基本読書

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ロボットの悲しみ コミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学 by 岡田美智男,松本光太郎

本書の冒頭は公園でちいさなぬいぐるみ型のロボットを抱いているおばあちゃんの描写からはじまる。おばあちゃんは小さなロボットを抱っこしながら「きれいだねぇ……」「ねぇ、きれい、きれい」などと話しかけながら散歩しているのだ。もちろん現代にはそうした役割をこなすロボットはまだ一般的には存在していないから、これは架空の状況である。そしてそれを見ていた人の立場として「えっ? これでいいのだろうか……」という漠然とした痛々しさ、いたたまれなさ、空虚さを感じるのはなぜだろうかと問いかけがはじまっていく。

もちろんすべての人がそう思うとは限らないが、確かにいたたまれなさを感じる場面かもしれない。しかしそれはなぜなのか? と考えると、これがなかなか根の深い問題であることに気がつく。たとえば、それは「ロボットに心がないから」とかんがえるかもしれない。しかしたとえばおばあちゃんが抱いているのが子犬だったら、そこに痛々しさはあまり感じないだろう。それならばロボットだったとしても話しかけて痛々しさを感じない関係性としてはどのようなものがありえるのだろうか? たとえばビッグデータを参照してそれっぽい言葉を常に返すようになれば、痛々しさは減じるのだろうか? と問いかけは続いていく。

本書はロボットと人間の関係性を論じたコミュニケーション学のようなものである。執筆者は6人で、実際に社会的ロボティクスを専門にしたロボット研究者や心理学の専門家などを取り揃えてそれぞれロボットと人間の間にどのような関係性がありえるのかと論を展開させている。SFなどではなくリアルなロボット研究者であるだけに視点も現実的で面白い。たとえばおばあちゃんの話を例にとれば、ロボットに優しく話しかけてくれているおばあちゃんに対して、確実にそこには欺瞞性があるわけだ。小さなロボットに話しかけることは本当に気持ちが満たされるものなのか。もし満たせていない、あるいは無理をしてコミュニケーションするような状況に追い込んでいるとすればロボット研究者は、おばあちゃんのコミュニケーションの質を著しく落としている戦犯であるともいえる。今のところリアルなロボットは、どれだけがんばっても人にはなりきれない限界性を抱えているからだ。

SFではそういう限界はさっさと飛び越えて人と変わらない存在がぽんぽこ出てきて「さあ、これが次の社会でごぜいます。人間とロボットの未来はどっちだ」という話になってしまうものだが、現実的にはそう一足飛びでロボットが進歩するはずがない。我々の生活の中に特に違和感なくルンバが入り込んで普及していったように、それはたぶんあまり意識しないうちに浸透していくものだろう。しかしこのルンバ一つを取り上げてみても関係論的になかなか面白いものがみえてくる。

たとえばルンバはお掃除という非常にシンプルな目的の為に生み出され、ゴツゴツ壁にあたりながら不器用に掃除をする無能だ。だが壁にゴツゴツぶつかったり障害物に行動を囚われてろくに動けなくなっているのをみるとまったくしょうがないなあという気持ちがわいてきて、障害物を排除してやる。そうすると一緒に掃除をするような共同作業感覚を味わったりする。障害物に対抗できないことはルンバの「弱さ」ではあるものの、その弱さは結果的に人間の力を引き出す力となっている。

ルンバの為に行動してやることにおそらく痛々しさが伴うことはないだろう。それはなぜかといえば、ゴミを拾い集めるという目的のための生成的な関わりであること、そして自分自身がゴミ箱ロボットが本当に必要としている時に、必要な動作をしてあげることができたという「他者」の一人として構成されたことにあるのだろう。本書ではルンバの他にも「弱さ」を備えた数々のロボットの事例が紹介されるが、これらはどれも人間の思考にひそむ穴をついているものだともいえる。こうした心や意識に対する穴をつくようなやり方をこれからも利用していいのだろうかという疑問は、リアルなロボット研究者から出てくる悩みなだけに面白い問いかけだと思った。

第三項の存在

本書を読んでいて面白い部分はいくつもあったのだが、その中でもひときわ考え方として面白いなと思ったのはロボットが「それっぽい反応を返すなにか」の枠を超えるのは何を達成したらいいのかという問いかけが発せられている部分である。たとえば自販機に金を入れたらありがとうございますと発音する程度のものなら今でもいくらでもあり、その時に「はいはい」と返せばそれは確かに何らかの対話が成立しているともいえる。しかしそれは単に決められた反応を返すだけであり、歴史的な厚みもなければ未来を見すえた方向性のある会話になるわけでもない。

で、本書で言われているのは、人と人とのコミュニケーションは、人と人が二項的にただ会話をするのではなく「人と人とが何かをする・何かを見る」ことが人間関係の基軸であるということだ。二人はお互いの仲を深める、近況を報告する、桜の美しさをわかちあう、何か新しい遊びを考えるなど「何か」に向けてコミュニケーションをとり、二項関係は二項以外の「何か」に言及する三項関係として成り立つことが多い。ロボットを抱いて花見をするおばあちゃんに虚しさを感じてしまうのは「桜がきれいだね」といった時にロボットが「きれいだね」と返したとしても、そこにはロボットは「決められたロジックに従って最適な解答を返した」だけであり「桜をみた」わけではなく言葉が空回りしていることにあるのだろう。桜がきれいだね、といった時に、ロボットがたしかに桜を認識し、その情報を取り入れ次の会話につなげていく志向性を獲得できればだいぶ痛々しさは緩和されるだろうが、現時点ではそのレベルに技術力はない。

だからなんなんだ

だからなんなんだという単純な結論にたどり着くような本ではないのだけれども。もちろん最終的な形態としてのロボットの在り方というのは、まるで人と区別ができず、人以上のパフォーマンスを発揮するのだろう。が、本書は「少子化や老人の増加に伴い必然的に需要が急増している介護ロボットなどが今まさに求められている中、不完全なロボットしかつくることができない」現状をふまえて「どこに向けて現実的な次の一歩を踏み出すのか」という次のコンセプトについての話になる。

具体的な問題設定としてのおばあちゃんの話も現状でもっとも切実な問いかけとしてリアルなもので、ロボットの限界性を表していて良い。ロボットと人間の関係性を考える上で示唆に富んだ話が含まれている良い本だなと思う。でもやっぱり現実的には障害物(第三項)を人間に意識させるロボットとしてルンバという成功例もあるわけで、「すべてを一度に解決してくれる万能のロボット」ではなく、物事を細かく必要とする要素ごとに区切っていく単機能型のロボットが基本になっていくんだろうな。もちろん石黒浩さんのジェミノイドやロボット演劇みたいなアプローチも進化していくだろうけれど、あっちはあっちで自律機動は基本的にに切り捨てられているわけだし。

ロボットの悲しみ コミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学

ロボットの悲しみ コミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学