今回はすでに英語版での評判が漏れ伝わってきていたし、日本での(版元の早川書房の)プロモーションも気合入っているな(翻訳SFとしては珍しい単行本での刊行)と思っていたので最初から高まっていたのだが、読んでみればいやはやこれが期待通りの作品である。扱うテーマや題材、舞台そのものは『火星の人』と大きく異なっていて、新たな領域を開拓しているが(主に火星を舞台として展開する『火星の人』と比べて、本作は基本的にずっと宇宙を航行する宇宙SFだ)その語り口、精神性は『火星の人』と共通していて、それまでの作風の魅力は一切失われていない。
月面都市を舞台にして少女の冒険を描き出している、比較的軽めの読み味の第二作目の長篇『アルテミス』があんまり合わなかったな〜という人であっても、本書(プロジェクト〜)は十二分に楽しむことができるだろう。
あらすじ・世界観・構成など
本作は自分の名前すら思い出せない男がその意識を取り戻し、自分の過去を思い出しながら目の前の問題に対処していく「現在」パートと、その現在に至るために何が起こったのかが描き出される「過去」パートが交互に語られる構成になっている。最初は語り手が人間で、生物学的男性であることぐらいしかわからないのだが、過去が明らかになるたびにそういうことだったのか! と驚きが積み重なっていく。
つまり、本編の興を削がない形で紹介できる部分があまりない作品なのだが、ここで記事を終えてもしょうがないので序盤を中心に読みどころを紹介していこう。まず『火星の人』がらみの読みどころとしては、本書が科学者の一人称で世界の謎・苦しい状況を把握し、科学で問題を解決していく物語であるというところにある。
たとえば、最初は名前も思い出せない語り手ではあるものの、彼の中には知識は残されており、空間の中をAIと対話しながら動き回るうちにその知識量から自分の正体が少しずつわかることになる。まず、自分がいるのが豊富な備品が揃った実験室であることがわかる。8000倍の顕微鏡、高圧蒸気現金機、レーザー干渉計──そうした機材の名前と用途がすべて把握できるので、少なくとも自分は科学者かそれに類する存在であることも連鎖的にわかる。『ぼくは科学者だ! 手がかりをつかんだぞ! 科学を使うときがきた。ようし、天才脳味噌くん──なにか考え出してくれ!』
メジャーをみたらメートル法のものだから、ヨーロッパなのか? と場所の推測をすることもできる。だが、そうやって身の回りにある備品を観察して推測を積み重なっていった先にみえてくるのは、彼が明らかに通常の空間にいるわけではないという事実だ。たとえば、試験管をテーブルから落とし、ストップウォッチを使って試験管が床に落ちるまでの時間を計測すると、約0.37秒で、何回も繰り返すと平均は0.348秒。距離は加速度掛ける二分の一掛ける時間の二乗で、加速度は二掛ける距離割る時間の二乗だから──と考えていくと、明らかに彼がいる部屋の重力は大きすぎる。
困ったことに、なにものも重力に影響をおよぼすことはできない。大きくすることも小さくすることもできない。地球の重力は九・八メートル毎秒毎秒。これは絶対だ。なのにぼくはそれ以上のものを経験している。その理由としてありうるのはたったひとつ。
ここは地球ではない。
と、少なくとも現在パートの語り手がいるのは地球上ではないことは明らかになる。しかし、それはどこかの宇宙ステーションのような場所なのか、はたまた航行中の宇宙船内なのかはわからず(ここは公式のあらすじに書いてあるところなので明かすが、普通に宇宙船内)、そうした細部を次第に詰めていくことになるのだ。
宇宙生物学SFとしてのおもしろさ
そうした高度な知識を持った科学者が状況を認識し、その後に問題とその解決に邁進する『火星の人』的なパートとは別に、そうした状況に至るまでを描く過去パートでは、最初は宇宙生物学SFものとしてのおもしろさが展開していくことになる。
この過去パートは地球で物語が展開するのだが(語り手は現在パートと同一人物)こっちはこっちで人類全体が大きな危機に見舞われている。JAXAの太陽観測衛星アマテラスによってなぜか太陽の出力が大幅に下落していることが判明し、今後20年間で5%下落、地球は氷河期となり生物の多くが死に絶えると予想されているのだ。
恒星が燃えるのは純然たる化学のプロセスだから、出力の上下はあってもそこまで予想を超えた動きは示さない。最初こそ原因について仮説ゼロの状態だが、太陽が暗くなるのと同じ割合で明るくなっていく「ペドロヴァ・ライン」と呼ばれるものが太陽から金星をつなぐ場所に存在することが判明し、人類は金星にこれを調査するための無人船を送り込むのだが────採取した結果として明らかになったのは、このラインを形成しているのは何らかの生命体であるという事実だった。
その生命体(後にアストロファージと命名される)は、太陽の表面、もしくはその近くに陣取って、太陽からの出力を食っているのだ。普通に考えたらそんな生命体は存在できないが、実際に存在するので、ではどのような生命体ならそんなことが可能なのか。どのような機構を持った生命体なのか──が諸々検討されていくことになる。
過去パートの語り手は学校で教師をやっているのだが、もともとは『水基盤説の分析と進化モデル期待論の再検討』という、水を生命の基盤としない生命についての仮説を追究していた研究者であった。そんな仮説はありえないと猛反発をくらって逃げるように一度研究の世界を去ったものの、「太陽近郊で活動できる生命体がいるとすれば、超高温に耐えられるのだから水を基盤としない生物なのではないか」という論理で、この研究に注目が集まりふたたび研究の世界に戻ることになったのだ。
採取されたアストロファージにたいして、X線分光計を試したり、数千度まで過熱してみたり、真空中で分光器にかけてみたり、冷やしてみたり──こうした手順を一個一個踏みながら、これがどのような生物なのかを確かめていく。このあたりの細部の詰め方は、生物学の領域ではあるものの、『火星の人』でみられたような科学のプロセスとして進められていき、本作を宇宙生物学SFとしても傑作にしている。
おわりに
と、これでかなり内容を明かしたように見えてもまだ上巻の68ページまでの内容に過ぎない。ここから先、どんどんアストロファージについての新事実が明らかとなり、宇宙生物学としての探求が今度は宇宙SFとしての発展・展望に関わってくる。
上巻の後半部からはまた別の宇宙生物学SFとしての魅力が出てきて──と、読み進めるたびに情景が大きく変わっていくので、そのあたりはぜひ読んで確かめてほしいところ。語り手は宇宙空間で人間としてはたった一人、『火星の人』とは違って自分だけではなく人類を救うために科学を武器に奮闘するのだが、その根底にはやはりユーモアとポジティブさが存在していて、ポップに読み進めることができるだろう。