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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

vN by マデリン・アシュビー

SF

未来はどうなっていくんだろう。

もちろん2000年にスマートフォンやタブレットが街中を席巻している2015年を予測できなかったのと同じように、あらゆる場面での精確な未来予測など不可能な話ではある。2020年に何が起こっているのか? 大規模な戦争が起こっているかもしれないし、新たな原発事故が起こっているかもしれないし、予測しようがない物がブームになっているかもしれない。だからといって未来のすべてが予測不可能なわけではない。パソコンのスペックは上がり続けていくだろうし、それに伴いHDD,SSDの値段は下がり、容量は増え続けていくだろう。車の自動走行技術は増し、ジオエンジニアリング技術は天候の制御をいくらかは可能にし、バイオエンジニアリングの発展により人間は死から遠ざかっていく一方だろう。

そして今はSiriが何となくそれっぽい応答を返したりするだけのほほえましい人工知能分野も今後前に進みこそすれ後ろに後退する理由はない。ソフトバンクはまるで生きているかのように行動するロボットとして身近に手に入る値段でPepperのリリースを発表した。世の中は常に、少なくとも技術的には「新たなことができるようになる方」を前と定義した時に、前進し続けている。つまるところ未来というのは、おおまかな方向性でいえば十分に予測できる。そしてSF作家は時として未来を先取りし、方向性を物語に落とし込みパッケージング化して我々の目の前に提出するものだ。

本作『vN』はロボットを主軸にした小説である。翻訳物だが読み味は軽く、さくさくとイベントが起きめまぐるしく展開が進んでいくので、するすると読める。のちに多少解説を入れるが、重たーいSFというよりかは、のんきに楽しむ痛快娯楽活劇のように読める作品だ。

人型ロボット、ヒューマノイド。この世界ではヒューマノイド達はもはや社会に一般的に浸透しており、人間と恋愛をし、時に自身の特性を使って複成を創りあげる。社会的にもそれらはいまだに偏見が残っているし、法的に結婚などが認められるわけではないが、感情的には概ね認められているようだ。つまるところ人間はヒューマノイドと共存し、繁栄している。補足的にさきの話にのっとっていえば、このこと事態は予測不可能な事態ではなく、「今後当然起こりえる未来の方向性」の一つとして有望なものだろう。人間は、ヒューマノイドと共に暮らし、恋愛をするようになる。

現代的な価値観では当然受け入れられないかもしれない。しかしそれは身の回りに存在しているロボットや人工知能がSiriのような出来損ないしかいないから、想像が及んでいないだけではないか? もし仮に人間のように会話し、人間のように反応するような個体がもし存在しているとしたら──、あとはそこに必要なのは「人間が、人間を信じるようにしてロボットを信じる」という一つのプロセスだけではないだろうか。こう言っちゃあなんだが現実の人付き合いは大変だ。たとえ物凄く気の合う間柄だったとしても、そこには多くの齟齬がある。

ロボットなら自分の理想を反映できる──それも高いレベルで、となったら、もう誰も現実の人間付き合いなんかしないのでは? その後にくるのは人間は個人の中で理想と仕事を推し進める完結した存在になり、独立個人からなる社会が生まれるのではないか? ということは過去同様にヒューマノイドをテーマにした小説BEATLESS - 基本読書 のレビューでも書いた。いろいろ考えていくと、結局ロボット、ヒューマノイドをテーマにし、その先に起こることを予測するとおおまかにわけて二つになるのではないだろうか。「情報の独立社会」、そして「ヒューマノイド自身が設計者の思惑を超えて自立的な行動を起こす社会」へと。

あらすじとか

と作品から話がズレつつあるので話を戻すと、本作もヒューマノイドを主軸にする以上そうした問いをうちに抱えている──が、そこまで気にしなくても良い。基本は痛快娯楽活劇だ。

人間の父親と、ヒューマノイド(本作ではこれをフォン・ノイマン式自己複製ヒューマノイド「vN 」と表記しているので以後vN)の母親の娘である美少女vNエイミーが、突如襲いかかってきた自身のお祖母ちゃんvNポーシャに襲われ、そこから決死の逃避行が始まる。エイミーは当然ながら人間より強靭に創られており、襲いかかってきたポーシャを逆に撃退しなんだかよくわからんうちにエヴァみたいにむしゃむしゃ喰ってしまって、身体は急激に成長(食事制限によって人間の子供と同じ成長速度を保っていたから)、しかも食べ終わったポーシャはなぜかエイミーの内側に転移しており、さらにはエイミーは突如異常な行動を示したことで機構に追われる羽目になってしまうのだった。

そら普通は喰わないからな。なぜエイミーは突然ポーシャをむしゃむしゃ喰う(普通のvNはそんなことしない)はめになったのか? そもそもなぜそんなことができたのか? なぜポーシャは本来であればフェイルセーフが働いて人間に危害を加える事など出来ないはずなのに、やすやすと人間に危害を加えることができたのか? なぜ喰われたポーシャはエイミーの中で声となって生き、時には身体をハックして動き出してしまうのか? いろいろとわからないことだらけだが、こうした不明点をだんだんと解き明かしながらエイミーの逃避行は進んでいく。

お話の道具立ては古典的なヒーロー物フォーマットなので、シンプルだ。たとえば自身のうちに眠る凶暴性や異常性をなんとかしてときふせながら、時にはその力に頼らなければいけないーなんてのはありふれた設定だろう。またvNであることが作劇上有効に働くことはいくつもあって、たとえばそのうちの一つは「身体破損が簡単に行える」⇒「それにより人体では通常できないような派手な損壊が起こるアクションが展開できる」ことなど、本作でもちゃんと機能している。まあ、映像ではないから迫力が薄いのは仕方がないが。

「vNが自然と人間と恋愛をし、共存している」という社会像は現代人にはなかなか受け入れ難い(日本だとそうでもないような気もするが、カナダやアメリカではこの手の作品はそう数が多くないと思う)からこそ、話の骨格がシンプルなのはありがたい。骨格に肉付けする形で、vNはどのような存在で、vNと人間の共存社会ではどのようなルールが必要で、それらと恋愛をすることがいかに「おかしなことではないか」などなど、社会が説得力を持つように描写していく。この手の話だと「ロボットが人間の感情を持つことを望む、もしくは感情を手に入れてしまう」みたいな興ざめな結論に至ることもあるのだけど、ちゃんとvNはvNとして、社会に立ち位置を求め、自分たちの道を決めていくので安心できる。

またヒューマノイドをテーマにする以上必然的に前景化してくる「自由とはどこまで可能なのか」という問いかけも、話のメインに関わってきて物語を駆動させていく。たとえば人間側からすれば、vNに惹かれたとしてもそれは「vNが魅力的に創られている」から当然のことであり、自由意志とはいえないのではないかという問いかけがあがってくる。またvNの側からしても、「私達の行動規則はあらかじめプログラミングされているのであって、極端な制限の中での行動しかできない」のだ。こうした問いかけに人間側だけでなくvN側からの葛藤も織り込まれていくのは面白かったな。第一長編だというから、多少瑕疵もあるんだけどね。

ちなみに解説を読んで知ったのだが、著者は修士論文で攻殻機動隊、エヴァ、serial experiments lainを土台にサイボーグについて語った論文を書いていたり、他にもアニメについての評論も多数ある。それを知った後に全体を眺めてみると「ああ……ほんとにそんな感じですねえ……」と納得できるだろう(少なくとも僕はそうだった)。もちろん中身は大きく異なっているのだけど、むしろ日本の読者の方が受け入れやすいのではないだろうか。ライトノベルというほど軽くはないけれど、ふゆの春秋氏による美少女vN の表紙は可愛いしね。著者もこの表紙を見て喜んでいるような気もする(続編であるiDを原書で今読んでいるのだけど、こっちの絵はとても萌え絵とは違うからな……)

vN (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

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iD (The Machine Dynasty Book 2) (English Edition)

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