基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

持続可能なコーヒー栽培を目指して──『世界からコーヒーがなくなるまえに』

コーヒーを日常的に飲む国が増えたこともあって、世界のコーヒー需要は年々あがっている。一方で、大量生産と安価な供給を目指し大規模に工業化されたコーヒーの栽培、育成が大地に与える悪影響。また、全世界的な気候変動が伴って㉚年後には今のようにコーヒーを楽しむことはできないという研究者もいる。

『世界からコーヒーがなくなるまえに』は、そんなコーヒー終了のお知らせの最中にいる現代にあって、持続可能なコーヒー栽培がいかにして行われえるのか、その可能性を追求する農家への取材をメインに構成されたコーヒーノンフィクションである。

もし私たちが美味しいものを味わい続けたいのなら、コーヒーとの関係も変わるべきだ。どこから豆が来ているのか知るべきだし、栽培環境やサステナビリティも忘れてはならない。量より質、つまり大量にコーヒーを淹れて飲み残しを捨てるのではなく、少なく、大切に、美味しい豆を轢いて淹れるべきだ。

僕自身、毎日家で安いインスタントコーヒーに牛乳をダバダバ入れながら読んでいるのだけれども、本書を読むことで世界でどのようにコーヒーが栽培されていて、それがどのように味に影響を与えているのか、安価なインスタントコーヒーが日本までどのように運ばれてくるのか、きっちりとおいしいコーヒーとは何なのかといったことについて大変勉強になった。

コーヒー豆栽培の困難さ

コーヒーというのはそもそも簡単には育たない作物なのだという。かなりの水分を必要とするし、土壌の養分を根から吸い上げるのでただでさえ長期的な栽培は難しい。効率の良い栽培をするためにはかなりの作地面積を必要として、それが平らである必要もあるから大量の木が切り倒され、木陰もなくなるせいで不足した分の水分をさらに注ぎ込む必要が出てくる。

土は時折休耕させねばならないが、ブラジルのように温暖な気候の場所では常に土壌から何かが芽吹いてフル回転で使われてしまうために、自然の回復力だけでは追いつかない。それをなんとかしようと化学物質を投入するわけだが、雑草や害虫の除去に毒性の強いものを使うこともあって、土壌は汚染され、微生物群も死滅してしまう。さらには虫には毒への耐性もついていき──と、そうした負のスパイラルに陥っているのが現状のコーヒー栽培なのである。

持続可能なコーヒー栽培

本書で中心となって取り上げられていくのは、ブラジルで作物だけでなく従業員まで含めてきちんと健康的で持続的な栽培・労働ができるように取り組んでいる農場の運営者シゥヴィア・バヘット、マルコス・クロシェの二人だが、シゥヴィアとマルコスはこうした環境破壊的な大量生産から距離をとっている。まず彼らは、作物を畝に沿って植え、その間にバナナやアボガド、豆類、多年草と一年草を交互に植える。これによって一年草が枯れることで肥料になるのだ。

雑草を抜いたりも手作業でやらないといけないし、収穫についても一個一個完熟度合いを確かめての手摘みになるので、当然こうしたオーガニックな方法での栽培は大規模な工業的手法と比べると効率が悪くなる。たとえば、鉱業型農場では1haあたり3トンの収穫量が見込めるが、良く機能しているオーガニック農場では1haあたり1.5トンと半分に過ぎない。つまるところオーガニックでいこうとした場合工業的手法と比較して相応の値段で売らないといけないわけだけれども、シゥヴィアとマルコスの凄いところは、きちんと自分たちの栽培の物語と品質の良さを伝えて、高く買ってくれる顧客を開拓することに成功しているところだ。

ただ、これについては他の農家が「そもそも高く売れるものを、無知であるがゆえに大手焙煎所に安く買い叩かれている」という側面もあるらしい。たとえば、アメリカのリーハイ大学の助教授によるとウガンダのコーヒー豆生産者達に取材した結果、そのうちの半分しか自分たちが栽培しているものが飲み物になると知らなかったという。彼らは自分たちが作物か パンを作るものだと思っていた。それぐらいに無知であると、高く売るどころの話ではない。

ウガンダに限った話ではないが、大手焙煎所は市場価格から数%低めの価格で買い取る代わりに、生産者の収穫全部を買い取ると約束することがある。この時に、生産者側が自分たちが高品質な豆を作っているにも関わらずその価値がわからないと、ただただ買い叩かれてしまうのだ。

マルコスはコーヒーの味わい方を教えるワークショップを開催し、うまいコーヒーとまずいコーヒーの違いを教え、さらにそれをどう栽培すればいいのかを教え、バイヤーに紹介することで周囲の生産者たちの暮らし向きがよくなるように行動を続けている。ただ品質を上げるだけでなく、きちんとした値段で売ることで生産者ら自身の生活も向上させ、土壌だけでなく生産者まで含めた持続可能な経済圏を築き上げているのだ。

おわりに

「コーヒーみたいに身近なものが認識を深め、世界を変えることができる。この美しい地球に生まれる人間皆が楽しんで、自分の必要性を満たし、そして自らこの世を去るときに次の世代にもっといい場所として残していく。いいことをしたと分かっていれば、去るときも自分にしてもずっと気分がいいだろう」彼は諭すように言う。

コーヒーについての話ではあるけれども、大規模な気候変動に備えて持続的な食糧生産が可能な体制へと移行していかなければならない、という大きな流れの中にある話であり、国連食糧農業機関による、土壌の劣化によって作物の生産能力は毎年約0.5%ずつ劣化しているという試算もある。コーヒーという身近なものからはじまって、文明の土台である食糧生産について考え始めるきっかけとなる一冊だ。

関連として、デイビッド・モンゴメリーの『土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話』も近著としてはおすすめである。

土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話

土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話

汚職についての詳細なメカニズムを解き明かしていく一冊──『コラプション:なぜ汚職は起こるのか』

コラプション:なぜ汚職は起こるのか
いったいなぜ汚職が起こるのか、と言われても、それが発生する人間心理についてはそう不可思議な点はない。乱用できる権力があり、さらにそれを振りかざすことで利益が手に入るのであれば、そうすることもあるだろう、と容易く想像できてしまう。

「やるだろうな」と想像できる一方で、賄賂を受け取ることによるリスクがある時、賄賂をためらうこともある。たとえば、日本で交通違反で止められたからといって警官に賄賂を渡して見逃してもらおうとする人は多くはない。それは、少なくとも日本においてはそうした汚職を実行することで自分がまずい状況に陥ることが想像できるからだ。汚職に手を出すかどうかには、リスクと利益の均衡が関わってくる。

本書は、そうした汚職についてのより詳細なメカニズムを解き明かしていく一冊である。取り上げられていく話題としては、たとえば、民主主義の国と専制主義の国では、汚職の割合が高いのどちらか? 公務員の給料をあげれば、汚職の割合は減るか? 汚職が存在することは、本当に国家、国民にとってよくないことなのか? などいくつもの疑問に一定の答えが出されるだけではなく、汚職を減らすためにはどうしたらいいのか、という思考の枠組みも提供される。これがおもしろい。

そもそも汚職って悪いことなの?

そもそも汚職は本質的に悪いことなのだろうか? 規制を逃れたり、金を払って特別な融通をきかせてもらうことは、実は社会の流れを円滑にしているのではないか? 

そんなバカなと思うかもしれないが、半世紀前まではこうした考えを示す、「効率的汚職」という見解が存在していた。が、この考えについては、今では様々な事例研究とミクロ経済学的な証拠によって完全に反論されている。たとえば、守るに値しない規制をすり抜け効率的にすることも賄賂の役割だ、というのは効率的汚職派の主要な言い分だったが、実際には賄賂が存在するから規制が増えている側面もある。

汚職が決定的に人命を損なっていることを示す研究もある。たとえば、政治的人脈が豊富な重役がいる会社ほど、人脈の利用や贈賄によって安全規制を逃れているのではないか? という仮説がある。言われてみればそうかもなと言う感じだ。そこで、労働環境の安全が重要な業界(建築、鉱業、化学)276社についてデータを収集し、人脈を持たない企業の、労災死亡の比率を比較した。すると『最も控えめに見積もっても、労災による死亡率は政治的人脈を持つ企業のほうが2倍以上高かったのだ。』

これよりも最悪な汚職もある。天然資源が汚職で取引に用いられてしまうケースだ。国際社会は熱帯雨林の消失を懸念しているから、大抵の場合樹木の伐採は厳しく規制されている。だが、そこで規制当局が賄賂を受け取ってしまうと、汚職が急速な環境破壊を促すことになる。カメルーンの官僚は、違法な伐採業者から受け取る賄賂で、給料と同じくらいの金額を稼いでいるという。こいつの汚職で、地球がやばい。

どのような傾向の国で汚職が起こりやすいの?

意外ではないが、国家レベルの富と汚職には相関がある。たとえば1人当たりGDPと、トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数との散布図をみると、最も腐敗していない国はフィンランド(1人当たりGDPは5万$)、デンマーク(6万$)、ニュージーランド(4万$)。一方で腐敗が激しいのはアフガニスタン(659$)、スーダン(1876$)とその結果は明白だ。高所得国は全般的に腐敗度が低い。

高所得の何が腐敗を減らしているのだろうか? いくつかあるが、まず一つは十分な給料をもらっていればリスクをおかして賄賂を受け取る必要がなくなる、という単純な考えがある。アメリカでは1820年ー1900年の間に国民1人当たり所得が7倍に増加したが、増大した中産階級が票の買収に応じなくなった。さらに、経済的に繁栄した国では、監視カメラや経理の増員、チェック機構などによって、汚職を減らすためのテクノロジー、仕組みにお金を費やすことができるようになる。

とはいえ、汚職というのは金をかけたからといってそう簡単になくなるものでもない。その理由の一つは、汚職には密接にその国や都市の文化と関わっているからだ。たとえば、冒頭でも紹介したスピード違反で停止を命じられた運転手のケースで考えると、賄賂を支払って見逃してもらえるかどうかは警官個人の性質の問題ではなく、運転手が住んでいるのが腐敗度の高い国か否かにかかっている。賄賂が常習化している国ならば賄賂を渡せば見逃してもらえる可能性が高いが、その逆も然りである。

周囲がみんな当たり前のように賄賂を渡す社会で、汚職は良くないことだと思っていても、自分だけは渡さない/受け取らないという選択をするのは難しい。『もし汚職文化を社会的均衡と考え、他人がどうふるまうかについての相互に一貫した信念だとするなら、自分が汚職に賛成か反対かはどうでもいい。自分の行動は、他のみんながどうふるまうかに依存する』本書でもニューヨーク市警察で汚職に手を出すことを拒否し、上層部に上申した男が仲間の不興を買い殺された事件が紹介されている。

つまるところ、汚職をなんとかしたければ一人がどうこうするというよりかは、全員の相互の期待、信念を一気に変えなくてはならないのである。これが難しい。

どうやって汚職をなくしていけばいいのか。

みんなの期待を変えるったってどうすりゃいいのよ、というのが正直なところだが、本書ではいくつもの手法が検討されていく(公務員の給料を上げるとか。公務員給与と汚職の相関はマイナス。)ので、そのへんは読んで確かめてみてもらいたいところ。

ただ、銀の弾丸があるはずもなく、政府支出の監視、署名活動、継続的なデモなどの地道な活動と、1人当たりGDPの増加を目指していく他ない。それでも、本書は「どんな地道な活動が効果をあげるのか」「どのようにして汚職は起こるのか」について実証的な研究を多くあげ、均衡の観点から解説しているので、オススメである。

最先端物理理論の提唱者が語る、時間の実態──『時間は存在しない』

時間は存在しない

時間は存在しない

時間は存在しない、といきなり言われても、いやそうは言ったってこうやって呼吸をしている間にもカチッカチッカチッと時計の針は動いているんだから──とつい否定したくなるが、これを言っているのは、一般相対性理論と量子力学を統合する、量子重力理論の専門家である、本職のちゃんとした(念押し)理論物理学者なのである。

名をカルロ・ロヴェッリ。彼が提唱者の一人である「ループ量子重力理論」の解説をした『すごい物理学講義』は日本でもよく売れているようだが、本書はそのループ量子重力理論から必然的に導き出せる帰結から、「時間は存在しない」ということをわかりやすく語る、時間についての一冊である。マハーバーラタやブッタ、シェイクスピア、『オイディプス王』など、神話から宗教、古典文学まで幅広いトピックを「時間」の比喩として織り込みながら、時間の──それも我々の直感には大きく反する──物理学的な側面を説明してくれるのだが、これが、とにかくおもしろい!

物理学系のノンフィクションで関係ない文学やらの話を取り混ぜられると、「そんなんはいいから、はやく本題に入ってくれないかなあ」と若干イラついてしまうこともあるのだが、著者の場合それがあまりにたくみなので、気にならないどころか、時に表現それ自体に感嘆してしまうことさえあった。「とはいえ、そんな専門家の人が書いた本なら、さぞや難しいんでしょう?」と思うかもしれないが、本書には数式は一箇所しか出てこないので、どうぞ気軽に読み始めて欲しい。

ざっと紹介する。

本書は三部構成になっていて、第一部では現代物理学が時間についてどのような見解を持っているのか、といったおさらいを。第二部ではその前提をふまえ、量子重力理論はどのような世界像を作り上げるのか。第三部では、なぜこの世界には時間は存在しないのに、我々は時間を感じるのか? を仮説も交えながら大胆に描き出していく。この第三部は、著者の『第三部はもっとも難しく、それでいていちばん生き生きとしており、わたしたち自身と深く関わっている』という自画自賛通りのものだ。

なぜ我々は過去と未来を区別できるのか?

そもそも「時間は存在しない」ってどういうことなの? というのが多くの人の頭に疑問として浮かんでいることだろう。ただ、これを説明する前にある程度時間の基本的な法則を紹介せねばなるまい。たとえば、相対性理論にのっとれば、時間の流れは一様ではない。質量は周囲の時間を減速させるから、物凄い質量の周囲の時間は物凄く遅くなる。たとえばブラックホールの近くまで行ったら、凄い質量でめちゃくちゃ時間が遅くなるので、そこでの一瞬が他の場所での永遠のような時間に匹敵する。

これはブラックホールのような極端な事象を想定しなくても起こる。たとえば山の上と平地なら、平地の方が巨大な質量を持つ地球に近いので、時間はゆっくりと進む(人間には知覚できないレベルだが)。つまるところ、宇宙の至るところでそれぞれ異なる時間の流れがある。それとあわせて重要なのは、基本的な物理法則において、過去と未来は区別できないということだ。ハイゼンベルクやシュレディンガー、ディラックが導いた方程式の中は、同じ出来事をどちらにでも進めることができる。

よく、原因は結果に先んじるといわれるが、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対称だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。

とはいえ、過去と未来を物理法則が区別できないのなら、我々にそれが存在するように見えるのはなぜなのだろう。それは、基本的な物理法則の中でも、熱力学については時間が関連してくるからだ。有名な熱力学の第二法則、熱は高温から低温に移動し、その逆は起こらないという法則によって、世界は一つの方向へと向かって流れ、その逆は起こらない。月にクレーターが残るように「過去の痕跡」がある一方で、「未来の痕跡」が存在しないのはエントロピー増大の過程が、不可逆だからである。

なぜ我々の世界はエントロピーが低い状態から始まったのか問題

なるほどねと、納得しかけるが、すぐに「なんで昔はエントロピーが低い状態だったの?」と次の疑問が沸いてくる。というのも、エントロピーが低い状態とは秩序だった状態ということだが、なぜこの宇宙は秩序だった状態で生まれてきたのだろう? 不思議な話である。これについての著者の見解はちょっとびっくりするものだ。

かれによると、エントロピーが存在するのは次のような理由になる。『エントロピーが、じつはお互いに異なっているのに、わたしたちのぼやけた視界ではその違いがわからないような配置の数〔状態数〕を表す量であることを証明したのだ。つまり、熱という概念やエントロピーという概念や過去のエントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだ。』

これだけではおそらくわかりづらいので補足しよう。トランプ52枚が、前半分と後ろ半分で赤と黒で分かれていたならば、我々はそこに秩序を見出し、「エントロピーが低い」と感じる。それをシャッフルしたら秩序が失われ、「エントロピーが増大した」と感じる。でもこれは色に注目した場合だ。ハートとスペードが交互に連続していても、我々はそこに秩序を見出す。だが、それが「特別だ」と感じるのは特定のカードの性質に特別に注目し、我々がそのような統計的な認識を行うからだ。

世界をよりミクロな目でみると、特別さも統計的な粗雑さも消える。だから、著者はエントロピーは我々が世界を曖昧な形で記述するからこそ生まれ、昔を「エントロピーが低い状態だった」と感じるのは、我々が物理系として相互作用してきた変数の部分集合に関してのみの話なのではないか、と語るのである。『過去と未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視界が曖昧だからである。』

そうやって事物のミクロな状況を観察すると過去と未来の違いは消えてしまうから、時間が過去から未来へ向かって流れているように見えるのは、結局のところは人間がそれを生み出しているからだ、といえる。とまあ、そんなところが第一部までの話である。第二部からは、「時間がない世界」をどう記述するのか? に分け入っていき、著者の主要な研究テーマであるループ量子重力理論がもたらす結論のひとつである、「世界は空間量子によって形作られている」ことを説明してみせる。

時間は存在しないって?

簡単に説明すると、ニュートンやアインシュタインはそれぞれの方法で時間と空間が入り交じる「時空」を想定したが、量子論を取り入れたループ量子重力理論では、分割不可能な最小単位である「空間量子」が連続することで、まるで時間や空間といった一つなぎのものが存在するかのように「見えるだけ」としているのである。

空間量子が空間を埋め尽くしているのではなく、空間量子それ自体が空間なのである。それらは時間の中に存在するのではなく、絶えず相互作用しあっていて、それこそがこの世界のあらゆる出来事を発生させている。『時間は、元来方向があるわけではなく一直線でもなく、さらにいえばアインシュタインが研究したなめらかで曲がった幾何学のなかで生じるわけでもない。量子は相互作用という振る舞いを通じて、その相互作用においてのみ、さらには相互作用の相手との関係に限って、姿を表す。』

おわりに

本書は第三部にいたり、丁寧にその存在しなさを証明されてきた時間を、我々はなぜどうしようもなく感じてしまうのか、といったことが極めて詩的に語られていくことになる。物理学的にもハードな(著者ならではの仮説がかなり混じった)語りなのだが、それと同調するようにして神話と古典からの引用も加速し、なにがなんだかよくわからないがとにかく異常なテンションの高さが持続していて、大きな物語を読んでいるような気分になる。時間に興味のあるすべての人に手にとって欲しい一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

宇宙誕生の謎を解き明かしつつある人々の話──『ユニバース2.0 実験室で宇宙を創造する』

ユニバース2.0 実験室で宇宙を創造する (文春e-book)

ユニバース2.0 実験室で宇宙を創造する (文春e-book)

宇宙の始まりについての本である。宇宙の始まりといっても、意味は二つある。

一つは、無論我々が住むこの宇宙の始まりについて。基本的な同意が得られている部分としては、この宇宙はビッグバンによって始まったとされる。高温で高密度の閃光とともに極小の宇宙がまず産まれ、そこに時間と空間が生まれ、物質が生じた。

生まれるのはいいが、なぜ宇宙は突然、指数関数的な膨張をはじめたのか? どのような速度で膨張し、今の巨大な宇宙に至るのか? を説明するために、ビッグバン理論を拡張するインフレーション・モデルがあるわけだが、その解明が進むうちに必然的にもう一つの問いかけ──宇宙の始まりの原理がわかるのなら、人為的に新しい宇宙もつくれるのでは?──が浮かび上がってくることになる。本書の「宇宙の始まり」という主題のもう一側面は、この、「実験室で宇宙をつくるにはどうしたらいいの?」を描き出す点にある。これが、めっぽうおもしろい。

ネタをバラしてしまうと、今はまだ実験室で宇宙を作ることは不可能だ。だが、そこに至る道筋自体は存在している。単純化した話にはなるが、高エネルギーの粒子を、磁気単極子(N極もしくはS極のみといった一方の磁荷だけを持つ粒子のことで、計算上はビッグバン直後にこれが大量に作られたと予測される)にぶつけることで非常に小さな宇宙が生まれることが示されている。なんだ、磁気単極子と高エネルギー粒子の二つつだけでできちゃうの、と思うところだが、これを揃えるのが難しいのだ。

というのも、磁気単極子はビッグバン時に大量に生成されたはずだが、その直後の急激な膨張によって散り散りになったとみられ、そこら中探し回ってはいるのだが、歴史上一度も見つかっていない。また、高エネルギー状況を作り出すのも難しい。現在、高エネルギー物理実験を目的として作られた世界最大の加速器LHCを用いてなお足りず、必要なエネルギー量を考えると、今後50年ほどは難しいとされている。

だいたい、そんな宇宙つくって我々の宇宙がどうなっちゃうわけ? インフレーションが起こってでかくなってこの宇宙が飲み込まれちゃうんじゃないの? と心配になってくるが、なぜそうしたことが起こらないのか、仮に磁気単極子を高エネルギー条件下に置くことができたとして、どのような宇宙が生まれるのか──そもそも、新しい宇宙が生まれたとして、それをどうやって観測したらいいの? などの問題についても本書はきっちり紹介していってくれるので、安心いただきたい。

著者、構成について

本書の著者はフリージャーナリストのジーヤ・メラリで、彼女が「実験室で宇宙をつくる」関連の物理学者らにインタビューを重ねていく構成をとっている。この手の本でフリージャーナリストのインタビュー本というと専門知識の妥当性に疑惑が湧くこともあるが、著者はケンブリッジ大学で理論物理学の修士、その後ブラウン大学で宇宙論の博士号を取得しており、専門的な知識の裏付けのある人物である。

序盤はビッグバンやループ量子重力理論について、中盤から後半にかけてはインフレーション理論及びひも理論についてしっかりとした紹介が行われていくが、おもしろいのはインタビューの軸に「宗教」があることだ。その理由の一つは、著者自身が人格神(人格的な何かを持った神の存在)を信じているということで、もう一つは宇宙を人為的に作りだす発想とその結果が、必然的に神を連想させるからでもある。

物理学と宗教について

神を信じているようなやつの話なの? と最初読みながら怯えてしまったが、出てくる議論は主に科学的な議論にのっとったもので、多くの場合はそのうえで科学ではまだ推察できない領域、可能性の部分に宗教面でのテーマが浮かび上がってくる。

たとえば、著者が最初に会いにいくカリフォルニア大学のツェーは、この宇宙は宇宙外の知的存在により作られた可能性があることを示す論文を発表している人物だが、神を信じているわけではないと語る。ループ量子重力理論の研究者であるアシュテカーはヴィパッサーナ瞑想の熱心な実践者だし、スタンフォード大学のインフレーション宇宙の研究者アンドレイ・リンデは、古代インド哲学に傾倒している。

彼らはときに、物理学と反したことをいうが(リンデは文献からの引用で、人間の意識は神から分離したもので、あなたが死ねば全体の一部となる、と語る)、それらをきちんと科学的な考えとは切り離し、そのうえでなお捨てずに抱えているのが興味深い。物理学界において、そうした宗教的考えを持っていることは異端であり、できれば知られたくないことであるのは、こうした話を語ったあとに「わたしの評判を地に落とせるだけの材料を手に入れた」と付け加えられることからも明らかである。

そんな考えは放棄してしまえばいいのではと思うが、切り離せるものではないこともわかってくる。『彼がわたしに語ったことは、本音の話なのだろうか? それとも、ほんの気まぐれに言ってみただけなのだろうか? わたしはその点を問い質した。するとリンデは、慎重に言葉を選びながら、「いや、単なる知的な遊びではないよ。こういうこともまた、わたしという人間の重要な一部だと思っている」と答えた。』

仮に実験室で宇宙がつくれるぞ、となった場合、福音派のキリスト教徒である物理学者の信仰を揺るがしはしないのか? と果敢に聞きにいったり、わりと著者が遠慮なく、信仰と学者としての世界観について、自分の中でどう整合性をつけているのか聞きにいくところは本書の読みどころのひとつだ。誰もがリンデのように矛盾を飲み込んでいられるわけではな、各々の葛藤と結論の出し方に、人間らしさが溢れている。

おわりに

無論、まだわかっていないことも多いが、我々の住まう宇宙は、どうやって生まれたのか? というしっかりと地に足のついた議論を進めるのと同時に、「実験室に、宇宙をつくる」というこの実現が可能かどうかすらもわからない可能性に邁進する人々の熱いドラマであり、その宗教観との兼ね合い、どのような宗教的葛藤があるのか、またはないのか? についてもわかる、たいへんに刺激的な一冊である。

本記事ではどうやって実験室で宇宙つくるの? というその理論的な側面にはほとんど立ち入ってないので、ぜひ読んで確かめてみてね。

自律型兵器の技術・倫理についての最前線──『無人の兵団 AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』

無人の兵団――AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争

無人の兵団――AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争

一般向けの無人兵器本だと長らくシンガーの『ロボット兵士の戦争』が中心的位置を占めていたが今後はこのポール・シャーレ『無人の兵団──AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』がその位置にくるだろう。

「自律型兵器の定義」、「自律型兵器にどこまでの決定権をもたせるか、軍事的な意思決定権を持つ人間はどう考えているのか?」、「これまでの歴史の中で武器・兵器を使用禁止にした法律はどの程度の達成率で、成功要因はどこにあるのか?」といった、自律型兵器の最新の技術・運用動向だけではなく、それがもたらす社会、歴史的観点から「倫理的、道徳的、国際法的な観点からどうあるべきなのか?」と問いかけていく、広範でありながらも各論の記述のしっかりした傑作である。

著者はもともとイラクやアフガニスタンに出征していた米陸軍のレンジャー部隊員で、その後は米国防総省にて自律型兵器に関する法的・倫理的課題と政策の研究を行い、今は安全保障に関わっているというこの分野の専門家である。

ざっと紹介する

今、世界中の軍隊がロボットを配備し、90カ国以上が無人機に空を哨戒させている。30カ国以上は、交戦の速度が早すぎて人間では反応できない状況のために自律型防御兵器を有している他、イスラエルのハーピー無人機は、広い範囲を自動で索敵し、敵レーダーを発見した時は無許可で破壊する、攻撃の決断を下すところまで含めた高度な自律性を有している。これは中国は購入後リバースエンジニアリングして製造した他、他少数の国に売却されているという。

世界中で広まりつつあるこうした自律型兵器は、人間の生死を決定する力を持ちつつある。だが、それは議論もなしに決められていいものではない。兵器が誰を殺すかを判断し、それが仮に誤射だった場合、誰が責任を取るべきなのか、誰かが殺されることが兵器によって決定されるなんてありえない、とする否定的な考えがある一方で、兵器が高度な認識能力で人間をアシストすることで、民間人が死傷するのをこれまで以上に防ぐ、人道的なものになりえるという人もいる。確かに、ライフルを持った人間と熊手をもった人間を区別する時に、人間をしのぐ可能性はある。

人類は根本的な問題に直面している。戦争で機械が生死の判断を下すのを許すべきか? それは合法的なのか? 正しいことなのか?

本書は、この問いを中心に置きながら、急速に進歩を続けている自律型兵器に関する技術的・法的・倫理的観点からの包括的な議論をすすめ、今後自律型兵器が世界中に蔓延していった時に何が起こるのかといったまだみぬ課題についても検討していく、一般読者向けのノンフィクションとしては今後10年に渡って基本書となりえる一冊である。550ページを超える分厚い本なのだが「こんなことが起こり得るのか!」「こんなことがもうできるのか!」「こんなことまで想定しているのか!」といろいろな角度から驚き続けることのできる素晴らしい傑作だ。

どんな兵器が開発され、どのようなリスクがあるのか

群体としての行動をする自律型兵器(相互干渉しない離着陸、飛行、一点に集中しない攻撃アルゴリズムなど)が空を飛ぶもの、水中で稼働するものの二つが実験段階にある他、アメリカの国防研究開発部門であるDARPAでは、CODEと呼ばれる、こちらも複数体で行動し、場合によっては攻撃まで兵器の側で判断できる(余地を残している)自律型兵器を開発している。最初の方で触れたイスラエルのハーピーは種類としては滞空弾薬と呼ばれるもので、2.5時間ほどの捜索可能時間があり、与えられた範囲内を巡回しながら敵レーダーを探し、見つけた場合無許可で破壊する。

自律型兵器の必要性が増している背景にはいくつかの背景があるが、大きな理由は兵器のネットワーク化が増加するにつれて、電子攻撃の勃興と衝突するようになったということがあげられる。軍が通信とターゲット感知を電磁スペクトルに依存すると、その領域でのジャミングやスプーフィングなどの電子戦に巻き込まれることは今や必ず想定しなければいけない事態だ。ジャミングに強い通信手段も存在するが、交信範囲と帯域幅が限られる。そこで、通信せずとも攻撃の実行判断までできる自律性を高めた兵器が必要とされる。もうひとつの(自律型兵器の必要性が増す)理由は、兵器に搭載できる知能のレベルがましていることだ。いくらなんでも高確率でターゲットを間違えるアルゴリズムには攻撃の判断を任せられないが、状況は変わりつつある。

おもしろいというか恐ろしいのが、今後自律型兵器について考慮しないといけないこととして、画像認識技術の致命的な欠点があることだ。ディープラーニングによって画像認識の精度は格段に向上したが、これは画像にノイズをかぶせて誤認させるよう意図する敵対的画像サンプルの攻撃に致命的に弱い。ニューラルネットワークは独自のアルゴリズムに従って画像を分類するが、そのせいで人間の目にとっては意味不明な抽象的な形をヒトデなどと誤認することがあるのだ。

敵対的画像サンプルは、人間に察知できないようなやり方で、正常な画像に埋め込むことができる。それによって、”隠れた悪用”が可能になり、人間の目には見えないようなやり方で敵が画像を埋め込み、AI監視カメラに、そのシャツを着ている人間が入場を許可されていると思い込ませる。人間の警備員にも、シャツに欺瞞のための画像が隠されているとはわからない。

おわりに

そんなガバガバシステムに人の生死のトリガーを引いてほしくないよなあと思うが、主に著者はこうした技術面と、現行の国際人道法や戦争法から考えた場合、我々はどのように自律型兵器を規制すべきなのか。また、各国の軍事関係者や兵器開発者は倫理的な線をどこにひいているのか──を包括的に議論していくことになる。

著者は米国の自律型兵器に関する政策作成にも関与している人物なので、そのへんの記述の細かさ、レベル感も緻密である。進捗著しい分野なので技術的には古びていくだろうが、その法的な議論や、自律型兵器はどう運用されるべきなのか、その倫理的、道徳的観点からの議論は、すべてのベースとなるもので、一般読者向けの本としては、今後しばらくは古びずに読みつがれていくだろう。あと単純に、めっちゃ面白い。

抽象絵画とかぜんぜんわかんねぇ、という人にこそ読んでもらいたい──『なぜ脳はアートがわかるのか 現代美術史から学ぶ脳科学入門』

なぜ脳はアートがわかるのか ―現代美術史から学ぶ脳科学入門―

なぜ脳はアートがわかるのか ―現代美術史から学ぶ脳科学入門―

なぜ脳はアートがわかるのか。そんなことをいうと、「いや、そもそも自分にゃさっぱりアートはわからねえ」という人が湧いて出そうだが、かくいう僕もそのタイプ。真四角の図形をぽこぽこ置いて、赤だの黄色だので適当に塗ったとしか思えない絵が抽象絵でありアートなのだと言われてもなにが凄いのだか皆目わからない。

だが、ある意味ではそういう人たちにも読んでほしい本だ。これを読むと、なるほど、確かに人間は、そうした一見意味がよくわからない抽象的なアートを「わかる」ことができるのだということが、脳科学的な観点から理解することができるようになる。また、普段からアートを楽しんでいる人たちも、ターナーやモネ、ポロックにデ・クーニングなど無数の画家の作品と脳についての知見を通すことで、一つの解釈として楽しむことができるだろう。

著者のエリック・R・カンデルは記憶の神経メカニズムについての研究によってノーベル医学生理学賞も受賞している神経科学の巨人で、本書も著者の研究領域に基づいた専門的な話に突っ込んでいて内容的にも安心できる。その分量は決して多くないので、そこまで専門的なのは……という人でも大丈夫だ。

文学や芸術の人文文化と、世界の物理的な法則へと関心を抱く科学の文化、「理系と文系」のように時に大きく分けられる両者の間に橋をかけ、これから先の時代の科学、芸術を考えるために欠かせない一冊でもある。『本書の目的は、これら二つの文化が遭遇し、互いに影響を及ぼし合うことのできる接点に焦点を絞って、二文化間の溝を埋めるための方法を提示することにある。この接点は、最新の脳科学と現代美術のあいだに存在する。脳科学も抽象芸術も、直接的かつ説得力のある方法で、人文的思考の中核をなす問いの解明や目標の達成に取り組んでいる。それにあたって両者が用いている方法には、驚くほど多くの共通点を見出すことができる。』

構成とか内容とかざっと紹介する。

引用部にある、脳科学と抽象芸術で共通している方法とはなんなのだろうか? これについて本書で主題として取り上げていくのは、複雑な現象を、一つ一つのより小さな構成要素に分解し理解していくことで、総体としての理解にいたろうとする還元主義的な手法のことだ。たとえば脳科学は、記憶や思考の分子的、細胞的な基盤の理解を一歩一歩推し進めながらやがて相対的な人間という問題に答えようとしている。

一方芸術は想像力の純粋な表現だろう、と思われるかもしれないが、特に抽象画家はイメージ・アートを、形態、線、色、光といった各要素に分離して知覚できるようにし、具象的なアプローチでは不可能なやり方で鑑賞者の想像力に対して働きかける。実際、脳では物を見る時にそのフォルム、色、光といったものを別々に知覚・解釈しているのだ。というわけで本書ではまず、具象芸術に対して私たちがどのように反応するのか、たとえば一個の絵画を見た時に、脳のどの部位が反応し、どのような連鎖反応で喜びなり驚きなりといった情動に結びついていくのかを解説していく。

たとえば、我々は当たり前のように世界を視覚的に捉えているので、色も、形も、光も、見たままにそこに「ある」と思っているかもしれないが、実は違う。これは人が物を認識する時の簡素なスケッチにすぎないが、まず人間が物をみたとき、網膜に投射されたイメージが、線や輪郭を記述する電気的なシグナルへと解体される。そこで顔や物体を分ける境界がうまれ、その後、形に関する規則と既存の経験に基づいて再構築されて知覚イメージへと組み立てられる。つまり、我々は外界をただ見るのではなく、見たものを脳の中で記憶や経験と合わせて再解釈する。

だから我々は時に簡素な線にすぎなくても、逆光が激しすぎて実体としてはその姿がみえなくても、そこから雄弁に人の顔や姿を「見る」ことができるのだ。

脳は抽象芸術をどうやって理解しているのか?

そうした視覚の認識において、脳内では大きく二つの処理プロセスが関わっている。ひとつはボトムアップ処理で、これは我々の認知システムに生得的に備わっている規則を利用し、目から入ってくる情報から輪郭を抜き出していくプロセスのことだ。

そんなプロセス必要なの? 脳内に情報を送ればいいじゃんと思うかもしれないが、単なる線の連なりから即座に顔を認識できるのは、そうした輪郭を抜き出して強調する能力あってのものだ。もう一方はトップダウン処理で、前頭前皮質や上頭頂皮質といった高次の脳領域が関連し、自分の記憶や経験に基づいて、目から入ってきたあれやこれが何であるのか? という情報の「解釈」を行う。生得的な物での評価(ボトムアップ)か学習での評価(トップダウン)か、で分かれていると考えれもらえばよい。

で、本書で重要な主張となっているのは、抽象芸術を理解する時にはこのトップダウン処理に大いに依存しているということだ。脳の一次視覚皮質の各神経細胞は、単純な線や垂直、水平、傾斜などに毎度同じ、特定の反応を示すが、つまり画家は線や色によって人間の視覚体験をある程度コントロールできることになる。さらに、脳はそこで生まれた情報を最終的に記憶や経験を結びつけて解釈しようとするから、単純化した線や色を組み合わせるだけでも、鑑賞者自身が独自の経験に基づいて補完できる特別な「イメージ」を提供することができるのだ。

新しきものの同化、すなわちイメージの創造的な再構築の一環としてのトップダウン処理の動員が、本質的に鑑賞者に快をもたらす理由は、一般にそれによって創造的な自己が刺激され、ある種の抽象芸術作品を前にしてポジティブな経験がもたらされるからだ。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーという画家は(ちなみに僕は抽象芸術は基本的にわからないが、ターナーの描く絵は好きだ。)、彼が描いた日没の絵に対して寄せられた、「ターナーさん。こんな日没は見たことがありません」というコメントに対して「奥様、見ることができればどんなに素晴らしいだろうとは思いませんか?」と応えたという。『かくして抽象画家が主張し、抽象芸術それ自体によって示されていることとは、網膜への感覚刺激の刻印が、それに結びついた記憶の想起を引き起こすスパークにすぎないという点だ。』

おわりに

と、200ページほどのわりと短い本なので紹介もこんなところで切り上げよう。

この他にも、人は視覚情報から実は触覚まで刺激を受けるという脳科学的な根拠、視覚は色をどのように捉えているのか? 色と情動の結びつきは? の解説など、アートに限定せず「我々は世界をどのように見、解釈しているのか?」という話題が頻発するので、興味がある人はぜひどうぞ。抽象画がどのような技術的な変遷・発展をしてきたのか、という歴史的な語りもあり、この分野の素人としてはそうした情報もたいへんに楽しむことができた。

物語はどれほどこの世界に影響を及ぼしているのか──『物語創世──聖書から<ハリー・ポッター>まで、文学の偉大なる力』

物語創世:聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力

物語創世:聖書から〈ハリー・ポッター〉まで、文学の偉大なる力

フィクション、物語とは言ってみれば架空の存在なわけだが、どういうわけだが我々人類は何千年もの間絶えず物語を語り続けてきた。つまるところ、物語にはそれだけ人を惹きつけてやまない力があり、ギルガメッシュ叙事詩や『イリアス』のように、時に偉大な物語は人々の文化の基盤となって、行動や思考に大きな影響を与えることがある。そうであるならば、物語とは、いったいどれほどの力を持っているのか? 

基盤テキストとはなにか

本書は、そのような世界に対して強い影響力を持つ物語を「基盤テキスト」と呼称している。その格好の例は聖書だ。たとえば、有人宇宙飛行ミッションのアポロ8号が月の周回軌道を回っている時に、聖書の『初めに、神は天地を創造された』から始まる十節を、何十億もの地球の人々へ向けたメッセージとして読み上げた。それは、言葉によって新しい世界を創造することであったのだ(本書の原題THE WRITTEN WORLDは、世界を創造するという基盤テキストの力について述べたものである)

しかし、アポロ八号が教えてくれた最も大事なことは、聖書などの基盤テキスト(foundational text)がいかに強い影響力をもつかということである。基盤テキストとは、時間の経過とともに影響力や重要性を増し、やがて文化全体のソースコードとなり、人にその人自身の出自を教え、いかに人生を生きるべきかを知らしめるテキストである。基盤テキストはしばしば祭司が管理し、それを帝国や国家の中心に祀っていた。王がこうしたテキストを広めたのは、物語によって征服を正当化して文化内の団結をもたらすことができるという事実に気づいていたからだ。

基盤テキストの影響力は大きいから、それを嫌う勢力もいる。実際、宇宙で聖書を読み上げた宇宙飛行士、NASAに対して、無神論者のマダリン・マレイ・オヘアは宇宙飛行活動と関連する場所で聖書を読むことを禁じてほしいと裁判所に申し立てた。

決して一つの基盤テキストが世界で支配的になるわけでもなく、地域ごとに異なっており、時にどちらが支配的な基盤テキストであるかを競って争いが起こることもある。たとえば、アポロ計画は冷戦下の戦いの一環であったが、これは同時に基盤テキスト同士の戦いでもあったという。アメリカ側の基盤テキストのひとつが聖書だったとして、ソ連の基盤テキストは? といえば、『共産党宣言』こそがそれである。

ソ連を支える基盤は、聖書よりもはるかに新しいテキストに記された思想だった。そのテキストとは、マルクスとエンゲルスの著した『共産党宣言』である。レーニン、毛沢東、ホーチ・ミン、カストロらに愛読されたこの本は、書かれてから一二〇年しか経っていなかったが、聖書のように古くからある基盤テキストと競いあおうとしていた。

この証拠のひとつとして、著者はソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンが地球に戻った時に言った「よく探したが、神はいなかった」が『共産党宣言』の思想からヒントを得ていたんだと語っている。この件がどの程度基盤テキスト同士の争いとして捉えられるかは解釈が難しい気もするが、とにかくこの世界に大きな影響力を与える「基盤テキスト」という考え方それ自体がまずおもしろい! 本書ではそのあと、世界に散らばる基盤テキストたちを書字技術の発展と共に紹介していくことになる。

もう少し具体的な内容について

取り上げられている基盤テキストはなにかといえば、紀元前のホメロスによる『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』に聖書、ブッダ、孔子、ソクラテス、紫式部による『源氏物語』に『千夜一夜物語』、マヤ文化と密接に関連した神話『ポポル・ヴフ』、ドン・キホーテに西アフリカの『スンジャタ叙事詩』、現代の例としてハリーポッターまである。それが当時の世界、文化にどのような影響を与えていたのか──という歴史的な観点から語られていくのがおもしろいのだ。

たとえばマケドニアのアレクサンドロスは古代ギリシャの都市国家を統一し、ギリシャからエジプトまでの王国を征服し、と伝説になるほど世界を征服しながら駆け回った歴史的な大人物だが、彼はその遠征時には『イリアス』を持ち歩き、枕の下に入れていたという。その理由は単純で、『イリアス』は当時すでに古代ギリシャ人にとっての基盤テキストになっており、アレクサンドロスにとっての聖典といっていいほどの位置を占めていたからだ。『アレクサンドロスはアリストテレスの教えを受けて、ホメロスの『イリアス』をギリシャ文化の最も重要な物語であるだけでなく、彼の目指す理想、アジアへの進出を支える動機でもあると考えるようになった。』

彼の場合はただそのテキストを読んで酔いしれるだけではなく、書かれている内容を自ら再現できるだけの能力と熱量のある驚異的な読者であった。『読者であるアレクサンドロスは物語の中に身を置き、ホメロスの描いたアキレウスの視点から自分の人生と歩んできた道のりを展望した。』というように、ことあるごとに『イリアス』にかかれている内容を自身で再現し、アレクサンドロスはアジアに達して真っ先に、『イリアス』の中でギリシャ軍の船が上陸した時に先頭をきって飛び降りたプロテシラオスの墓を詣でるなど、聖地巡礼のような行為にたびたび及んでいたりもする。

当時『イリアス』はあらゆる人が読み書きを学ぶ際に使うテキストであり、ギリシャ語とその文字を広める主な媒体であった──といった風に、各地の、各文化の「基盤テキスト」の影響力の解説が行われていくのである。『イリアス』以外は個人的に、まるで読んだこともない文化の神話の話(マヤ文化の『ポポル・ヴフ』や西アフリカの神話ともいえる『スンジャタ叙事詩』)がおもしろかった他、外の目線から、基盤テキストという観点から見た『源氏物語』の読み解きなども素晴らしいと感じる。

おわりに

本書はHONZ代表の成毛眞もFacebookで『ファイナンシャル・タイムズがハラリを引き合いにだしてレビューしている理由がよく分かる。『サピエンス全史』を読んで、次を求めている人におすすめの一冊。』と太鼓判を押して紹介していたが、フィクションが持つ影響力という観点において、確かに連続性のある内容なので、自分も重ねてオススメしておきたい。無論、小難しいことをまったく考えなくとも、著者が自身が旅をしたり、人に話を聞きに行ったりしたエッセイ的なエピソードを取り混ぜつつ古今東西いろんな神話の話を解説しているだけで、読み物としておもしろいので、気楽に手を出してもらいたいところだ(気楽に読むにはちと高いけど……)

多様なイラストレーションによって彩られた、奇想小説のワンダーランド──『ワンダーブック 図解 奇想小説創作全書』

ワンダーブック 図解 奇想小説創作全書

ワンダーブック 図解 奇想小説創作全書

本書『ワンダーブック 図解 奇想小説創作全書』は、『全滅領域』(これを原作とした映画もnetflixで公開されている)から始まる《サザーンリーチ》三部作で知られる作家・ジェフ・ヴァンダミアによる執筆ガイド本である。本書には他の執筆ガイドと異なる特徴が主に2つある。ひとつは、あらゆるページに挿入されている多彩なイラストレーションが、ガイドの内容を補完し、時にまるっと置き換えてしまっていること。その演出は多岐にわたっており、そうしたイラストレーションをぱらぱらとめくって鑑賞し、画集的に読むだけでも無茶苦茶に楽しませてくれる 。
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冒頭にいきなり挟まれているSFの歴史図
特徴のもうひとつは、本書が焦点をあてているのがリアリズムによった小説ではなく、ファンタジィや奇想小説、SFやホラーといった非リアリズム領域の作品であることだ。ゆえに、特殊な世界観をどう構築するのか、またその落とし穴はどこにあるのか。キャラクター構築にあたっては何を問うべきで、何をすべきではないのかなど、特に奇想小説を書くにあたっての専門的なTIPSが無数に収められている。ついでに付け足していくと、その分野の偉大な作家たち──ジョージ・R・R・マーティンやル・グイン──からの各種寄稿・インタビューが無数に収録されているのも素晴らしく、小説を書く気がない人でも不可避的に楽しめる内容に仕上がっている。
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ディレイニーの仕事場の写真が見れるだけでSFファンとしてはありがてぇ
ジェフ・ヴァンダミアの文章は、自身の書く小説のようにこちらの想像力をどこまでもかきたて、どこを開いても楽しい気分にさせてくれるだけではなく、同時に鮮明かつ明快で、執筆ガイドとして実用的な内容にまとめられているのも凄いところだ。たとえば下記はキャラクター・アーク(キャラクターの人生のどのような状態から物語が始まって、どのような軌跡を描いて終わるのか)について紹介している章でのイラストレーションだが、ぱっとみただけでキャラクター・アークとは何なのか、そこにどのような作品が属しているのかがわかるようになっている。キャラクター・アーク自体はありふれた概念だが、この魅せ方はうまいしおもしろい
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キャラクターアークの図。矢印の中に作品名が書いてあってわかりやすい。

ざっと紹介する

さて、キャラクター・アークなどの話は後半の方のもので、前半部は、インスピレーションとはなにか、作家はどのように想像を広げるべきか──といった部分をメインに語っていてこれがまたおもしろい。誰でもお決まりの手順を使えばクリエイティビティが発揮できる、といったスタンスはとらずに、不確かなものを粘り強く探求するためにはどうしたらいいのか、という地道で有機的なアプローチをとっている。

クリエイティブなプロセスは、どこからでも何からでもはじめられる。勇ましい行動にまつわる新聞記事からでも、コーヒーカップの底に残った大陸みたいな模様からでも、あっさりストーリー構成ができていく。何より大切なのは、物語創りにつながるような遊びを、潜在意識に許しておくことだ。

上記のエピソードなんかもそうだけれども、実作者ならではの執筆ガイドだな、と思うところに、世界観構築やキャラクター構築でのやってはいけない/あるいはやらない方がいいケースが多い、「アンチパターン」を都度あげてくれている点がある(「こう書けばいい」と王道しか教えてくれないガイド本も多いが、実際にはしないほうがいいリストの方が迷ったときには役に立つときも多いのだ)。

たとえば、キャラクター描写で避けるべき失敗として挙げられているのをいくつかピックアップすると、ソシオパスやサイコパスを軽はずみに書く(情緒不安定に過ぎない描写を勇ましいとみなして描くな)、殺したり、生き返ったりするのが早すぎる、脇役を無視する、キャラクターの過去を無駄に書きすぎる、などなど。世界観構築の方では、とにかくディティールや世界観設定そのものがキャラクターやストーリーを潰してはダメだ、という点を強調する。

もうひとつ目に止まったのは、「改稿」にがっつり一章が割かれているところ。たしかに、僕も知っている素晴らしい作家の方たちはみな何度も改稿、書き直しをする、しっくりこないと感じるシーンは何十回も書き直して完成形へとたどり着く、と聞いたことや読んだことが何度もある(あんまりがっつりとは改稿しない、素晴らしい作家もいるが)。たとえば、ジュノ・ディアスは草稿の章の各バージョンを、次のよりよいバージョンへと導く羅針盤のようなものとして考える。最終的に望むところへとたどりつくのなら、すべてを捨ててもかまわないと。本書では、主に非リアリズム系の物語を書く際の、改稿のための問いかけリストを載せてくれている。

たとえば、架空の要素は、感情への影響と結びついているか? 空想に夢中になって、ストーリーを圧倒したり乱したりしていないか? 架空の要素の〈解決〉や説明を重んじすぎているか? 本当は、架空の要素がいらないストーリーを書いたか? 『作家ではなくファンタジー作家としての自分を考えた末に、これといった理由もなく(実在の要素より楽にあやつれるというだけで)架空の要素を用いたストーリーを書くかもしれない。』とか、最後の恐ろしい問いにはいと応えてしまうような状況だと改稿のレベルを超えている気がするが、まあ、重要な問いかけである。

豪華な寄稿

最初に書いたように豪華執筆陣の寄稿があるのも読みどころ。それもただ執筆メソッドを載せているだけでなく、各作家ごとの得意分野での原稿なのもありがたい。たとえばル・グインなら「メッセージについてのメッセージ」と題して、作品に込められたメッセージは何? という問いに対する応えについて。『火星』三部作などでハードな描写に支えられた本格宇宙SFを書くキム・スタンリー・ロビンソンには「解説を考える」として、ストーリーに現れるそれ以外のもの(世界観設定とか)をどう書くべきか、そもそも書くべきかどうかについてお題がふられている。

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ジョージ・R・R・マーティンへのInterview。おもしろい。
ゲーム・オブ・スローンズの原作者ジョージ・R・R・マーティンへのインタビューも、「ファンタジィの世界、描写を書く時に作家が何を考えているのか」の実例に満ちていてとても素晴らしいものなので(たとえば、短い時間の中で3つの戦争が起こった時、それをどう描くのかについて。ぜんぶを同じように書いたら、読者は飽きてしまうだろう。)、小説に限らず、書き手/読者にかかわらず、ファンタジィやSFなど、非リアリズム系の物語を楽しむ人々にはぜひ手にとってもらいたい一冊だ。

※記事中で使用した画像は、フィルムアート社からご提供いただきました。

何でも治ることを売りにした最悪の治療法の歴史──『世にも危険な医療の世界史』

世にも危険な医療の世界史

世にも危険な医療の世界史

  • 作者: リディアケイン,ネイトピーダーセン,Lydia Kang,Nate Pedersen,福井久美子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2019/04/18
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
現代でもインチキ医療、危険な医療はいくらでも見つけることができるが、過去の医療の多くは現代の比ではなくに危険で、同時に無理解の上に成り立っていた! 本書『世にも危険な医療の世界史』はそんな危険な医療史を、元素(水銀、ヒ素、金など)、植物と土(アヘン、タバコ、コカインなど)、器具(瀉血、ロボトミー、浣腸など)、動物(ヒル、食人、セックスなど)、神秘的な力(電気、動物磁気、ローヤルタッチ)の五種に分類して、語り倒した一冊である。

 実のところ、この本は何でも治ることを売りにした最悪の治療法の歴史を、簡潔にまとめたものだ。言うまでもなく、「最悪の治療法」は今後も生み出されるだろう。

単なる事例集にすぎないともいえるのだが、それでダレるということもなく、出てくる例があまりにもトンデモでひどいことをやっているのでなんじゃこりゃ! と笑って驚いているうちにあっという間に読み終わってしまう。たとえば、ペストを予防しようと土を食べたオスマン帝国の人々、梅毒の治療のために水銀の蒸し風呂に入るヴィクトリア朝時代の人間、剣闘士の血をすする古代ローマの癲癇患者たち──今から考えると彼らの行動は「ちゃんちゃらおかしい」のだが、彼らだってネタや冗談でやっていたわけではない。本気で治そう、治るんだと信じてやっていたのであって、そこには彼らなりの真剣さがあり、理屈が存在している。

そう、本書で紹介されている治療法にはどれも(結果は伴わないにしても)それっぽい理屈は通っていることが多いのである。だからこそ人々はそれを信じたし、我々は今でも似たような理屈や治療法を信じる可能性がある。かつてのトンデモ医療に驚くだけでなく、「今でも身の回りにこうした最悪の治療法は根付く可能性がある」と危機感と猜疑心の眼を育たせてくれる本なのだ。

ざっと紹介する。

というわけなので、本書でどのような危険な治療法が紹介されているか、いくつかピックアップして紹介してみよう。最初は元素の章から「水銀」だ。『水銀製剤は、何百年もの間万能薬として利用されてきた。気分の落ち込み、便秘、梅毒、インフルエンザ、寄生虫など、どんな症状であれ、とりあえず水銀を飲めと言われた時代があったのだ』といい、ナポレオンもエドガー・アラン・ポーもリンカーンも水銀製剤を愛用、または一時期使用していたという。しかしなぜ水銀なんて愛用したのだろう? 身体に悪いことぐらい一瞬でわかりそうなものなのだが。

16世紀から19世紀初頭まで愛用されていたのはカロメルと呼ばれる水銀の塩化物のひとつだ。服用すると胃がムカつくことがあり、強力な下剤効果を発揮し、物凄い勢いで腸の中身がトイレに流れていく。それだけではなく、口からも大量の唾液が分泌される(水銀中毒の症状)。16世紀の著名な医学者パラケルススは、唾液が1.5リットル以上分泌された状態を水銀の適度な服用量とみなしていたという。現代的な感覚からすると完全にやべえじゃんと思ってしまうが、当時の人達は唾液に混じって大量の毒素が流れ出していると考えていたので、それが身体にいいと判断していた。また、便秘が病気を引き起こすと考えていたので、下剤的効用も歓迎されていたのだ。

続いて植物と土の章で紹介しておきたいのは「アヘン」。アヘンってドラッグだし、医療目的で使うのはありじゃない? と思うかもしれないが、長い期間にわたってその使われ方は雑であった。たとえば泣きやまない子どもにはケシとスズメバチの糞で静かにさせよと紀元前1550年の古代エジプトの医学文書に書いてある。古代の話でしょ? と思うかもしれないが、1400年代から20世紀まで、教科書にも子どもの夜泣きやぐずりにはアヘンとモルヒネの調合薬がきくと書いてあったという。そりゃ静かにはなるだろうが、それ死ぬよね(実際、死ぬ子も多かった)。

理屈の通っている治療法が多い中、完全に意味不明なものもある。タバコを用いた治療法の中でとりわけ不可思議なのがタバコ浣腸だ。タバコの煙をお尻の穴に注入するだけの治療だが、なぜか水難者の体にタバコ煙を注入すると、体を温めて呼吸器を刺激できると考えた人がおり、多くの人が実践したらしい。無論何の効果もないし、溺れて窒息している時にタバコの煙を尻から入れられて死んだら死にきれないだろう。これは18世紀頃に流行したものだという。

危険な医療といえば外せないのは「瀉血」だ。病を患った時、悪い血を抜くことで治そうとした治療法で、最初に行われたのは紀元前1500年頃のこと。なんの効果もないが、病が内側から起こっている以上、身体の中から何かを抜くという発想になるのは理屈としてはよくわかる(水銀の件もそうだ)。数千年にわたって、天然痘も癇癪もペストも失恋によるメンタルの不調まで全部瀉血で治そうとする人々がいたし、あまりに一般的だったので理髪師がサービスのひとつとして瀉血を行うこともあった(これは古代ローマでもあったし、中世ヨーロッパでもあったという)。

おそらく本書中もっともえぐいのが「ロボトミー」について語った章で、これは統合章失調患者や幻覚症状のある精神疾患患者の頭蓋骨を開き、前頭葉の一部を切り離す手術のことをいうが、無論治療効果はないどころか完全に害しかない。最初期はスプーンで何杯も大脳皮質を取り除いたという。一部の患者は確かにおとなしくなって幻覚を見なくなったが、多くの患者は死んだり障害に悩まされたりした。人類史の中でもトップレベルの悲劇というか愚かな治療法だ。

第四章、動物の中では「食人」がとりわけ印象に残る。ここでもパラケルススが出てくるが、彼は人体の一部が含まれた治療薬には魂やエッセンスが仕込まれており、その薬効で病が治ると考えた。また、これは今でも似たようなことをする人はいるとおもうが、元気な人間の血を飲むと健康が手に入るという考えが昔から根強く残っている。一世紀の頃、癲癇の患者たちは剣闘士の血を飲み干したし、17世紀でも罪人が斬首されると、壺を片手にかけよってそれをそそぎこみ、新鮮な血を浴びるようにして飲んだという。

おわりに

通して読んでいくと、「医療」や「治す」ことの難しさがわかってくる。何しろ、人間がかかる病の大半は放っておいても治ってしまうものなのだ。だからインチキ療法であっても、自然治癒してしまう可能性は高いし、「治療を受けたのだから」というプラシーボ効果が発揮されることもある。そうすると、インチキ療法と本当の治療の判断をするのは極端に難しくなるし、それは治療を受ける側だけでなく、施術する側もそうである。本書の中でも、結果的に最悪の治療法になったとはいえ、治療法考案者自身が本気で効果があると信じて行っていたものも多い。

たとえ効果がなかったとしても、時代を考えれば他の手段をとりようがないケースも多く、そうした時代においては治療を受けたという精神的な安定だけであっても意味のあるものだったのかもしれない。

依然として完全な治療が存在しない以上、人はこれからも「なんでも治してくれる、まだ見ぬ医療」を期待し続けるし、そうである以上それに応えようとする最悪の治療法も、著者がいうようになくなることはないのだろう。人の愚かさが克明に記されていると同時に、「それでも人類は少しずつ最悪な治療法を潰してきたんだな」と未来への希望が持てる一冊だ。

原初の図書館から空想上の図書館まで──『図書館巡礼 「限りなき知の館」への招待』

図書館巡礼:「限りなき知の館」への招待

図書館巡礼:「限りなき知の館」への招待

図書館巡礼という名の通り、本書は世界各地の図書館について、本のない時代からボルヘスによって想像されたバベルの図書館のような空想上の図書館まで、幅広く取り扱っていく一冊である。原題は『THE LIBRARY A CATALOGUE OF WONDERS』。『何にもまして私たちが痛感したことは、図書館は物語にあふれているという事実だ。生と死の、渇望と喪失の、信念を貫く、あるいは枉げる物語。考えうるありとあらゆる人間ドラマの物語だ。そして、複雑でフラクタルな、世代を超えた道筋を介して、すべての物語は相互に繋がっているのだ。』

本の構成としておもしろいのは、1から10まで図書館の話というわけではなく、章の合間に数ページほどの「本」にまつわる短いエッセイやエピソードのようなものが挟まれていること。なので、図書館についての本であると同時に、一種の書物狂いたちの物語でもあるのだ。たとえば、「愉悦」と題された章では、書物に首ったけで完全に言っていることがおかしくなった人々の発言が紹介されていく。アイザック・ゴゼットは、本を収集する者には独身でいることを勧め、「結婚を考えてはならない」「もしもそのような考えが生じたときには、本を取り出して読み始め、そんな思いは消し去ってしまいなさい」と言ったという(自分は結婚してるくせに。)

デジデリウス・エラスムスは手元にいくばくかの金があれば本を買い、それで残れば食べ物や衣服を買うといったというし、とにかく本の道(に限らないだろうが)に狂うと人生とは大変なものになってしまう事例が(愉悦では)数多く紹介されていく。

図書館巡礼

もちろん、紹介されていく図書館の事例も興味深いものばかり。

何しろ最初の章は「本のない図書館」なのだ。本のない図書館は図書館じゃないのでは? と思って読み始めたら、話は本が書物の形として存在する以前の図書館、「口誦伝承」からはじまるのだ。『どの国にも、書き記されるずっと前から存在している伝説や寓話、判じ物、神話、詠唱などがある』筆記法がなければ文章は残しようがないわけだが、だからこそ当時の文明は複雑な復唱パターンを編み出すなど、いくつものやり方で「口誦」の技術を高めていた。著者によると最初の口誦図書館は、中央オーストラリアの乾燥地帯で数万年かけて形成されたという。

その後本書では、時代を口誦以後、書物がパピルスやヤシの葉や骨、樹皮や石などさまざまな素材から書物が作られた時代を経て、アレクサンドリア図書館やヴァチカン図書館、印刷所が設立された大量印刷時代、本の素材、内装などなど様々なテーマに沿って図書館を巡礼していくことになる。最初に引用した部分で、著者が図書館は物語に溢れているというように、各図書館の勃興(ものすごい勢いで膨らんで、時に無残にも壊されたり焼かれたりする)はどれも心躍るものだ。

たとえば最も有名な図書館の一角を占める、紀元前300年ころのアレクサンドリア図書館は既知のすべての国からすべての言語の書物を収集するという大志をいだき、実際にインドや中近東を始めとする各地から大量の書物を集めることに成功した。そこは同時に重要な翻訳の場でもあり、聖書のヘブライ語からギリシャ語への翻訳、有名な七十人訳聖書もここで生まれている。知の集約が行われることも関係してか、その地ではあらたな文化、知識が花開いていくことになる。アレクサンドリア図書館は最終的には3世紀ほどの繁栄の後破壊されたのは確かだが、その直接的な原因については諸説ありひとつには定まっていないというのも興味深い。

個人的にもっとも気に入ったのはフィクション上の図書館を扱った章。映画を見た人はわかると思うが、『インターステラー』に出てくる重要な書架についての話や、ジョン・スラデックが『ティク・トク』の中で描いた、惑星間を移動する広大な図書館、〈ドクター・フー〉の「静寂な図書館」というエピソードに出てくる影の中に生息する小さなピラニアがはびこる惑星サイズの図書館であるとか、ジャック・ヴァンス『ナイト・ランプ』に出てくる、時間をしっかりと捕まえて固定するように書かれた本によって、書き手がページの間を行き来しつつ永遠に生きられる本たちなど、様々な(サイエンス・フィクション多めの)図書館が紹介されている。

書物の破壊の世界史

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで

  • 作者: フェルナンド・バエス,八重樫克彦,八重樫由貴子
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2019/02/28
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
と、そんな『図書館巡礼』の話をしたら一緒に紹介せざるを得ないのがフェルナンド・バエスによる『書物の破壊の世界史――シュメールの粘土板からデジタル時代まで』。「書物」ではなく「書物の破壊」に注目し、その起源から現代までを700ページ超えの圧巻の物量で概観してみせる一冊だ。書物の破壊といっても、災害での消失から、戦争での破壊、思想・心情に反する焚書、虫食いまで様々なわけだが、本書はその全てを対象とみせる。一度2004年に初版が刊行され、後に好評を受け新版が出ているのだが(邦訳の底本はこっち)、そこでは「フィクションの中の書物の破壊」について語る部分まで挿入されており、やりすぎなぐらいにやってくれている。

さまざまな「書物の破壊」の世界史を扱っているとはいえ、その記述の多くは意識的に人間が本を破壊したケースに寄っている。『書物を焼いたり図書館を空爆したりするのは、それらが敵対する側のシンボルだからだ』。中世カトリック教会の異端審問における書物の破壊、ナチスによる、数々の焚書、毛沢東によるものなど、多くの組織や個人が「文化への攻撃」として書物を破壊している歴史が広く紹介していくことで、いったい人間にとって書物を破壊するとはどのような意味を持つ行為であり、現象なのか、それをまざまざとみせつけてくるような本なのだ。

『図書館巡礼』でも、火神ウルカヌスへの憤怒と題された章で燃え落ちてゆく図書館のエピソードの数々が語られたり、虫による被害を扱う章や本泥棒について騙られたあり、と『書物の破壊の世界史』と響き合う部分も多い。エピソードは豊富だからかぶっているというわけでもなく、相互補完的に読めるので、図書館、書物といったものに興味のある人はぜひどちらもご一読を。
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つまらない仕事を減らせ──『NO HARD WORK!: 無駄ゼロで結果を出すぼくらの働き方』

NO HARD WORK!: 無駄ゼロで結果を出すぼくらの働き方

NO HARD WORK!: 無駄ゼロで結果を出すぼくらの働き方

  • 作者: ジェイソンフリード,デイヴィッドハイネマイヤーハンソン,Jason Fried,David Heinemeier Hansson,久保美代子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/01/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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『小さなチーム、大きな仕事』の著者(というか会社)による最新作は、たくさん働いたって成果なんか上がらないしやめようぜ、休暇もいっぱいとろうぜ、という一労働者としては至極ありがたい思想を具体的なメソッドに落とし込んだ一冊である。

著者の一人デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンはRuby最大のWebフレームワークRuby on Railsの開発者。僕もRubyでWebアプリを書く時には開発でお世話になっており、彼らの本は基本的に読むようにしている。シンプルな原則、思想によって「会社」というものが設計されていて、新刊を読むたびに新たな発見がある。

今回も主張はとてもシンプルだ。夜遅くまで残って、たくさん働くのなんて効率が悪い、やめようぜ、というただそれだけの話である。でもそれだけのことが現代社会ではうまくいかない。仕事が積み重なっていることもあるし、価値観の問題のケースもある。『このところ、そういう長時間の労働、過密スケジュールや睡眠不足を名誉の勲章みたいに考える人が増えている。でも、慢性的な疲労は勲章なんかじゃない。クレイジーな状態の象徴だ。』だからこそ、機能的に解決する必要がある。

解決に際して、著者らの会社(もともと37シグナルズという名前だったが、今はBasecampに変更したらしい)が出した結論はシンプルだ。『これを解決する方法は、もっと長く働くことじゃない。つまらない仕事を減らすことだ。生産性を上げるのではなく、無駄をなくすことだ。邪魔が減れば、ずっと抱えていた不安が消え、ストレスを減らすことができる。』なるほど無駄を減らせばいいのね、でもどうやって──? というのが本書で語られているおもな内容になっている。

具体的な内容をざっと紹介する

全体の構成としては、はじめにとおわりにの他は、ざっと五章に分かれている。

最初の「大志は抑えて」では、主に精神論というか、物の考え方について。「がんばりすぎるな」とか「世界を変えようと思うな」など、ここではバカらしいほど愚直な考え方が語られていく。「世界を変えようと思うな」ってのはなかなかいい言葉だ。

次は「自分の時間を大切に」。ここでは主に、「個人の時間を守る」ことに重点を置いた仕組みが紹介されている。たとえば、質問について。誰でも自由に質問できる環境だと、質問された側は作業が中断されるから、事前に「この時間は質問していいですよ」というオフィス・アワーを誰もが個別に設定して、みんなその時間にしか質問しないようにするなど、非常に参考になる。

凄いな、と思ったのは「あえて不便にする」という発想。特にIT企業の多くは仕事のスケジュールをGoogleカレンダーなどで管理していると思うが、著者らの会社では個人のカレンダーの日程を共有しないという。だから、あの人と会議をしたいなと思っても相手のスケジュールはわからず、ちょっと暇な時間を教えてくれませんか? と聞く面倒な手順を踏まなければならない。しかし、その面倒さこそがいいのだという。『なんの苦労もなく誰かのカレンダーに予定を書き込めるのなら、人びとの時間が分割されていくのも無理はない。』他人の時間を借りるのだから、その手続は面倒な作業であるべきだということで、言われてみればごもっともな話である。

第三章は「組織文化を育てる」で、採用手法や上司のふるまいについて。たとえば採用については、履歴書など捨て去って、面接では人柄やチームに新たな風を吹き入れてくれるかを判断し、その後賃金を払って1週間ほど実際に仕事をふってみるのだという。彼らの会社は福利厚生が相当しっかりしていて(3年に1回1ヶ月の有給があり、勤続一年以上の社員は特別な有給が与えられ、その時の旅行代などは家族のものも含めてすべて会社から払われるなど)、100人に満たない超少人数運営+フルリモートというそもそもの仕組みがあるからこそそうした採用活動ができるわけではあるが、彼らは「あえて拡大しない」戦略をとったことでそれを可能にしているのだ。

第四章は「プロセスを解体する」具体的な仕事の進め方についての章で、最後の章は「ビジネスに力を入れる」。何を当たり前のことをという感じだけれども、主に販売商品の値上げなどのビジネス的な判断をどのように行ってきたのかについての章になる。これもなかなかおもしろい。たとえば、ソフトウェアを売る時にユーザー単位のビジネスモデルがある。一人あたり5ドルで、100人使うなら500ドルですよみたいな。ただしそれをやると、当然ながら大勢の社員を雇用している大企業がビジネス上無視できなくなる。外せないお得意様になってしまうと、売る側は少なからずその意見を取り入れざるを得ず、開発の自由は失われるだろう。

著者らが偉いのは、そのあえて流れには乗らなかったことだ。彼らが売っている「ベースキャンプ」は一律一月99ドルで、ライセンスを購入する企業の従業員が5人でも500人でもそれ以上にもそれ以下にもならない。だから、特定の顧客に依存することはない。この割り切りができるのは(当然、大口顧客からはお金をたくさんとったほうが利益は上がるから)正直すごい。

ソフトウェアの会社だからできるんじゃないの?

いろいろと大層なことを書いているけれども結局のところソフトウェア会社、それも自社サービスを提供している会社だからできるんでしょ? というのはもっともな疑問というか批判のように思える。実際、彼らは全部自分たちの会社について書いているので、具体例をそのまま活かそうとしたらそれはそうだろうが、他人の時間を大切にするというそもそもの物の考え方の部分や、ビジネス判断の部分など、より抽象化して部分部分応用することは誰にでもできるはず。

何より彼らが凄いのは、そうした思想から導き出された理屈を実行できるように、会社組織全体を柔軟に作り変えているところにあるようにも思う(複数あった自社サービスをベースキャンプに一本化して、会社全体をミニマム化したり)。そう考えると、「いまのままで」できないというのは何の言い訳にもならず、ハードワークにNOを叩きつけるためには、「これができるようにするには組織の何を、どこを変えればいいのか」という方向で考える必要があるのだろう。

異なる道筋で進化した「心」を分析する──『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコというのはなかなかに賢い生き物で、その賢さを示すエピソードには事欠かない。たとえばタコは人間に囚われている時はその状況をよく理解しており、逃げようとするのだが、そのタイミングは必ず人間が見ていない時であるとか。人間を見ると好奇心を持って近づいてくる。海に落ちている貝殻などを道具のように使って身を守る。人間の個体をちゃんと識別して、嫌いなやつには水を吹きかけるなど、個タコごとの好き嫌いがある。瓶の蓋を開けて、中の餌を取り出すことができるなどなど。

タコには5億個ものニューロンがあり(これは犬に近い。人間は1000億個)、脳ではなく腕に3分の2が集まっている。犬と同じニューロンってことは、犬ぐらい賢いのかなと考えてしまいそうになるが、タコは哺乳類らとは進化の成り立ちが根本的に異なるので、単純な比較は難しい。では、いったい彼らの知性はどのように生まれ、成り立っているのか。神経系はコストの高い器官だが、それが結果的に生き残ったのはなぜなのか。それは我々が持っている知性や心といったものと、どのような質的な差異があるのだろうか──といった疑問点に対して、いくつかの仮説を提示・紹介していくのが本書『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』である。

頭足類を見ていると、「心がある」と感じられる。心が通じ合ったように思えることもある。それは何も、私たちが歴史を共有しているからではない。進化的にはお互いにまったく遠い存在である私たちがそうなれるのは、進化が、まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくったからだ。頭足類と出会うことはおそらく私たちにとって、地球外の知的生命体に出会うのに最も近い体験だろう。

この本、邦題はタコ推しだが原題は「OTHER MINDS The Octopus, the Sea, and the Deep origins of Consciousness」で、タコに限らずイカなども含めた、人間とは異なるMINDの起源と枝分かれを追ってみましょうといった感じのもう少し広いテーマを扱っている。とはいえ、かなりの部分をタコが占めているのでタコの話が読みたかったのにイカの話ばっかり! みたいなすれ違いは起こらないだろう。

頭足類と哺乳類を比較しながら、知性に共通する部分をあぶり出し、同時に著者自身が体験してきた様々なタコとのエピソードが合間を和ませ──とどこを開いてもワクワクさせてくれる、素敵な一冊である。以下、もう少し詳細に紹介してみよう。

タコはどのように知性を身に着けたのか

そもそも、何のためにタコはそれほどのニューロンを持っているのだろうか。特に使い道もないのに抱えていられるほど、神経系は安くはない。動物心理学的に大きな脳が必要とされるケースの一つとして、複雑な社会生活を送っていることが挙げられるが、タコの社会生活は活発ではないし複雑ではない。それどころか、タコの寿命はだいたい1〜2年ぐらいで、ごくごく短い生涯で使うには”過剰”な能力に思える。

これについてはいくつかの有力な仮説が存在している。たとえば、タコは海の中を自らが動き回って獲物と襲う捕食者であり、相手の行動を予測し、殻を持っている貝などを相手にした場合はなんとかして中の美味しい部分をすするためには外側の殻を砕いて取り除いたりといった各種動的な行動をとらねばならない。そうすると、タコは確かにタコ同士では社会生活をほとんど営まないが、被捕食者とは長く関わることになり、それが一種の社会的行動となっているともいえる(のかもしれない)。

関係しているのはそれだけではないはずだ。たとえば、タコの大きな特徴として、身体に硬い部分がほとんどなく、動きの自由度は高い一方で、無数の腕を一貫性のある形で制御するのが難しくなっている。タコの腕はそれ自体に自らの動きを制御する能力があって、全部が別の仕事をすることができるが、同時にトップダウン式の命令も受け取ることができる複雑な機構になっている。そうした複雑な制御を実現するために、大規模な神経系が必要になった──というのは、説得力のある強い仮説だ。

また、知性が高いのに寿命が短いというのはかなり珍しい特徴だが、これはタコが無防備な身体を持つうえに、捕食のために動き回らなければいけない=捕食されやすい特性による淘汰圧のためで、自然と寿命が短くなっていったと考えられる。なので、深海のような捕食者が多く存在しない場所で暮らすタコの寿命は長いという。たとえば、50ヶ月以上の間卵を抱えたまま同じ場所から動かずにいるタコが確認されており、その期間から推定して寿命はだいたい16年くらいと見積もられているようだ。

タコと人間の違い

タコ(頭足類)と人間(哺乳類)の間には、知性に関連する領域での多くの違いがあるが、類似点もまた興味深い。それは要するに、進化上の枝分かれが発生した後、それぞれ独自に「同じように」起こった、ある種必然的な進化だったと考えられるからだ。たとえば、どちらもカメラのような目を持っているし、報酬と罰によって学習する能力、試行錯誤をしながら学習する能力も、両方の系統にみられる。

他にも、よく観察してはじめてわかる類似点がいくつかある。たとえば、短期記憶と長期記憶に明確な区別があるということ。目新しいものや、食べることはできず、すぐになにかに役立つわけではないものに興味を示すところ。頭足類は、私たちの睡眠に似た行動もとるようだ。

別の系統から生まれた知性、最初に引用した”地球外の知的生命体”的な頭足類を分析することで、少なくとも海から生まれた心に共通する原則──とまではいかなくとも、傾向がみえてくるというのは実に心躍る事実だ。

おわりに

本書では他にも、どのタイミングで我々が頭足類と「分かれた」のか。歴史上最初に「主観的経験」をしたのはどんな生物で、最初の意識とはどのような状態だったのか。タコとして世界を眺めるとは、どういう経験を伴うのか──といったことを、科学と哲学の両輪駆動によって語り尽くしていく。タコに対する興味ではなく、幅広く”知性”そのものに興味がある人に、ぜひオススメしたい一冊である。