長期主義には現在批判も出ているが、個人的にはおもしろい観点だと思った。長期主義的観点に立つからこそ出てくる問いかけもあり、そこには独創性がある。
長期主義とは何なのか?
長期主義が何なのかといえば、次のような意味になる。『本書のテーマは、一言でいうと「長期主義longtermism」だ。長期主義とは、「長期的な未来にプラスの影響を及ぼすことが、現代の主な道徳的優先事項のひとつである」、という考え方だ』*1たとえば地球人口は80億人を突破したところで、まだ数十年は増えるとみられている。
未来に生まれる人間は数百年から数千年の単位&その期間の総数でいえば、圧倒的に現在生きている人口の数より多いわけだから、未来に生きるであろう数兆の人間たち(人間以外も含むかどうかは主義によって変わる)のために今できる、今やっていくことで効果の高い施策をたくさん打つべきだ、というわけである。人類が典型的な哺乳類の種と同様の100万年前後存続するとして、人口は現在と同規模を保つとしたら(人口減少していくので同規模はたぶんありえないが、仮定として)今後80兆人が地球で暮らすことになる。仮に地球環境が核戦争などで明日壊滅的になって人がほとんど生まれなくなったとしたら、生まれたかもしれない80兆人は消えることになる。
未来の人々は重要。未来の人々の数は膨大。私たちは未来の人々の生活を向上させることができる。
長期主義の言わんとするところを一言でまとめると、こうなる。これらの前提は単純で、強硬に反対する人がいるとは思えない。それでも、これらの前提をとことん突き詰めていくと、道徳の革命が起きる。活動家、研究者、政策立案者、それどころか私たち全員の考え方や行動のしかたに、とてつもない影響を及ぼすはずだ。*2
著者によれば、人類は無分別なティーンエイジャーに似ている。親目線でみれば子供(ティーンエイジャー)には将来を見据えてその準備をしてもらいたい。一方でティーンエイジャー目線からみると自分の将来がどこまで続くかなどわからないし想像もつかないから、人生の今を満喫したい。どちらか一方が絶対に正しいわけではない。未来が重要だからといってティーンエイジャーの時間すべてを将来のための準備に費やすことが求められるわけではないように。重要なのは、そのバランスだ。
世界には不可逆的な部分だったり、可逆であってももとに戻すには多大な時間がかかる部分が多いから、早めに軌道修正が行えるならそのほうが利益は大きい。たとえば気候変動対策が今よりも何百年も前から行われていたら、地球と人類文明はどのように変化していただろうか。資源を大量に用いて産業革命など数々の革新が起こったからこそ今の文明が成立したという状況もあるだろう。その代償と気候変動リスクの緩和ではどちらの方が後世において「プラス」が大きいのか。そもそも、「プラス」とはどう定義すべきなのか──長期主義ではこうした数々の問いに答えていく。
長期主義ってようは数世代先のことまで考えようってことで、気候変動対策やりましょうねで終わる話なんじゃないのと思うかもしれない。実際、気候変動対策は長期主義においても最初に考慮すべき事態である。しかし、長期主義で考えられていくのはそれだけではない。本書では、「重大性(ある状態を引き起こすことで付加される平均的な価値)」、「持続性(引き起こされた状態が持続する期間)」、「偶発性(該当する行動をとらなかった場合、その状態が持続する期間)」の三つを用いて、気候変動を超えて何をすべきか/何ができるのかを模索していく。
価値観に変化を起こせるか?
たとえば、人類の歴史上奴隷制は長いあいだ一般的なものだったが、18~20世紀にかけて、世界各国で奴隷制は廃止の流れに向かっていった。現代の道徳的価値基準によれば奴隷制が廃止されたのは、間違いなくいいことといえる。
しかし、この道徳的価値観の変換をもっと早い時期に起こせていたら、不幸な目にあう人々の総数はもっと減ったのは間違いない。長期主義的観点でいえば、気候変動対策などと同じく奴隷制の廃止も「対処すべき事態」だ。しかし、そんなこと(価値観の転換)は可能なのか。仮に価値観を転換させるアクションを一切何も起こさなかったとしても、結局歴史の流れの必然として奴隷制廃止に向かったのだろうか(偶発性)。著者は長い議論の果てに偶発的な出来事や思想家、作家、政治家、反乱者たちの行動がいくつも重なって奴隷制が終わったのであって、奴隷制の廃止は運命づけられていたわけではないと結論づけるが、ここに関しては異論もかなり出そうだ。
とはいえ重要なのは奴隷制廃止の偶発性の度合いというよりも「そうした価値観や制度の変化もまた長期主義の中で議論すべきポイントだ」、という点にある。そして、その前提に立つと、同時に大きな問題が湧いてくる。われわれは現代的価値観から過去を断罪しているが、それはいまが未来だから可能なだけだ。問題だと認識しているのであれば問題を解決する方に動くこともできる。しかし問題だと認識できていない問題がある場合、どうやってそれに気がつくことができるのか?
問題だと認識できていない問題をすべて洗い出し、未来に備えることはできないというか、未来に至るべき「完璧な道徳観・価値観」なんてものが存在すると考えること自体間違っていると考えた方がいい。しかし、少しでも(理想的な道徳観・価値観に)近づくためにできることはあると著者はいう。できることのひとつは、選択肢をなるべく広げておくこと。世界政府の樹立や、世界を支配するような汎用AI(AGI)の開発は選択肢を狭める可能性があり、道徳探求的な観点では好ましくはない。
ふたつ目に挙げられているのは「政治的な実験主義」を取り入れることだ。マルクス主義的な考えで運営される都市、無政府主義で共同体主義的な都市──そうした無数の方針をとった都市をつくり、多様な文化を実験的に養うのである。言論の自由、誠実な討論、慎重な議論や熟考の場の奨励も重要だ。価値観の自由度を高めるために自由な移住も推奨されるが、ひとつの国の人口が増えすぎると単一の価値観に染まってしまう可能性があるので、国あたりの人口に歯止めをかける国際的な規律や規範も必要で──と、あれもこれもと夢物語みたいなことを語っているが、ようは未来に発生しうるより良い価値観・道徳観を検証するための土台として、「多様な価値観・道徳観」が育まれる社会の設計が重要だという話である。
危機に対抗する
長期視点に立って未来のためにがんばってもその未来に生きている人々が絶滅していたら意味がないので、長期主義においては核戦争などによる「生物絶滅」の未来はもっとも避けるべき事態である。そのため核戦争や生物兵器にパンデミック、AGI(汎用人工知能)による世界支配まであらゆる破滅シナリオを回避する、またそのために投資を行うことは最優先事項になり、本書でもページを割いて触れられている。
未来の危機を考えていく中で個人的におもしろかったのが「停滞」について考察した章だ。将来的に世界の人口は減少に向かうとみられるが、それでも技術進歩があれば経済は成長していく。しかし、技術の進歩が今のような速度で進むとは限らない。スタンフォード大学とロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学者たちによる「アイデアの発見は難しくなっていっているか?」と題する論文によると、進歩はどんどん難しくなっているという。技術進歩の全体的な水準を倍増させるには、控えめに見積もってもその前の倍増時と比べて四倍の量の研究活動が必要だと。
研究が進むにつれ、検証が難しいものが後に残っていくから、技術進歩が今後停滞していくのも必然といえるのかもしれない。そのうえ研究者を増やそうにも、世界の人口自体が減少するので限界がある。では、経済・技術停滞の時代がくるとして、その停滞が終わる時はくるのか。また、抜け出るには何が必要なのか。停滞の時代を遠ざけるには何が必要なのか──といったことまで、長期主義のテーマになるのだ。
おわりに──批判もある
本書では他にも「人類」文明を存続させることが良いことといえるのか? 人間がいなくなったほうが地球の他の生物たちにとっては幸福の総量としては好ましいのではないかという問題だったり、そもそも「幸福の総量」をどう定義するのか、本当にそれが目標とすべき指標でいいのかといったことを問いかけていくことになる。
もっともらしいことをいっているように見える長期主義だが、批判もある。後世の最大多数の人々にとって良い結果を生み出すようにがんばるというが、それが優生学に近い考えになるのではないか。「最終的に」幸福な人類の総数が増えるのであれば現在の人類が大きな被害を払うことにも繋がるのではないかと。
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本書ではそうした批判に対して単行本刊行後のペーパーバック版の序文で反論・反省しているし、長期主義に対しての批判はあまりに極端な事例を提示しているものもある。たとえば著者は別に現代の人間の生活を苦しめてまで未来の人類に投資をしろといっているわけではなく、個人にたいして提言していることは寄付をしようとか、よりよい価値観や戦争、パンデミックの問題など重要な考えについて友人や家族と話をしようとか、そんな程度のものである。ただ一方で本書で展開しているのもざっくりとした議論・主張ではあるので、そのまま読めば批判されて仕方がない穴も多い。
仮に今後より長期主義が広がっていくのだとしたら、その理論もより洗練されていくのではないか。危険性も含めて注視していきたいテーマである。