基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

戦場で両脚を失った作家がハイブリッドの世界を語る、現時点の今年ベストノンフィクション──『ハイブリッド・ヒューマンたち──人と機械の接合の前線から』

この『ハイブリッド・ヒューマンたち』は、英国軍としてアフガニスタン紛争地に従軍し、即席爆発装置を踏んで両脚を失った元兵士の著者が、義足や義手といったテクノロジーと融合し使いこなす人々について語るエッセイ・ノンフィクションだ。

著者自身も義足ユーザーであり、本書では事故後最初に義足をつけはじめた時の体験や感情の動き。また、義足に適応していく過程がじっくりと丁寧に語られていく。それでいてノンフィクション的な部分(義足や義手の最新事情)の筆致も本職のノンフィクション作家に劣らない。障害を乗り越え、義足や義手、白杖と共に生きるようになった人々の語りも随所に挿入されており、激しく感情が揺さぶられる部分もあった。エモーショナルでためになる、現時点で今年ベストのノンフィクションだ。

ここに続くのは、人間ー機械の前線における物語を探し求め、人間が医療テクノロジーに依存することの意味を問う旅である──身体の取り替えと強化の日々のリアリティが、ひとりの人間をどんなふうに変えるのか。そして、最周縁──怪物とサイボーグがひそみ、アイデンティティと社会の伝統的な意識をテクノロジーが解体するかもしれない場所──にいる人々が、私たちについて何を話すのか。(p.22)

義足に適応していく

著者が両脚を失ったのは26歳、2009年のことだった。IEDを踏んでしまい、即座に外傷病院に運ばれ、大量の血と両脚を失いながらも、なんとか一命をとりとめた。義足のトレーニングを始めたのは、両脚を失ってから十数週間後のことだ。義足を割り当てられ、体重をソケット(切断された後の脚の残された部分(断端)を収め、義足と接続するための部分)に預け、激しい痛みに耐えながらまず「立つ」ことから始める。

立っているだけで激しい痛み(ペンチで爪を剥がされた、皮のはがれた脚に塩を擦り込まれたなどと表現されている)が走るのだから、当然歩くのは苦行だ。

 最初の一歩を踏み出すと、その小さな一歩で義足が目の前に進み出て、それがカーペットにふれると、刺すような痛みがあった。それまで経験したなにとも違っていた。(……)苛々して思わずささやいた、動けよ、いけ、踏み出せ、でもそこにあったのは虚空だけだった──かつては活き活きとした、敏捷な肉体があったのに。脳はまだ脚があると思っており、神経はいまも根元で切断された筋肉に信号を送っていた。だがその指令に反応はなく、結果として痛みと、床を引きずる不安定な歩みと、膝義足の突然の屈折が起こった。(p.17-18)

最初は痛みに耐え、何度も転倒し──の繰り返しだ。しかしリハビリセンターで一年もの月日を過ごすうちに、だんだんと著者は自分の新しい”身体”に適応し始める。身体的な挑戦はゆるやかな改善を生み、それは集中すべき目的となってくれる。もう二度とできっこないと思っていたことが次第にもう一度できるとわかるようになり、様変わりした身体でも──いや、”だからこそ”経験できるかもしれない人生がこの先に待っていることに、ほのかな希望を持つようになる。

ハイブリッド・ヒューマン

著者がこのリハビリを終えてから10年以上の月日が経っているが、本書ではこうした実体験と共に、現代の「ハイブリッド・ヒューマン」の実体を描き出していく。

「ハイブリッド・ヒューマン」とは機械と人体が融合して一つになったような状態の人々を指す、本書独自の用語だ。それってSFとかでよくある「サイボーグ」と同じじゃん、と思うかも知れないが、サイボーグのようなすでに(特にフィクションで)使われすぎている言葉は、あまりに非現実的な期待を呼び起こしてしまうから、あえて違う言葉の使用を試みた、と著者は説明している。そして何よりこの言葉には、「ヒューマン」という語が入っており、自分は損なわれてしまった「障害者」というよりも、機械と人間が融合した、ひとりの人間なのだ──という意味、主張もある。

著者の体重68kgのうち、8kgが人工のハードウェアだ。そう考えると、著者の12%は機械であり、大きな存在だといえる。それを象徴するようなエピソードもある。著者が家にいないとき、彼の18ヶ月の息子は断端と義足を固定するためのソックスであるライナーの一つを持ってきて、「パーパ」といって、それを抱きしめるそうだ。息子からしてみればそれは父親と常に一緒にいるもの──父親の一部なのだろう。

著者の義足は、ドイツのオートーボック社が生産するコンピューター制御膝継手の最新世代〈ジニウムX3〉だ。〈ダイナミック・スタビリティ・コントロール〉が立脚相から遊脚相への切り替えを100分の1秒ごとに感知し、〈インターナル・モーション・ユニット〉がジャイロスコープと加速度センサーによって時空間内の脚の位置を計算し、〈インテリジェントAXONチューブアダプター〉が脚関節の動きと垂直力を判断する──と、8kgの中に最新技術がこれでもかというほどに詰まっている。

それはほとんどもうひとつの「脳」だ、といえるだろう。『この小さな脳が担ってくれる追加の制御なしにスチュワートと話しながら階段を降りる方法はない。転ばないためだけにでも、あまりに多くのことを考えなくてはならないだろう。私は歩くときの認知負荷のいくらかをもうひとつの脳に負ってもらっているのであり、それは私の重要な一部であり、そうやって私は世界を経験している。(p.32)』

SFではなく、現実の話だ。

こういう記述を読むと、すごい! SF的な未来だ! とSFが好きな僕のような人間はいいたくなるが、重要なのは「これはSFではない」ということだ。確かに現代の義足はすごい。しかし──完璧ではない。幻肢痛と神経痛はいまだに解決が難しい。ソケット調節はうまくいく人もいればいない人もいて、合わない場合義足をつけるのは苦しみの日々だ。突発的な痛みや合併症が起こることもよくある。

現代には「オッセオインテグレーション」といって、断端と義足を接続するソケットをつけるのではなく、脚の骨に直接チタニウムのインプラントを接合し、義足を直接繋ぐ技術もある。骨から直接義足に繋がるので安定感が高く一日中歩いていられるほど楽で、ソケットが調節できない人にも有用だという。しかし、骨はインプラントを受け入れるために中心部を抜かなければならず、骨折のリスクや骨の深部での感染症の危険を増やす。技術は進歩しているが、夢ばかりでもないのである。

障害を受け入れて前に進む。

本書には著者も含めてたくさんの義肢装着者が出てくるが、みな自分なりのやり方で現実に立ち向かっている。著者は退役後画家や小説家、そしてこうした義足についてのノンフィクションを書いているし、近い時期にアフガニスタンで両脚を失った友人は、いまでは博士号を取得して義足技術をデザインしているのだという。

著者の最初の義足を調整してくれたのも、バイク事故で足を失ったのをきっかけに義肢装具士として再訓練を受けた人だった。『彼らは、自分の置かれた状況をもう少しだけ思いどおりにしようとした人たち、日々の暮らしのなかで障害が生み出す課題を解決しようとしていた人たちだった。』(p.106)。無論、誰もがこのように立ち向かえるわけではない。しかし、障害を単にマイナスとして捉えず、新たな自分の形として受け入れることで、人生の新たな指針を得ることもあるのだろう。

おわりに

世界で最初の義足についてや、オッセオインテグレーションの発明と発展の歴史など、単に話を聞くだけでなく人と機械の融合の歴史についての描写も豊富で、230ページちょっととは思えないほど読み応えがある、めちゃくちゃおすすめの一冊だ。

テクノロジーを活用している人ばかりではなく、盲目で白杖を使いながら歩き、「障害は戦わなければいけない敵ではなく、人生にたいする態度のようなものだよ」と語るジェイミー。盲導犬と共に歩き、盲導犬が自身のお気に入りの店も覚えて飛び跳ねてくれることから「私達はドッグボーグなのだ」と語る人もいる。みなそれぞれの形で自己を拡張・補完しており、そこには固有の喜びがある。