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なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか──『ソクラテスからSNS: 「言論の自由」全史』

この『ソクラテスからSNS』は、紀元前の古代アテナイの時代からはじまって、インターネット時代である21世紀の現代に至るまで、世界中の「言論の自由」をめぐる事件や動きを取り上げていく、「「言論の自由」全史」に嘘偽りない内容である。

言論の自由は昨今突然現れた概念ではない。古代アテナイの政治家、ペリクレスは紀元前431年に開かれた議論、反対意見の許容といった価値観を称揚したし、9世紀、自由思想家、イブン・アル・ラワンディはアッパース朝で預言者や聖典にたいして疑問を呈した。その後も印刷技術の誕生による出版物の大規模な増加など、各種イベントに呼応する形で、言論の自由は前進と後退を繰り返してきた。

言論の自由が抑圧されると社会では何が起こり得るのか。言論の自由が良いものだとして、ヘイトスピーチやフェイクニュースの拡散のはどこまで許容すべきなのか。なぜ言論の自由は前進と後退を繰り返すのか。著者によれば、『今、世界の言論の自由は急速に縮小している(p.9)』そうだが、それはなぜなのか──。

本書は言論の自由をめぐる約3000年の歴史を扱っている。言論の自由は現代日本でも日々議論が巻き起こるホットなトピックであり、様々な立場の人間が存在するが、言論の自由について少しでも考えたいと思うことがあるのなら、一度本書にざっと目を通しておくべきだろう。今ネット上で繰り返される議論も、状況も、すべて歴史上で何度も行われてきたものなのだから。それを知ることの価値ははかりしれない。

 しかし、ほぼいつも同じなのは、言論の自由が導入されると、その時からエントロピー増大のプロセスが始まるということだ。政治制度がどのようなものであれ、その指導者──どれほど良識のある指導者でも──はいずれ、「今の言論の自由はさすがに行き過ぎだ」と言い始める。(……)言論の自由のエントロピー増大の法則は、二五〇〇年前と同じように現代にも生きている。認めたがらない人は多いかもしれないが、注意して見てみると、二一世紀においても大昔と同じように、何かと理由をつけて言論を制限しようとする動きは非常にありふれているとわかる。(p8-9)

とにかくおもしろいし、参考になる本だった。気になる人は、「はじめに」と現代について語った最終章の「インターネットと言論の自由の未来」だけでも読むべきだ。

最初期の言論の自由

さて、ひとまず「最初の言論の自由についての議論」の事例を紹介していこう。民主主義や言論の自由の価値がはっきり認められているのは、紀元前5世紀、アテナイでのことである。アテナイは直接民主政で、市民たちが自ら提案し、議論をしていた。そうした統治体制が機能するためには、言論の自由は何よりも重要なものだった。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは、アテナイが強い都市国家となったのは、市民が言論の自由を得てからだったと語る。アリストテレスやプラトンのような人物がアテナイで教育をし、文章を書き、アカデミーを設立することまでできたのは、アテナイが異なる政体の樹立を提唱することすら許す、言論の自由のある場所だったからだ。

アテナイ人は自由な思索ができたことで、科学や医学を大きく進歩させることができた。厳しい政治的、宗教的検閲があるような政体の下では同じような進歩はとても不可能だっただろう(p25)

とはいえ、アテナイでの言論の自由の黄金期はそう長く続かない。権力に飢えた政治家たちに自由、平等な言論が悪用される。野心家が民会を扇動し、シチリア遠征を開始することを議決したことで、アテナイの陸海軍がほぼ壊滅してしまう。このようなことが起こると、貧しく無知な者たちが、裕福で学のある者たちと同様の発言権を持っている状態で、どうして帝国を維持できるかと考えるエリートたちも増えてくる。

その後アテナイは寡頭体制と民主主義体制の間を行ったり戻ったりするが、共通しているのは「クーデーターなどで寡頭体制に移ると、専制と抑圧によって真っ先に言論の自由が犠牲になる」こと。そして、仮に民主政に移行できたとしても、その体制が不安定なままであれば、寡頭政と同じぐらい(言論の自由にたいして)抑圧的になることの二つだ。後者は、民主政を守るために扇動者らを取り締まろうという動きが活発になるからだ。そのため、『言論の自由を守るためには、民衆の恐怖や熱情を和らげられるような抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)が必要になる。』

グーテンベルクの革命と言論の自由

その後言論の自由は長い停滞期に入るが、(言論の自由をめぐる)状況が起きるのは15世紀〜17世紀にかけてだ。1450年にはグーテンベルクによる活版印刷技術の発明が起こって出版点数が大幅増加。それに伴ってヘイトスピーチ、宗教的・政治的扇動、プロパガンダ、猥褻な図画などありとあらゆる本が刊行されるようになり、教会や権力者たちは即座に言論の自由の規制へと動くことになる。

宗教・権力をめぐる混乱が収まりつつある17世紀に至ると、書物はイノベーションを加速させ、芸術、科学、学問などあらゆる分野を発展させたが、それに伴って言論の自由を推進する人々もぽつぽつと現れ始める。特に各地域の政体の力が強く分権的だったオランダでは書物の検閲などで足並みを揃えることが難しかったことから比較的言論の自由が保証されていた地域であり、学問が大いに栄えた。

検閲はあらゆる学問の停滞につながり、真実の拡散を止めると訴えた詩人、ジョン・ミルトン。言論の自由は、自由の偉大なる防塁である。両者は同時に栄え、同時に死ぬ。と書いたゴードン。市民的自由の命、強さは、立憲政治と書き言葉の無制限の自由の中にあると書いた哲学者のペテル・フォルスコールなど、様々な人がこの時代に言論の自由を語り、少しずつその重要性が根付いてきた。1760年代にはスウェーデンで「出版自由法」が可決し、スウェーデンの一人あたりの書物の年間消費量は18世紀後半には前半の倍以上に増えた。これは、言論の自由のパワーといえるだろう。

インターネットの時代

そこから時は流れてインターネットの時代。誰もが自由に発言できるようになったのだから、言論の自由は揺るぎないものになったのではないかと思うかもしれないが、そうとはいいきれない。それは先の事例をみれば明らかだろう。

新しい技術によって自分の意見を表明できるようになると、それは最初大いに歓迎される。しかし、すぐに誰かが「これは行き過ぎだ」といって、制限を加えはじめる。その例は現代でいくらでも見つけることができる。たとえばドイツはナチスへの恐怖があるから、独裁の復活を防ぐべく、極端な意見を封じ込めようとする傾向が強い。2017年には大規模なSNSプラットフォームに、明らかに違法なコンテンツを24時間以内に削除することを義務づける「ネットワーク執行法」が制定されている。

フェイスブックやツイッターはアルゴリズムによるコンテンツモデレーションを行っているし*1、それはグローバルサービスが避けては通れない国家権力の圧力を受けてのものだ。*2

当然、そうした規制も無根拠なものではない。人種差別、扇動にプロパガンダ、あらゆる表現が世に溢れる。2018年のMITの調査によると、虚偽のニュースは正しいニュースよりも70%もリツイートされやすいという。ソーシャルメディアにおいては、虚偽やネガティブ、誇張され、感情をかきたてられる特徴を持つコンテンツは速く、広く拡散されるが、事実に即した話、理路整然とした話は拡散されない。

では、どうすべきなのか? 著者は、SNS上でのヘイトスピーチは想像以上に少なく(全体の0.1%から0.3%)、言論の抑制はヘイトスピーチを減らすよりもむしろ増幅する効果をもたらし得るとフェイクニュースも含めいくつかの研究を引きながら書いているが、ヘイトスピーチやフェイクニュースの反乱にたいしてどのように対抗していくべきかについては、より広範な研究が求められる部分だろう。

言論の自由に負の側面があることは間違いないが、同時にそれがどれほどの発展を促し、言論以外の自由の防塁として機能してしてきたのかを思えば、言論の自由を死守する意義が、本書を読めばよくわかるはずだ。

おわりに

歴史的にみて言論の自由は何度も前進と後退を繰り返してきたし、それはこれからも変わらない。ウェブはまだ普及して30年あまり。言論の自由についての混乱はまだまだ続く。ある意味では激動の、おもしろい時代といえるのかもしれない。

現代を理解するための、重要な一冊だ。

*1:フェイスブックの2020年のデータによると、「ヘイトスピーチ」が見つかったとされたケースの約10%で処理にミスが起きているという。

*2:ツイッターは「言論の自由党の言論の自由派所属」を自称していたが、もうそんあことはいえないだろう。2017年にイギリス議会の公聴会に赴いたツイッターのマネージャーは、敵意に満ちた議員の前にたち、「ジョン・スチュアート・ミル流の哲学」を捨て去ると宣言せざるを得なかったという