『鋼鉄都市』について書いた記事で「まあアイディアは古びているけど演出は良いしなかなかおもしろい」なんて偉そうに書いてしまったことを謝りたくなる。もちろんその言葉に嘘はないが、続編でもある本書『はだかの太陽』は鋼鉄都市をはるかに飛び越えて面白いのだ。『鋼鉄都市』同様、アイディアが古びている部分も多い。それでもそれ以上に、今なお通用するであろうロボットが当たり前に存在するようになった社会の在りよう、ロボット社会が迎える必然的な帰結などは読んでいて「わお!」と嬉しい驚きにつながった。1955年に書かれた本書を読むと、アシモフが見通した未来と、そこに至るまでのロジックの美しさに、時を越えた見事なロングパスを蹴り入れてもらったような爽快さが沸き起こってくる。こんなことができるんだから、人間はスゴイぜ。
はだかの太陽〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF ア 1-42)
- 作者: アイザック・アシモフ,Ryan Malone,小尾芙佐
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/05/08
- メディア: 文庫
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とまあ余談はそれぐらいにしてそろそろ本書の内容説明に入っていくとしよう。先に述べた通り人間刑事のベイリとロボット刑事のダニールがコンビを組んだ鋼鉄都市に続くSFミステリ第二弾だが、きちんと説明を入れてくれるので別に本書から読んでもなんにも問題はない。それでも前提となる世界観を多少説明しておこう。人類はかつて地球を飛び出していろいろな惑星に住み着いたが、何百年か何千年かして一部が宇宙人として地球に戻ってきた。地球はその宇宙人によって占有され、地球人は屋外の広い空間への恐怖から鋼鉄の都市に引きこもってしまう。
それが前作タイトルの『鋼鉄都市』に繋がっているわけだ。事件も当然地球と、その近郊で起こる。宇宙人が何者か(おそらくは地球人)に殺されてしまったのだ。この事件にあたったのが本作でも主役をはる人間刑事ベイリとロボット刑事ダニールのバディ。見事に事件を解決してみせた二人が次に取り組むのは、地球から遠く離れた宇宙国家のひとつ、ソラリアで起きた殺人事件だった──。
ミステリとしての出来の良さ
ソラリアにはロボットが二億体いて、人間が二万人しかいない。そんな人間少、ロボット多な社会とは一体全体どのようなものなのか。
まず身の回りのことをほとんどすべてロボットがやってくれるので、人間は何もしなくてもよい。いくらか医者、科学者がいるが、大多数は何をやっているのかよくわからない。たぶん遊んでいるんだろう。ロボットが何もかもやってくれるから、労働力としての人間は必要ではなく、人口は過小。さらに土地は有り余っているからみな遠く離れて自分の家に引きこもっており、殆どの場合直接会うことはない。「直接会いたい」というと「ええ!? なんでそんなことをしなくちゃいけないんですか!?」と反発がかえってくるような社会だ。そんな社会で殺人事件が起こった。誰も会おうとしないのに、どのようにして殺人なんかが起こるのか?
「ロボットだ!」と言いたくなるが、当然ロボットにはロボット三原則が適用されていて、「人間に危害を加えてはならない」厳然たるルールがある。第一作『鋼鉄都市』では、そのルールは絶対なのかといったことが確かめられた。そして本作においては、そのルールには「論理の抜け道がないのか」が確かめられることになる。『不可能な物をすべて除外してしまえば、あとに残ったものが、たとえいかに不合理に見えても、それこそ真実に違いないという推定から出発するのです。』というシャーロック・ホームズの名言を地で行くように、ロボット三原則をウマく活かす形でキレーに論理を通してみせるので、SFミステリ的にも鮮やかな出来だ。
ズレの部分、ロボットと友情と葛藤
今から読むと「あ、ここは今とは書き方がけっこう違うな」と思う部分があって、それを読んで比較検討してみるのも面白かったりする。たとえばベイリとロボットのダニールは、度重なる試練をくぐり抜け戦友的な気持ちを抱いている。ベイリはどうしてもダニールに友情に似た何かを感じてしまうが、グッとこらえてしまう。下記引用部とか、今読むと物凄くBLっぽいな。なんというか、葛藤が。
この創造物の判読しがたい目が、ベイリの心を貫き、ベイリの全身がほとんど愛にも等しい熱烈な友情に浸りきったこの狂おしい瞬間、いまだ醒めやらぬその瞬間を見透かされないようにと、ベイリはひたすら祈った。
けっきょく、ひとは、このダニール・オリヴォーを友人として愛することはできないのだ。人間ではない、ロボットにすぎないものを。
ロボットは「ただのモノ」だが、人間は人型のモノであれペット型であれ、モノの形に感情を突き動かされる生き物だ。たとえ相手に「心」がなかったとしても、人はモノの形に心を見出してしまう。だからこそ現代においては、相手を友人として、時には恋人として愛することができるのだと書いた小説や漫画、映像作品が幾つも出てきている。長谷敏司さんの『BEATLESS』だったり、マデリン・アシュビーの『vN』だったり、映画作品で言えば『ベイマックス』であったり。アシモフは取り敢えずこの作品ではまだ、そこまでは踏み込まない。しかし心がないと知ってはいても、そこにどうしても友情を感じてしまう「葛藤」があることは描かれていくから、主題的には殆ど同じ部分を扱っているようにも思う(結論としても)。
ロボットと社会
このシリーズにおける共通点に触れると、「ロボットが当たり前に存在する社会とはどのようなものなのかを明らかにする」ことが主軸の一つになっている。たとえば地球ではロボットは「仕事を奪うもの」であり、忌み嫌われている。『鋼鉄都市』でロボット刑事を伴って捜査を行うベイリは、常に社会側に存在するロボット憎しの感情に直面し、場合によってはごまかさなくてはならない(妻や子供からも)。捜査にともなって、そうした社会の在り方を描いていくのが作品の面白さの一つだった。
それでは、続編は? ソラリアは地球とは違い、非常に発展した宇宙国家だ。前作では不可避的に「ロボットと人間の共存する(人間の方がずっと多い)社会」における、ある種の社会学者として機能せざるを得なかったベイリだが、ソラリアでは自覚的に社会学者として機能することを求められるようになる。地球は宇宙人に殆ど支配されており、勝手に外にでることは許されないのであり、たまたま例外的に許可されたベイリに、半ば強引に「あいつらの社会を分析し、弱みを握ってこい」と至上命令がくだったのだ。社会学者を派遣したほうがいいのではと至極真っ当なことをいうベイリに対して、えらい返しがくるのも笑える。『刑事もまあ、社会学者だよ。経験や常識で判断する現役の社会学者でなければ、優秀な刑事とは言えないだろう。』
ベイリが洞察するロボット社会の「必然的な弱み」の分析は、2015年の今読んでもキレーに理屈が通っているようにみえる。それはまさにロボット社会の弱点だし、人間社会が直面することになる傾向だ。実際我々はアシモフが予言した未来にいるのだ。ベイリ(アシモフ)のその分析力は、ロボット社会が必然的に行き着く先だけではなく、彼が住む鋼鉄都市のあまり指摘されたくはない問題点にまで適応される。物語のラスト、ベイリが事件の犯人を指摘し、立て続けにロボット社会の弱点を指摘し、続けてお偉いさんの静止を振りきってまで鋼鉄都市の人間社会に内在している弱点の指摘と次に何をすべきかを滔々と並べ立てていくシーンは、アシモフの気持ちとシンクロしていることもあってか、たまらない興奮を伴っている。どうだ、言ってやったぞとでもいうような。
本書には最初に、「ロボット小説の舞台裏」と題したアシモフ自身による序文が納められている。その中で彼はこう語っているのだ。
しかしわたしは、いくら若造の身とはいえ、知識が危険をもたらすなら、その解決策は無知であることだ、などと自分自身を納得させることはできなかった。叡智こそが解決への道ではないかと、わたしにはいつも思われた。危険を見すえることを拒否せず、むしろ、その危険をいかに安全に回避するかということを考えたのである。
アシモフはこの言葉通り、当時はまだ珍しかったロボットが愛情を持って描かれる話を幾つも発表していくことになる。それでいてアシモフが描くのはロボットがいることで理想的になった社会などではなく、ロボットが繁栄した社会では次にどのような問題が起こるのかまでを見通した世界なのだ。うちにこもらないこと、技術へと関心を向けること、心を外へと向けること、危険性を見据え、それでもなお「先へ」と進まんとすること。アシモフの熱狂が、そのまま本書には納められているかのようだ。
本書は殺人事件を解決するごくごくシンプルなミステリでもあるが、社会において人間はこの後、ロボットを含む広範な技術とどう向き合っていけばいいのか、そこではいったいなにが起こるのかという謎を解かんとするミステリでもある。SFとして、ミステリとして、幾つもの層が積み重なった重厚な作品。
*1:早川書房70週年を記念して行われている大・復刊・新訳・新版祭り