらぱら見ているだけでも楽しい。
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amazon掲載のサンプルイメージから引用
まだ本という形態がなく、石に刻みつけていたり巻物だったりといった時代から科学の本をたどっていき、最後には現代にいたり、近年の2018年に出た科学ノンフィクションも取り扱ってみせる。たとえば、最近のものだとハラリの『サピエンス全史』も(内容というよりかは、英語以外の言語から他言語に翻訳されていった特異性をもって)あげられていたりするので、いまから読むべきサイエンス本を探すブックガイドとして読んでもいいだろう。

 破滅論者はいつも、本は死んだも同然などと言うが、科学書は今も健在であり、将来もそうあるべきなのだ。本質は変わったかもしれないが、人と外の世界を結びつける点においては他を凌駕し続けている。テレビ番組やYouTubeはトピックの表面を掬い取っているにすぎない。一時間の番組だって、本の1章分の内容を網羅できないのが常だ。科学書は、読者がトピックを理解するのにさまざまな方法をとることや、読者自身のスピードで情報を処理すること、そして映像やナレーションから得られるよりもずっと深く対象を理解することを可能にする。

とはいえ、読んでいてまずおもしろかったのは、科学の本を年代順にたどっていくことで科学の歴史がくっきりと浮かび上がってくることだ。歴史上重要な科学書をただ紹介するだけでなく、その時代においてどのように受け入れられていたのか。また、現代の科学からするとどこが間違っていて、どこは依然として評価できる部分なのか。150冊もの本をそうやって仔細に取り上げていく作業を一人で成し遂げているというのは、にわかには信じがたい部分もある(とはいえ、現代に近くなるにつれてなんであれが入ってないんだ、宇宙論関連の本が少なすぎるんじゃないのと文句も増えてくるが、そういう文句をつけながら読むのもこういう本の醍醐味といえる)。

「世界を変えた」本なので、内容の正しい本ばかりが挙げられているわけではない。少なからず間違いが含まれていても、「世界を変える」ことは──特に、近現代以前においては、よくあったからである。たとえば、アリストテレスの著した『自然学』。これは、アリストテレスが科学的な事象について著した書物の限界ではないが(生物学や動物学に関する本の功績も大きい)、この本がとりわけ選ばれているのは、『宇宙論や運動と力学に対するアリストテレスのものの見方が16世紀から17世紀を通じて、西洋が宇宙を理解する中心として捉えられてきたからだ。』

非科学と科学的な思想が本の中に同居していた時代
最初の時代こそユークリッドの『原論』(『永続的な影響を及ぼしている本として、紀元前300年頃に書かれたエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』を超えるものはない』)。アルキメデスの『砂粒を数えるもの』(『『砂粒を数えるもの』では、宇宙を満たす砂粒の数を計算することにより、ギリシャの数の体系を拡張できると示している』)。ティトゥス・ルクレティウス・カルスの『事物の本性について』(『7400行に及ぶ長編詩の形をとり、紀元前3世紀のギリシャの哲学者、エピクロスの自然哲学がもとになっていた』)など、よく知られたものが多い。

だが、ルネサンス期以降になってくると知らない本も増えてきて、しかも呪術的な思考と科学的な思考のせめぎあいが科学書に混じり、より混沌としていくことになる。たとえば、1652年刊行のニコラス・カルペパー『イギリスの医師』(その後『ハーブ事典』に変更)は、薬草に特化した薬のガイドブックである。この本に載っている植物のいくつかは本当に薬効があったが、カルペパーは非科学的な占星術の影響を切り離せていない時代の人間なので、薬効に対して虚構の理由付けをしてしまっているという大きな欠陥がある。『つまり、植物の作用とそれを支持する惑星の影響とを組み合わせてしまったのだ。』このように、科学書を通して当時の世界観と科学観の混沌としたせめぎあいが伝わってくるのがまたおもしろいのである。

今でこそ化学と、生命の霊薬や賢者の石、卑金属を貴金属に変換するようなスピリチュアルに属する錬金術は明確に分かれているが、それが同時に存在していたのもこの時代だ。ロバート・ボイルは化学者であると同時に錬金術師でもあり、錬金術師的に金属を変質させようとしていたのは確かだが、彼が著した『懐疑の科学者』で彼は物質は原子でできているという見方を示し、世界の科学観をアリストテレスから大きく進歩させた。原子は化合物を形成するために結びついて、その衝突が反応として表にでてくると推論したという点で彼には先見の明があった。

おわりに
こうやってざっと科学書をみていくと、世界を変えた本とはいっても(当然だが)すべてが正しいということはない。一部は正しく世界を捉えていて、また別の部分は間違っている。だが、そうやって少しずつ再現性のある仮説を積み上げ、すべてが間違っていたとしても新しい考え方を持ち込むことで前進させてきたのが(たとえば、後に否定されるマルサスの『人口論』も、一般の読者に統計を利用するように促した最初の科学書としての価値がある)、科学の歴史なのだ。

後半になるとファインマンさんや、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』(『シンが『フェルマーの最終定理』で成し遂げたことはある種の神業だ。』)、『ホーキング、宇宙を語る』など、多くの人が知っている・読んでいる本が入りはじめる。現代の本については、その内容だけではなく、どのような記述のスタイルが大衆にウケるのかといった分析も入りはじめていて、そうした科学ノンフィクション史的な観点から読んでもおもしろい一冊だ。

再生可能エネルギーを前提とした分散型インフラへと大転換するために──『グローバル・グリーン・ニューディール: 2028年までに化石燃料文明は崩壊、大胆な経済プランが地球上の生命を救う』

『第三次産業革命』、『限界費用ゼロ社会』などの著作でこれから先のエネルギー・インフラについて提言を行ってきたジェレミー・リフキンによるこの新作は、化石燃料文明の崩壊が間近に迫った現状の解説と、再生可能エネルギーを主軸にした新しいインフラを今こそ整備するときであるとする、これからについての提言の書である。

本書のサブタイトルに入っている「2028年までに化石燃料文明は崩壊」は、何も化石がなくなって文明が終わるといっているのではない。2028年頃には再生可能エネルギーのコストが下がりつづけることで化石燃料の資産価値が大きく下がり、座礁資産と化し、カーボンバブルの崩壊による経済危機。さらには急落した資産を売り抜けようと地下や海底に眠る石油資源をギリギリまで採掘しようとして温室効果ガスの排出量が壊滅的に増加する状況のことをさしている。そうした状況を回避するためにも、早め早めの転換が求められる、というのが大まかな主張なのである。

ではどうすればいいのかというと、一つには化石燃料由来の温室効果ガスを抑制するため、エネルギー源を再生可能エネルギー中心にし、脱炭素化することである。今、EUや中国を中心に、そうした脱炭素化へのシフトが起こっている。アメリカもまた、ニューディール政策にちなんだグリーン・ニューディールを実現するための特別委員会を設置。2019年2月には2030年までにエネルギー需要の100%を再生可能エネルギーでまかなう目標数値を掲げたグリーン・ニューディール決議案が議会に提出され、これに民主党の大統領候補はすべて賛同する(が、そんなん無理やろと盛大に批判がとんだ)、2020年の国政選挙に向けて争点となりつつある状況のようだ。

気候変動が問題なのは多くの人が賛同するし、その手段として再生可能エネルギーに注目が集まるのもわかる。だが、競争力のないエネルギー源に手を出したらより大きな競争には負けてしまう。再生可能エネルギーに大転換するには何兆ドルもかかる見通しであり、そんな金がどこにあるんだ、という批判が出るのはもっともである。

だが、そうした状況に今「大転換」が起こりつつある、というのが本書の主張である。EUが先導をきり、中国がその後を追い、再生可能エネルギーに関する技術開発が進んだ結果、石油よりも太陽・風力エネルギーを利用したほうが安くなり、市場が主導する形でゼロ炭素に向かうことができる未来も開けているというのだ。

著者はこれまで欧州委員会委員長、メルケル独首相などEUの中枢のアドバイザーをつとめ、中国のこうした脱炭素化の運動にも関わっていたりと、この分野の専門家にして中心となってこの状況を推し進めてきた人間である。そのため、再生可能エネルギー楽観論には利害関係者としてのポジショントーク感があるわけだが(アメリカで今グリーン・ニューディールが攻撃にさらされていることもあり)、いずれエネルギー源としては環境側面以外にコスト的な意味でも、そちらにシフトしていくという流れそれ自体には間違いがないだろう。専門家による、読み応えのある一冊だ。

EUは何をやっているのか?

さて、では流れの一つとしてあげられているEUは何をやっているのか。EUは今も「脱炭素社会」に向けて一貫して舵を取り続けている。2019年末に欧州委員会は50年までに排出実質ゼロを達成する世界初の大陸になるという指針を再度明確に示し、あらゆる政策分野に気候と環境からの視点を介入させ、同様の規制を尊重しない外国企業の製品の輸入に課税する仕組みを入れるなど、「本気」の姿勢が感じられる。

EUにおけるそうした大きな動き自体は10年以上前からはじまっている。たとえば2007年から2008年にかけて、EUはエコロジカル時代の実現に向けてすべての加盟国に、2020年までにエネルギー効率を20%高め、温室効果ガスの排出を1990年対比20%削減。さらには再生可能エネルギーによる発電量を20%にまで増大することを義務付ける、20-20-20目標を決定。ドイツでは水力を除く再生可能エネルギーだけで27.7%を達成するなど、地道な前進を続けている状況である。

こうした状況を推進するにあたって、著者が提言する方法は5つの大きな柱に絞られる。第一に、建造物を改良し、太陽光発電設備を設置・送電しやすくすること。第二に、再生可能エネルギーで化石燃料を置き換えるにあたって、野心的な数値目標を設定すること。第三に、電気を貯蔵するための装置を地域の発電所や送電網に組み込むこと。第四に、すべての建造物にメーターなどのデジタル装置を設置し、送電網をデジタル接続に変更すること。これにより、地域内の複数の場所で発電された自然エネルギーによる電気を送電網に流すことができる。第五に、電気を逆に送電網に送り込むことで収益化もできる駐車場の充電スタンドと電気自動車を用意することがある。

つまるところ、著者が推進しているのは単に再生可能エネルギーですべて置き換えることではなく、都市まるごとを作り変えるようなインフラの大転換である。これらを一度におこなうことで、エネルギーは中央から一方的に送られてくるものではなく、分散型になったエネルギーのインターネットともいえる状況が現れることになる。

 再生可能エネルギーのインターネットのプラットフォームを構成する五つの柱を導入し、統合することで、送電網は中央集権型から分散型へ、発電は化石燃料と原子力から再生可能エネルギーへと変換できる。新しいシステムにおいては、あらゆる企業、地域、住宅所有者は電気の潜在的生産者となり、余剰の電気をエネルギーのインターネットを通じて他者と分かちあうことができるようになる。

中国は?

こうした動きに乗っているのは中国もだ。2018年の再生可能エネルギー投資額でも、EU全体の745億ドル、米国の642億ドルにたいし、中国は1001億ドル。世界の総投資額は3321億ドルだから、中国だけで約3分の1を占めている。また、中国における総発電電力量に占める再生可能エネルギー比率は25%と極めて高い。

経緯としては、2012年、中国の李克強首相が著者の『第三次産業革命』を読んでそのヴィジョンの検討に当たらせ、習近平時代になってもその流れは変わらず、2030年までに一次エネルギー消費に占める非化石燃料の比率を20%に引き上げる方針を実施しつづけている。エネルギー調査会社の試算によれば、中国は2050年までに電力供給の62%を再生可能エネルギーが占めるという。『このことは近い将来、中国経済に動力を提供するエネルギーの大半が限界費用ほぼゼロで発電され、中国とEUが世界でも最も生産的で競争力のある商業地域となることを意味している。』

おわりに

こうした動きが起こると、技術的な革新も起きてどんどんコストが下がり、これまでは不可能だったことも可能になる。たとえば、再生可能エネルギーには安定性がなく(曇りが続く日などもあるから)、必ず予備の電力施設が必要とされるという批判についても、蓄電技術が向上しているからそんなことはないと反論している。

無論、そのインフラの転換には4000億ドル以上の費用がかさむとみられているが、その経済効果は1兆ドル以上とも言われており、そもそもそれだけの費用をどこから捻出するのか──といった政策レベルの提言も本書後半ではじっくり練られていくので、絵空事だろうなどとおもわず、ぜひ(気候変動とエネルギーの未来について興味のある人は)手にとっていただきたい。

年収が上がれば上がるほど幸せになれるのか?──『幸福の意外な正体 ~なぜ私たちは「幸せ」を求めるのか』

幸福の意外な正体 ~なぜ私たちは「幸せ」を求めるのか

幸福の意外な正体 ~なぜ私たちは「幸せ」を求めるのか

  • 作者:ダニエル ネトル
  • 出版社/メーカー: きずな出版
  • 発売日: 2020/01/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
幸福とはほとんどの人にとっての人生の目標なのではないだろうか。「いや、自分は不幸になる権利が欲しいです」という『すばらしい新世界』的な人もいなくはないだろうが、少なくとも僕は幸福でありたいと思う。自分の幸福ももちろんだが、近くにいる手の届く人たちも幸福でいてくれたらそれ以上はいうことはない。

だが、そもそも幸福とは何なのだろうか。ほしかったものを手に入れた時、おいしいものを食べた時、僕は幸福を感じるが、どれほどの幸せでもすぐに慣れてしまうのはなぜなのか。年収の高い人は低い人よりも幸せなのか。幸福感と生活の質はどの程度関係しているのか、自分の幸せを維持するために、何をどうしたらいいのだろう。

本書は、そうした数々の疑問について研究データを元に幸福の実態を明らかにしていく。本書は、原書が2005年に刊行され、その後本邦では『目からウロコの幸福学』として一度刊行されていたものの改題&再編集バージョンであるが、幸福学についての基本的を抑えている良書なので、ぜひとも今回紹介させてもらいたい。

お金があれば幸せになれるのか。

たとえば、気になる問いかけの一つに「お金があれば幸せになれるのか」がある。金があればできることも増えるし、幸福度は上昇していくのが自然だと思う。だが、実際には金銭から得られる幸福感には限度があるようだ。たとえば、過去半世紀のあいだに先進国の一人あたり所得は何倍にも増えているが、幸福度に大きな変化はない。

『ファスト&スロー』のダニエル・カーネマンの研究では、感情的な幸福は年収約7万5千ドルで頭打ちになってしまう(ストップするわけではないが、幸福の伸びは著しく鈍化する)。欲しいものが手に入るのだから、この結果は不思議なようにも思えるが、その理由の一つは「どんな幸せにも人は慣れてしまう」という一つの特性が関わっている。誰しも経験があるだろうが、望ましい状態を新しく一つ手に入れると、その瞬間は嬉しくて満足しても、すぐにそれがあることに慣れきってしまう。すぐに誰かと比較をして、あれがほしいこれがほしい、と欲望が湧いてくる。

 若い頃は家と車とテレビさえあれば十分だったのに、年をとるにつれ、どうしても別荘を持たなければやっていけない、と思えてくる。16年の月日のあいだに、所有している数が平均1・7アイテムから3・1アイテムに増えたというのに、同時に、理想的な生活に必要だと考えるものも、平均4・4アイテムから5・6アイテムへと増加。いつになっても、二つばかり足りないということになります。

これはある意味では当たり前の結果ともいえる。社会的地位や物質資源など欲しかったものを手に入れて満足してしまうような個体は、いつまでも理想を追い求めて行動し続ける個体と比べ淘汰されやすかったはずだ。物質的豊かさを求めて行動するのは、それが幸せにつながるからだと多くの人が信じているが、長期的な幸福という観点からみると、そう騙されているにすぎない。

無論、一定のところまでの金銭的な報酬は、安定的な生活を送るために一定の金は必要だ(たとえば家や服、食事がとれない、暖房や冷房が使えない状況では普通に幸福度が下がる)。また、基本的に人は不幸にも慣れてしまうものだが、仕事をやめなければならないほどの長期の病気や障害を負うと、これまた幸福度は下がる(そうした人たちの生活満足の平均は6・49で、そうでない人の6・39と比べると独身者・既婚者の差ほどになる)。重要なのは一定の収入と健康なのだ。

 私たちはつねに、幸福への思い込みのせいで、地位財をたくさん蓄えれば(見栄を張って他人と同じようにすれば)、いつかは幸せになれるはずだと考えますが、客観的にいって、それはあり得ません。一方で、健康、自主性、社会への帰属意識、良質な環境などは、真の幸福をもたらすものです。

おわりに

本書の後半では、遺伝と幸福度に強い相関があること(一卵性双生児に対する幸福度調査による結果)、神経症的な傾向、外向性などの性格要因によって感じる幸福度の半分近くを説明できてしまうこと(性別、年齢の関与は1%。所得は3%。社会階級は4%。結婚の状況は6%。神経症的傾向は6〜28%。外向性は2〜16%。その他の性格要因が8〜14%)など、「個人の幸福感がどう決定されるのか」に関する研究が紹介されていく。

性格や遺伝によってかなりの部分幸福感が決定づけられているとしたら、ある人物の10年後の幸福度を推測したければ、その人物の職業や所得よりもその性格調査をする方が重要だ、ということだ。では、生まれつき神経症的傾向を有し幸福度を感じにくい人間はそのまま絶望に沈み込むしかないのか──といえばそうではなくて、どのようにすれば感情をコントロールし、幸福度を変えるのかについて。また、幸福が実際には人生における究極の目的ではないということについてものべられていくので安心してほしい。幸福を求めるのは重要だが、それ以上に「まず、幸福とは何なのか」を知ることが重要なのであり、本書はその一助になってくれるだろう。

麻酔で意識が落ちる時、何が起こっているのか──『意識と感覚のない世界――実のところ、麻酔科医は何をしているのか』

歴史の本、特に最悪の医療の歴史などを読んでいると、あ〜現代に生まれてきてよかったなあと、身の回りに当たり前に存在する設備や技術に感謝することが多い。昔は治せなかった病気が今では治せるケースも多いし、瀉血やロボトミー手術など、痛みや苦しみを与えるだけで一切の効果のなかった治療も、科学的手法によって見分けることができるようになってきた。

だが、そうした幾つもの医療の進歩の中で最もありがたいもののひとつは、麻酔の存在ではないか。正直、麻酔のない世界には生まれたくない。切ったり潰したりするときに意識があるなんてゾッとする。そのわりに、患者に麻酔を施す麻酔科医の仕事は光が当たりづらい分野である。何しろ実際に手術や治療を担当することはめったにないから、麻酔科医という役割が存在することさえ知らない、あるいは「いや、いうて麻酔を打つだけでしょ?」ぐらいで、あまり意識しない人も多いかもしれない(僕も正直、こっち側である)

実際には、麻酔科医の仕事は超重要だ。確かに患者と麻酔科医が引き合わされるのは手術や治療が行われる数分前なので、患者の記憶に強くは残らないかもしれない。しかし、彼らが手術の前後から最中に適切な処置をし、待機を行っているからこそ、現代の医療が成立するのである──というわけで、本書『意識と感覚のない世界』は三〇年以上麻酔科医としての経験を重ね、時に七〇〇グラムの未熟児から、時には人間ではないゴリラまで、幅広い存在に対して麻酔を施してきた著者ヘンリー・ジェイ・プリスビローによる、自身の仕事についてのエッセイである。

科学ノンフィクション的な麻酔についての化学的、科学的な紹介やその歴史についての記述と、麻酔科医として彼がこれまでどのような案件を担当してきたのか。そのたびにどう対処し、どのような難しさがあったのか。そして彼はピンチを切り抜けるたびに、何を学んできたのか──という、麻酔科医の日常がいい具合にブレンドされていて、読み終える頃には麻酔科医の仕事がどれ程大変なものなのかがよくわかるうえに、麻酔科医への強い感謝を覚えているだろう。

麻酔科医にメディカルスクールで学んだことを忘れる贅沢は許されない。おそらく他のどんな専門医も、麻酔科医ほど基礎科学(解剖学、病理学、生理学、薬理学)および臨床医学の全分野(内科、外科、小児科、産科、場合により精神科)に精通し、他の想定しうるすべての専門分野にかかわる広範囲かつ包括的な知識を維持している者はいないだろう。

『麻酔管理をしているとき、私は内科医、産婦人科医、そして小児科医になる。』と著者は語るが、事実その通りに麻酔科医は様々な病状の患者に対して必要とされるから、広範な臨床医学の分野に精通していなければ、いざという時の対応ができないのだ。手術の経過において患者の痛みは常に同じではなく、身体は痛みに応じて様々な影響を与えるし、失血による心拍リズムの変動など、状況に応じて患者を適切な状態に戻すのも麻酔科医の仕事なのである。

麻酔科医の苦闘

本書の中では、そうした様々な状況に対応しなければならない麻酔科医の苦闘が綴られていく。たとえば、印象的だったのは、四歳の男児であるマイケルに対する麻酔処置の記録が語られる第六章「絶飲食」。基本的に、麻酔処置をする場合は胃を空にしていなければならない。

麻酔は筋肉を弛緩させて反射をなくすから、食道の括約筋が弛緩して胃の内容物が口に逆流し、誤嚥を起こして合併症を誘発させる可能性があるからだ。だが、その時手術前に、マイケルは「シリアルを食べた」といったという。もし本当なら処置を延期すべきだ。だが、彼はいますぐにでも手術を必要としている。「いつ食べたの」など聞いてみても、にやにや笑って何も返答しないから、ウソかもしれない。カルテをみると、食事は出ていない。念の為、担当看護師に電話をかけて、「彼はシリアルを食べていない、配膳もされていない」との確認までとった。

そのことを本人に問いただし、どこから手に入れたのと聞くと、今度はママにもらったのだという。そこでまた担当看護師に電話をして母親は来ていたかと聞くと、やはり来ていないという。さすがに看護師もいらいらしてきており、結局、信じて手術をすることにするのだが、麻酔が導入されるとマイケルから「ゲプッ」と音がして、お腹がわずかに震えた。本当にシリアルを食べていたのだ。その一瞬の変化に彼は気づき、なんとか口からシリアルを吸い出して、最悪の事態は回避される。が、合併症発生のすれすれだったのは間違いない。

他にも、「何も問題はありません」といって担当をした生後十二ヶ月の女児に対する麻酔投下後、パルスオキシメーター(動脈血酸素飽和度と脈拍数を測定するための装置)の異変に気が付き、X線の検査を行ったところガンであることが発覚したエピソードが語られる第九章など、麻酔科医がどれほど細やかに気を配らなければならないのか、一歩間違えたら大惨事を招きかねない綱渡りを歩き続ける麻酔科医の緊張感が、こうした事例からはよく伝わってくる。『一般的かきわめてまれかにかかわらず、麻酔には潜在的なリスクがある。麻酔専門医は最善の結果を得るために幅広い知識を維持し、広範な情報に注意を払う必要がある。』

おわりに

下記は「はじめに」の末尾にあたる文章だけれども、全体を通して科学的でありながら、同時に端正で美しい文章も本書の魅力だ。本稿ではまったく紹介していないが、麻酔の歴史、麻酔がもたらすリスクについてなど、基礎的な部分の情報もきちんとまとまっている。全部で二〇〇ページちょっとで、サクッと読めるので、ぜひ年末年始にでも楽しんでいただきたい。

 麻酔薬を投与するとき、私はいつも患者に「一〇〇からカウントダウンしてください」と言う。この方法は、昔から続く麻酔科の伝統である。半世紀前に即効性のあるバルビツール酸系麻酔薬が開発され、秒単位で意識を消失させることが可能になると、麻酔科医は麻酔の効果が現れるスピードを知りたくて、患者に一〇〇から順にカウントダウンさせるようになった。一〇〇……九九……九八……
 カウントする声が止まる。
 私の経験では、九〇より先まで数える患者は一人もいない。

瀉血や水銀製剤、食人など様々な「歴史上の最悪の医療」について紹介された一冊である『世にも危険な医療の世界史』もあわせて読むと、麻酔があることのありがたさが増すだろう。

世にも危険な医療の世界史

世にも危険な医療の世界史