基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

『神話が考える』の「第一章 ポストモダンの公私」を読む

凄くアホな私が、自分で理解する為に書きながら本を読むシリーズ第二回です(適当)。村上春樹は「走ることについて語るときに僕の語ること」の中で、「僕は書きながらじゃないとものを考えることが出来ない。だから走ることについて書いてみようと思った(確かこんな感じだった)」と言っていたのですが、それは私も同じようです。書くことによって、わけわからんちんだった内容が段々と頭に入ってきます。それでは先日の続きです。
はじめに、で言っていた事はまとめてしまえば私達は無数の文化がおりなす市場の中で生きていて、そこから社会性というか制度というか生き方みたいなものを得ているということ。そしてだからこそその状況、文化を分析することで、「現代の危機」に対処することができる。その為の方法とは何か、というのが本書の問題提起、だと思う。

そして第一章「ポストモダンの公私」では、とりあえず「社会性がいかに編成されているか」を問うところから始まっている。よく意味はわかんないけど、「僕達は現代の文化からどんなふうな影響を受けてんの?」ぐらいの意味だろう。

その出発点として問いなおしているのが、「ハイパーリアリティ」という概念。正直言ってこれ、よくわからないのだけど頑張って自分なりに理解しようとしてみる。まず編成(この言葉の選択意図はよくわかんないなぁ)を支える為の出発点は「シュミレーションの技術的向上」です。SF小説、映画からまたパソコンを使った演算、お絵かきソフトから何から何まで、シュミレーションであり、今や私達の社会の編成において欠くことのできない要素になっている。

私達の社会というのは、なんかもうそこらへんで言われていることだけれども「大きな物語」というような、「みんなが共通して持っている伝統、幻想」が無くなってしまった状況にあるんですね。で、そんなバラバラな社会な現代において、私達が物を売ったり作ったりする為には何らかの「秩序」が必要なわけです。そして本書の言葉を借りれば、「現実のモノであれ虚構のモノであれ、高精度のシュミレーションを通じて、リアリティを濃縮し収束させることが新しい課題となってくるのだ(P26)」

濃縮とか収縮とか言われてもさっぱりわからないのでもうちょっと具体的にすれば、1.ばらばらになってしまった現実のせいで、私達にとっての物事の出発点は常に偶然から始まる。2.そんな状況で私達が確かな秩序を築く為には、シュミレーション技術を発達させるしかないし、させてきた。3.濃縮、収束とはシュミレーションをかなり正確に行うことのようだ。

たとえばAmazonの「この商品を買った人は、こんなものも買っています」というシステムがいい例だろうか。まったくの偶然から始まった出来事でも、シュミレーションによってその人が求めている物が何なのかがかなり高い精度で予測できる。一人ならばたいしたことのないデータでも、千人、万人と集まることによってブレの少ない高精度な濃縮、収束されたデータになって返ってくるのである。本書ではそういうものの事を「神話」とよんでいる。

で、たぶんそういうシュミレーションの結果現実が便利になるような感じの事をハイパーリアルと言っているようなんですね。わかりやすい例をあげればiPodの世代交代。第一世代が出た後に、消費者のニーズやら技術の進化を取り込んで改良した第二世代が出る、こういう現実とシュミレーションの循環がハイパーリアリティだそうです。こんなもんに用語付ける意味あんのかな、と思うんですけど、まああるんだからしょうがない。

この後の話はしばらく別にあんまり面白くないなー。神話素の話とか。(一定の事前拘束を受けつつ、たえず差異化されていく記号のこと)たとえば東方プロジェクトが一番良い例。料理の具ね。キャラのおおまかな容姿と設定だけ与えられてみんなが好きなように調理するアレ。これも神話の一つのありかた。空虚な器だけど、その空虚さのおかげでみんな自分の欲望を入れることが出来る、と。みんな好き勝手ばらばらなことをしていて、でも全体としては一つにまとまっている。

しかしニコニコの話はちょっと面白かった。ニコニコ動画のあの流れてくるコメントが、擬似的にリアルタイム性を生んでいて、その為同期性が生まれていると言う話。時間的に同じ場所に居合わせる必要も、空間的に居合わせる必要もなく、つまり低コストなのに「統一性」を生んでいるところが現代の神話だよね。またどんな動画が流行るかは決まっていない(偶然)けど、常に何かの動画は流行っている(必然)偶然性と必然性が同居している感じがまさに本書でいうような神話の一つのあり方だなぁって思ってそこが面白いですね。

こんな時代に作品はどんな風にすればいいのか。文化批評はどんな評価基準を持てばいいのか。あと西尾維新

現代において暴力や死を書くというのは、簡単な神話化装置として機能してしまっていて継続性? 重さみたいなものがないといっています。まあたしかに言われてみれば物語を書けば、死や暴力が出てこない日はないといってもいいぐらい溢れかえってますからね。親が殺されたらかたき討ちにでて、それは悲劇で、残酷な話だと、そういうパターンが出来上がってしまっている。暴力を描こうが、嘆こうが、それは簡単な神話化装置のまわりでのゲームにすぎないと。

じゃあそんな時代に暴力や死を書く方法はどうすりゃええの、といったときに、西尾維新が出てくるのです。出てくるだけで物語を一変させてしまう性質を持った暴力や死を、言葉遊びのようにして無意味にだらだらと記述することによってむしろ逆に死や暴力を強調させる、それが西尾維新の言語の特性だと言うわけです。たとえばこういう一節。

 殺す奴は何をやっても殺すし、殺さない奴は何をやっても殺さないんだ。一人殺したからって、殺さない奴はやっぱり殺さないし、一人も殺してなかったからって、殺す奴はやっぱり殺すだろう。人を殺す奴も、人を殺さない奴も、変わらないんだよ。殺すのも殺さないのも一緒みたいなもんだ、誰にとっても。(西尾維新きみとぼくの壊れた世界』)

『西尾にとっては、「世界が壊れている」と直接に言うよりも、世界が壊れていることの相似形として言語を壊す方が、おそらく遥かに効果的なのである。(P61)』と言っているが、たしかになるほどそういう効果はあるかもしれない、あるだろうと思った。

暴力やら死といった、広く一般に流布した言葉を使って完全に自分流でこねくりまわしてしまう西尾維新的なやり方を本書では「神話の私的使用」と呼んでいて、「公私」の概念を通してそれを説明しようとしています。なんかもうめちゃくちゃ長くなってしまって結構疲れたので完全に説明すると、公的なものに参与? 役に立たないようなものはゴミかというとそんなことはなくて、私的な物も重要だよね、っていう話。で、公的なものを語る言葉と私的なものを語る言葉を区別しなきゃいけないよねと。私的なものを語る言葉は西尾維新的なものだとして、じゃあ公的なものを語る言葉ってなによ? っていうのが次章以降の問題点となるようです。次章以降もこのスタイルで書くかどうかは不明です。ちょっと飽きてきたから!

神話が考える ネットワーク社会の文化論

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