基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ノンフィクション版"ファイト・クラブ"──『人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える』

人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える

人はなぜ格闘に魅せられるのか――大学教師がリングに上がって考える

あんまり関係ないけどフリースタイルダンジョンの話

フリースタイルダンジョンというフリースタイル(即興)のラップバトル番組が話題になっている。僕も流行りものにはすぐに飛びついてしまう性質なので、YOUTUBEでいつでも視聴できることもあいまって観てみたらこれがおもしろくてハマってしまった。バトルのルールは単純だ。名の売れている5人のラッパーがモンスターとして(ダンジョンだからね。)立ちはだかり、挑戦者はこの5人をラップバトルによって撃破することで賞金と名誉を得ることができる。
www.youtube.com
ラップバトルは即興で言葉を繰り出して相手と闘う言語バトルでもあるのだけど、「そんなのがおもしろいかぁ?」とこっちは素人だから思っているわけだ。即興でやってもぐだぐだしたバトルにしかならないんじゃないの? と。

訝しみながら観ていくうちに、即興で繰り出される言葉の巧拙の他にも、場をいかに盛り上げたか、どれだけ歴史を踏まえているのか、韻をいかに踏んでいるのか、モンスターと挑戦者の間に存在するドラマといった「評価軸」が無数に存在することに気がついて「こんなに奥深いバトルだったのかよ!!」と驚き、この世界でも誰もが認める「圧倒的強者」の実力をたしかに凄いと認識できるようになっていく。

人はなぜ格闘に魅せられるのか

と、最近ハマっているのでつい話の枕に使ってしまったがこれはフリースタイルダンジョンの紹介記事ではなく『人はなぜ格闘に魅せられるのか』という本の紹介記事になる。本書、格闘と邦題ではついているものの原題でそこに当たる部分はFightであり、もっと広い分野までを射程に入れた本だ。サッカーだって野球だって口論だってFightだし、戦闘は人間だけのものではなくゴリラだろうが鹿だろうが同種間、チーム内でも発生する──。とはいえたしかに本書のメインは「人間の格闘」だ。

というのも、本書は原題の主題が「The Professor in the Cage」となっていることからもわかるようにCageの中で闘うProfessor(これは嘘)をレポ風に描いていく格闘技体験記なのだ。著者は大学で英語を教えているひ弱な30代後半の教師だが、突如思いたって(というか、こういっちゃあなんだが売れる本を出したかったんだろう)空手から柔術まですべての格闘技を戦わせて最強を決める「Mixed Martial Arts」、MMA、日本語で言えば総合格闘技──の舞台にのりこんでいく。

 それから数ヶ月間、私は教養ある英語学教師──生涯に亘って、闘争ではなく逃走の技術の専門家──が、総合格闘技(MMA)を学ぶという本の計画を立て始めた。それはある意味では暴力の歴史であり、ある意味ではノンフィクション版『ファイト・クラブ』であり、ある意味ではスポーツと残忍性の科学の案内書となるだろう。男が男になるために耐え抜いてきた闘争──悲しく愚かで時代錯誤にみえるかもしれないが──を主題とするものになるだろう。

著者自身も認めているように、高校教師が難病に陥った子どもの治療代を稼ぐために総合格闘技の世界に殴りこみをかける『ウォーリアー』や、経営難の学校を救うため総合格闘技に挑む『闘魂先生 Mr.ネバーギブアップ』と(二作とも映画)「教師☓総合格闘技」物だけでも同じ話がある。ようするに、そこ自体にはたいした新規性はないわけだが──「なぜ生物は戦闘をするのか」「戦闘の歴史」というように、学術的な側面から戦闘に迫り、自分自身も体験していくスタイルはちょっと新しいか。

正直に言ってそこまでオススメする本ではない。著者は英語学の教師であって、本件について専門家ではなく、戦闘の歴史や戦闘の意味について語るウンチク部分についての部分はつまらないわけではないが、体験記と交互に描かれるのでどちらにも中途半端な印象をいだいてしまった。どちらかに注力したほうがよかったのではないかと思うが、そうすると今度は新規性もなくなってしまう問題点はあるかもしれない。

とはいえ、MMAの現場が実際どのようなもので、そこを目指す男ども(稀に女性)がどんな人たちなのかといった情報には現場ならではのリアルがあっておもしろい。元からの荒くれ者共は少なく、名誉を傷つけられたとか、自分を変えたいと強く願う人間が集まって、実際のケージ・ファイトでは戦いを通してお互いを認め合い試合が終わると相互に本心からの情愛を示して終わる──。

戦闘によってどちらが強いかを示すのは基本的にはランク付けだ。このすべてが曖昧模糊として割り切れない世界において、明確な勝敗のある勝負は圧倒的に「わかりやすい」。つよいがやつが勝ち、よわいやつが負ける。勝ったほうが地位や名誉、優遇される状況などすべてを手に入れ、負けたほうは奪われる。いっけんひどいが、しかしこうして明確に「わかりやすく」ランク付けされることで、集団内ではそれ以上の無為な争いが起こりづらくなる。そうした事実の一つ一つを、著者自身がぶん殴られて実体験していくことには確かに説得力がある。

それに、たとえばもっと広い意味で「戦争」や「暴力」といったテーマであれば本書にもコメントを寄せているスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』などがあるが、より局所的な「個人間の戦闘」がなぜ起こるのかをさまざまな観点から語った本はそういえば本書で読んだのがはじめてだ(他にないわけはないだろうが)。

体験記もふくめてつまらなくはない本なので、刃牙好きとかにはオススメである(今の刃牙はもう刀とか武器が無双してしまっているけど。)

ファイト・クラブ〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

ファイト・クラブ〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

パイロットだけど何か質問ある?──『グッド・フライト、グッド・ナイト──パイロットが誘う最高の空旅』

グッド・フライト、グッド・ナイト──パイロットが誘う最高の空旅

グッド・フライト、グッド・ナイト──パイロットが誘う最高の空旅

  • 作者: マーク・ヴァンホーナッカー,岡本由香子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2016/02/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ついうっかりまとめサイトみたいな記事名にしてしまったが、『グッド・フライト、グッド・ナイト──パイロットが誘う最高の空旅』は現役のボーイング747パイロットがその職務についているときに(あるいはついていないときに)考えたあれやこれやがおさめられている──エッセイというか、体験記のような本だ。

あらためて言われてみれば、パイロットがどのようなことを体験し、何を考えているのかは興味深い。何しろ彼らが就いているのは週末にロンドンと東京を気軽に往復し、一日のうちにいくつものタイムゾーンを乗り越え続ける特殊すぎる仕事だ。体内時計もすっかり狂ってしまっていることだろう。今週はケープタウンにいて来週はシドニーにいるという生活はいったい人にどのような影響をあたえるんだろうか。

そうした「普通とかけ離れた生活」を送るパイロットへの疑問に応えるような形で本書は進行していくが、何よりも惹きつけられるのは、空を飛んでいる時に心動かされる上空の描写、雲を飛び越えていく時の興奮など空を飛ぶことの喜びで溢れている部分だ。本当に飛ぶのが好きなんだろうなと納得し、そのどんなところが素晴らしいのかが的確に他者に伝達可能な形で文章にされていくので、それだけで楽しく読める。

 ときおり、そんなに長い時間、コックピットにいて飽きませんか、と質問されることもある。飽きたことは一度もない。もちろん、疲れることはあるし、高速で家から遠ざかっている最中にこれが家に向かっているならどんなにいいかと思うこともある。それでも、私にとってパイロットに勝る職業などない。地上に、空の時間と交換してもいいような時間があるとは思えない。

僕は乗り物も高いところも移動するのも大嫌いというスーパー引きこもりマンなので飛行機に乗りたくないのだが、そんな僕でさえ読み終えた時にはついつい飛行機に乗って出かけたくなったほどだ(行かないけど)。

とはいえただただパイロットという職業の素晴らしさを謳いあげていくだけではない。構成としては、Lift、Place、Wayfinding、Machine、Air、Water、Encounters、Night、Returnとそれぞれ項目をわけてパイロットの視点から語られていく。パイロットがどのような準備をしてフライトに臨むのか、どのようなミーティングをするのか、食事や休暇の過ごし方、仕事先でどのような交友関係があるのかといった具体的な過程は一通り抑えることができるだろう。

Placeの項では、目的地に到着したときのあまりにも速く状況が切り替わったことへの場違い感を指す「プレイス・ラグ」という状況について解説されたりするが、パイロットならではの状況や、知識が提示されている部分はどこもおもしろい。

たとえば東京・ロンドン間の距離を測ろうとなったときに、今では単純な地上距離だけでなく向かい風や追い風によって実質的な距離(速度)が大きく異なるので、風を考慮した"エア・ディスタンス"や"エア・マイル"といった距離が提唱されているようだ。空には航空機の道しるべとなる電波を発するナブエイドが設置されておりパイロットはみなこれを頼りに飛ぶのだという。パイロットしか知らない空の道しるべというのは、まあ電波だから眼には見えないのだけどなかなかかっちょいい概念である。

Encountersの項では、世界を移動し続けているパイロット達の希薄な交友関係が語られるが、これはその希薄さがいい。二機の飛行機が同じ経路を高度のみ変えて同じ時間帯に飛ぶ時に、30分くらいはお互いの機影が確認できるそうだが、そういうときに対空無線で一方のパイロットが他方のパイロットに写真を撮ったからメールアドレスを教えてくれという交流が時折勃発するそうだ。顔を合わせたこともないパイロットが、その一瞬はある種の連帯感の上にいるわけで、神秘的な光景に思える。

 人は今日も旅に出て、未知の土地を訪れ、文化的にも言語的にも隔たった場所から自分の居場所を見なおそうとする。私が思うに、経験を積んだ旅行者ほどこうした傾向が強い。旅行記のクルーは、自分の故郷や住んでいる場所を離発着するとき、決まってコックピットに入りたがる。隅から隅まで知りつくした場所であっても、愛する町が小さくなっていく瞬間を、あるいは視界いっぱいに広がるさまを眺めたいのだ。

どんな職業や知識でもそうだろうが、知識を得ることによって普通なら気にならないことに注意が向いてしまう特別な知覚を手に入れることがある。音響の仕事をやっていたら音に敏感になったり、建築の設計をやっていたら建物の一つ一つが気になったりというアレだ。パイロットはそういう意味では、ふだん我々が生活しているうえでは無のように扱っている「空気」への敏感さであったり、「地球」の地理関係をまるごと捉えている距離感であったりがそうした特別な知覚にあたるだろうか。

空気一つとっても、「球体」としてだったり、「深さ」だったり、エンジンが大気をかき回し飛行機雲の足跡をつけていく様子を雪原のように表現していてよくもまあ空気だけでこれだけ語れるものだと感心してしまう。そんな特別な知覚を持つパイロットだからこそ、いつも当たり前に接している「空気」や「旅をすること」「空を飛ぶこと」といったあまり意識しない現象にたいして違った物の見方を提供してくれる。

しかもそれが、基本的には自分の体験を通して淡々と描写されていくので、まるで著者と一緒に飛行を追体験しているような気分を味あわせてくれる一冊なのだ。移動も乗り物も大嫌いな僕でも、本なら椅子に座ったまま疑似体験できるのがいい。

君たちが大好きだ。心から──『これで駄目なら 若い君たちへ――卒業式講演集』

これで駄目なら  若い君たちへ――卒業式講演集

これで駄目なら 若い君たちへ――卒業式講演集

ヴォネガット最後の著作となったエッセイ集『国のない男』が2007年に日本でも出版され、その当時すでに、ほとんどのエッセイが訳されていたことから「ああ、これがエッセイとしては最後かぁ……」と感慨深く読んだのを今でもよく覚えている。『スローター5』などに代表される厳しい現実や愚かな人間を直視しながらも「そういうものだ(So it goes)」と言ってのける彼の優しく笑いのこみ上げる語り口は、小説でもエッセイでもたまらなく魅力的なものであった。

それだけに今回また小説ではない本(本書『これで駄目なら』)が出ると聞いて「まだ出てないエッセイがあったんだ!」と喜んだが、エッセイではなく新たに編まれた大学卒業式の講演集である。ページ数も訳者あとがきまで含めて142Pとこぶりの単行本だが、「まだ新しいヴォネガットの言葉が読める」というだけで嬉しい。英語版の方の説明ではここにおさめられている9講演は本書にはじめて収録されたという話だが、日本でもそうかどうかはちょっとわからない。

単なる感傷などではなくその質に関しても、これまでのエッセイとくらべて何ら劣るものではない。というより、これまでのエッセイにも講演を収録したものが多数あるから当たり前なのだが。それはヴォネガットが卓越した話し手でもある証拠の一つだろう。まるで小説のように最初の一言から意外性のある言葉で引き込んで、そのまま数々の思いがけない──時には誰もが目をそむけて見ないようにしている"事実"にあえて言葉を向けてみせる。初期のエッセイ集である『ヴォネガット、大いに語る』では、はしがきとして下記のように自嘲的に語ってみせているぐらいだ。

アメリカ経済には奇妙なことがたくさんありますが、これもそのひとつ。アメリカの作家にとって、短編小説の傑作をひとつ書き上げるよりも、つぶれかかった大学でつまらない講演を一回やったほうがよほど金になるのです。そのうえ、同じネタを何度も使って稼ぐことができる。だれも文句を言いません。

こういう「そんなことわざわざ言わなくてもいいのに」みたいなことをけっこう言ってしまう人である。ヴォネガットの作風や世界の捉え方はシニカルなどと表現されることも多いが、実際のところ彼は「ただ、あるがままの現実を正直に(ただし、面白く)語っている」のだろう。本書の序文でアメリカの小説家ダン・ウェイクフィールドは次のように語っている。『ヴォネガットの言葉に嘘は見つからないはずだ。彼は、わたしたちの時代にあって、真実を語る者だった』

それが決して嫌味に聞こえず、むしろ笑いに転嫁されるのは、彼がそれをあまりにも当たり前のように話し、根底としては楽観主義に支えられているからかもしれない。たとえば、『わたしたちみんながとても気の毒だ。この時間が終われば、人生はまたすごく辛いものになる。』と彼は講演でとんでもなく悲観的なことを言ってのける。でも同時に、『わたしは君たちが教育を受けてくれたことに感謝している。合理的になり、物事を知るようになったことで、君たちは自分たちのいるこの世界を、より理性的なものにしてくれた。』と前向きなことも言ってみせる。

この世界は決して希望に満ち溢れたものではない──しかし、教育は少しずつこの世界をマシなものに変えていってくれる。『ヴォネガット、大いに語る』でも、『凡庸な文筆家でも、忍耐強く、勤勉でさえあれば、自分の愚劣さを改訂したり、編集しなおしたりして、ひとかどの知性らしきものに仕立てあげることを許されます。』と語っているが、現実認識はあくまでも悲観的に、しかしいったん最悪の自体を「受け入れて」しまえば、あとは楽観的に対処する。悲観的な楽観主義者とでもいうような精神性が、ヴォネガットの言動の底流に流れているように思う。

助け合うこと、コミュニティに参加すること

さて、卒業講演集であるということは、聴衆は基本的には長い修行期間を終え、これから収穫期へと乗り出す若き人々だ。つまるところそこには一貫して「未来に向かって」語りかけるようなテーマが存在している。君たちはいかにしてこの後も長く続くつらいことも多い人生へと向き合っていくのか──。他大学の講演であっても同じことを言っているケースは確かに多い。ただそれは、各々が人生にどう向き合っていくべきかについて変わらぬテーマを持っていれば当然のことだ。

幾度も語られていくのは、これからの人生で誰しもに訪れる危機、孤独と退屈とその解決方法について。その解決策は、どれも非常にまっとうなものだ。たくさんの組織に参加すること、謝るべき時は素直に謝る、人に承認を与え、感謝を伝え、助けあって生きること。そうしたひどく当たり前のことに過ぎない。

マーク・トウェインは、その豊かで満ち足りた、ノーベル賞なんてもらわなかった人生の最期に、人生には何が必要なのかを自問してみた。そうして、ほんの六語で足りることに気がついた。わたしもそれで充分だと思う。君たちにも満足いくだろう。
「隣人からの適切な助言(The good opinion of our neighours)」

実際には、ヴォネガットのいうところの「隣人」、コミュニティでも組織でも家族でもなんでもいいのだが──は、数十人ぐらいの規模のコミュニティを意味しているようだ。長い間お互いのことを知っていて、時に助けになってくれるゆるやかな共同体。そこから助けを得るためには、学校で学んだ知識を駆使し、礼儀と敬意を持って、模範的な本と年長者に従う暮らしをするべきだと。しごく当たり前のことのように聞こえるが、実行するのは難しい。

そういう助言をもらえるかは、ノーベル賞をもらうくらいに難しいものだ。賭けるかね? 賞金なんてただの百万ドルじゃないか。ないよりマシってものにすぎないんだよ。

文筆家というのは、誰も言わないことをあえて言うからこそ価値が生まれる仕事である。紋切り型の表現しか出てこないのであればそれで金をもらうことは難しい。しかし、表現はともかくヴォネガットは「当たり前のこと」を多く語る。金を稼ぐコツは、懸命に働くこと。愛を勝ち取るには、いい服を着て、いつも微笑んでいること。講演のはじめか最後にはほとんど必ず「君たちが大好きだ。心から」「君たちのやろうとしていることは素晴らしい」と言ってみせる。

誰もが感謝されたがっているし、誰もが認めてもらいたがっているこんな時代に──このような「当たり前のこと」を語って、文筆家としてそれが広く受け入れられるのだとしたら──この世界にはそんな「当たり前のこと」をあえて言って、やってくれる人は少ないのだろうと思う。それも決して上から目線の語りではなく、あくまでも同時代人としての、同じ立場からのあたたかな語りだ。その言葉を聞くと、このひどい世界で共に生きてきたという、連帯感を覚える。

おわりに

書名である『これで駄目なら』とは、ヴォネガットの叔父が、幸せでありながら気づかずにいるというおそるべき浪費を避けるために、時として(休日にゆっくりとコーヒーでも飲んでゆっくりしている時なんかに)「これで駄目なら、どうしろって?」とあえて声に出すことが大切だ言ったエピソードに由来している。言ったのは叔父だが、実にヴォネガットらしい言葉だ。

ありがとう、そして、大好きだと身の回りの人に言って、自分にはこれで駄目なら、どうしろって? と問いかける。それだけのことの価値に気づかせてくれる一冊だ。

ヴォネガット、大いに語る

ヴォネガット、大いに語る

私はよくも悪くもストーリーテラーだ──『道程:オリヴァー・サックス自伝』

道程:オリヴァー・サックス自伝

道程:オリヴァー・サックス自伝

今年の8月に亡くなったオリヴァー・サックスであるが、まだ生きているうちから翻訳が進められていた自伝が刊行された。脳神経科医として様々な症状を、患者とあくまでもじっくりと向き合い、その人生をまるごと包括するように描く手法がその魅力的な文体と相まって『レナードの朝』『火星の人類学者』『妻を帽子とまちがえた男』などなど、多くの人に読まれる本を生み出すにいたった、魅力的な作家だった。

面白い本、興味深い論考を書く人間だからといって当の作家に興味を持つ、魅力的だと思うかどうかはまた別ではあるが、『レナードの朝』の中で、サックス先生は世の中で最も興味深いことについて次のように答えている。『ここ十五年間脳炎後遺症の患者たちとともに働いてきて、私が感じる奇妙な喜びは、私の中で科学的な洞察と「物語的」な洞察が融合し、私の精神と心を同じように動かせることになったことである。』この言葉どおり、サックス先生の著作を読んでいると、主役はあくまでもさまざまな症状をみせる患者たちなのだけど、常にそれを聞くサックス先生の姿がそこには混ざりこんでおり、読み終えると作家自体の魅力に惹きつけられているのだ。

破天荒な人生

それは彼自身の破天荒なエピソードが所々に挿入されているせいもある。2014年に出た『見てしまう人びと 幻覚の脳科学』では、自身がLSDやマリファナをやりまくってどのような幻覚を見たかを明かしている。彼の著作を一冊でも読めば医師として成功し、同時に著作家としても高い評価を受ける「客観的にみればとてつもなく成功した人」であるサックス先生が、ただ行儀が良い人間ではないことがわかる。

その印象はこの『道程』を読むことによってさらに裏付けられることになる。相貌失認症によって人の顔が覚えられず、同性愛への偏見が強かった時代からのゲイであり、孤独癖で晩年にいたるまでそれは解消されなかった──自己評価が妙に低く、バイクが好きで、ウェイトリフティングにハマり、サーフィンや事故で幾度と無く身体を壊す。その多大な才能と裏腹に、幾度もの試練が彼を襲い、その度ごとにへこんで、落ち込みながらも前に進んでいくありさまがここにはよく書き込まれている。

自伝といえば自分の悪い側面をあまり出さないようにする人間も多い中、オリヴァー・サックスという人間の魅力は、人間的な弱さの部分──だけでなく、その弱さを認め、自分の中でちゃんとそれを受け入れている部分にあったのだと今更ながらに気がつくことになった。というより、魅力はほとんどの場合その弱さと裏表なのだ。統合失調症になった兄と、レストランや映画や芝居にもっと行って、支えになれたはずだと彼が恥じ、思い悩んでいるのも、彼自身の深い責任感と愛情の表出のように思う。そんなことはなんにも気にせず切り捨ててしまう人間もいるのだから。

オックスフォードの解剖学の最終試験で、結果が貼りだされたら自分がクラスでビリだったことから母の反応が怖くてパブで2,3リットルリンゴ酒を引っ掛けてその足でひどい成績の埋め合わせに奨学金の試験に(酔っ払ったまま)向かう話など、あまりにも無茶苦茶で笑いがこみあげてきてしまう。しかも、小論文形式の問題に堂々と答え、見事受賞をもぎとってみせたのだった。当時から文章がべらぼうにうまかったのだ。圧倒的な才能と弱さが、一人の人間の中に同居している。

270キロをかついでフルスクワットをしてカリフォルニア州の新記録を打ち立てる、死が迫っている患者がバイクに乗って曲がりくねるトパンガキャニオン・ロードを走り回りたいといえばバイクの後部座席に乗せ、自分とロープでくくりつけ、怒られることも承知で走ってやったりもする。規則に囚われないというより、規則や、自分自身の弱さから逃れるかの如く(医師という職業すら、他者からあてがわれた職業だと不満を感じていた)様々なものにのめり込んできたようにもみえる。

 なぜ、あんなにひたむきにウェイトリフティングに打ち込んだのだろうと、考えることがある。その動機はありがちなことだったと思う。私はボディーブルの広告に出てくるやせっぽちの弱虫ではなかったが、内気で、自信がなくて、臆病で、従順だった。ウェイトリフティングで腕っぷしは強く──とても強く──なったが、性格にはなんの影響もなく、そちらはまったく変わらなかった。

その後彼は紆余曲折ありながらも、脳神経科医として一貫して患者に関わり続け、『レナードの朝』など幾つもの本でたかい評価を受けていくことになる。評価を受けるようになってからの彼の生活は生活で──多くの依頼が押し寄せ、有名な人間になったことで失われたものもあったようだ。『気質としては孤独癖であり、自分のいちばんいいところ、少なくともいちばん独創的なところは孤独癖だとあえて信じているにしても、その孤独癖を、独創的な孤独癖を、貫くことは難しくなった。』

思い入れは思い入れとして、事実は事実、観察・分析はあくまでも冷静に

最終章「ホーム」では、右目のガンや耐え難い坐骨神経痛との戦い、75歳になってから作家であるビリーとの恋によって孤独癖が解消されていく様子などなどが語られる。つらいことはどのようにつらく、嬉しいことはどのように嬉しいのかと、率直に書かれていく。彼の自分自身へのあまりにもストレートな文章を読んでいくと、ほとほと魅力的な人間とはこういう人のことをいうんだろうなと胸が熱くなってくる。

その魅力についてこの記事では書きたいと思っていたのだが、これこれこうと箇条書きにして表せるものではなく、サックス先生がやってきたように「患者を総体として捉えること」、一人の人間を、あくまでも一人の人間として捉えることでしか浮かび上がってこないもののようだ。

 私はよくも悪くもストーリーテラーだ。物語や話に対する感性は、私たちの言語能力、自己意識、そして自伝的記憶に同調していて、人類に共通の性向ではないかと思う。

サックス先生の観察記録は、好きな人々を取り上げていると自身でいうように主観的なものだ。主観的なものだが、診断を下すときにはあくまでも事実のみに立脚し、記述も公平である。幾人もの患者に深い思い入れを持った共感者であると同時に、冷静な観察者でもあった。そうした患者に対する態度、そしてそれをストーリーとしてまとめあげる技術が、自伝である本書はそのまま自分自身に適用されていたように思う。思い入れは思い入れとして、事実は事実、観察・分析はあくまでも冷静に。

オリヴァー・サックスがどのような人物であったのか、是非読んで確かめてみて欲しい。もし、彼の著作を読んだことがないのであれば、早川書房から新版が続いているので、どれか一つ手にとってみるといいだろう。

レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

レナードの朝 〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

「使命」ではなく職業的作家の「仕事」として──『作家の収支』

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家・森博嗣さんによる作家業における全体の収支を明かした一冊になる。そもそも、いくら儲かりましたぜげへへみたいな金儲けの話は品がないものだが、特にクリエイター系の職業だと忌避される傾向がある。個人的な推察だけど、ようは人気商売というか、ある種の幻想を売って買ってもらう仕事なので金にまつわる現実的な部分は白けさせる可能性があり、忌避されるのかもしれない。最近はライターや作家、翻訳家でも金の話をしてくれる人も増えているような気がするけれども。togetter.com
森博嗣さんは継続的に本を出し続け、近年はアニメ化、ドラマ化が続く「売れている」方の作家であることから、「自慢の本か」「作家全体ががっぽがっぽ儲かる職業だと思われる」なんていう非難があるのではないかと推測するが、あくまでも「収支」の話である。原稿料がいくらで、印税率がいくらで、解説を引き受けたらいくらで、ドラマ化された時の著作権使用料がいくらで、映像化された時に増えた部数がいくらか──といったことを実体験を例にあげているだけだ。

金の話をするのは恥ずかしいことでも何でもないというか、それがなければ人生設計も環境設計も、それどころか「目標にするかどうか」すらわからないはずだ。それを専業にしろ兼業にしろ仕事にしようとするのであればなおさらの話である。『どちらかといえば、格好の良いことではない。黙っている方が文化的にも美しいだろう、と理解している。ただ、誰も書かないのならば、知りたい人のために語るのは、職業作家としての「仕事」だと思った。「使命」と書かないのは、正直だからである。』

「どうだ凄いだろう」と言っているわけでもなければ、「作家ってのは儲かって儲かってマジで困るわ」と言っているわけではない(条件良く儲かる(自分は)とは言っているが)。ただ、基本的には狭い出版業界とはいえどこもかしこもが同じ慣習や伝統やシステムに則ってやっているわけではないので、ここに書かれていることが全てだと思わないことは注意しておくべきだろう。たとえば『小説雑誌などでは、原稿用紙1枚に対して、4000円〜6000円の原稿料が支払われる。』という記述なども、この範囲に収まらない金額(下も上も)が存在することが推定される。

前提と注意事項

前提になっているのは、著者本人の状況でもある「100万部を超えるミリオンセラーがなくても、そこそこ本が売れれば条件のいい商売としてやっていける」という様々な情報にある。その流れで様々な儲け方があることが紹介されていくわけであるが、圧倒的執筆速度(とクォリティ)を継続的に発揮できる超人の話である。たとえば『6000文字というのは、原稿用紙にして約20枚なので、1枚5000円の原稿料だと、この執筆労働は、時給10万円になる。』との記述をみて「作家は凄い儲かるんだな! やったー!!」と思うのは勝手だが自分の実力は冷静に捉えたほうがいい。

面白さ

本書の面白さは、収支一点に絞った為に、「意外と作家ってのは儲ける手段がたくさんあるんだな」というところがわかるところだろう。もちろん小さなレーベルで編集者一人に切るか切られるかみたいなギリギリにいる作家には夢のまた夢のような儲け方(ドラマアニメ化、スポンサー付き小説、パチンコ化)が多いが、現代においては正直、出版社に投稿をして──というだけの時代でもなくなっていることを考えると、とりえる手段は意外とたくさんあることに気がつく効用は大きい。

コンスタントに、ターゲットを絞って書き続けられるのであれば、やりようはいくらでもある。それはたとえば既にプロであっても同じで、自分のサイトで配信すれば印税率100パーセントなので紙の本(印税率10%)と比較して10分の1の売上でも同じ利益が見込める。小説はそうやってサイトで配信して、作業風景や状況などを配信するメルマガ会員制のモデルなども考えられるだろう。

「編集者の仕事を軽視しているのか」と思うかもしれないが、何も編集者を抜かせといっているわけではなく、作家☓編集者☓デザイナ☓広報担当ぐらいの4人チームで出してもいいわけである。やり方なんかいくらでもあるのだ、という端的な事実が、作家の収支の広い部分を見渡すことが見えてくるのではないかと思う。本書にはそのあたりの「これからの出版」を語った章もあり、これがなかなか面白い。

まあ、でも「コンスタントに」書き続けるってことが、実際はいろいろと難しいんだろうなと思う。そんなに執筆速度が出ない(1年に1冊分がやっととか)の人と、1年に4冊ぐらいは出せる人だと、その差がそのまま収入の差に直結してしまう。さらに出し続けることのメリットは過去の作品(シリーズだとなおさら。これも直接的な続き物だと厳しいが)がまた売上を伸ばすことになるのでなおさらだ。

さて、それ以外の話でいえば──細かい部分で面白い話はいくらでもあって、たとえばコカコーラから依頼を受けて書いた小説の、印税とはまた別の契約料が凄い金額だったとか、そのへんは読んで確かめてもらいたい。

最近は村上春樹さんも『職業としての小説家』(金の話ではなくほとんどは技術的な部分の話だが)なんかを出していたりする。内容が重複する部分もあるが、作家業について別側面から書いたものとしては『小説家という職業』もどうぞ

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

小説家という職業 (集英社新書)

小説家という職業 (集英社新書)

小説家であり続けることの難しさ──『職業としての小説家』 by 村上春樹

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

本書『職業としての小説家』は、村上春樹さんが1979年のデビュー以来35年以上にわたって作家として第一線で書き続けてきたこと、そうした「職業的小説家であり続けること」についての自分なりの考えを綴ったエッセイである*1。つまるところ、そんなものを期待している人がいるかどうかはわからないが、「職業としての小説家になる為に」的な本ではない──こともない。

曖昧な書き方になったのは、オリジナリティについて、何をかけばいいのか、長編小説を書くことについて、登場人物の描き方について、誰のために書くのかについて、それぞれ「村上春樹がどうやってきたのか」を書いているのではあるが、まるで小説家志望の人間に向けて語りかけるようにして書いている部分もあるからだ。『もしあなたが小説を書きたいと志しているなら、あたりを注意深く見回してください──というのが今回の僕の話の結論です。(第五回 さて、何を書けばいいのか?)

とはいえ、やはり大部分は彼の個人的な経験と、どのようにして今まで書き続けてきたのか、小説家という職業についてどのような思いを抱いているのかを彼らしいストイックな向き合い方で語っていく私的エッセイ録になる。

これまでエッセイで幾度となく触れられてきた事実、たとえば神宮球場でヤクルトスワローズ対広島カープの試合で、デイブ・ヒルトンがヒットをうった時に「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と天啓のように思ったエピソードなどもこの機会に改めて書かれているが、これまで語られたことがないような話も多い。下記引用部の「小説家とは」の話など、似たような言及は何度も読んだけれどもこの言い回しははじめて読んだなあ、簡潔にして要を得ている。

小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。(……)極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。

僕は村上春樹さんの大ファンで、エッセイも含めて著作はほとんど読んでいるし、長篇は一度ならず二度三度と何度も読み込んでいる。どれかが一番好きか、というよりかは移り変わっていくスタイルの変遷と、それでいてしっかりと変わらずに根を張っている根っこの部分、それ事態に強く惹き寄せられる。「変わらないもの」、それは作品自体のスタイルというよりかは、一人の人間が「小説を書くこと」についてどのように向き合うのかという人生のスタイルに近い。

正直にありのままを語ること

「文学賞について」という章で、いろいろと正直に文学賞について思うところを書いているのだが、この章の最後で次のように語っている。『正直にありのままを語ることが、最終的にはいちばん得策なのではないかと、僕は考えます。僕の言わんとすることをそのまま理解してくださる方も、きっとどこかにおられるだろうと。』同じことは、つい最近行われていた村上春樹さんの質問サイト『村上さんのところ』でも語られていたけれども、この話を読むたびに僕は強い感銘を受けるんだよね。

それは僕が「理解してくださる方」だからとかそういう話ではなく、単純に35年以上の作家生活において彼の一貫したスタイルと言動は(もちろん意見は変わるが、その根っこの部分が)確かにブレていないことが時間が経つことによって明白になっているからだ。たとえば、職業小説家として『僕が真剣に案じるのは、僕自身がその人たちに向けてどのような作品を提供していけるのかという問題だけです。』と、賞をもらうかもらわないのかは彼のスタイルに一切関与しないのだということを強調する。

だが、所詮それは「ただの言葉」だ。嫌な言い方をすれば「綺麗ごとでなんとでも言える」わけだが、彼のこれまでの作家生活の在り方がまさにそれを肯定していると、少なくとも僕はそう思うのである。走りながら体力をつけ、そして日常生活の中で淡々と書き続けるというシンプルな行為を連続的に行わなければあれだけの長篇をなかなかこなせるものではないし、60を超えてなおこれまでより複雑でしっかりとした構造を持つ作品をつくりあげていけるものではないのだと。

正直さと実際的な姿勢

そして、その正直さは、彼の書くエッセイを非常にわかりやすいものにしていると思うんだよね。虚飾や見栄のようなものを取っ払って、難しい観念、複雑な状況への説明/考えであっても、自分の中で編み上げた理屈を、丁寧にわかりやすい言葉に落としこんでいく。小説と同じく彼の語る言葉はたとえ話や置き換えが多く、場合によっては迂遠にさえ感じられることもあるけれど、それでも僕には実にわかりやすく響く。たとえば、「オリジナルの文体を見つけ出すには」ついて書かれた文章を引用してみよう。

自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くのものごとを抱え込んでしまっているようです。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた細かい選択肢があまりに多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。

この件に関して言えば、重要なのは「何をマイナスにすればいいのか?」の方かもしれないが、そちらにも明快な結論が与えられている。『これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。』というように。確かに喩え話は多いが、文章が目的としているところは明確で、この箇所にとどまらず本書全般において(全エッセイについてといえるかもしれないが)内実はとても実際的だ。

たとえば、「どのようにして自分の文体をつくりあげていったのか」についての具体的なプロセス、先に引用した「オリジナリティを得る為に何をしたのか」、海外へ出ていき、小説を外国で売る為に必要な、自分なりの体制をつくりあげていったこと。もっとも顕著で有名なのは、書き「続ける」為には、持続力を身につける他ないというシンプルな意見だろう。『基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。』

繰り返しになるが、凄いのは、彼自身がそれを長年にわたって実践してきたことだ。走り続け、同時に書き続け、作品は発表され続けてきた。恐らくはまだまだ書き続けてくれるだろう。晩年のドストエフスキーが傑作を連発したように、村上春樹作品が年老いてなおその魅力を失ってはいないどころか増している(と少なくとも僕には思える)こと、それ自体が僕には驚異的に思える。いったい、何がそれを可能にしてきたのか。その驚きの連続こそが、本書の根本的な面白さであるといってしまってもいいだろう。

*1:本書の前半部は雑誌「Monkey」に連載され、後半部は書き下ろしとして収録されている。