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俺は人生を選ばないことを選ぶ"道の続く限り歩み続けろ"──『トレインスポッティング』

トレインスポッティング〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

トレインスポッティング〔新版〕 (ハヤカワ文庫NV)

スコットランドのエディンバラを舞台とし、ジャンキーにHIVまみれ、失業保険を5つも6つも受給しながら働くなんてくだらねえぜとうそぶきながらセックスとドラッグと暴力に明け暮れる若者の姿を偶像劇に仕立てあげたのがアーヴィン・ウェルシュによる本書『トレインスポッティング』だ。はじめて本書が発表されたのは1993年だが、舞台の年代自体は1980年代の後半に設定されている。

あまりにとりとめがない物語だ。『俺は人生を選ばないことを選ぶ』とは本書で中心人物として描かれていくマーク・レントンが吐いた心中の台詞ではあるが、まさに彼は複雑怪奇なまやかしの論理をでっち上げる社会に、働かなくとも失業保険を不当に受給するだけで何の問題もなく生きていける社会に、たやすくヘロインが手に入り周囲の人間が次々とジャンキーとHIV感染者に変貌し様々な理由で死んでいく「平和な地獄」の中にあって漂うように流され続けていく。

ジャンキーの日常モノ

そんなマーク・レントンの在り方を反映するかのように、500ページを超える物語の中でそこに一貫した「目的」、たとえば魔王を倒す──みたいなものは、特に存在していない。マーク・レントンは重度のヘロイン中毒で、幾度も禁ヤクをしてヘロインからおさらばしようとするが、何度も失敗してしまう。数ヶ月の期間を開けられたと思っても、上物が入ってきたらつい手を出してしまうのだ。周囲の人間は次々と付き合ったり別れたりを繰り返して狭いコミュニティ内で男女のスワッピングは頻繁に行われドラッグも蔓延していく。

”誰とでも寝る女”、"毎日のように女をあさる男ども"、それ以外にやることなどない。レントンだってそれは例外ではなく、「5つの失業保険を受給する為に面接を受けにいってわざと落ちる」ことぐらいが目下の業務だ。あとは、本屋から日常的に本を万引きし、売り払ってヘロイン代の足しにするぐらい。レントンも、彼の周囲の人間も、時間が経とうが何も変わらない。働き出したりなんかしない。「真っ当な男になる」なんて殊勝なことは口に出されない。唯一変わるのは、どんどん中毒なりHIVなりで若くしてみんな死んでいくぐらいだ。

本書を一言で表現すれば──「1980年代後半当時の、スコットランド人ジャンキーらの日常モノ」ということになるのかもしれない。ある人間はあまりにも身体中の静脈に注射針を打ち込みすぎて、いよいよ狂って自身のチンコに打ち込み始める。静脈が使いものにならないとわかれば動脈へ打って足を失うはめになる。ドラッグなんかやったことがなかった奴も、女と別れた、人生につかれた、いろんな理由をつけて「一度だけ」と手を出してまったくもって逃れられなくなる。

女をナンパしてヤった後に化粧でわからなかったが14歳だったことが判明してしょっぴかれないか戦々恐々としてみたりアナルファックを試してみたり時には禁断症状に苦しんだり幾人もの若くしてなくなったものどもの葬式へと出席したりする、そんな日常を彼らは過ごしている。

スコットランドは正気を守るためにドラッグをやる

そんなものが読んでいて面白いのか? といえば、これが面白い。途方もなくぐでぐでで、終わりのない地獄、ただし生きていくには困らない平和な地獄を生きている。別に肉体的な危険が常に迫っているわけではない。しかしそこには確かに、「苦しさ」がある。どうしようもない生きづらさが。本書は、確かにストーリー的にどこかへ大きく向かっていくわけではないが、変わりなく続く「日常」の苦しさを描き出している。ドラッグの感覚を。クズばかりの仲間に覚える少しの親近感を。壊れた社会の論理を。

「アメリカは正気を守るためにドラッグをやる」って歌詞にさしかかったとき、イギー・ポップは俺をまっすぐ見ていた。ただし、イギーは「アメリカ」を「スコットランド」と歌った。なあ、たった一文で、ここまで俺たちのことを正確に描写した奴が過去にいたか……?

彼らは、生活に困ってはいない。失業保険が出るからだ。万引きをしてものを売るからだ。彼らは、クズなのか? 客観的にみれば法律に違反し、親を泣かせ、自分の身をボロ雑巾にし人に迷惑をかけながら日々を生きている正真正銘のクズだ。だが、彼らだけがクズなのかといえば、そうとも言い切れまい。環境が、クズであることへの道筋をつくっているからだ。もちろんドラッグは取り締まられるが、厳格ではない。大学を卒業しても職につくのは容易ではない。制度はガバガバで、容易に失業保険が支給され働くことがバカらしい状況が設定されている

もちろん、だからといって全ての人間が働かないわけではないし、ドラッグ漬けになるわけではない。彼らがそんな状況に落ち込んでしまったのは故に──個人の資質、環境、運、その他もろもろの相互作用としかいいようがないのだろう。だが残念なことに、一度ヘロイン中毒になってしまえば、復帰は難しい。メインストリームから逸脱して、もはや復帰のロードが描けないはみだしものだ。社会が良いほうに変化することはないし、彼らが社会に適応できるように変わることもない。だからこそ彼らは、正気を守るためにドラッグをやる。

マーク・レントンは何度も禁ヤクしているが、その途中でヘロインをやることの”利点”を次のように饒舌に語ってみせる。もちろんジャンキーが自己を正当化するために理屈をひねくりだしたくだらない戯言に過ぎないのだが、説得力はある。

ヘロインをやってると、ヘロインを手に入れることだけ心配してればいい。ところがヘロインをやめると、山ほど心配事ができる。金がなくちゃ、酒も飲めねえ。かといって金がありゃ、飲みすぎる。女がいなけりゃ、やるチャンスもねえ。(……)どれもこれも、ヘロインをやってるときはどうでもよかったことばっかだぜ。一つのことだけ心配してればいいんだ。人生は単純そのものになる。

本書はベストセラーとなり映画化までされたが、この「どうしようもなさ」みたいなものが受け入れられた結果なのではないか、と思う。社会的な環境のせいもある。個人のせいもある。どちらにせよ、一度道を踏み外してしまったら、もう元には戻れない残酷な現実がある。ジャンキーどもの日常を通して、本書はどこまでもそうした「どうしようもなさ」を追求していくことになる。

俺は人生を選ばないことを選ぶ

そんな「どうしようもない社会」において、マーク・レントンは「住宅ローンを選べ」「洗濯機を選べ」「車を選べ」「人生を選べ」と選択を強要しレールの上を走らせてこようとする社会のメインストリームに向かって『俺は人生を選ばないことを選ぶ。そんなものは認めないと言うんなら、それはそいつらの問題だ。ハリー・ローダーの歌のとおりだ。”道の続くかぎり歩み続けろ”……』と明確に決別してみせる。

彼は決してクールでもなければヒーロー的な人間でもなく、一冊終わった後に大きな成長を遂げているわけではない。あいもかわらずジャンキーで、何か大きな改心を経たわけでもない。それでも彼は当時のクソッタレた社会に明確にNOを突きつけ、選ばないことを選ぶことで、世界に対して実に個人的な反逆を行ったのだ。「そんなものは認めないと言うんなら、それはそいつらの問題だ」というように、彼の個人的な行為を止める権利は誰にもない。

彼らのように生きろというのではない。彼らを反面教師にせよというのもでない。それでも確かにここには、当時の「息苦しさ」みたいなものが切り取られている。たとえ、この日本にあったとしても。日本にはドラッグは蔓延していないがそれでも──置かれている状況そのものとして、本書『トレインスポッティング』に共感する人は多いのではないかと思う。

最後に余談。ドラッグで正気をとばし金は国から全て支給されるがそこには絶望感が漂っているってこれ完全にディストピアSFだよね。最後に余談2。解説でもちょっと触れられていたが、トレインスポッティングの映画続編が動き出しそうとのこと。
映画「トレインスポッティング」続編始動へ 主要キャストも再出演を希望 | Fashionsnap.com