基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

犯人絶対殺すマン──『野獣死すべし』 by ニコラス・ブレイク

野獣死すべし (ハヤカワ・ミステリ文庫 17-1)

野獣死すべし (ハヤカワ・ミステリ文庫 17-1)

『わたしは一人の男を殺そうとしている。その男の名前も、住所も、どんな顔だちかもまるで知らない。だが、きっと捜しだしてそいつを殺す……』と推理小説作家であるフィリックス・レインの個人的な日記によって本書は幕を開ける。

冒頭から絶対殺すマン*1全開のこのフィリックス・レイン君、何をそんなにいきり立っているのかといえば彼の息子が何者かにひき逃げされ殺されてしまったのだ。警察の決死の捜査にも関わらず犯人を見つける目処は立たず、それでも諦めきれない彼は犯人絶対殺すマンとして独自の調査をはじめる──。

ニコラス・ブレイクの代表作として有名な一冊で、探偵であるナイジェル・ストレンジウェイズが出演するシリーズの第四作でもあるが特に知らなくても読み進められる。何しろ本書のだいたい半分は犯人絶対殺すマンことフィリックス・レインが、いかにして息子を殺した人物を特定し、その殺害計画を練り上げていくのかの全編緊張感と殺意が張り詰めたサスペンスとして展開し、探偵が出てくるのは物語がちょうど半分を過ぎたあたりであるからだ。

それならこれは最初から読者には犯人がわかっているタイプのミステリ(こういうのを何て呼称するのかしらないが)なのねと思うところだが実はそうではない。綿密に追い詰め、相手を特定し、取り入り、相手の弱点を把握し、さあ完全に自分の罪が問われない形での「完全犯罪」の現場が整ったぜと思ったところでとうの殺害対象から「お前の日記、俺は知ってるんだぜ」と明かされてしまう。当然計画も既に把握されており、彼は愕然として、完全犯罪は脆くも土台から崩れ去ったのであった──ただし相手は死ぬ。

と、ここでナイジェル・ストレンジウェイズが登場する。あやうくフィリックス・レインに殺されそうだった男ジョージ・ラタリーは家で強壮剤に仕込まれた毒を飲んで毒殺されてしまうのだが、これはフィリックス・レインの日記には存在しない筋書きであった。一体全体誰が殺したのか? もちろん明確な殺意を持って近づいてきた彼が一番怪しくは有るのだが、ジョージ・ラタリーは暴力的な人物で妻に、息子にと周囲の人間から大いに恨まれている。フィリックス・レインの日記のことを誰かが知っていれば、罪をかぶせようとして殺したことも考えられる──と「あきらかに怪しいやつ」がいる状態で事件は複雑化し、錯綜していく。

前半と後半でガラッと雰囲気が変わるもののどちらも洗練されたパートで面白い。時代性を感じる部分もほとんどない。ミステリは手法的にガンガン複雑化、メタ化が進んでいるので古いのを読むと「手法が古いなあ」と思うことが多い。本書もそれがないことはないけれど、サスペンスとしての比重が大きいのであまり気にならないのだ。そして、果たしてこの「野獣」が(原題はThe Beast Must Die)どこまでかかっているのか──、子どもをひき逃げして殺した男か、その犯人を殺した「誰か」まで入っているのかは作中で提示される結末とは別に読者の中に様々な解答をもたらすだろう。

個人的に面白かったのはこれが劇場型犯罪者ミステリでもあることかな。冒頭の部分は最初に紹介したけれど、そのすぐ後、自嘲的に『寛大なる読者には、このメロドラマめいた書きだしを大目にみていただかねばならない。』と犯罪日記であるにも関わらず明確に読者を意識した、推理小説作家兼犯罪殺人者となろうとしている男の「ストーリーテラー」としての側面が現れている。絶対殺すマンとして主観的な殺意をめらめらと燃え上がらせつつもそれを客観的/物語的に盛り上がるものにしようとする仕組みが最初から整っているので、これで面白くなかったら嘘だぜ。

本来であればもうちょっといろいろ語りたいところだが──種明かしの部分にもかかわってくるのでここらでやめておこう。本書はハヤカワ文庫補完計画という名作を復刊し直す企画の一環として新カバー&トールサイズ化して復活した。新カバー版には山本ユウさんの素敵な絶対殺すマンのイラストと黒白を基調としていてカッコイイのだけどAmazonの書影には反映されていないみたいで残念だな。Amazonには既にないし、書店で見つかるか怪しいけれどちょっと探してみてください。
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極小の世界に存在する極大な世界──『ブラッド・ミュージック』

ブラッド・ミュージック  (ハヤカワ文庫SF)

ブラッド・ミュージック (ハヤカワ文庫SF)

グレッグ・ベアによる本書『ブラッド・ミュージック』はハヤカワ文庫補完計画の一環で新カバー&トールサイズ化して復刊となった作品だがラインナップが発表された時から読みたかったもののひとつ。元々日本語版が出たのは1987年、原書刊行が1985年となるが、実に30年の時を経てなお、鮮烈なイメージとインパクトを残す傑作だ。何より1985年にして極小の世界に存在する大いなる可能性を作品内に取り込んでいることが、まったく時代性を感じさせないものとなっているように思う。

SFで、規模を大きくしようと思ったら基本は「もっと先へ」「宇宙の果てへ」という発想になるのがまずはデフォルトというものではないだろうか。だって宇宙はとんでもなく広くて、いってもいっても終わらなくて何があるのかわからないんだから。でもこの何十年もの期間で、ビッグバン宇宙論などの研究が進んで極大の世界(宇宙は10の27乗メートル)と極小の世界(10のマイナス35乗メートル)の間に密接なつながりがあることがより詳しくわかってきた。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
極小の世界の振る舞いは、現実世界をミクロ大として過ごす我々からしたら常識に反することがいくらでもおこる(何もない空間に粒子が産まれては対消滅していくこととか)。そして、まだその可能性は宇宙の果てと同じく追求されきっていない。本書『ブラッド・ミュージック』で僕が最初から虜にされてしまったのはSFとして規模の大きさを「外へ」向けるのではなくむしろ我々の「内」、極小の世界に広がる極大の世界へと向け、無限に宇宙を探検するかの如き規模のデカさを達成してみせたことだ。

簡単なあらすじ

ちょっと話が先走りしすぎてしまったが、物語の立ち上がり自体は比較的ゆるやか(十分早いけど、後半の展開に比べたら助走のようなものだ)。世界初のバイオチップ革命を今まさに起こそうとしている遺伝子系企業の研究者として勤務しているヴァージルは、こっそりと自主的な残業を行って自律的に動く──ようは知能を持った有機コンピュータの研究を行っている。

ようやくそれが成果を結ぶかと思ったタイミングでこそこそと業務時間外に私的プロジェクト、それも法律に違反していることをやっていることを指摘され、当たり前だが会社からはクビを宣告されあまりにも危険な男だということで同業種への転職さえまったく不可能にされてしまう。だが彼は持ち前のマッド・サイエンティスト性を発揮し、ひそかに自身の研究成果を家に持ち帰り、最後の成果として自分へ有機コンピュータを投入・統合をはかっていたのであった──。

最初こそ変化はあからさまではなかったものの、次第に彼の体は代謝がよくなり身体は引き締まって、視力もよくなりアレルギーもなくなって以前よりずっと健康的かつ魅力的な存在になっていく。美人な女性と旺盛なセックスライフも楽しめるようになりこれこそが次世代の人類か──と思うのもつかの間「作り変えられた彼の身体」は当然ながらさまざまな問題と懸念を引き起こしていくことになる。何しろ彼の身体を改変しているのは、彼の意志とは無関係な「何か」なのだから。

もし本書がマーベルから出ているアメリカン・コミックとして発表されていたなら彼は同じく遺伝子的に変異した敵性の能力者と自身の変異した身体を使って日夜マンハッタンだかニューヨークを舞台にして死闘を繰り広げることになるだろうが本書はグレッグ・ベアが書いたハードなサイエンス・フィクションだからそうはならない(ここ、無駄なくだりだったな。あとハルクとかぶる)。

物語はすぐに起点であったヴァージルを乗り超えて、この世界そのものへと対象を広げ、巨大な視点を手に入れてみせる。本書に主人公がいるとしたら──人ではないものの、後にヌーサイトと呼称されることになるこの知能細胞そのものであろう。身体を内側から作り変えていくヌーサイトは次第に人間の身体の中から多くの知識を吸収していく。「身体の「外」にも世界が広がっていること」を知り、自らが巣食っているものが知性を持つ有機生命体であることを知り、言語なるものを次第に理解し事実上のファーストコンタクトを果たすまでに成長し、物語はさらにその先へ──。

加速的にその規模を拡大していく物語

身体が内側から変容していく「恐怖」のパートは個人の人体変容に伴うホラー/サスペンス作品として優れている。それが「感染」し人類圏に次々と広がっていくさまが描かれると世界そのものが混乱に陥るパンデミックSFへと変貌し、ヌーサイトがその能力を用いて、さらに深い部分へともぐり、新しい理論を生み出すに至ると宇宙まで含めた「世界」はその姿を変容させ──とわずか400ページあまりの中にさまざまな要素が投入され、物語規模を増しながらも見事に結合されていく。

また別の側面としては、彼らは人為的につくりだされ、知能らしきものを携え、人類の存在に気がつくが、それはあくまでも彼らの観察対象の一端に加わったに過ぎないというのも重要だろう。彼ら=ヌーサイトの興味は人類の殲滅などにはないが、結果的に人類はどうしようもなく巻き込まれ、変異させられてしまっている。駆除することなど不可能で巻き込まれ続ける人類の在り方は、ある意味ではどうにも出来ない状況に翻弄され逃げ惑い続けるディザスターSFともいえるのかもしれない。

そうやって、まるで極大の嵐が過ぎ去った後かのように決定的に変質してしまった世界の情景はSFならではの美しさとなって現出している。書かれたのがいつなどとは、読んでいる最中まったく頭にのぼらないだろう。さまざまな物語ジャンルを取り入れながらあっという間にとんでもない規模と視点まで引き上げられてゆく傑作だ。

そういえば──まったくの偶然だが、つい最近同じく分子生物学と音楽の共鳴をテーマにして書かれたリチャード・パワーズの『オルフェオ』もついでにオススメしておく。こっちはこっちで、別ベクトルですさまじい作品だ。

オルフェオ

オルフェオ

ちなみにネビュラ・ヒューゴー賞をダブル受賞したという紹介のされ方も多い本書(オルフェオではなく、ブラッド・ミュージックのこと)だが、受賞したのは短篇verであって長篇verはノミネートされたものの受賞していない。本書は危なげなく傑作だと思うが意外とウケなかったのか? はたまたブラッド・ミュージックを打ち負かす作品が同年にあったのか? と調べてみたのだが……

ヒューゴー、ネビュラ共に『エンダーのゲーム』に負けておりそれは確かにちと厳しいかなあと思った(作品の出来が、というのではなく)*1 もし前年だったらいけるのかといえば、前年にはニューロマンサーが控えており、じゃあ翌年ならどうだ!? といえば今度はまたまた『死者の代弁者』とギブスンの『カウント・ゼロ』がある「マジかよ!」という恐ろしい3年間になっている。

さらに余談。ハヤカワ文庫補完計画枠とはいっても「新カバーによる復刊」は解説もそのままで追記はないことがほとんどなのだが、本書は山岸真さん解説に13行分の追記が(グレッグ・ベア作品のその後のSF受賞歴)されていてちょっとお得だったりする。当然触れるべき『幼年期の終わり』についてこの記事では触れていないが、詳細に解説で語られているからであることも付記しておく(読んでないわけじゃないぞ!)

俺は人生を選ばないことを選ぶ"道の続く限り歩み続けろ"──『トレインスポッティング』

トレインスポッティング〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

トレインスポッティング〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

スコットランドのエディンバラを舞台とし、ジャンキーにHIVまみれ、失業保険を5つも6つも受給しながら働くなんてくだらねえぜとうそぶきながらセックスとドラッグと暴力に明け暮れる若者の姿を偶像劇に仕立てあげたのがアーヴィン・ウェルシュによる本書『トレインスポッティング』だ。はじめて本書が発表されたのは1993年だが、舞台の年代自体は1980年代の後半に設定されている。

あまりにとりとめがない物語だ。『俺は人生を選ばないことを選ぶ』とは本書で中心人物として描かれていくマーク・レントンが吐いた心中の台詞ではあるが、まさに彼は複雑怪奇なまやかしの論理をでっち上げる社会に、働かなくとも失業保険を不当に受給するだけで何の問題もなく生きていける社会に、たやすくヘロインが手に入り周囲の人間が次々とジャンキーとHIV感染者に変貌し様々な理由で死んでいく「平和な地獄」の中にあって漂うように流され続けていく。

ジャンキーの日常モノ

そんなマーク・レントンの在り方を反映するかのように、500ページを超える物語の中でそこに一貫した「目的」、たとえば魔王を倒す──みたいなものは、特に存在していない。マーク・レントンは重度のヘロイン中毒で、幾度も禁ヤクをしてヘロインからおさらばしようとするが、何度も失敗してしまう。数ヶ月の期間を開けられたと思っても、上物が入ってきたらつい手を出してしまうのだ。周囲の人間は次々と付き合ったり別れたりを繰り返して狭いコミュニティ内で男女のスワッピングは頻繁に行われドラッグも蔓延していく。

”誰とでも寝る女”、"毎日のように女をあさる男ども"、それ以外にやることなどない。レントンだってそれは例外ではなく、「5つの失業保険を受給する為に面接を受けにいってわざと落ちる」ことぐらいが目下の業務だ。あとは、本屋から日常的に本を万引きし、売り払ってヘロイン代の足しにするぐらい。レントンも、彼の周囲の人間も、時間が経とうが何も変わらない。働き出したりなんかしない。「真っ当な男になる」なんて殊勝なことは口に出されない。唯一変わるのは、どんどん中毒なりHIVなりで若くしてみんな死んでいくぐらいだ。

本書を一言で表現すれば──「1980年代後半当時の、スコットランド人ジャンキーらの日常モノ」ということになるのかもしれない。ある人間はあまりにも身体中の静脈に注射針を打ち込みすぎて、いよいよ狂って自身のチンコに打ち込み始める。静脈が使いものにならないとわかれば動脈へ打って足を失うはめになる。ドラッグなんかやったことがなかった奴も、女と別れた、人生につかれた、いろんな理由をつけて「一度だけ」と手を出してまったくもって逃れられなくなる。

女をナンパしてヤった後に化粧でわからなかったが14歳だったことが判明してしょっぴかれないか戦々恐々としてみたりアナルファックを試してみたり時には禁断症状に苦しんだり幾人もの若くしてなくなったものどもの葬式へと出席したりする、そんな日常を彼らは過ごしている。

スコットランドは正気を守るためにドラッグをやる

そんなものが読んでいて面白いのか? といえば、これが面白い。途方もなくぐでぐでで、終わりのない地獄、ただし生きていくには困らない平和な地獄を生きている。別に肉体的な危険が常に迫っているわけではない。しかしそこには確かに、「苦しさ」がある。どうしようもない生きづらさが。本書は、確かにストーリー的にどこかへ大きく向かっていくわけではないが、変わりなく続く「日常」の苦しさを描き出している。ドラッグの感覚を。クズばかりの仲間に覚える少しの親近感を。壊れた社会の論理を。

「アメリカは正気を守るためにドラッグをやる」って歌詞にさしかかったとき、イギー・ポップは俺をまっすぐ見ていた。ただし、イギーは「アメリカ」を「スコットランド」と歌った。なあ、たった一文で、ここまで俺たちのことを正確に描写した奴が過去にいたか……?

彼らは、生活に困ってはいない。失業保険が出るからだ。万引きをしてものを売るからだ。彼らは、クズなのか? 客観的にみれば法律に違反し、親を泣かせ、自分の身をボロ雑巾にし人に迷惑をかけながら日々を生きている正真正銘のクズだ。だが、彼らだけがクズなのかといえば、そうとも言い切れまい。環境が、クズであることへの道筋をつくっているからだ。もちろんドラッグは取り締まられるが、厳格ではない。大学を卒業しても職につくのは容易ではない。制度はガバガバで、容易に失業保険が支給され働くことがバカらしい状況が設定されている

もちろん、だからといって全ての人間が働かないわけではないし、ドラッグ漬けになるわけではない。彼らがそんな状況に落ち込んでしまったのは故に──個人の資質、環境、運、その他もろもろの相互作用としかいいようがないのだろう。だが残念なことに、一度ヘロイン中毒になってしまえば、復帰は難しい。メインストリームから逸脱して、もはや復帰のロードが描けないはみだしものだ。社会が良いほうに変化することはないし、彼らが社会に適応できるように変わることもない。だからこそ彼らは、正気を守るためにドラッグをやる。

マーク・レントンは何度も禁ヤクしているが、その途中でヘロインをやることの”利点”を次のように饒舌に語ってみせる。もちろんジャンキーが自己を正当化するために理屈をひねくりだしたくだらない戯言に過ぎないのだが、説得力はある。

ヘロインをやってると、ヘロインを手に入れることだけ心配してればいい。ところがヘロインをやめると、山ほど心配事ができる。金がなくちゃ、酒も飲めねえ。かといって金がありゃ、飲みすぎる。女がいなけりゃ、やるチャンスもねえ。(……)どれもこれも、ヘロインをやってるときはどうでもよかったことばっかだぜ。一つのことだけ心配してればいいんだ。人生は単純そのものになる。

本書はベストセラーとなり映画化までされたが、この「どうしようもなさ」みたいなものが受け入れられた結果なのではないか、と思う。社会的な環境のせいもある。個人のせいもある。どちらにせよ、一度道を踏み外してしまったら、もう元には戻れない残酷な現実がある。ジャンキーどもの日常を通して、本書はどこまでもそうした「どうしようもなさ」を追求していくことになる。

俺は人生を選ばないことを選ぶ

そんな「どうしようもない社会」において、マーク・レントンは「住宅ローンを選べ」「洗濯機を選べ」「車を選べ」「人生を選べ」と選択を強要しレールの上を走らせてこようとする社会のメインストリームに向かって『俺は人生を選ばないことを選ぶ。そんなものは認めないと言うんなら、それはそいつらの問題だ。ハリー・ローダーの歌のとおりだ。”道の続くかぎり歩み続けろ”……』と明確に決別してみせる。

彼は決してクールでもなければヒーロー的な人間でもなく、一冊終わった後に大きな成長を遂げているわけではない。あいもかわらずジャンキーで、何か大きな改心を経たわけでもない。それでも彼は当時のクソッタレた社会に明確にNOを突きつけ、選ばないことを選ぶことで、世界に対して実に個人的な反逆を行ったのだ。「そんなものは認めないと言うんなら、それはそいつらの問題だ」というように、彼の個人的な行為を止める権利は誰にもない。

彼らのように生きろというのではない。彼らを反面教師にせよというのもでない。それでも確かにここには、当時の「息苦しさ」みたいなものが切り取られている。たとえ、この日本にあったとしても。日本にはドラッグは蔓延していないがそれでも──置かれている状況そのものとして、本書『トレインスポッティング』に共感する人は多いのではないかと思う。

最後に余談。ドラッグで正気をとばし金は国から全て支給されるがそこには絶望感が漂っているってこれ完全にディストピアSFだよね。最後に余談2。解説でもちょっと触れられていたが、トレインスポッティングの映画続編が動き出しそうとのこと。
映画「トレインスポッティング」続編始動へ 主要キャストも再出演を希望 | Fashionsnap.com

群衆の、個人の、暴走する妄想──『九尾の猫』 by エラリイ・クイーン

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

初エラリイ。後ろの著者近影を見て「なんで二人いるんだ」と疑問に思うぐらいエラリイ・クイーンという作家を知らなかったのだが(同い年の従兄弟の共作なんですな)、いやーこんなに面白い作品を書く人だったとわ。後述するけれども、個人的には清涼院流水さん以来の(あんまりミステリを読まないからなんのあてにもならないんだけど)連続殺人事件が社会をパニックに落としこんでいく「群衆」と「連続殺人」を結びつけた作品で、堂々と規模のデカイ嘘を突き通してみせるその心意気に感動した。

冒頭は面白いセリフ回しと地の文を書く、愉快な作家だなぐらいのノリであったのに中盤からぐいぐいと本領を発揮して500ページ近い本編を一気に読ませる豪腕よ。本書『九尾の猫』の前に『災厄の町』、『フォックス家の殺人』、『十日間の不思議』などなど同じくエラリイ・クイーンを探偵役とした作品が出ているが、「過去に幾つもの事件をエラリイ・クイーンは解決してきているんだな」程度に把握しておけば特に本書を読むのに問題がない。僕はそれすらも知らずに本書から読み始めたし。

本書はニューヨーク市を舞台にして行われる、連続絞殺殺人事件を扱った作品。面白いのは最初に書いたとおり、それが「単なる連続殺人」では終わらないところだろう。いやなに、もちろん「単なる連続殺人」で終わる連続殺人ミステリなんか存在し得ないのだが、本書の場合は物語冒頭をちょっと引用してみるだけでその特異さが伝わるのではないかと思う。

 アーチボルド・ダドリー・アバネシー絞殺事件は、ニューヨーク市を舞台にした九幕の悲劇の第一場だった。
 それはとんでもない事態を招いた。
 三百平方マイルの地域に住む七百五十万人の人々が、いっせいに正気を失ったのである。

僕は最初ボケっとしながら「エラリー・クイーンとはまたまたどんな作家なのやら」と訝しげに読んでいたのでこの記述を読んだ途端に「あ、あれ?? ミステリじゃなくてSFだったかな??」と思ってしまったものだが、これがまったくの事実(誇張された)であることが後に明らかになる。絞殺事件の加害者は巷では<猫>と呼ばれ、犯行は普遍的な恐怖の弦をかき鳴らし、新聞は陰惨極まりない部分を一般市民に誇張して伝え、ラジオもこの事件を大々的に、エンターテイメント的に報じてしまったばっかりに社会は次第に正気を失っていく。

視点が探偵役エラリイに移り変わり、彼に事件の解決が依頼される頃には既に5人もの殺人事件が起こってしまっている。被害者はなぜかだんだん規則性をもって若くなり、電話帳に載っている者だけが被害者になっている。そしてある時の殺人事件ではついに存在していると思われた法則が乱れて──と謎の部分も何しろ冒頭から一人一人死んでいくのではなくいきなり5人、死に終わってしまっているあたりケレン味に満ちあふれているではないか。

なすすべもなく最初は地道な聞き込みと調査を続けていくエラリイ・クイーンだが──犯人は仮の容疑者すら定まっておらず、定期的に殺人は繰り返されるのでニューヨーク市民は「次は我が身、もしくは知人が巻き込まれるかもしれない」と、公的な調査機関への不信感を露わにし、失われた正気と共に群衆の力を発揮させていくことになる。

 市長、どこかの異常者に街の人が片っ端から殺されています。<猫>が現れてそろそろ四ヶ月経つというのに、いまだにうろついています。そう、あなたがたは<猫>を捕まえることができないか、あるいはまだ捕まえていない。では、わたしたちはどうやって身を守ればいいのでしょうか。警察を非難しているのではありません。警察のみなさんも、わたしたち市民と同じくまじめにがんばっていらっしゃいます。しかし、ニューヨーク市民はあなたにこう尋ねます。警察はこれまで何をしてきたのですか

群衆を、恐怖が支配している。どこかから誰かが、自分の命を狙っているという恐怖。明日にもそのターゲットに自分がなっているのではないかという恐怖。公的機関が信用ならず殺人が一向に止まる気配が見えない「先が見えない」恐怖。市長が弁解する言葉は空虚で群衆にまで届かない。果ては妄想が妄想を呼び<猫>だぞ! <猫>よ! というありもしない幻想が叫ばれるだけでパニックを起こし、群衆それ事態が妄想の増幅源となって狂騒を呼び覚まし、暴動が発生し、無法状態が誕生し、かえって命を奪うことになる。

ことがそこまで発展していくと、本書はミステリであり、「連続殺人事件」が起こっているのだから、その連続殺人事件の謎を解けばいいのだろう──とはいかなくなってくる。でもこれを読んでいて「そうだよなああ」と思ったのだった。5人も6人も殺されるような連続殺人事件が同じ街で起こったら、そりゃ住民の側からしたら「切り裂きジャック」ばりのパニックだし、それをまったく止められない警察を信用するはずがないよ。「連続殺人事件」というのはミステリの道具立てだけれども、それを実際に社会に発生させたらこんなパニックが起こりえるんだぜというより大きな事象を描いているのだ。

 「だが、もっとも似ているものと言えば」プロメテウスは夜明けの冷気を物ともせぬ様子で話をつづけ、エラリイは古い瓢箪のようにかたかた音を立てて震えた。「それは、周囲の事物への反応のしかただ。ひとりではなく、群れで考える。そして、昨夜の不運な出来事でわかるように、群れの考える力はあまりに貧弱だ。おまえたちは無知ではちきれんばかりで、無知はやみくもな恐怖を育てる。おまえたちはたいがいのものをこわがるが、中でもいちばん恐れているのは、現代の問題と向き合うことだ。だから、伝統という魔法の高い壁の内に楽しげに群れ集い、理解できぬことは指導者たちにまかせておく。指導者はおまえたちと未知の脅威のあいだにいるわけだ」

人間は個人や少人数で行動している時と群衆になった時ではその行動に大きな差が出る(普段はしない行動を、他の人々もやっていたら平然とするようになるなど)ことは幾つもの研究からわかっているが⇛群衆の心理 - 基本読書本書はそうした人間が群衆になった時に起こりえるパラノイア的行動原理を見事に描き出しているといえるだろう。また優れているのが、単に群衆になった時の人間の妄想の暴走を描いているだけでなく、「個人の妄想」がもたらす悲劇が本書の軸にもなっており、一つ一つの要素が無駄なく全体で統合されているのだ。

謎事態の魅力はもちろん、それがもたらす社会的な大騒動まで含めて射程に入れた傑作。エラリイ・クイーンってこんな挑戦的な作品ばっか書いている人なの!? とすごく驚いたのだけど、代表作ともいえる『災厄の町』とくらべてもその作品のタイプは大きく異なるらしく、それはそれで他の作品への興味が大いに増すのであった。

ルパン対ホームズ by モーリス・ルブラン

ルパン対ホームズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ルパン対ホームズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ルパンシリーズのモーリス・ルブランがはじめて本格的にルパンとシャーロック・ホームズを対戦させた『ルパン対ホームズ』が新訳になって登場した。本家からは非公認で、実際にはシャーロック・ホームズではなくHerlock Sholmes探偵なのだが、訳ではホームズ(とワトソン)に切り替えられているようだ。小学生ぐらいの時に読んだのだけど、本書解説の北原尚彦さんの文章でそのあたりの事情を改めて認識した次第である。そうか、認可をもらえなかったんだな、ルブラン……。

こうして改めて本家シャーロック・ホームズシリーズにも触れた上で読んでみると……モーリス・ルブランの書くホームズとワトソンは本家とはずいぶん異なっている。やけにいらいらとしており、ワトソンへの扱いがぞんざいで「おいおい」と思うような辛辣な台詞を平気で投げつける。その上、ルパンシリーズに連なる一冊だから当然かもしれないが、ルパンvsホームズの過程で、シャーロック・ホームズの格が落ちるような残念な描写になっている(雑なフォローはあるものの)。

個人的に微妙なのは、そもそもこの「存在が市民に認知されまくっている怪盗」というコンセプトそのものがどうにも受け入れがたい事だ。シリーズ全否定かよというところだけど、そう、ルパンシリーズがそもそも好きではない。単純に目的があって盗みをしているのであれば対決を避けるのが最善なのに「根っからの闘士だから」とかいう理由でメラメラと対決に燃えているので「盗みとかどうでもよくて闘いたいだけなのかな?」と解釈すると、ポリシーある怪盗としての面白みも失われる(それが悪いわけではないのだけど)。

「ホームズかい? はっきり言って、こいつは難物だ。だからこそ、こんなに高揚しているんじゃないか。見てのとおり、だからこそぼくはこんなに上機嫌なのさ。なんといっても、自尊心がくすぐられる。ぼくを打ち負かすには、かのイギリス人名探偵に頼るしかないとみんな思っているのだからね。それにシャーロック・ホームズと一騎打ちだなんて、ぼくみたいな根っからの闘士にはどんなに嬉しい事か。ともかくぼくは、全力をつくさねばならないだろう。あの男のことは、よく知っている。一歩も引きはしないさ」

そうはいっても、世紀の怪盗と稀代の名探偵が対決するとなれば、それはもう基本的には面白いに決まっているので、あとは「いかにして盛り上げるのか」「いかにしてお互いの格を落とさない、あるいはどちらかが負けるにしても納得感を持ってそれを描ききるのか」あたりに問題は集約される。「すごい二人」が戦うのであるから、そこにはすごいやりとりを期待するのが読者としては当然であろうし、どちらもファンの多いシリーズであるから、どちらかが一方的にノックアウトされるような展開はやはり、許容しかねるだろう。

後者にかんしていえば、先ほど書いたように、処理があまりうまくない。一方で前者は、結構うまい。冒頭、もはやルパンに対向する手段が警察側にはない……ここはもうあのシャーロック・ホームズに手紙を出すしか! というところは非常に盛り上がるし、ルパン側も、引用してみせたようにシャーロック・ホームズの脅威を理解し、やってやるぜとテンションをあげていく(そういう意味では、あの描写も正しいのだ)。

実際にやってきたシャーロック・ホームズとアルセーヌ・ルパンが初邂逅するシーンは実に緊張感があり、お互いの格を落とさずにやりとりを交わしてみせる(期せずしてホームズと遭遇してしまったルパンが、逃げずにホームズと接触し、ホームズもそれに一切動じずに応答してみせる)。その後、ホームズの格がボロボロ落ちていくのが残念ではあるが、それも本家シャーロック・ホームズへの思い入れがあるかどうか、キャラクター描写の差異を重要視するか否かで評価も変わってくるだろう。

思い込みとの戦い──『密造人の娘』 by マーガレット・マロン

密造人の娘〔新版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

密造人の娘〔新版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

書名の通り、密造人の娘であるデボラ・ノットを主人公にしたミステリ・シリーズの第一作。『密造人の娘』っていうタイトルだけだと何がなんだかさっぱりわからないけどね。デボラ・ノットは34歳独身女性(表紙の女性が多分デボラ・ノットなのだが20代にしか見えん! )とあんまり主人公にならないタイプでありながらも、弁護士としてのキャリアを積み、今回は地方裁判所の判事に立候補しきちっとした選挙戦を展開するなどやり手である。

早川書房のミステリアス・プレス文庫から1995年に出ていた作品だが、この度新版で登場となった。本国では大人気のようで、2015年もシリーズに連なる第20作目となる新刊が出ている(20作続くミステリ・シリーズは凄いよね)。一方日本でも刊行が続いているのかといえば、4作目の『悪魔の待ち伏せ』が前述のミステリアス・プレス文庫から出たっきり、その後は出ていない。今回わざわざ新板で1巻を出し直したということは、この後シリーズを翻訳継続させる意図があるのだろうか? かつてはおそらく売れなかったのだと思うが。

実を言うと、売れなかった理由も読んでいて「こうなんじゃないかな」と考えてしまうところはあった(実際に売れていなかったのかどうかは知らないので、仮定に仮定を重ねる話ではあるが)。けっこうアメリカのご当地事情を反映させた作品なのだ。デボラ・ノットは弁護士としてキャリアを積み、現在は地方裁判所の判事に立候補しているエリートだが、女性が弁護士、それも判事になろうだなんて……とする女性差別にまず晒されている。父でさえも、表立って反対こそしないものの弁護士になることも判事になろうとすることもいい顔をしていない。

彼女が戦う判事選の相手は「黒人」ただし「男性」。一方の彼女は「白人」ただし「女性」で当時の支配的な重要な役職は「白人男性」という価値観へ抗うものに設定されている。ゲイやレズビアン、バイ・セクシャルといった性的嗜好への差別も取り上げられるし、これはアメリカとは関係がないが、デボラ・ノットの父が名の知れた酒の密造人、犯罪者であることからくる差別もある。あいつの親父は犯罪者だ、だからあいつの娘であるデボラ・ノットも……という差別に、彼女は作中何度も遭遇することになる。

マイノリティや単に力の弱いもの、メディアに踊らされた人々が陥る「思い込み」こそがデボラ・ノットが事件とは別に打破していく壁であり、本作を貫く中心テーマとなっているのだ。

昨今ハリウッド映画では「女性がただ守られる存在である」とか、「ヒーローが悪を破った後のご褒美として与えられるトロフィー」としての役割を意図的に破壊するシーンを挿入することが増えている。ようはそれだけ「女性への固定観念」への配慮が、たとえフィクションの中であっても行き届き始めていることの一つの証左ではあるが、それはアメリカでは長い間問題として取り上げられてきた土壌があるからでもあるのだろう。

かように、本作では日本ではなかなか人種の壁だとか、政治上の対立、民主党と共和党の違い、酒の密造など「考えたこともない」問題ばかりが取り上げられており、ウケなかったんじゃないかなあ。一方で、今はそうした問題意識が日本でもようやく取り上げられるようになって、インターネットの普及も相まって身近なものにもなってきたから、「今こそ出し直すべき時期」とどこかの誰かが判断したのかもしれない。実際、問題としては今でも解決していないことであり、テーマ的な部分で古びている箇所はあまりないと思う。

読みづらいところとか

それはそれとして、本作はちょっと読みづらいところも多い。シリーズの1巻目だというのに次から次へとさして重要とも思えない新しいキャラクタが出てくる。デボラ・ノットには兄が11人もいて、その上親族の元妻だとか現嫁だとか、さらには幼なじみの元嫁、離婚した2番目の嫁と関係者も離婚しまくっており、えーとこいつは今の嫁だっけ? 元の嫁だっけ? だいたいこいつは誰だっけ? とやけに複雑な関係性が構築されて誰が誰だかよくわからない。

デボラ・ノットが巻き込まれる事件も、知人の一人娘から、「私が生まれたばかりに殺された母親の死の真相を明かしてほしい」と依頼され、地方裁判所の判事選挙活動を続けながら謎を追っていくが、とっくに終わった事件だし、判事選と同時進行的に扱われていくのであまり魅力的な謎ではない。つまらないわけではないが、作品全体としてみたら個人的にはそこまでハマりきらず。

思い込みとの戦い

一方で面白かったのは、先にも書いたが、本作が一貫して「思い込み」との戦いを描いていくことだ。判事選を通して黒人と白人、女性差別を描き、彼女の父でさえも彼女が弁護士をやったり判事に立候補することをあまりよくは思っておらず、何より酒の密造人の娘であることが、メディアを通して不当に彼女の価値を貶める。さらには、作中で展開するのは基本的に「愛憎劇」なのだが、ゲイやレズビアン、バイセクシュアルなど様々な性的嗜好を持つ人たちが出てきて、多様な形で「痴情のもつれ」が展開するのである。

痴情のもつれとか愛憎劇とかってミステリを読んでいて一番げんなりするパターンなんだけど(まったく興味がないから)本作の場合男☓女のワンパターンだけでなく、男☓男、女☓女☓女、男☓男☓女とかいろいろな組み合わせでの痴情のもつれが起こる。その結果ワンパターンに陥るどころか人間の関係性がよくわからないぐらいめちゃくちゃなことになっていくのだが、この感覚は20年以上前の作品であるにも関わらず現代的だなと思った。

シリーズ物であるとはいえ、一冊の中で話は完結しているので興味があれば。先にも書いたけれども、出版当時(1995年)より今の方が受け入れられやすい作品だと思う。

ユダヤ人たちの復讐の記録──『復讐者たち』 by マイケル・バー゠ゾウハー

復讐者たち〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

復讐者たち〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

女児や乳児を含む実に600万人のユダヤ人がナチス・ドイツに残酷に殺された──もしもこの世に悪があるとすればその最上ランクに位置するであろう極悪非道な行いである。もちろん罪の重さ、大きさは数値ではかれるものではなく、よってそれがどれだけの悪なのか、罪なのか、罰を与えるとしたら、600万人の罪なき人々を殺すことがどれほどの物に相当するのか──そんなことを決められる人間はこの世のどこにもいない。法は無限責任を追求しないし、現実的に考えて600万人の人間を殲滅した罪に相当する罰など与えるのは不可能である。

であればこそ──、この世界に存在する法に、自分たちの考える正当な「罰」を与える能力と基準がないのだとしたら、自分たちの正義に反するルールがまかりとおっているのならば、自分たちこそが正統的な「罰」を与えようとする者たちも出てくる。『法と正義が一体になっていないなら、どちらを取るか、選択せざるをえない。だから復讐者たちは危険を充分承知のうえで、正義を選んだのである。』とは本書の締めの部分に出てくる一節だが、これがまさに本書の核心を表している。

 この本で取り上げるのは、歴史上きわめて特異な出来事である。類例のないほどの規模とさまざまな形でおこなわれた犯罪に対して、復讐を果たすために立ち上がった少数の人々の苦闘の跡を、この小冊はたどっていく。すなわち、これはユダヤ人たちの復讐の記録である。

「目には目を歯には歯を」方式で復讐するにはなしえないほどの規模で蹂躙されたユダヤ人だが、決して何もせずにすりつぶされたわけではなかった。彼らは今でいうところのテロのようなやり方でナチス・ドイツ時に重要なポストについていた人間、あるいはただ単に関与していた人間を、裁判のような正当な手段を行わずに次々と殺していった。時には個人が、時には少数のグループが、時には組織的な犯行として──その数は正確なところはわからないが内部事情に詳しい者によると、復讐者が処刑したナチの数は1000から2000の間だという。

本書はナチへの復讐を行っていた人、組織らを中心にインタビューと聴きこみを重ね、後にスパイ小説の巨匠として知られるようになるイスラエル人作家マイケル・バー゠ゾウハーが、そのストーリーテーリングの才能を投入し魅力的なストーリー型ノンフィクションとして仕立てあげている。最初に出たのは1989年のことであり、当時は関係者らが生きていた時代だった。むしろ取材執筆時点で第二次大戦から数十年の時が経ち、ようやく「正直に話しても、のちの人生にさほどの影響を与えない」として証言が集められる適切なタイミングだったのだろう。

本書の構成

それで、これは結局どのような本なのかといえば、構成がまず面白い。まず第一部では、ユダヤ人の復讐の具体例を取り上げ、聞き込みで得た数々の「ナチを復讐で殺してやった」個人から組織的な犯行までさまざまなエピソードを描写していく。中にはたんに拳銃を持って捨て身の特攻をかけて一人を殺す例もあれば、少人数チームでナチの元を渡り歩き一人一人処刑していく暗殺グループもあれば、捕虜収容所に収容されている3万6000人のSSを相手に毒を盛り皆殺しにしようとする大規模テロじみた例もあり大小様々だ。

第二部では、ナチの重要人物から小物まで、一転して歴史的な犯罪者となってしまった関係者らがどのようにして逃亡し生き延びた/あるいは生き延びられなかったのかを描いていく。南アフリカや中東に逃げる例、後にユダヤ人の国となるイスラエルへとユダヤ人のふりをしてもぐりこむナチなど、被復讐者の逃亡方法も多様である。最後の第三部では特に有名なアイヒマンをいかにイスラエル諜報機関が発見し、追い詰めていく過程を中心として、ナチ主要関係者らが追い詰められていく様を丹念に綴られていく。

復讐は何もうまない、のか?

復讐は何もうまない、だからやめるんだ──とは、物語ではよく聞く説得のロジックである。確かに、ヒトラーを残虐に殺したからといって失われたユダヤ人の命がドラゴンボールよろしく戻ってくるわけではない。特定個人の死とは不可逆かつ代えのないものであるから、代わりに何かを消したところでプラスマイナスが帳消しになるものではないのだ。そういう意味では確かに復讐は何もうまないのかもしれない。だが──、それも所詮「一理ある」程度のロジックでしかない。

実際にユダヤ民族として理不尽な集団虐殺を受けた彼らの中には、たとえ何が戻ってくることはないとしても復讐をせねばならないのだとする人間らが出てくる。なぜわれわれだけがアウシュビッツで地獄をみなければならないのか。黙っていなければならないのか。われわれをこんなめにあわせたあいつらの頭にも忘れられない名前を刻みつけてやるべきだと。そうして実際に幾人ものナチを、殺し自分たちが受けた被害と比べれば実に微々たるものだが部分的な復讐を遂げた人たちは何を感じ、考えたのか。

 何人かの復讐者とじっくり話をした結論として、かれらの全員が、例外なく、国家のための歴史的な使命を託されたと感じており、民族全体の代表者であると思っていたようである。今日でもなお、かれらは義務を果たしただけであると信じきっている。復讐の願いを果たした喜びを味わったことが、道徳観念や精神状態に影響を及ぼしたということはないようである。そしてかれらのほとんど全員が、過去の行為を他人に知られている、いないにかかわりなく、現在はイスラエルの軍人や文官として重要な地位についており、普通の人たちと少しも変わりない。

復讐を終わらせなければ、前に進むことのできない障害物のような存在として彼らの心中には残っているように思える。彼らにとって復讐とは「相手への報復」だけを目的としたものだけではなく、自分たちがやらねばならぬ「義務」であり「正義の鉄槌」であったのだろう。だからこそ、もちろん一部のナチを殺すことで生き残りのナチの人生を恐怖に叩きこむなどの効果をもたらしながら──ユダヤ人復讐者にとっては、復讐が何ももたらさないとしても、復讐を完遂すること、それ自体が重要だったのだと今は思う。

実際、復讐を行った人、著者がインタビューした人の中では自身が行った復讐を悔いているものは誰も居ないのだ。『現在、かれらは軍の幹部をはじめ、ビジネスマン、教師などの職についたり、農業に従事したりしている。しかし、自分たちの過去の行為を後悔していると言った者は、一人もいない。反対にユダヤ人の報復は寛大だったと全員が信じている。』

結局、この本はなんだったのだろう?

本書を読めば、確かにユダヤ人が決してやられたままではいなかったこと、その端的な事実がわかる。また、人間がどのようにして組織的な「復讐」に出るのか、その実態をさまざまな事例から読み取ることができるはずだ。最初に引用したように、人は自分自身の正義にのっとって行動し、時に法が自身の正義に適合しない場合は、法を乗り越えて自分自身の正義を執行することがある。

いま、目の前で変わりつつある歴史──『双生児』 by クリストファー・プリースト

双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)

双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)

双生児(下) (ハヤカワ文庫FT)

双生児(下) (ハヤカワ文庫FT)

クリストファー・プリーストの代表作ともいえる作品が上下巻の文庫で登場。主にファンタジー作品を出しているハヤカワ文庫FTから出ているが、ハヤカワ内でもどこが出すのかは難しい問題だったのではなかろうか。ハヤカワ文庫NVで出そうが、ハヤカワ文庫SFで出そうが、ハヤカワ・ミステリは微妙かもしれないが、とにかくジャンル越境的な──というよりかは、ジャンル小説的に「わかりやすい」書き方をあえて拒否した結果生まれた作品だろう。

第二次世界大戦期の、それぞれまったく別の形で戦争に関わることになる双子の兄弟の運命をおった本書は、「戦争とはこういうものだ」という単純化でもなく、戦場の心理描写をこれでもかと具体的に描くのでもなく、ただただそこに居る人々、軍人や民間人の生活をその両極端にいる双子を中心として淡々と描いていく。魔王を倒す、というわかりやすい目的や何らかのテーマが一番最初にみえてくるわけではなく、物語の全貌は上巻を読んだだけではよくわからない。

それでも本書がページをめくる手が止まらない高いリーダビリティを誇っているのは、単なる風景描写の一つであってもいつまでも読んでいたくなるような文章の心地よさ、さらっと描かれていく言葉の一つ一つに深く惹きつける文体の魅力、全貌がわからなくとも単体として読んでも面白い各挿話の面白さゆえだろう。実際、上巻を読んでいるときは「この物語はいったい何なんだろう」と疑問に思う間もなかった。

簡単なあらすじ、構成

物語は全五部で構成されており、第一部は1999年を舞台にしたノンフィクション歴史物を主軸とする作家のサイン会からはじまる。そこへ、かつて空軍に所属していた父の手記を持った娘が現れ──。作家はチャーチルがソウヤーという人物について「良心的兵役拒否者でありながら、現役の英空軍爆撃機操縦士である。どうしてそのようなことが可能なのか、調べるように」と述べていることにある時気が付き、できれば本を書きたいと考え、戦時中の「ソウヤー」なる人物についての情報を求むと広告をうっていたのだ。

兵役拒否者にして軍所属なのだから。確かにそれは奇妙な話のように思える。ただ、この謎それ自体は第二部が始まってすぐに明かされてしまう。第二部からは作家が受け取った英空軍爆撃機操縦士であるソウヤー氏の手記(1936年➖1945年)がそのまま載せられており、戦争文学のように、淡々と戦場について、彼が戦場に至るまでの過程について、そして彼がその生活の大部分を共にしてきた双子のジョーについての話が展開する。ようは、ソウヤー氏が良心的兵役拒否者でありながら英空軍爆撃機操縦士であるのは、単に「それぞれの仕事についた、イニシャルが同じで文字列だけでは判別不可能な双子」がいたという、ただそれだけの話なのである。

二人は一卵性双生児の双子で、常にペアとして扱われ、「いつでも入れ替わることができますね」というくだらない、繰り返される文言に晒され続ける。その実二人の内面は(片方が良心的兵役拒否者で片方が爆撃機操縦士になるように)大きく異なっており、その「ズレ」と、それでも同じ環境で同じ遺伝子を持って生まれてきてしまったばっかりに生まれる「同調性」とそれ故の葛藤──根底では繋がっている思想の違い、同じ女の子を好きになる──がここでは丁寧に描かれていく。

戦争が起こりつつあり、二人が同じく好きになった美しい女の子ビルギットをドイツからイギリスへと連れだそうとする。双子が、同じ女の子を好きになり、状況も危機的。物語を劇的なものにしようと思えばここは感情を煽り立てるように書くべきかもしれないが、本書はあくまでもその後戦争を生き延びて長い年月を生きることになるソウヤー氏の振り返りの日記なのだ。全てはかつて起こったことであり、葛藤さえも懐かしむような手触りと距離感が心地よい文体となって残っている。

 戦争勃発にともない、すべての人の生活が変わった。多くの人と同様、わたしは自分がはじめたわけではなく、望んだわけでもなく、戦う理由もろくにわからない戦争を戦うことで、自分の生活にあらたな目的を見いだした。戦争は問題を単純化する。数多くの小さな関心ごとを一掃し、大きな感心事で置き換えてしまう。多くの人にとって、個人的な優先事項の変化は、歓迎すべきものだった。わたしもそんな連中のひとりだった。一連の、大規模な社会的かつ政治的変革が国じゅうを席巻し、それを止める手だてもなければ、疑義を唱える者もいなかった。そうした過程のなかで、わたしはわれわれ全員がそうであったように、取るに足りない存在でしかなかった。当時、なにが進行しているのかだれも理解していなかった。われわれは毎日それを体験していたというのに。われわれにわかっているのは、戦わねばならない相手がヒトラーであり、戦争を最後まで完遂しなければならないということだった。あとになってはじめて、われわれは振り返り、なにが起こったのか、なにが変わったのか考えはじめることができるのだ。

実はこのソウヤー操縦士、かつて双子の兄弟揃ってボート競技のオリンピックメダリストであり、当時のドイツ労働党副総統まで上り詰める権力者であるルドルフ・ヘスに出会っている。その事が引き金になり、チャーチルに呼び出され極秘任務の為歴史に多少の関与をすることになるのだが──というあたりから本作が単なる兄弟の物語を超えて「歴史秘話」の物語要素が強くなる。

いま、目の前で変わりつつある歴史

物語が追求する「歴史秘話」の部分は、実際の歴史でも謎とされている部分で、ここまでだけだと単なる「よく出来た語られざる歴史を想像力で補う、歴史小説」の枠内に収まってしまう。もちろんそれでも十分に面白いのであるが、上巻の最後に収録されている第四部、それから下巻の第五部からの物語を読むとこれまで読んできたことの印象が破壊され、今まで読んできたものはいったいなんだったんだ?? と揺さぶられることになる。

たとえば、下巻をまるまる占有している第五部のメインとなるのは良心的兵役拒否者として、戦争に行かず赤十字で働くソウヤー(ジョー)の手記であり、不可思議なことに彼が体験していく「歴史」は軍人でありチャーチルの極秘任務に関わったソウヤー(ジャック)とはまた異なった歴史をたどっていくことになるのだ。赤十字のソウヤー(ジョー)は、こっちはこっちで和平締結に向けてドイツとイギリスの間で重要な役割を果たすなど、イギリスの歴史に深く関与する働きをすることになる。

それぞれの歴史、手記において、彼らはそれを「唯一の歴史」として生きている。それでも、それを横に並べて読んでいく読者側からすれば双子が経験している歴史に存在しているズレを知覚することができ、まるで電車のレールが切り替わるように、歴史は「どの部分で」変わってしまったのか、どのような原因がそれを引き起こしたのかをまざまざと目撃することができる。「変わってしまった歴史」ではなく、「いま、まさに目の前で変わりつつある歴史」を我々は体験していくことになるのだ。

序盤から後半へ向けて複雑な、しかし読み味を損ねない構成。細部まで読み込んでいくと数々の仕掛けが物語中に仕掛けられているその徹底さ。歴史改変という基軸を、各世代にまたがる家族、兄弟の物語、そして歴史の物語とさまざまなレベルまで敷衍させ、ラストへ向けて鮮やかに収束させていくなど、著者が自身をして「”完成”された小説(にいちばん近づいた)」と言わしめるだけはある高いレベルで構築されている作品だ*1

特定のジャンルに振り分けることが不可能に思われる作品ではあるが、一度読み始めてしまえば本書のジャンルが何かなどという問題は小事として意識の片隅に追いやられ、ただただ「物語」そのものに惹きつけられることになるだろう。

*1:解説(大森望さん)には著者であるプリーストいわくお気に入りの自作長編のひとつとして本書を挙げ、『”完成”された小説にいちばん近づいた作品。バランスがよくてシリアスで複雑。しかも、純SFの(しかし軽く見られている)設定を採用している』と述べたエピソードが書かれている。

「火星の人」以後まで完全カバー『海外SFハンドブック』と『海外ミステリハンドブック』

海外SFハンドブック (ハヤカワ文庫SF)

海外SFハンドブック (ハヤカワ文庫SF)

火星の人、ミエヴィルなど最近名を馳せてきた海外SF作家を新たに網羅し長谷敏司、藤井太洋両氏の対談、小川一水氏などSF作家らのマイフェイバリット海外SFなどが新たに追加された海外SFガイドブック新版になる。年代ごとに分かれた海外SF年代史やアップデートされた必読書100冊など、これから海外SFを読もうという時の指針となり、2000番を超えて尚その巻数を重ね続けている海外SFのこれまでの歩みを知るためにも最適な一冊となるだろう。

この不肖冬木糸一、本年1月より海外SFブックガイド担当者としてSFマガジンで見開きの連載を続けており、そこから後のものは出ているものは全て読んでいるが──なにぶんそれ以前の海外SFの知識について専門家といえるほどの何かがあるわけではない。実を言うとSFを読み始めたのは2007年あたりなので、幼少時よりSF一辺倒という筋金入りともだいぶ違ったりする。だから本書については、非常に参考にさせてもらった(おいおい……不安にさせるなあ)。

「海外SFを読んでいる世代」と「読めないのが当たり前の世代」

とまあこれで本書の機能的な側面についての話は終わってしまったのでこれ以上の説明・紹介が必要なのかといえば、ないのだけど。長谷(1974年生)・藤井(1971年)対談で出ていた「海外SFを読んでいる世代」と「読めないのが当たり前の世代」という話が面白かったのでそこだけ個人的な雑感を書いてみようかしらと。

藤井 私と長谷さんの年齢は、SF文庫を全部読んでいるかどうかの端境期ですよね。私よりも一世代上には全部読んでいるのが当然な方が多いんです。でも私は全然読めていなくて、罪悪感が。
長谷 僕もです。
藤井 今、二十代、三十代前半の人は全部読めていなくて当たり前の、少し気楽な世代になる。そういう若い読者がどのように楽しんでいるのかはとても興味がありますね。

これでいえば、僕はいちおう20代にあたるので「読めないのが当たり前」の世代になる(一般的なサンプルとはとてもいいがたいようなきがするが)。確かにその通りで、僕も先に書いたように「全然読めとらんわ」と恥ずかしげもなく書いている(恥ずかしいが)ことからもわかるとおり、読めるわけがないし、全部読めていないのが「罪悪感がある」なんて感覚があるのか! と逆に驚いたぐらいだ。ただ、これは僕がSFコミュニティみたいなものとまったく関わったことがないからかもしれない。SFの話を自分主催の読書会以外ではほとんど誰ともしたことがないし。

どのようにして楽しんでいるのか……といえば、全部読まなくてはいけないわけではないから、10年20年といった単位で昔話題になったSFをちょこちょこと、思い出したように楽しんでいる。今で言えば、ハヤカワ文庫補完計画で復活している海外SFは全て読んでいるが、過去の名作を楽しむにあたって時代の影響というのは意外なほど少ないものだなと思ったりする。好き勝手にその時々で「いま読まねばならぬ」とか「全部読まねばならぬ」とかいうプレッシャーとは無縁に、好きなときに好きなものをお気楽に読めるいい世代だと、確かにそうした言い方もできるだろう。

ほんとにそんなことを言っている人がかつていたのかどうか定かではないが「SFを語るなら1000冊読んでから」的な言質が今となってはたまに「そんなことをいう人もいたね」と語られるものとなっているのも(たぶん。少なくとも僕はそういう言質はほぼみなくなった)、「読める訳がないよね」という空気が関係しているのではなかろうか。もちろんまっとうなSFファン達が「SF1000冊読まないと語れないとかそんなバカなことがあるか」と声を上げてきた結果でもあるのだろうけれど。

一方「全てを読めない」ことは怖さもあって、歴史的な語り方がどうしても難しくなってしまう。ディックやティプトリーの時代を僕は「そんな時代もあったんだなあ」と懐かしく思い、点として個々の作品を読むだけでその時に同時に刊行されていた様々な作品を横軸で、空気感として感じ取ることができない。これこれこういう作品とこういう作品とこういう状況の中にこの作品は位置づけられる──歴史の中に新しい作品を付け加えていく作業を、僕は自覚的にやってこなかったのだが、それは自分がSFを読み始める前(2007年前後)の作品を点でしか読んできていないことと関連しているところはある。

もちろんこうした歴史を辿り直すようなガイドブックを読むことによって流れ、それ自体は大まかに捉えられるものの、どうしてもそれは体験とは別個の知識的なレベルにとどまっているものだ。今後は全てを読む、というよりかは作家単位や特定のテーマ単位で限定されたSF史を追っていく形が主流になるのかもしれないなあと思いつつ。

『海外ミステリ・ハンドブック』

海外ミステリ・ハンドブック (ハヤカワ・ミステリ文庫)

海外ミステリ・ハンドブック (ハヤカワ・ミステリ文庫)

『海外ミステリ・ハンドブック』も出ている。こっちはこっちで記事を起こそうと思っていたのだけど、100冊の本をそれぞれのカテゴリにそって紹介していくブックガイドがほとんどを占めていて機能的な側面以外に書くことがなかったので統合することに。表紙がかっちょいいね。カテゴリがどのように分けられているのかといえば、次の通り。

1.キャラ立ちミステリ、2.クラシック・ミステリ、3.ヒーローorアンチ・ヒーロー・ミステリ、4.<楽しい殺人>のミステリ、5.相棒物ミステリ、6.北欧ミステリ、7.英米圏以外のミステリ、8.エンタメ・スリラー、9.イヤミス好きに薦めるミステリ、10.新世代ミステリ として『その女アレックス』までばっちり入っております。

その他作家論としてジェフリー・ディーヴァー、デニス・ルヘイン、トマス・ハリス、マイクル・コナリー、アガサ・クリスティー(について書いているのは二人:数藤康雄さん、若島正さん)、P・D・ジェイムズがそれぞれ。ちと寂しいのはすべて解説や雑誌に載せられたものの再録だというところだけど。他、有栖川有栖さんの短いミステリエッセイが一つと、皆川博子さんのマイ・フェイバリット・ミステリの雑誌再録原稿が載っております。

太平洋戦争全史──『大日本帝国の興亡』 by ジョン・トーランド

大日本帝国の興亡〔新版〕1:暁のZ作戦 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

大日本帝国の興亡〔新版〕1:暁のZ作戦 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

全5巻にわたって太平洋戦争の発端から結末まで、アメリカの戦史作家であるジョン・トーランドが妻の日本人と共に、まだ当時生きていた関係者へと膨大な量のインタビューを試みながら詳細を明らかにしていく、圧巻のシリーズである。

最初版は1971年に出版され、その後早川書房から1984年に出版、2015年の新版はそこから30年以上の時を経て、各巻新解説及び対談を付けられて復活した。さすがに40年以上前の本なので今となっては否定された説や誤謬もあるが、今後も太平洋戦争を総体的に捉えようとした時に重要なシリーズとして残り続けていくだろう。

なぜ、開戦する前から「まず勝てない」と言われていたアメリカとの戦争に踏み切ってしまったのか。各種の代表的な戦場・戦闘で一体何が起こっていたのか。どのような指揮系統と判断が行われていたのか。沖縄戦や原爆によって多くの日本民間人がなくなったが彼らは何を考えどのような態度でいたのか。特攻もあった。原爆も落ちた。幾人もの腹切りが行われる特殊な精神性がまだ色濃く残っている時代であった。

ニュー・ジャーナリズムスタイル

太平洋戦争といっても始まりから終わりまで、そこには多様な論点が含まれる。それを包括できるとは思えなかったがジョン・トーランドは見事にそれをやっているように思える。本書で採用されているスタイルは事実のみを提示、羅列していくスタイルとは違って、当時はまだ珍しかったはずの、広く歴史を俯瞰した「事実としての流れ」を追う部分と、その合間合間にはさまれる「生の声」としての各種インタビューが絶妙な割合で配置され物語としての面白さを伴いながら事実を知らしめてくれる。*1

「生の声」を拾い上げるのは、観客の注意を惹きつけるには良い一手だ。今まさに特攻し国の為に派手に散ろうとする若者兵どもを前にして主任教官が『「沖縄には監視所がある。これが貴様たちの任務の成果を確認する」と彼は言った。「今夜は満月である。月が見ていてくれるから、貴様たちは一人ではない。おれもあとから行く。待っていてくれ」』と宣言する場面などありありとその時の悲壮な顔と状況が浮かび上がってくる。

しかし感情を揺さぶられると判断力まで引っ張られる。いくら「本人から体験談を聞いた」としてもそこには多くの誤謬と意図的な誇張などが含まれる危うさもある。体験談をいくらたくさん集めようが、それは事実性に乏しい「1」の集積でしかないことを常に意識する必要がある。本書は大量のインタビューを行ったのであろうが、それをキツキツに詰め込むというよりかは特に印象的なものを寄りすぐい、事実と共に少数配置し、ある程度自制的にコントロールしようとしているように思える。

本書が成立しえたのは大量のインタビューがあってこそのものだと思うが、その時期もまた絶妙だった。太平洋戦争という大きすぎる事象を前にして、終わった直後は誰もが当事者でまだ傷も癒えない。かといって40年50年と経ってしまうと、当時の生き証人はどんどんその姿を消す。本書のインタビューは、約25年の期間を開けて行われたのだ。1巻の解説でも触れられているが、『戦争からは十分に距離を置くが、かといって遠すぎはしない。読者の大半も、初版当時はあの戦争を覚えている人だった。』ということになる。

加えていえば初版当時の状況も説明しておく必要があるだろう。日本は敗戦から精神的にも経済的にも完全に立ち直って、欧米諸国を脅かす勢いで成長を続けている時代だった。反面欧米諸国からしてみれば、かつて戦時中に特攻もすれば平然と腹を切って死に、一兵卒に至るまで死に物狂いで襲いかかってきた野蛮な民族のイメージがまだ残っている。本作はそうした状況で投じられた「日本をあの戦争から語り直し、正しく位置づけなおそうとする」シリーズで、実際にアメリカの多くの大学で基本書的な扱いを受けていることもあってその目的を達成しているといえるだろう。

著者のジョン・トーランドはアメリカ人ではあるが日本人の伴侶を持ち、だからこそ彼は大部分を日本側の視点から描き、日本人が当時は特にまだ色濃く持っていた特殊な精神性を反映させ、非常にフラットに書かれていく。ベストなタイミングであったと当時に、日本人の伴侶を持ったアメリカ人という立ち位置を持った著者だからこそ成し得た本なのだ。

以下、各巻について簡単に触れていこう。

大日本帝国の興亡〔新版〕2 :昇る太陽 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

大日本帝国の興亡〔新版〕2 :昇る太陽 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

本作第1巻は「2.26事件」からこの太平洋戦争の物語を始め、ナチス・ドイツのヨーロッパ侵攻、日米双方が粘り強く和平へと向けた高尚を続けながらも開戦の機運が高まっていく過程を描いていく。全ての結果がわかっている後世からすれば「絶望的な戦力差の前でなぜ……」と思ってしまうところだ。それも、当時のトップである東条英機は『外交交渉が和平をもたらしてくれるものと希望している。』と主張していたにも関わらず。人間の判断なんていうものはいつだって不完全な情報を元にした物であるのだと、その「どうしようもなさ」がよくわかる。

第2巻ではついに和平交渉は失敗してしまい、日本軍が真珠湾攻撃を実行。マレー半島、フィリピンに上陸し、緒戦は確かに勝ったようにみえるが──ミッドウェー沖海戦に至って日本海軍が大損害をおうところまで。日本側の暗号がとっくに相手に知られている状況下での戦闘がいかに不利益になるのか、どのようにして相手の暗号名の意味を割り出すのかの情報戦が詳細に描かれており面白い。

大日本帝国の興亡〔新版〕3:死の島々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

大日本帝国の興亡〔新版〕3:死の島々 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

第3巻ではミッドウェー沖海戦後に行われた連合国軍vs日本軍のガタルカナル島での死闘、サイパン島の死闘が描かれ、日本はもう敗戦一直線の「惨憺たる有り様」が延々と描写され続けていく。ガタルカナル島やサイパン島、その後の本土決戦でも一兵卒に至るまでに「お国の為にー!!」「一人生き残るのは恥」「逃げるのは恥」といってみな当然のように死んでいく、狂った戦場の有り様が体験談や数字的な事実から浮かび上がってくる。

今からすると異常な精神性という他ないが、当時は当たり前だったのだ。もちろん精神がいくら凄かろうが勝てるはずもなく、ガタルカナル島は補給も届かず敵は増え続け戦闘員は餓死者が続出し戦闘を継続しているのが不思議なほどであったという。

 病気と空腹であまりにも弱り果て、戦うことができなくなった兵士たちが浜辺にひしめいていた。空気は、くさりかけた死体が発散する悪臭に満ちていた。負傷者や病人に、大きなアオバエがたかったが、彼らはもう、ハエを追う力もなかった。兵隊は「死亡早見表」を作った。
  立ち上がれる者………………………………………………あと三十日生存
  起き上がれる者………………………………………………あと二十日生存
  横になったまま小便をしなければならない者……………あと三日生存
  口がきけない者………………………………………………あと二日生存
  まばたきもできない者………………………………………あと二日生存

大日本帝国の興亡〔新版〕4:神風吹かず (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

大日本帝国の興亡〔新版〕4:神風吹かず (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

第4巻ではレイテ島、硫黄島、神風特攻隊の初出撃などなど。ついに日本も追い詰められるところまで追い詰められてきた。物資も人員も足りず、持ちえるものはこの身体のみといった状況下でさらに連合国側からみれば狂気としか思えない日本人の精神性が発揮されてゆく。生存者数などとても真っ当な戦争とは思えない数字が現れている。

 十六週間の退屈な掃討戦は別として、戦闘は終わった。レイテ防衛のためにやって来た七万の日本兵は、優秀な装備を持つ二十五万のアメリカ軍を相手に戦い、期待された働きを示した。彼らはアメリカ兵一万二千人を負傷させ、三千五百人を殺した。しかし生きて故国を見た日本兵は、たった五千人程度横横十四人に一人──だった。

大日本帝国の興亡〔新版〕5:平和への道 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

大日本帝国の興亡〔新版〕5:平和への道 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

最終巻となる第5巻では民間人も多数巻き込まれた沖縄での最後の死闘、各都市への空襲によって本土は焦土へ、何より広島・長崎に原爆が投下されポツダム宣言が受諾される。平和への道という副題が皮肉だ。戦闘員があらかた殺しつくされて民間人へ爆弾を落として平和へと至っているのだから、平和への道は血塗られている。沖縄で将校は腹を切り一兵卒も手榴弾で自殺したり無謀な突撃をして無駄死を繰り返すどころか、ただの民間人まで含めて自決を手段として選ぶものが少なくなかった。

 日本軍は十一万の兵力を失った。そのうえ、民間人の死傷者は空前の比率であった。二つの軍の間にはさまって、約七万五千の罪なき男女、子共が死んだ。しかも彼らの犠牲は何の役にも立たなかった。日本は、本土以外で戦うことのできた最後の大きな戦闘に敗れたのである。

おわりに

軽く全体の流れに触れてきたが、もちろん論点はとてもここで書ききれるものではない。一度はじまってしまった戦争を止めることの困難さ、どんどん餓死し、戦闘を行える状況ではない兵卒とそんな状況をまったく知らないところから指令を出す温度差、戦争に巻き込まれていく兵士一人一人の精神状態などなど。

長大な本だから、夏休みとはいわずに年末でも、あるいは何年先でもいいから一度腰を据えて読むのがいい(僕もこの夏休みに一気読みした)。もちろん太平洋戦争みたいな広範な事象を本書一冊でまかないきれるはずはないのだが、これを一冊読んでおくだけで太平洋戦争の全容を知ることはもちろん、国家や政治というあやふやなものがどれだけの事態を引き起こせるのかが実感されることだろう。

*1:3巻の野村進さんによる解説を読んだが、彼はこうした記録性よりも物語性に重点をおいた作品群をニュー・ジャーナリズムと定義しているようだ。

来訪者 by ロアルド・ダール

来訪者〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

来訪者〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ロアルド・ダール作品はひとつも読んだことがない。一番有名なのはティム・バートン監督によって映画化された『チャーリーとチョコレート工場』の原作シリーズなのかな。そう聞くと児童文学畑の人間とお思いになるかもしれないが本書はどれもセックスを話のメインにおいたエロティックな全4篇の短篇集だ。ちなみに新訳版であり、リニューアルされた表紙は中身に負けず劣らず魅惑的。イラストもさることながら、書名の自体がめちゃくちゃかっこいい。SWITCH BITCHときたもんだ。

セックスをメインにおいた作品と最初に宣言したけれども、実際に「ことの最中」が長々と描写されることはなく(これはまあ、エロ小説でない以上基本的にはあたりまえだけど)あっさりと済まされ、「どのようにしてその状況になだれこむのか」「終わった後、何が起こるのか」の面白さによって物語として成立している。だいたいどれもバカバカしく、うそ臭く、アホくさい話ばかりなのだが、それなのにシチュエーション構築能力が異常に高いせいで「そんな状況を設定されたら面白く無いはずがないだろ」と思わず笑いがこみ上げてくる。

来訪者

短編も4つしかないから一通りお話を紹介していこう。表題作にもなっている『来訪者』では、30年前から親族の前から姿を消し、大金持ちの独身者で、大の旅行家で、親族の間では伝説的存在だったオズワルド叔父が中心人物となる。彼は突然親族に、死後に残せる財産などがないから、せめて個人的な日記を送ろうと言って300ページずつ全38巻のめちゃくちゃな日記集を送り付けてくる。その内容は日記でありながら各所を旅しながら様々な女性達と関係を持ち、去っていく女性遍歴一代記のようなものだという。

『この日記を単にひとりの男の女性遍歴一代記としてとらえた場合、断言してもいいが、これに比肩しうるものは存在しない』とまで言わしめる内容で、「すげえ気になる」という他ないが、実は短編の内容はこの叔父の1エピソードなのだ。『来訪者』の中で明かされるエピソードのひとつは、シナイ砂漠を移動中に、ガソリンの枯渇と部品の交換の為に辺鄙な町・村のような場所に立ち往生するはめになった時のもの。たまたまそこを通りがかった裕福な男性に「うちにこないかね」と砂漠の真ん中にあるお城のような豪邸に連れて行かれると、そこには……。

アラフォーながら25歳と見間違うような美人な奥さんと、これまた同じく光り輝く18歳の娘が! しかも父親はこの娘を溺愛しており、わざわざ砂漠の中にお城を建てているのも不埒な男どもから娘を守るためだという。そんな場所にやってきたのは天下の女たらしであり『知ってのとおり、私は一度知り合った女性のもとには二度と戻らないことにしている。いずれにしろ、私を相手にした女性たちはみな最初の出会いですべてをさらけ出してくれるので、二度出会ったところで、いわば同じヴァイオリンが奏でる同じ調べを聞くことにしかならない。』とまで言い放つ天性の女の敵。

果たして絶世の美女二人を前にしてオズワルド叔父は二人を堪能することができるのか、それとも──というまあくだらない話ではあるのだが、「オズワルド叔父がいかにエロ的に凄まじい人間なのか」と散々盛り上げていったあとで、「難攻不落の要塞の中にいる美女達」の中に飛び込んだーーー!! という展開だけでワクワクが止まらない。ほこ×たてみたいだ。

雌犬

原題は当然BITCH。こっちもオズワルド叔父のエピソードで、『来訪者』以上にバカバカしい。旅行の最中に香りで男性の性欲を刺激し狂わせることのできる薬をつくることができる(金があれば)と豪語する科学者にポーンと金を渡してやるところから物語ははじまる。オズワルド叔父は人体実験などなど紆余曲折ありながらできあがったその薬を使って、大統領のスピーチ中に炸裂させ全民衆の前で性欲に狂わせてやる! と無茶苦茶(バカ)な思いつき計画を真剣に練りはじめる。「凄い人」というか「凄まじいバカ」以外の何者でもない。それでも「大統領、成人向け放送を開始」などの見出しが踊る翌朝の新聞を想像してうひひと喜ぶ彼の姿はちと羨ましい。

夫婦交換大作戦

タイトルからしてもうバカ丸出しって感じだが、それぞれ嫁を持つ男二人が共謀して、相手の嫁さんには浮気と知られずに自分たちだけ相手をチェンジしようとする話。個人的にこの短編は大好きで、それはめちゃくちゃバカな話でありながらそのシチュエーションを実に凝って演出しているからなのだ。たとえば物語は、いきなり二人の男が「どうやってお互いの嫁さんに気付かれないように、夜這いをかけようか」と相談するところから始まる「わけではない」。

すぐ隣りの家に住むジェリーの奥さんがとても好みの顔をしているため、「どうやったらあの奥さんと俺は寝れるんだろう?」⇨「そうだ、ジェリーに嫁交換を持ちかければいい」⇨「でも、そんなこといきなり言ったら怒るかもしれないな……」⇨「どうやったら怒られずに極秘スワッピング計画をジェリーに持ちかけられるだろう?」と実にウジウジと悩んで・作戦を立てていくのだ。いきなり提案したら怒られるかもしれないから、「実はこんな感じでスワッピングに成功した夫婦があってね……」と単なるバカ話として持ちかけたら相手が乗ってきて……と実際にスワッピング計画がスタートしてしまう。

お互いの体格を揃え、暗闇の中で移動しても絶対にこけたりしないようにお互いの家の構造を把握し、もしもバレそうになった時にどうするかの符合を決め──とスワッピング計画を実に入念に練り上げていく。こういうバカバカしい計画を大の大人が真剣に作戦を立てて実行しようとするのが僕は好きなんだよなあ。

やり残したこと

バカバカしい話が続いたがこれはしんみりとした話だ。最愛の夫に先立たれてしまい、娘や息子もそれぞれ家を出て行って巨大な喪失感と戦っている一人の女性の物語。その喪失を仕事に没頭することでなんとか埋め合わせていたが、ある時出張で行った地にむかし自分がてひどく振ってしまった相手が医者として働いていることを知ってしまい──。当然物語はこの老年に入りかけている男女の性愛の物語に発展していくわけだが、なんというかこの夫にも子どもたちにも去られてしまった女性の喪失感の描写や、むかし自分が振ったことを棚に上げて再度自分の都合によって再度関係性を結ぼうとするある種の図々しさなど派手さこそないものの読みどころは多い。

果たして「やり残したこと」とは、女性側から見たものなのか、かつて振られ、裏切られたことによる男性側から見たものなのか、はたまたその両方なのか──と雰囲気がガラッと変わる瞬間が気持ち良い短編だ。

まとめ

ロアルド・ダールの文章は読んでいてとても心地よい。決してきらびやかでも装飾過多でもなく、淡々と描写が世界を基盤から積み上げていくような安心感がある。それはバカバカしい話を展開するときにはずっしりと納得感を担保する礎となり、『やり残したこと』のようにどこまでも現実の感情をなぞる場合には余韻となって最後まで残る。エロティックな短編として記憶に残る一冊となった。

ママは何でも知っている (ハヤカワ・ミステリ文庫) by ジェイムズ・ヤッフェ

短編連作の安楽椅子探偵物の中でも傑作と名高い作品。安楽椅子探偵物とはいったいどのようなものをさすのかといえば、安楽椅子に座ったまま事件のあらましを聞いて幾つか質問をしただけで理屈をこねくりあげたちまち事件の真相に至ってしまう、つまるところ家から一歩も出ない引きこもり探偵への呼称である。

ママは何でも知っている (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ママは何でも知っている (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ただでさえ謎が提示され、それに対しての真相が明かされるというある程度のフォーマットが指定されているミステリ・ジャンル内のサブ・ジャンルなのだから、さらにフォーマットは狭まってしまっている。何しろ安楽椅子探偵が捜査に乗り出したらイカンわけだから移動させるわけにはいかないし、基本は同じ場所で展開されるのであまりたくさんの登場人物も出せない。せいぜい探偵役、探偵に事件を持ってくる役、もう一人か二人賑やかし、といったぐらいだろう。

探偵役はあらかた情報を聞いて、それだけで判断しなければならないのだが、この安楽椅子探偵物の面白さのひとつはそのシンプルさの中にあるのだろう、個人的にはそこを楽しんでいる。必要とするのは泥臭い調査などではなく……いやもちろん調査があってこそなのだが、取り揃えられた情報だけを元に犯人を推理する、いわば謎解きの素材は最初から一斉に開陳されるので、読者的には一番おいしいところだけを堪能できる。

だからといってずらずらずらと情報を並べ立て自動解答機みたいに探偵役が答えを出したら、それでは小説である意味がない。問い1〜〜解1〜〜といった問題形式にしてしまえばいいだけの話だ。小説であるからにはそこにキャラクタや世界観の奥行と変化が必要とされる。かといってそっちを手厚くすれば安楽椅子探偵物のシンプルな理屈がだぼだぼしてしまうわけで、ここをどのように配分し処理するのかが著者の腕の見せ所の一つ、塩梅の難しいところだといえるだろう。

さて、それでは本書はそのあたりをどう処理しているのだろうか? まず探偵役は書名から推測される通り語り手で刑事のデイビットとその母親、ママである。恐ろしく頭がキレ、刑事が事件のあらましを説明すると幾つかの説明を返してたちどころに真相に至ってみせる。デイビットは何かあるとすぐにママーといって助けを求めるわけで情けないことこの上ないが(守秘義務とかいう言葉が存在しない時代なのだろう)こんな頼りがいのある(甘やかす癖のある)母親がいればそうなるのも仕方がない気がする。

賑やかしとしてはデイビットの妻であるシャーリィがいる。息子を溺愛する母親にちまちまとイジられながらも特に気にした様子もなく母親の言い間違いを何度も指摘したりすっとぼけた回答を寄せたりと緊張を弛緩させる役割を果たす。途中から加わえる同じくデイビットの上司である見るなー警部は、ママと良い仲にさせようとシャーリーと刑事が画策した結果、恋仲になるかどうかはともかく度々家にやってくるようになった。事件の解決にも何度か居合わせることになる。

基本は事件の説明と解決に比重がおかれていて、シンプルで爽快な謎解きは十分に楽しめる。それと同時に、5歳児が容疑者として挙げられる事件ではデイビットに向かって子供はまだなのかと愚痴愚痴いったり、過去にママが携わった事件と関連して語りを始めるなど何かしら事件に関連した形でキャラクタ周りの描写が深堀されていく。個人的に面白いなと思ったのはこの探偵役のママのキャラクタだ。

このママ、確かに頭のキレはすごいんだけどごくごく普通のオカンなんだよね。息子を溺愛していて、そのせいで嫁をいびるわ、子供を早く産めとせがんで、事件の話を聞いて解決するのこそ好きなものの自分から出向いていくほどではない。家で手厚い料理をふるまい自分の考えをはっきり言う、剛毅なオカン。完璧超人的な英雄でこそないもののむしろその親しみやすさ、気安さこそがこの作品の常に家庭的で牧歌的な雰囲気を形づくっているようにも思う。

短編は全8篇収められておりそのうち最後に収められている、ちょっと長いママの過去が語られる『ママは、憶えている』を除けばだいたいみな20〜30ページぐらいのごくごく短い話にまとめられている。語られている題材は殆どが殺人事件(あるいは殺人事件のようにみえる事件)だが、関連する内容として陪審員制度が要素として取り入れられていたり(陪審員によって有罪判決にストップがかかった犯人をママが名推理で無実を暴き出す短編)あるいは誰もが犯人を確信する殺人事件であっても実はその犯人じゃありませんでしたーという解決など、投入されている要素も演出もバリエーション豊かだ。

こう言ってしまってはなんだが安楽椅子探偵は真っ当に考えればアホのようなことをやっている。何しろただの頭の中ででっちあげた仮説に次ぐ仮説を砂上の楼閣のように積み上げて適当な結論を仕立て上げるのだから、そんなものを信じる警官がいたらバカだし、自信満々にこれが真相でございと並べ立てる探偵役もやっぱりバカだ。一方でそうした「常識的な判断」を覆すほど「まあ、それならありえるかな」と思わせる明快な理屈か、もしくはそんな疑念を覆い尽くすほどのかっこいい、あるいはそれっぽい演出こそが求められるのだともいえる。本書収録の短編はそういう意味で言えばどれも仮説と理屈そのものはバカげているが演出そのものは際立っておりぐいぐいと読ませそれなりの落としどころに着地してみせる。

僕は物質としての本が好きだから、こうして素敵な装丁で送り出されて手の中でぐるぐると回してみせ、この中にさまざまなやり方でママが明快に解決してみせた事件が八つきれいに収まっているのだなあと思うとそれだけで嬉しくなってきてしまう。安楽椅子探偵物の醍醐味がぐっと詰め込まれた一冊だ。