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「服は人なり」を突き詰めたらどうなるか──『カエアンの聖衣』

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

カエアンの聖衣〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

読みたい読みたいと願いながらも古本で手に入れるのもなあと思っていたのだが、ついにバリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』が大森望氏の新訳で復活した。ハヤカワ文庫補完計画全70点の復刊ラインナップに早くから記載されていたものだから、最後(3月下旬刊)まで待つことになるとは思わなかったが待った甲斐はある。

衣装SF

本作は衣装SFと言われる。それは一つに、『カエアンの聖衣』とついているように、カエアン人と呼ばれる人々が持っている特異な衣装哲学からきている。

カッコいい服を着ることで気分が高揚したり、自信が出てくるように、外見の変質が精神に影響を与えることは多くの人が頷くところであろう。それを発展させ、衣装を極めることで人類を外面だけでなく肉体まで含めて革新的に進化させることができるのではないかというシンプルなアイディアを本作は突き詰め、そこに緻密な理屈と背景を付け加えていくことで宇宙を巻き込むレベルで大風呂敷を広げていく。

 (……)自然のままに進化してきた人類の姿かたちは、偶発的で不格好で不完全で、内なる創造性に見合わない。眠れる内なる力を外在化するには、現実との適切なインターフェイスを獲得する必要がある。そのときはじめて、人間は真の装いで宇宙と対峙し、まともな思考力と行動力を備えた、本来そうあるべき生きものとなって、存在のあらゆる領域を開拓できる。
 しかし、人間の体が毛のない猿を超えてさらに進化するには、盲目的な自然のちからだけでは足りない。意識的な芸術の力、すなわち衣装芸術によってのみ、人類の肉体的進化は実現する。

こうした理屈を読んでバカなんじゃねえのと思ってしまう人間には、バカなことには違いない。しかしそれもいったん受け入れてしまえば、そこには誰にも踏み荒らされたことのない、めくるめく広大な衣装SFという大地が広がっているのだ。

簡単なあらすじ

異常な哲学を持っているカエアン人らには目下のところ敵対(しそうになっている)勢力がおり、それが比較的我々と価値観が近いと思われるザイオード人だ。まあそりゃ、すぐ近くに衣装で自己を変革する存在がいれば敵対もしたくなるだろう。カエアン人らの衣装それ自体の価値は広く認められており、難破したカエアン宇宙船の情報が入ったポイントへザイオード人が衣装を拾いに行くところから物語ははじまる。

巨獣と死闘を繰り広げながらも、宇宙船からカエアン人らの中でも特別な天才がつくりあげた、伝説のスーツを盗みだしたザイオード人のぺデルは、それを着ることでまるで服に操られるようにその人格が一部変質してしまい──。カエアンの衣装の素晴らしさ、その効力、哲学の意味までもが脳内に溢れかえりザイオード人でありながらもカエアン哲学をまさに自分自身の身体で体験していくことになる。

その後もこの特別なスーツをめぐって次々と事件が起きるが、基本は事件に巻き込まれながら「カエアン人の哲学を含む、この世界の背景」の探究が行われていく過程そのものがメインであってあらすじを抜き出してもたいしておもしろくはない。

圧倒的なケレン味

あらすじがおもしろくない代わりといってはなんだが、あらすじでは省かれてしまいそうな、彼らが宇宙で遭遇することになるさまざまな人種、この世界の背景設定に関する部分はかなり狂っており魅力が冴え渡っている。

たとえば、なぜカエアン人のような異常な哲学を持つ存在が生まれたのかといえば、この世界のそもそもの歴史が関係している。日本とロシアは銀河系開発時代、強固に反発し合いながら、宇宙のあちこちで戦争を起こしていた。戦線を拡大しすぎた反省か、両国とも宇宙から撤退したが、一部の人々は回収されずに放置されてしまう。

地球に帰還することはもはやかなわない。それでも強靭な精神力で生き延びた彼らは、どちらもそれぞれ違った形で極端な環境へと適応を遂げ、他所と交わらない変化を経たために異常なまでに"先鋭化"してしまったのだ!

 ロシア人の生存戦略は、すでに見たスーツ人の社会です。日本人の解答はまたべつ。彼らは当時すでに惑星ショージを掌握していた。直径わずか二千四百キロメートル、非常に寒く、生きものはなく、大気は希薄で呼吸できず、人類の居住にはまったく適さない。この恐ろしい条件下で生きるために、日本人は自身を"サイボーグ化"した。つまり、人体を設計からつくりかえ、人工的な機械臓器と融合させたのです

それだけならほえーという感じだが、サイボーグ化した日本人はなぜか野蛮人化し、その精神は日本文化から直接的に派生した「ヤクザ」や「坊主」ともはやケレン味しか感じられない要素に支配されてしまっている。『坊主は宗教的な司祭です。ヤクーサは本来、ギャングを意味していた。日本では、どうやら宗教組織とギャング組織が協力関係にあったようね』そんなわけねーだろうが!! いやそうとも言い切れないか……? このヤクザ共は宇宙版マッドマックスのように、宇宙を航行している人々へと死をも恐れず突撃攻撃してくるキチガイとして描かれている。

ロシア人は生存戦略として人類の自然な姿かたちを、人工的な概観と取り替えた──それが現在のカエアン人が有する強固な衣装哲学につながっているというのはわりとスマートに納得できる理屈でもある。直接的に描写こそされないものの、他にもアラブ人、アフロ人(なんだそりゃ)などに支配された宙域もあるようだ。そんなことを聞くとこのカエアン世界を舞台にした先鋭国家大戦が観たい!! と興奮してくるが、まあ、いってみれば枝葉であって物語の本筋には関わってこない。

プロットのスマートさを放棄したかわりに、アイディアを溢れさせてくるスタイルは、どのページをぱっと開いてもその圧倒的な与太話に酔いしれることができる特異性につながっている。後世のクリエイターに多くの影響を遺したと訳者あとがきで語られているが、このスタイルも起因しているのだろう。アイディアが無尽蔵に投入され使い捨てられていくので(他作品で回収しているのかもしれないが)ついつい使って/発展させてみたくなるのだ。

もちろん本筋は圧巻

もちろん本筋のカエアンの哲学については、「ここまで衣装SFとは突き詰めて考えられるのか」とあっけにとられるほど行けるところまで行ってしまう。「着る服によって人間の精神は変質してしまう」というのがその出発点であるならば、必然的に「では、人間の自由意志とはどこまでのものなのだろうか」という問いかけに繋がりえるし、そこからどんどん身体と精神の境界についての問いかけが連鎖していく。

原書刊行から40年以上の時間が経っているが驚くほど古びていないのは、独創的であるのに加え、この一冊で衣装SFというのをほとんどやり尽くしてしまったからというのもあるだろう。それぐらいの徹底ぶりである。とはいえそれでも見事に衣装SFを継承してみせたTVアニメーション作品『キルラキル』が現れたことで今回の新訳に繋がるなど、その血脈は途絶えていないのだ(続くとも思えないが……)。

解説

解説は『キルラキル』で脚本をつとめた中島かずき氏が書いており、『カエアンの聖衣』から受けた衝撃がいかにして『天元突破グレンラガン』や『キルラキル』に繋がったのかが語られている。特に『キルラキル』については、あり得たかもしれないラストが語られているので必読である。アニメは母娘の物語としてまとまりすぎた感もあり、かなり突き抜けた内容なのでこっちも観てみたかったなあ。