基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

Information Wants to Be Shared by JoshuaGans

情報はフリーになりたがると『フリー』で提唱したのはクリス・アンダーソンだが、あまりまともな内容だとは思えない。正しくは「無断コピーが当たり前になっている状況下で人はそれを金を払って手に入れることに興味を示さない」であって情報がフリーになりたがるなんていうのは、違法ダウンロード大繁盛な現状を後追いで肯定する理屈をでっちあげているだけだと僕は思う。また違う形があったかもしれないのだ。現にAppleは1ドル未満で音楽を、「違法ダウンロードするよりお手軽に」ダウンロードできる環境を整えたことによって状況はぎりぎりのところで踏みとどまった。

ソシャゲやブラウザゲーのカードも、電子書籍だっていってみれば情報だが別にフリーになったりなんてしていない。みんなちゃんと金を払っている。これはまあアクセス権しか売られていないから、つまりはコピーできないのが理由だが、情報がフリーになりたがるわけではなく、コピーがまったくできないか、そこに金を払う文化さえあれば人は金を払うといういい例だろう。今はまだアクセス権を売るという形でしかコピーを阻止する仕組みは実現できていないが、模索するべき道は今述べたような方向のどこかにある。

本書『Information Wants to Be Shared』はそのタイトルからわかるように、情報は共有されたがるといったクリス・アンダーソンの言ったことのオマージュだ。情報が無料になりたがるなどというのは馬鹿げた発想だと書いたが、共有されたがるという側面は人間の欲求に根ざした部分であり、こちらの方が説得力はある。

情報は共有されたがるとはどういうことか。主に2点がこの状況に関係している。一つ目は、かつて印刷された情報は、共有するには物質をそのまま相手に渡さなければいけなかった。その為それだけ拡散の限界があった。今はどうだろうかといえば、いくらでも複製、いくらでも位置情報(URL)を共有できるので情報はあっという間に拡散していく。この10年で一変したことは数多いが、そのうちのひとつがこの「情報共有がめっちゃ簡単になった」ことに異論がある人もいないだろう。

二つ目として、あまりに情報が多すぎて、取捨選択が困難になった結果、FacebookやTwitterのような「信頼できる人が読んでいる情報」が洪水のような情報の中で「読むべきものだ」とする感覚が広まってきていることが挙げられる。たとえば今はTwitterをみれば人の注目している情報がいっぱい流れてくる。Facebookを見てもそうだ。マーク・ザッカーバーグは2008年の講演で、『来年以降、人々が情報をシェアする量は前年の二倍になっていくだろう。これはFacebookやそれに関連する情報の共有環境が今より、もっともっと使われるようになるということだ。』と言ったが、まさにその通りの状況になっているわけだ。

はてなブックマークなんかもその典型例だろう。共有したいと思った人の数が記事を読むべき理由になっていく。もちろん多すぎる情報への対処手段は「共有」だけではなく、Googleの検索アルゴリズムだったり、個人のまとめサイト管理人やキュレーターといった存在だったり、NEVERまとめやTogetterのような多数の人が参画するまとめるWebサイトだったりと他にいくつもある。しかし今ネットで「読まれよう」と思ったら「より多くの人に共有してもらう」ことが一番手っ取り早い。

「共有してもらうこと」がそのまま読んでもらえることに繋がるのだとしたら、共有シてもらいやすい環境をつくる必要がある。本書ではたとえばNew York Timesの取り組みなどが紹介されている。一ヶ月につき10記事までしか無料で読むことができず、それ以上は購読料を支払わなければいけない。しかしTwitterやFacebookなどで誰かがシェアしたものならば、一ヶ月10記事の制約を超えて読むことが出来るのだ。こうしたやり方はは積極的に情報をシェアすることへの動機になる。

もっとも手放しでおすすめできるわけでもない。出版社はコンテンツ産業であり流通産業ではないと主張してきた出版社は情報がフリーであるという前提で再検討する必要に迫られているというが、そもそも情報であるとする前提がおかしいんじゃねーのといったのはさっきの通り。またシェアをビジネスモデルに応用する方法について様々に述べているが納得できるものは少なかった(ここでいちいち例をあげて否定することもしないが)。

面白かったのは結局原理原則的なところだ。最後に一度まとめておこう。まず第一に人間は共有したがる。第二にテクノロジーは今、共有コストをほぼゼロにまで下げることができた。第三に情報量は多すぎて、信頼できる関係の人からくる情報の価値があがっている。第四に、よって共有をうまいことビジネスモデルに活かしていく必要がある、言われてみれば当たり前のことだがここにがっつり焦点を絞った議論をまだ見たことがないので、そこについてはまた別の議論に期待をかけたい。

Information Wants to Be Shared

Information Wants to Be Shared

Hatching Twitter by NickBilton

Twitter社の歩みを多彩な人間を通して追った一冊。ノンフィクションのくせに劇的に演出をするところが鼻につきまくりだが、まあこういった伝記本は大抵そうだから我慢しなければなにも読めない。ただし面白さはピカ一。IT業界における成り上がりっていうのは、もう現代におけるひとつの物語の類型、つまるところ神話になりつつあるのではなかろうか。

栄光に挫折、一瞬で何十億もの大金を手に入れ天上まで成り上がったかと思えば、あっという間に裏切られ落ちていく。近寄ってくる人間は金によって権力やその力を取り込もうとする魑魅魍魎共であり、そうした力に呑まれなかったときはじめて世界を変える力を発揮することができる。成功と失敗のプロセス、振り幅の広さとして物語として必要な要素がひと通り揃っている。

こうした劇的な軌跡は、FacebookGoogleも通ってきた道である。ところがその中でもTwitter社が面白いのは役者のキャラクタがノンフィクションのくせに立ちすぎていることはまずあげられるだろう。まず目をひくのは農家から出て都会に出てきて次々とWeb Serviceを成功させていくエヴァン・ウィリアムズ。ブログ作成サービスBloggerGoogleに買収され、その次にポッドキャストの会社を立ち上げそれも成功させる。

そしてなんといってもTwitterだ。発案者自体は彼ではないということになっているが、それでも彼が起業家として数々のWeb事業を立ち上げ、成功してきたことは興味深い事例である。技術的に特異な部分があるわけではないが、それでも彼の発想、着眼点が毎回優れていたことの証左だろう。ブロガーも今では日本語のようになってしまっているが、社名が「Blogger」であることからもわかるように元をただせば彼が発明した言葉だ。もっとも概念の発明者であったかどうかはよくわからないが。

GoogleFacebookも、どちらもCEOを安定させるのに苦労している。ただ最終的には舵取りは中心となっていた開発者、発案者がとるようになっていく。いずれひくことになるが、それでも安定化させ、自身もそれ相応の立ち位置に落ち着くパターンだ。Twitter社の場合はこれがひどくて、何度もCEOをすげ替えた挙句、社内で内紛が起き、かつて会社の中心に居た人間が何人も追い出されていく。

そのまま去っていく者がいれば、いつまでも執着し最終的に会社へと復帰し自分を追い出した張本人を逆に叩きだす執念を持ったヤツまでいる。追い出されたCEOがその途端にTwitter社の情報をザッカーバーグに漏らす場面などもあるが、完全に悪役のソレである。本当に現実の話なのか著者を疑いたくなるような物語性だ。最終的に起業者であり資金の出資者であるエヴァン・ウィリアムズ(以下Ev)まで追い出されるんだからこの内紛の激しさもわかろうというものだろう。

仮に能力がずば抜けていて、いなければならない人物であれば追い出されることもなかったのだろうが、自身の知人を何人も採用し重要な役職につけるようなあからさまな縁故採用を続けたことによって、役員会議の決定で追い出されてしまうのだ。まあ、そりゃしょうがねーよと思わないでもない。追い出し追い出され、恨み恨まれの連続で、やっていることはまるで子供だが、物語的な面白さとしては申し分がない。

主役級だけが面白いのではなく、脇役も魅力的だ。途中EvにCEOとしての修行と称して仕えるCampbellという老人が出てくる。彼はエリック・シュミット、ラリーページのGoogleの立役者二人の指導者であり、あのジョブズも彼に師事しているというシリコンバレーの伝説的人物だ。Evも最初はしぶしぶだったのだが最終的には週一のミーティングを受け入れ、彼の指示を受け入れていく(あんまり聞かないんだが)。で、最終的にEvはCampbellにまで裏切られる(これもまたドロドロしていて笑える)。

企業の成長と立ちはだかる苦難

登場人物がみなうさんくさくダメダメで面白いのだが、企業の成長とそれに伴う苦難もまた面白い。たとえばFacebookに買収をもちかけられるときの場面など、まだレベル上げも終わっていないのにいきなりラスボスに出会ってしまったみたいな緊張感を持って演出されていて笑える(どうもどこからどこまでが現実にあったことで、どこからどこまでがこのライターの想像なのかわからないんだよな)

When Ev and Biz arrived at Facebook's campus, they were given what seemed like an endless tour, then ushered into a small office space with Mark. The room was gray and relatively sparse , looking more like a Russian prison than part of the office of the hip social network. Given the limited seeing options, Biz and Ev chose a tiny two-seater couch that butted up against the wall. Facebook's boyish CEO had rushed to take the only other seat in the room, an almost high chair that sat above them an a higher plane.Facebook and its CEO looking down on Twitter and its CEO.
"Should I close the door or leave it open?" Ev asked.
"Yes,"Mark replied
Ev looked at Biz, who shrugged. "Yes I should close it , or yes I should leave it open?" Ev asked.
"Yes,"Mark said again.
Ev decided to play it safe, leaving the door half-open and half-closed.Mark started talking, pausing slightly as he spoke from a script in his head.

ロシアの刑務所みたいな灰色の部屋で高い椅子に座り相手を見下ろしてミーティングに挑むってそれ物語じゃなくて本当なのか? と思わず疑問を持ってしまうような内容。でもソレ以上に凄いのがその後の謎のやりとり。ドアを開けとこうか? 締めとこうか? とEvが聞いているのにザッカーバーグがYesとしか答えない。とりあえず安全側として半開きにしておいたという話だがなんなんだそれ、意味がわからなすぎる。これも駆け引きのうちなのだろうか。 

華々しい社交界や食事会に誘われ、のこのことついっていってみればやれ合併しろだのやれ買収されろだのという話が続く。数年前まで農家で暮らしていたような人間が今年の100人に選ばれスーパースター達と一緒に談笑していて喜んでいる様などまるっきり成り上がり者で面白い。シリコンバレーではもちろん自分たちの会社を売って遊んで暮らすことを望んでいる人たちも大勢いるわけだが、独立して自分たちの会社をやっていこうとする人間にとってはこれぐらい恐ろしい場所もないのかもしれない。

”Holy shit!” Biz, said as he almost fell out of his chair, wasted. "We just got drunk with the guy who was almost the fuking president!"
But it didn't take long for them to realiize their answer was onece again going to be no. They were determained to keep Twitter independent.
"We gotta stop doing these meetings with famous people," Ev said. "They keep tryig to buy us!"

上記はアル・ゴア元副大統領と会った時にやはり買収(合併)を持ちかけられた時の話。断ればいいだけじゃないか、と思うかもしれないがTwitterみたいな技術的な特異性が何もないサービスなんか打つ手を間違えるとあっという間にコピーされて終わる。実際Mixiも恥ずかしげもなくパクってたし。Facebookにも買収されかけていたわけであって、そうなっていたら今頃Twitterは実名を出せ! なサービスになっていたかもしれないなあ。

あと面白かったのがイランの大統領選挙で、不正が疑われた為にTwitterを中心として抗議運動が急遽持ち上がった時の話。イランは検閲が厳しく電話のようなそれまで通常やりとりに使われていた雑誌や新聞は軒並み政府の規制がかかっていたのだが、Twitterは無事だった。その為若者を中心にして情報発信が広まり、SNSが政治と密接に関わった事案として当時かなり話題になった事件だ。

当時は僕もTwitterを始めたばかりだったから(2009年頃の話)わりかし印象に残っているのだが、Twitter社は当初メンテナンス予定だった時間を「クリティカルな問題故にメンテナンス自体は実行しなければならない」が、「イラン国内でのTwitterが果たしている役割を考え、メンテナンス時間を変更することにした」とアナウンスしていた。「おお、英断だねえ」とはたから見ているとそれだけ思うだけだが、決定している首脳陣からしてみれば大慌ての会議だったようだ。

そりゃそうだよなあ……ほとんど間をおかずに世界的なサービスになってしまい、前年比何十倍といった成長が続いている時である。いつもどおりメンテナンスしようとしていたら急に「イランで政治上重要なやりとりに使われているからメンテナンスをどうするか決めないといけない」なんて言われても「はあ? イラン??」といったところだっただろう。『We're clearly not smart enough to understand Iranian politics (省略) We dont know who the good guys are or who the bad guys are.』

それでもそんな状況で良い判断をしたと、今でも思うけれども。

世界的なサービスになり、現在五億人を超えるユーザがいるTwitter。最初はほんの十人ばかりの企業があれよあれよというまにそれだけの数のユーザを相手にする企業になれるというのはこの時代の面白さだが、それと共にスケールのデカイ問題に巻き込まれていく。サービスが世界的になれば問題も世界的に拡大していくのだ、といういい証左だろう、イランの件などは。でも傍から見ている分には、それもまた面白いんだよなあ。想像もつかないことが次々と勃発するから。

Twitterというツールは、おそらく今後も人々の間でなくてはならない「情報を発信するツール」や「孤独を減少させるためのツール」としてしばらく生き残っていくだろう。同時にエゴを丸出しにさせたり、馬鹿発見器と言われながら負の側面も露わにしていくだろう。開発者たちが思ってもみないことが現状いっぱい起こっている。日常使っているサービスの裏側にいろんなドラマがあるというのを知ることは、楽屋裏をのぞくようでたいへんたのしい。

Hatching Twitter

Hatching Twitter

Alien Universe by Don Lincoln

わりと短い一冊だがエイリアンについて語るにあっては必読の一冊ではなかろうか。本作はAlien Universeのタイトル通り、ひたすらエイリアンについて書かれた一冊。フィクションで書かれたエイリアンで新しい描き方をした作品を網羅的に紹介していったかと思えば、現実では神話のように語られたUFOや人さらいとしてのエイリアンの歴史話、さらには生物学的にみた、化学的に生物として構成され得るエイリアン形態の追究、最後には実際に宇宙生物学者たちがいかにしてエイリアンを探してきたのかという探索の歴史。

どれをとってもエイリアンについて真摯に考察していて網羅的だ。写真や図も豊富、フィクションやノンフィクションといったこだわりもとっぱらっているとこも素晴らしい。1800年代から語り始められるが、観測技術の発達していない当時だから火星に豊かな生物がいるとする嘘ニュースがめちゃくちゃ広まったり、火星で大量に生息しているエイリアンを描いたものが(人間にこうもりの羽をはやしたようなやつがいっぱい飛んでいる)何万部も出まわったりする話が面白い。

技術が発展して観測技術が高まると人間の想像力というやつはある意味では押し狭められていってしまうのかもしれないなあ。一方でそうしたこうもり人間型エイリアンなんてのも所詮は単純な想像力から成り立っているわけで、別に想像力豊かというわけでもないのかもしれないが。あと今では当たり前のように使われているflying saucer = UFO についても、いったいちうからflying saucerなんてことが言われるようになったのかといった歴史裏話が面白い。1947年にそれをみたといった男はそんなことヒトコトも言っていないのだが、記事が見出しにわかりやすく勝手につけたのが広まってしまったのだ。

映画や小説で時系列順にどんなエイリアンが描かれてきたのかを書いたところがなかなか面白い。最初は技術的な問題やイメージの貧困さの問題もあって、ほとんど人間そのもの、それプラス平たい円盤のUFOといったこてこてのイメージでしかない。火星人は地球を侵略するやつらという扱いで固定。しかしだんだん友好的なエイリアンが描かれたり、技術的な制約から宇宙人を描くのは無理だと判断してオベリスクを宇宙人の象徴として仕立てあげたりする(2001年宇宙の旅)。

現在は豊かなエイリアンのイメージが描かれるようになった。たんなる人型だけではなく、集合知を発揮する群衆知性体のようなものから爬虫類のもの、先日読んだブラインドサイト by ピーター・ワッツ - 基本読書 でもまったく新しいエイリアンを描写している。文明でもなんでもそうだが「豊かになる」というのは選択肢が増えることなのだなあ。

本書の後半では化学的にとりえる知的生命体の幅はどれぐらいか、といったことを議論していて色合いが一変する。もちろん「これこれこういうやつがいる可能性があるでしょう」とひとつの可能性に収束させられるわけではない。それでも一般的な傾向としてシリコンベースの生命より圧倒的に炭素ベースの生命が成り立ちやすい理由なども原子間の結合のしやすさから説明がつくので、「まあだいたいこのあたりにおさまるんじゃね」的なざっくりとした見積が出ているだけでおもしろい。

200ページ足らずの短い本なのだが「知的異星生命体」だけにテーマを絞っている分中身は充実している。洋書だとこういうどうやって採算とっているのかよくわからないドマイナーな本がいっぱい(毎週何冊も宇宙開発とか異星人関連の本が出るなんて素晴らしいじゃないか)読めるからいいよなあと思わせてくれる一冊だ。

Alien Universe

Alien Universe

Five Billion Years of Solitude by LeeBillings

Astrobiologyという分野。宇宙生物学みたいな感じだろうか。地球以外への生物探査や、地球によく似た人間が移住できるような惑星の発見についての詳細な一冊。太陽系外にそうした惑星を探すにあたって、地質学、化学、生物学と多様な面からの科学的知見がワンテーマでまとめられているのでなかなかおもしろかった。著者はアメリカの科学ジャーナリストで、Amazonで検索する限りではこれが初めての著書のようだ。

一般向けノンフィクションなので一人の天文学者が夫を亡くしてそれでも私がんばるわ的なドラマエピソードや、天文学者へのインタビューとして繰り返し繰り返し「俺達がこの宇宙に生物が人間だけじゃないってことを証明してみせるぜ」「世界をひっくり返してやる!」みたいな内容が多数挿入されているのが興ざめだけど、そんなところに文句をいったことでしょうがない(めちゃくちゃ書いている)。

主に話に出てくるのは宇宙生物学関係者でFrank Drake、Greg Laughlin、James Kasting、Sara Seagerの4人ぐらいだったかな。Frank Drakeはかの有名な地球外知的生命体の存在可能性の見積もりを出す「ドレイクの方程式」を提唱した人だし、その他の人々も各惑星ごとの大気圏の研究者であったり、地質学系の研究者であったりと様々な分野に散らばっている。太陽の寿命を提示しながら数十億年ぐらいで地球は人間の住める環境じゃなくなっちゃうよ〜みたいなことまで手広くカバーするのだが、数十億年後のことは今はちょっと……という気分になる。

最初の太陽系外惑星1992年に見つかってからその後、800を超える太陽系外惑星が発見されていて、今も日々新しく惑星に関する新たなもあがっていて全然追い切れない。たとえばさっきたまたま読んでいた今月号の子供の科学では、水蒸気が主成分の待機を持つ可能性のあるスーパーアースを確認といった記事がある。大きさや重力のよく似た惑星も随時見つかっており、統計を用いた仮説では地球型惑星はこの宇宙には20億程度の見積もりだという試算もある。

望遠鏡などの機器も発達し、次々と太陽系外惑星も新しい情報も見つかっているにも関わらずどうにも憂鬱な雰囲気で筆が進むのは宇宙生物学を取り巻く現状がなかなか厳しい環境にあることも一因としてあるのだろう。NASAの予算は年々がりがりと削られていき、私営の観測所は地球外生命体発見のための調査にはなかなか使用できない。次々と太陽系外惑星は見つかってはいる。そしてこれから先もしもっと本当に地球そっくりなサイズ、水があって酸素があってメタンがあって……という惑星が見つかったとしても、さらに調査をすすめるにはもっとたくさんの機材、何よりスペースが必要になってくる。

もちろん悲観的なことばかりではなく、また人間ドラマ的な小賢しい描写ばかりでもなく、きっちりとサイエンスノンフィクションとしての責務は果たしている。特に具体的にどうやって太陽系外惑星の大気状態などを知るのかといったことや、地球における大気の状態が今までどうやって変化してきて、ある変数が変わると全体がどう変わっていくのかといった「惑星大気学」みたいな部分が新鮮で面白かった。

「我々はいつか来るとはっきりわかっている地球の終わりに向けてただ孤独で待つか、一方で惑星のゆりかごを超えて、空の向こう側まで惑星を探しに出て行くかのどちらかを選ぶことが出来る」と著者は書いている。本書に出てくる研究者たちはもちろん後者に打ち込んできた人たちで、その身を天文学、地質学に費やしている。未来は地球外惑星にあると信じきっているような人たちだった。遠くを見ている人たちの話は面白いんだよねえ。

Five Billion Years of Solitude: The Search for Life Among the Stars

Five Billion Years of Solitude: The Search for Life Among the Stars

BECOMING SPACEFARERS by JamesA.Vedda

If you want a wise answer, ask a reasonable question.-Hohann Wolfgang von Goethe, German writer and scientist

アメリカの宇宙産業についてみていく一冊で、これがまた実に面白い一冊。アメリカにおける宇宙探査のターニングポイントがどこだったのかという歴史の話と、その時に邁進していた宇宙戦略の問題点の話と、我々US宇宙事業部隊が次に目指すべきものはなんなのか、という未来を向いた3つのタームからなっている。著者はspace policy analystという謎の職種の人間でもう一冊同じようなテーマで本を出しているがそちらは未読。

大雑把に内容を要約してしまえば、「火星に人類を送り込む? なにダボなこといってんだ! もちろん火星も重要だよ。でもその前にやることがあるでしょ。まず月ー地球間の軌道上に人間の居住スペース、燃料補給を定常的に行える状況、デブリを排除するシステム、国際規約、といったindustrial parkを創り上げて、国の金だけでなく商業的な基点を作り上げてからだろうが。※ここでちょっと補足すれば、著者は人類の宇宙探査を主に3つのレベルに分類している。1つめは現在我々がいるところで、2段階目が宇宙に恒常的な工業地帯を創りあげること。3段階目にしてようやく他惑星への有人探査などが入ってくる。

鉄道も、車も、輸送船も、国だけでは動かなかった。私営企業が参入して、経済循環の構造とインフラの構築があった上ではじめて加速度的に発展していったんだから、まず目指すべきは政府機関と私営企業の正しい協調なんだよ。夢を見るような一足とびの、目標でなくて、現実に実現可能な正しい大目標の設定をして、そこに到達するために一つ一つのマイルストーンに優先順位をつけて、階段を一つ一つあがっていくように、確実に実行していかないと、金をじゃぶじゃぶどぶに捨てていくだけだよ」

というような話。めちゃくちゃフランクに書きなおしてはいるものの、概ねこんなかんじだと思う。実際火星へ行く前にやることがいくらでもあるだろうが! という話はけっこう重要で、すぐに火星に行きたがる人々や、政治家をみると、未だにアポロが月に行った時の思い出に囚われている人々がいかに多いかの証拠でもある。『依然として価値ある目的のための、総合的な事業計画が不足している』『短期的な仕事の創出をやめ、筋の通った目的に焦点を合わせなければならない』と彼は書いている。

本書が出版されたのは2012年のことだけど、2013年には私営企業のいくつもの宇宙事業への発展があっていますごくホットだ。それについてはちょっと前に記事に書いた。第六大陸は現実になるか? - 基本読書 ついこの間は民間のOrbital Sciences社が数百キロに及ぶ補給物資を打ち上げてアメリカ本土から宇宙ステーションに物資を供給できる能力があることを示したばかりだ。

もっともそうそううまくいくものでもない。民間と公共の部門がうまい具合に協調をとっていくためには規制が絶対不可欠だが、あまりに規制を強くし過ぎても萎縮させてしまうし、規制をなくせば過去の例を見れば明らかだが事故が多発し人が死に、環境は汚染される。ただでさえ宇宙には各国が撒き散らしたデブリが延々と消えることなく軌道上を回り続けているというのに、これ以上デブリだらけになったら地球から出られなくなる。

200ページ足らずのほんだけれども、宇宙政策と民間と公共の関わりあい方において、規制のあり方や今後技術的に達成可能なポイントをを積極的に提案していて、とても良い本だった。

BECOMING SPACEFARERS: RESCUING AMERICA'S SPACE PROGRAM

BECOMING SPACEFARERS: RESCUING AMERICA'S SPACE PROGRAM

My Brief History by StephenHawking

車椅子にのって機械音声を話す奇っ怪な物理学者のことを知っているだろうか。生きている中では最も有名な物理学者といってもいいかもしれない。『“To my colleagues, I'm just another physicist, but to the wider public, I became possibly the best-known scientist in the world,”』彼の名はスティーブン・ホーキング。彼による自伝の新刊。売れに売れまくって40ヶ国語にまで翻訳されたという「ホーキング、宇宙を語る」の原題がBrief History Of Timeだったので本書のタイトルはそれに準じている。私の小史、だとか私の略歴、みたいな感じのニュアンス。

まさにそのタイトルの通り、150ページにも満たない写真満載のコンパクトな本だ。それでも子供時代から何に熱中したのか、どうやって恋に落ちて、かの有名な筋萎縮性側索硬化症の発症時の心境と、今の心境などについて惜しみなく語っている。ホーキングは主にブラックホールについての研究で知られているが、もちろんその研究についても(がっつりとではないが)触れられているし、タイムトラベルの実現可能性についての有名な議論についても本書で語ってくれている。

短いながらにホーキングの人生の総括として、また彼の研究の振り返りとして、150ページとはいえかなり密度の高い一冊といっていいだろう。たぶん翻訳されると思うけれど、その時は要チェックだ。

彼は子どもの時に与えられた機械仕掛の列車や、飛行機、ボートが好きでそうしたものを作っていくうちに、機構がどのようにして作られているのか、どのようにコントロールされているのかが気になりだしたのだという。そしてどんどん仕組みのわかる人間の創作物に引き込まれていった。その後「宇宙の仕組みを解き明かしたい」と理論物理学の世界に進んでいくホーキングのルーツがこの時の体験にあるのは、疑いのない事実だろう。

今でも偉大なエンジニアや科学者達は、子どもの時の工作体験、分解体験が元になっている人達が多いが、現代のおもちゃは解体しても容易に「どうやって運動が制御されているのか」がわからないくらい複雑になってしまっているので今はちょっと残念かもしれない。もっともそれでどの程度影響があるのかというのはわからないけれど、わかりやすい入り口が閉ざされてしまったのは確かだ。

システムがどのようにして物を動かしているのかについて追求していった先に、ホーキングの興味の対象になったのが宇宙だった。物理学はとても簡単ではっきりしすぎているので退屈だった、というホーキングも凄いが(高校生の頃の話だが)、結局物理学と天文学をやることによって、私達がどこからきて、なぜここにいるのかを理解するきっかけになるかもしれないといって物理学の道へ進む。「But physics and astronomy offered the hope of undarstanding where we came from and why we are here」

宇宙がどのようにして動いているのかが理解できれば、ある意味ではそれをコントロールすることができるかもしれない。というその無邪気な楽観は、子供時代におもちゃの色を好きなように変えたり、路線をひいたりしていたときの心持ちとそう大差無いように思える。

If you understand how the universe operates, you control it, in a way.

実際自伝を通して伝わってくるのは宇宙を理解するってことの途方もない楽しさなんだよね。自分の仕事は仕事と呼ぶにふさわしくない、楽しくて仕方がないから、とも言っているし。もっともその仕事につくまえにホーキングは筋萎縮性側索硬化症を発症する。筋萎縮性側索硬化症は今ボクもググったところだが、筋肉が収縮していく病気で半数ほどが3年から5年で死亡するという(恐ろしい)。

たしかにホーキングの姿って、もう枝みたいな感じで70を超えてなお生きているのが不思議なぐらいなのだ。発症当時、人生にうんざりして価値のあるものが何にもないような気がしていたいたというホーキングだが、病院で死刑宣告に等しいものを受けて(筋萎縮性側索硬化症)、突然人生にはたくさんの時間を費やす価値のあるものがあることに気がついたといっている。随分現金な話だが、わずか20たらずの子どもが突然死刑宣告を受けるわけだからその辛さは想像するに苦しい。

When you are faced with the possibility of an early death, it makes you realize that life is worth living and that there are lots of things you want to do.

新たに人生に目的を見出し、嫁も子どもも出来て(結婚前のボートに乗ってデートをしている時の写真は滅茶苦茶美人さんなのだが結婚式の時の写真はぶくぶく太ってまるで別人みたいになっている。な、なぜ……)責任が出てきたのか、ブラックホールの研究で注目を集めるなど、病気をのぞいては人生順風満帆な様相を見せ始める。

1988年に出版された前述の『ホーキング、宇宙を語る』はもともと娘の学費を稼ぐために書いた、ぐらいの消極的な理由で書かれたものだったが歴史的なベストセラーになってしまう。彼の車椅子に載っている写真から、マイナスを背負った天才というイメージを持たせてベストセラーになったのではないかと言われるが、彼自身は宇宙の仕組みについて大勢が興味を持った結果ではないか、といっている。

障害から40年以上がたってまだ生きているとはいっても、その過程で何度も死にかけている。肺炎で死にかけた時に気管を切除しているからこえはだせないし、どこへいくにしても一人じゃ無理だ。だがコンピュータを使って電子音声を出すことで会話は問題ないし、身体的不能は、私の科学研究においては深刻なハンディキャップにはならなかった、と彼は書いている。それどころかある意味では役に立ったともいえる。学生に指導しなくてよかったし、退屈な会議に出る必要もなかった。だから自分の時間をすべて研究に費やすことが出来たのだ。

私は完全に満足した人生をおくることができた、と彼は最後に書いている。『理論物理学の世界で研究をして生きてこられたのは、素晴らしい時間だった。もし、私達の宇宙への理解に、何かを加えることができたのだとしたら、私は幸せだ。』と。彼は結局、最後まで子供の頃の夢を追い続けていたんだね。世界の仕組みを理解したい、そしてそれをコントロールしたい。極度の障害も彼の場合は乗り越えられない壁にはならなかった。

ホーキングの理論物理学への貢献を考えれば、間違いなく、「もし」は必要ない。

My Brief History

My Brief History

The Visioneers by W.PatrickMcCray

表題のVisioneerとは著者が創りだした造語で、「明確なヴィジョンのある」を指す"visionary"と”engineer”をかけあわせた言葉。発音がどうなっているのかよくわからない。そのまま読むとヴィジニアーみたいな感じでひどく語呂が悪い気がする。読んでいてずっとこの言葉には違和感があったが、たぶん流行らないだろうな。つまるところ言葉の意味は明確で、ヴィジョンと行動力を持った技術者のことを指す。

本書では中心としてこのvisioneerな2人を中心として展開していく。1人は物理学者であり宇宙開発における第一人者であるジェラード・K・オニール。スペースコロニーの提唱者で衛星の周回軌道上に効率よく物資を放り込むマスドライバーの研究もしている。何百万人もの人間が宇宙空間で暮らす未来を想像し、その為の技術的なアイディア、計算とその為のプロモーションをの2つを大々的に行った。現代ならまだしも1969年に、現実的計算や循環可能な環境システムを紙の上でとはいえ構築したその力はまさに筋金入りの「夢見るエンジニア」である。

実際スペースコロニーは未だ現実のものになっていないとはいえフィクションの世界では存在感を放っている。最近ではハリウッド映画のエリジウムで、スペースコロニーが重要な役割を果たした。国立宇宙協会はエリジウムで描かれたスペースコロニーに対して、スペースコロニーは人間の希望であるとか、このように一般的な文化の中でスペースコロニーが現れるようになって嬉しいとか、映画中のコロニーの回転描写等映画技術に賞賛を贈っている。最後に、作中のスペースコロニーで1%の富裕層が専制君主的に牛耳っているのは我々とは関係がないよという謎の弁護が入っているのがちょっと面白い。誰もそんなこと疑わないだろう。Space Settlements Represent Hope for Humankind

オニールが提唱した当時はアポロ13号の月着陸成功により宇宙開発の大ブームな時でもあった。カーソンによる沈黙の春が出版されたり、人口増加が盛んにヤバイと言われたり、資源が枯渇するといって恐慌になったり、地球がヤバくて宇宙に夢を見た時代だったのである。だからこそスペースコロニーの初期も「地球からの脱出手段」としての熱狂に支えられた。

人口増加? おK! 宇宙に送り出せ! 資源がない? OK! 宇宙に行こう! そうはいっても人口増加分を宇宙に送り出そうとすればとんでもない人数を出さないといけないし、宇宙に費やした分の資源がプラスになるほど実りがあるとも思えない。今でこそ軌道エレベータなんかが少なくとも理論的には可能性として出てきているけれど(後述するが軌道エレベータに必須なカーボンナノチューブナノテクノロジーが必要なのである)当時はおかしな熱狂ではある。

1970年代前半から後半にかけての勢いは凄かったようだ。1975年にはオニールのアイディアをサポートするL5協会(名称はラグランジェポイント(月と地球の引力がつりあう場所で、つまるところ燃料を使わずにずっと同じ場所で静止したまま回っていられる)からとられている。)を設立したが1980年初頭にもなると、実際問題コストやその他もろもろの問題がわかってきたようで、その勢いは衰えていった。

L5協会も米国宇宙研究所と合併し先ほどエリジウムの件で引用した国立宇宙協会と名前を変えている。

本書一冊が丸々スペースコロニーとオニールの話なわけではない。もう一人の主役は分子テクノロジーを提唱したキム・エリック・ドレクスラーだ。彼も又同様にアメリカ合衆国の工学者でオニールとも長い親交と、仕事での協力がある。L5協会の会員としてもずいぶん活躍して、アイディアの提供なども行っているがその名を知られているのは分子ナノテクノロジーの開拓者としての役割である。ナノテクノロジーとは分子や原子サイズの物を自由に制御する技術のことで発想の大本はリチャード・ファインマンにさかのぼる。

ナノテクノロジーには主に2つの方式があって、大きな物質から削っていって小さくするトップダウン方式と、ゼロから新しい機能を持った仕組みを構築するボトムアップ式の物がある。ドレクスラーがナノテクという時はこの後者を指している。問題点としては分子レベルのナノマシンを作るための方法が存在しないことがある。ドレクスラーはナノマシン自身に自分を創らせれば自己複製させることができると考えた。しかし最初のそれをどうやって作るのかという問題に答えは現在にいたるもまだ出ていない(おいおい)。

メインがこの二人なので「おいおい、Visioneersってのは「壮大過ぎる夢を抱いて結局何も達成できなかったやつら」ってのも定義の1つにしなきゃいけないのか??」と思うがそれは違う。たしかにスペースコロニーも実現していないし(フィクションの中では元気よくくるくるまわってるけど)ドレクスラーが夢見たような自己複製するナノロボットも実現していない。しかしそうした今でも実現困難な目標に向かっていった途中で、技術的にも思想的にも多くの副産物を残している。

オニールが提唱した宇宙空間は政府の物であってはならないという思想など、いま起業家たちが商業としての宇宙開発を目指している所などに影響を見ることが出来ると本書にはある。それはどうだろうか……しかし実際Amazonジェフ・ベゾスが設立したブルーオリジンという航空宇宙企業もあるし、影響があるかどうかはわからないが流れとしては間違いではない。これはあまり触れられていないが、フィクションの中での影響も大きい。ガンダムスペースコロニーだってWikipediaによればオニールの本が元になってるし。

「想像」しないものは何一つ生まれないのだから、最初に想像しそこまでの道筋をつけたという点で彼らは確かに偉大だったのだろう。昨今SFも気を抜くとすぐに現実に追いぬかれてしまうというけれど、未だに追い抜かれないヴィジョンを当時から確固として持っていたのだから。もっともその発想の大本になっているのがそもそもハインランやクラークなどの著名なSF作品だったりして、「SFの底力」というべきかもしれないが。

Visioneerの定義が結局あまりまとまりのよくないものだったからか、2人しか紹介されなかったせいか、内容的にばらばらの印象を受ける。が、オニールの……というよりかはスペースコロニーの伝記として楽しく読んだ。オニールが学生に聞いたとされる『Is the surface of a planet the right place for an expanding technological civilization?』というオニールの問いは、きっといつかスペースコロニーが大きな躍進を遂げた時に再度大注目されることになるだろうな。

The Visioneers: How a Group of Elite Scientists Pursued Space Colonies, Nanotechnologies, and a Limitless Future

The Visioneers: How a Group of Elite Scientists Pursued Space Colonies, Nanotechnologies, and a Limitless Future

Once While Travelling: The Lonely Planet Story by MaureenWheeler,TonyWheeler

世界的なシェアを誇る旅行ガイドブックの出版社であるLonely Planetの創設者二人(夫婦)が書いた会社創設記。蔵前さんによる旅行人創設秘話が面白かったので⇒さて、それじゃあまた旅に出ようか。『あの日、僕は旅に出た』 by 蔵前仁一 - 基本読書洋書でも同じようなものがあると聞いて読んでみたのだけど……。うん、全然タイプは異なるけど、こっちもたいへん面白かった。

こっちは旅の面白さというよりかは、会社を創って、それを維持していくのがどんだけ大変か……の「企業のコントロール」の側面が面白い。もちろん変てこな人がいっぱい出てくるし、危険な目にもいろいろ遭うんだけれども、それらはメインではない。たったの二人でほとんど金ももたない貧乏旅行にいって、ひょんなことから旅行体験記を書いて、就職しないでそのままLonely Planetを創設して……。

今でこそ世界一のシェアを誇るガイドブックだが、最初のうちは何度も破産の危機に遭う。でも懇親の力で「良い一冊を」作り続けていくと、旅行ガイドはずっと、それも場合によっては世界中で読まれる可能性を持っているものだ。国から国へ売り歩き、新作を出せば出すほど場所の占有率が高くなり、認知度も上がり、旅行ブームが沸き起こって、結果的にLonely Planetは世界一のシェアを誇る旅行ガイドブックになっていく。

そして何度も迫り来る危機! 最初は自分たちで作っているから、クォリティコントロールがすべて行えるのに、事業所が世界中にできてくるうちにそのコントロールが効かなくなってくるところとか、世界のテロや感染症などの動きであっという間に売上が減ってしまう自分たちでコントロールできないところへの対処など、グローバルな企業の波瀾万丈なところが面白いんだよねえ。

実際小さい所帯からはじまった企業で最初の難関って、やる気も能力もある初期メンバーとあとからネームバリューや安定性に惹かれて入ってきたあんまりやる気のない人たちのコントロールだと思う。数人、まあ二十人ぐらいまでならトップが全体を把握できるけど、それ以上になるともう任せるしかないんだよなあ。それをよく起業の志もなく、ただ旅をしていてそれを文章にしてみたら意外といい感じだったから出版社にしちゃいましたみたいな若者が制御できたものだ。

LPでいえば、海外支社のガイドブック記者が他所のガイドブックからパクりまくって作っていたり、ホテルや観光地から金を受け取ったりしていると、それだけで信用が一気に落ちる。もちろん多くの旅行ガイドからいいところをパクってまとめるのをメインでやっている旅行ガイドもあるのだがLPは常に第一次情報を自分たちでとりにいって、旅行者に質の高い、より安全かつその国の文化のことがもっと知ることが出来るようなガイドブックを作り上げてきた。

パソコンが一般に出回り始めると即座に仕事に導入し、不況になれば低コスト向けの旅行ガイドを出し、社会情勢が変わればそれに合わせた新バージョンを出し、テロが起きて必然的にガイドの売上が減るとわかれば即座にコストカットを図る。結局この二人の成功要因は真摯に質の高い、読者がその時々で求めるようなガイドブックを作り続けてきた、という点と、危機に対して常にとは限らないが、適切な対応を打ってきたこと、そして変化に常に柔軟に対応してきたところにある。

クォリティについては、ガイドブックがしなければならない三つのことという内容の文章からもコンセプトの明確さがみてとれる。最初に、それは読者を安全にするものでなければならない。たとえば夕暮れ時に駅から降り、ガイドブックが右にいけ、というか左にいけ、というかで旅行者の運命が変わってしまうこともあり得る。少しでも安全に、という観点が、ある時旅行者の命を救うかもしれない。

第二に、ガイドブックは旅行者を教育すべきである。ほんのちょっとの地域情報でも、旅をより楽しくするだけでなく、旅行者をよりよい旅人に変えてくれる。少しの情報があれば、クズのようなおみやげや食べ物を買わなくて済むかもしれないし、ろくでもない、虫が湧いているホテルに泊まることを防ぐことができる。そして最後に、ガイドブックは旅行者がより楽しみ、より喜ぶことを手助けするべきだという話。

これらはどれも実にシンプルな警句だが、それぞれを高いレベルに推し進めていくことで現在のLonely Planetとその地位があるのだろう。LPに限った話ではないけれど、旅行のガイドブックって、暗い洞窟に入って行く時の松明のような役割というか、心細くも異文化に入って行く時の心強い味方になってくれるからか、やけに記憶に残るし、親近感を覚えるんだよなあ。

しかし旅行ガイドブック創設秘話というよりかは、グローバル化した企業のリスクコントロール的な話として面白い。必然的に世界を相手にするわけで、ビザの問題や国の政治問題(ビルマとか)にもろに巻き込まれていく。しかし実を言えば、ビジネス以外の旅行人としての側面は正直あまりおもしろくないのが……残念。たぶん350ページ以上あるけっこう長い本なんだけど(Kindleで読んだからページ数が表示されない)その半分ぐらいを占める旅行の話、夫婦の馴れ初めの話や痴話喧嘩みたいな話は淡々と事実が羅列してある感じで単調だ。

小学生の作文への文句ではないが、そこに何があったのか、そしてその出来事から何を感じたのかがまったくわからない。あ、でお子育ては衝撃的だったなあ。1歳になる前の娘や息子を連れて旅にいきまくって4大陸制覇とか普通ありえないよ! いったいどんな息子さん、娘さんに育ったのやら……。

Once While Travelling: The Lonely Planet Story

Once While Travelling: The Lonely Planet Story

An Economist Gets Lunch: New Rules for Everyday Foodies by TylerCowen

Food is a product of economic supply and demand, so try to figure out where the supplies are fresh, the suppliers are creative, and the demanders are informed.

経済学的に、需要と供給、かかっている「飯」以外のコストが値段に反映してくること(従業員や場所代とかね)をふまえて「安くてうまい飯の探し方」を教えてやる!! という本。主にアメリカ国内でさまざまなエスニック料理(民族料理)をどう味わい尽くすかに焦点があたっているので日本に住み日本食ばかり食べている僕にはあまり縁がない本だが、これがなかなかおもしろかった。

もっとも各国に旅行した時の、食案内もついている。その中でも東京は「値段は高いがちょーうまい。けど新宿は迷路みたいで目的地にたどりつけないし、英語が通じないしで大変だから覚悟していってね」といった感じで「まあ、そうだよなあ」といったところ。もっとその辺の大衆居酒屋にいけばいいのに、と思わないでもないけれど、新宿は僕だって迷う。中央東口と東口が別々にあるなんて信じられない。

いやあしかし読むのがつらい本だった。さまざまな国の料理が美味そうに紹介されるものだから、読むだけでお腹が減ってたまらない。だいたい僕は一日に1.5食(1日2食食べた次の日は1食しか食べない)だったのに、この本を読んでいる間は1日3食になってしまうこともあった。この飢餓感には参った。

しかし世の中には国の数だけどころか、民族の数だけ料理があるのだから、食べつくそうと思っても食べ尽くせるもんでもないよなあと今更ながらに思う。ロシア料理、メキシコ料理、タイ、中国、韓国、日本にベトナムに……と数え上げられるものでもない。日本でも高野秀行さんの『移民の宴』という日本に移民としてやってきた人たちの食事を堪能する企画があったけど、民族料理というのはほんとに多種多様だ。

国によって当然ながら扱う食材がまったく違えば、その調理法も異なる。日本人はいろんなものをたくさん作るが、ロシア人はじっくり時間をかけて一品を作って(ボルシチは作るのに三、四時間かけてその後毎日食べるらしい)、食べる。料理にほとんど関心がない国だと「肉を焼いて、食う!!」だけが正義の場所もあったりしてなんでこんなに食に対する考え方、文化が民族によって変わるんだろうなと不思議に思う。

そして移民の宴ということならばアメリカがいちばんだろう。『移民の宴』は各自がご家庭で作っている民族料理におじゃましちゃおう、といった感じだったけどアメリカでは店が大量にでている。アメリカにある料理でベストな物は、ほぼ移民によってもたされた料理であるといってもいいだろう(大きく出たな。⇒この本に書いてあったことをそのまま書きだしただけだが)。

もちろん現地での味が完全に再現されることは稀だし、何より材料が揃わなかったりするが(たとえば築地から直行便で魚を輸入する店もあるみたいだが、直行便の存在意義が疑われるような行為だ。読んだ時笑ってしまった。)各国の調理法はアメリカ国内で混ざり合い、独自の料理になっている(Sushiとか)。というわけで、なんでも食べられるところがいいところでもある。もちろん、探し方を心得ていればの話だが……。

著者のタイラー・コーエン氏がアメリカ在住なので基本はアメリカで食す民族料理なのは先ほど書いたとおりだが、ここで紹介されているいくつかの手法はアメリカ以外でもつかえる。たとえば大通りに面した人通りの多い場所にかまえている店は、場所代がかかっているからそれが料理代に反映されてしまう。見晴らしの良いところや、従業員の態度がよく、椅子に座るときにわざわざコートをとってくれるような、一流の接客でもてなしてくれるところも同様だ。一流の接客にはそれだけのコストがかかっている。

だからこそ狙い目は家族経営や大通りから離れた、細い道に入っていくようなところにある店だ。余分な人員はいないし、土地代は安い。土地代が安ければ競争が発生し、マイナな料理、調理法でも出店することが可能になってイノベーションが加速する。それから当然だが日本人のような金持ち国家からくると人件費も高く、ハイクラスの人間に向けた高い料理を出すようになるので「どこの国からきているのか」もひとつの判断基準になる。悲惨な言い方だが、貧乏国家からきていれば、それだけ安くてうまい料理が食えるだろう。

うまい飯屋を知るには、人に聞くのが一番だ。知らない土地にいったらタクシードライバーにオススメの店を聞けばいい。知り合いに聞くならば35〜55歳ぐらいの、そこらじゅう動き回っているような良い店を知っていそうな営業マンや消防士に聞くといい。もしうまい飯屋を訪ねて、相手の目が輝かないようだった、さっさと無視して次にいくに限る。

動機から考えるのも重要だ。病院の食事がまずいのは、病院には食事をうまくする動機がないからだ。逆に考えれば、食事をうまくする動機があるところはどこだろうか? たとえばカジノ。最高の中国料理や日本料理をスロットマシーンの「後方に」用意しておけば、中国人や日本人が飯を目当てに集まってくる。ついでにギャンブルもしてくれるというわけだ。

本書で紹介されている例のいくつかは具体的な店の選び方だ。たとえばタイ料理店でヤバイ店を見分けるサインが二つあるという。一つは料理店にデカいバーがくっついている店。一つはsushiを出している店。この二つのサインはその耐料理店が真剣に料理に向き合っていない証拠だ。またドイツの中国料理店は風味に乏しく味のないソースに山ほど肉が投入されていて、つまりほとんど失敗作。これはアメリカでも残念ながら同様で、中国人向けに料理を出している四川のグループ以外は味がよくない。

と、この辺は実際にアメリカにでもいかないとなかなか役に立ちそうもない知識だけれども、いざ旅行にいって、高くてマズイ飯ばかりつかまされてもおもしろくないだろう。安くてうまい飯を得る道には、やはりそれなりの理屈が通っているものだ。需要と供給、それから「うまい飯が出せる動機」を考えていくと、ガイドブックに載らないような、秘境の安くてうまい店が探せる……かもしれない。

An Economist Gets Lunch: New Rules for Everyday Foodies

An Economist Gets Lunch: New Rules for Everyday Foodies

移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活

移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活

翻訳されたみたいです。危うく買うところだったけど商品説明みててなんか記憶があるなあとおもってたらこの本だった。
エコノミストの昼ごはん――コーエン教授のグルメ経済学

エコノミストの昼ごはん――コーエン教授のグルメ経済学

The Smartest Kids in the World: And How They Got That Way by AmandaRipley

世界の教育を実際に自身の目と、生徒たちの目、それから先生への聞き込みによって生の情報を一覧する一冊。基本的に米国と他国(本書ではWorldといいながらポーランド、韓国、フィンランド+アメリカの四カ国しかみていないが)との比較考察によって米国がいかにダメか、どこを参考にすべきか、そして他国のどこがダメでどこが優れているのかといったことをみていく。これがけっこう面白い。考えてみれば僕も教育なんて日本とオーストラリアでしか受けていないわけで、その他の国の教育を意識したことがなかった。

日本の教育はおおよそ韓国の物と近い。というか、韓国がちょっと前の日本と瓜二つだ(今どうなのかはもう離れてしまったので知らない)。良い大学に入れば良い会社にはいれて、良い会社に入れば良い人生をおくることができる。だからみんな必死になって22時、テスト間際は24時近くまで勉強することになる。もちろんそんなこと公立の学校ではやらないから、ほとんどの学生は塾のようなものに入っている。

あー……自分の受験生時代を思い出すな。行きたくもない塾に強制的に入れられ、夜の22時まで勉強とか懐かしい(笑)ただしほとんどいかないで(自由意志で入れられているわけではないのだからいくはずがない)、デカイ本屋で延々と椅子に座って本を読み続けていたけど……。でもあの時が人生で一番つらかった。今仕事がまったく苦ではないのもあの頃の鬼畜的な塾生活があったからであろうとは思う(だからといって許容出来るものではない)。

本書で出てくるポーランド、韓国、フィンランドはどれもアメリカからの留学生の体験をおっていく形で語られていく。その中でもやっぱり韓国はひどいんだよね。留学生君が教室にいって授業を受ける(高校)時に一番最初に驚くのが、「先生がきてもなんの反応もしないでしゃべり続けているし、みんな授業が始まった瞬間に寝てる!!」ってこと。先生も特に注意しないし、「こいつら、なんなんだ!?」と留学生が驚いていて笑ってしまった。笑い事じゃない……。

ようは夜遅くまで勉強しているから精も根も尽き果てているのだろうというのだが、いやあどうだろうね。それだけが理由ではないと思うけれど……。もうとにかく韓国の異常な教育環境にたいして「ありえない!」「恐ろしい!」「持続不可能だよこんなの」と非難の嵐ではある。留学生君は結局「こんな国にいられるか!」と出て行ってしまうんだが、出て行った先の中国の大学で「ここに来る前は六ヶ月間韓国の高校にいたんだ」というと、「わお、本当に申し訳ない。韓国の高校になんて、誰一人行くべきではないんだ」と言われるなど散々な有り様だ。

一方で世界的な学力テストの結果(PISA⇒暗記を問うものではなく、学問を課題解決に活かす力の能力テスト)はやはり韓国は高い(2009年のもので読解2位、数学4位、科学6位)。またポーランドも教育改革が効果をなしたのか、このPISAランキングではアメリカを抜いている。フィンランドが教育大国であるのは有名で同ランキングで上位を占めている。韓国の教育はハムスターホイールと称されるが、そんなに大変な思いをしても学力ランキングではフィンランドと大差ないのだから悲しい(フィンランドは勉強時間も他国と比べて少ない。)。

フィンランドの教育環境ははたからみていると理想的にみえる。フィンランドでは教育は信頼関係の上に成り立っていて、先生の裁量(教え方など)が大きく、生徒の自由度も高い。親の余計なおせっかいもなく放任主義が当たり前で、過度な競争もない。テストはEssayが中心で、アメリカや日本で行われるような当たり前の選択式テストは「小学生の頃限定のテストだ」とフィンランド人からの印象になる。

自由にされている代わりにテストでは簡単に落とされるし、失敗は全部自分の責任だ。フィンランドの子どもは自分たちの時間を自分たちでマネジメントする必要に駆られる(日本は……いや、言うまい)。イギリスの労働党のトップなどは、もしアメリカンドリームを掴みたかったらフィンランドに行くんだ、とまで言っている。他のどんな国と比べても、フィンランドは貧乏な人間が豊かな教育を受けることができるから。

本書の特徴は先生たちの環境まで含めて観察している点で、たとえばアメリカでは先生になるためには多くの規格化された、教えることにはほとんど関係のない勉強、テストを経ていかなければいけないのに対してフィンランドはそうした教育トレーニングプログラムはほとんどすべて選択式である、といったように。

面白いのが、どこの国も(フィンランドでさえも)みんな自分たちの国の教育に満足していないということだ。韓国なんかは言うまでもない気がするが、世界でもっとも教育環境がよさそうなフィンランドでさえもそうなのだ。テストの前はやっぱり勉強するし(なぜかフィンランドではテストがないというまとめサイトをみたが、何かの勘違いだろう)そのせいで生徒たちは韓国や日本と違うものの、強いプレッシャーを受ける。

大学の入学テストは六時間にも及ぶ長いもので、いくつもあるテーマの中からひとつ選んで長いエッセイを書かなければならない。トイレにも先生が同行して不正行為をしていないかチェックする。けっこう厳しいのだ。

ポーランドは教育改革がすごい勢いで進展し、そのおかげで学力がこれまたすごい勢いで上昇した国だが、そのあまりに急激な変化は先生や生徒たちを振り落とすような勢いで進行したせいで未だに評判が悪い。生徒の両親の多くは農家であり、大学にいってまでべんきょうしてほしくないという家庭の事情もあってなかなか厳しい物がある。一方数学の授業では基本的に電卓を使わないでみな暗算をするなどのルールのおかげで、めざましい数学力がついている。

しかしひとついえるのは急激な成長を遂げた(子どもは悲惨だが)韓国、教育改革によって同じく成長を遂げたポーランド、自由と相互信頼を貴重に教育システムを作り上げたフィンランドと、それぞれのやり方で教育効果を「動的に変化させることができる」ということだろう。フィンランドでさえも1970年代の教育改革以前の状況はアメリカと似たりよったりだったのだ。

成績はよくても悲惨だったり、あるいは理想的だったり、改革が成功したのはいいものの実体的にはなかなか追い付いていなかったりといろいろある世界の教育環境だが、参考になるところの多い洞察に満ちていた一冊だった。200ページぐらいだしね。たいへん読みやすかった。

The Smartest Kids in the World: And How They Got That Way

The Smartest Kids in the World: And How They Got That Way

Jack Glass (Golden Age) by AdamRoberts

“Your task is to read these accounts, and solve the mysteries and identify the murderer. Even though I have already told you the solution, the solution will surprise you.”

日本でいえば読者への挑戦状のようなものから本書は幕を開ける。冒頭からいきなり語りを公平にすると語り手から注釈が入り、これから起こる3つのmysteriesにたいして殺人者を特定してみせろという。それだけならただの、まあありがちといったらあれだが、既にいくつもの作品が存在する本格ミステリといった体ではあるが、本作が面白いのは本格ミステリの舞台を、そのままSF的世界観を組み合わせているところだ。

これには驚いたし、そのオチには度肝を抜かれた(そんなんやっていいのかよ!)本格ミステリを宇宙空間でというアイディアは今までいくつもあったと思うが(日本でも思い浮かぶ)これほどアホっぽい、ストレイトな作品はたぶんなかっただろう。端的にいえばフーダニット、ホワイダニットハウダニットのシンプルな原則を守りつつ、状況設定にSFの世界観を持ってきているだけなのだが……。

著者のアダムロバーツはどうやら日本では一作も翻訳が出ていないみたいだ(Wikipediaを見ただけだから怪しいものだが)。評論も書いてたり、小説もたくさん出ているし、このJack Glassはキャンベル賞を受賞している。とにかくベテランではあるらしい。WINNERS: 2013 Campbell and Sturgeon Awards - SF Signal

Golden age detective fictionとGolden age Science fictionの慣習を混ぜこぜにしてしまって、衝突させるようなものがこの作品をつくる衝動だったというが、中を読んでみれば正にそのとおりであることがわかる。データベースにAIを用いて常時接続、情報を引き出すことが出来るbIdなる装置なんてまだまだ序の口で、世界自体は何十億もの人々が「shanty bubbles」に住んでいる世界が描かれる。

生命活動をサポートする泡のようなものに住んでいるようなイメージで、それがすべてソーラーシステムによってエネルギーを供給し、太陽の軌道にあわせて自身の場所を常に移動する。地球は金持ちのための独占領域となっており、社会は常に口論の絶えない6つの名家によって監視されているような状況だ。Jack Glassとはこの世界における悪名高い犯罪者、連続殺人鬼であり洗練され、無慈悲で、かつとても知能が高いとされ「実在する」とさえ信じられず、伝説上の存在になっている。

本作を一言で表現するならば「そんな馬鹿な」だと思うが、最初の状況設定からしてぶっ飛んでいる。囚人たち7人がいきなり小惑星の中に置き去りにされ、なんでかというとそれは「刑務所」なのだ。彼らはその刑務所の中で11年の期間滞在しなければならない。ただし監視がいるわけでもなく、生命維持がされているわけでもないから生き延びるために必死に水を掘ったり、空気の供給が途絶える前にそれを確保しなければいけないのだ。

空気がなくなるというまさに死に物狂いの状況であり延々といかにして小惑星から水を採取するかの挑戦が繰り広げられる様は読んでいて恐ろしい……そしてそれは単なる罰則であるわけではなく、彼らがそこで暮らせるだけの環境を整えることができたら、禁錮刑が終わったあとに真っ当な人間が住みにくるのである。小惑星を監獄にするというむちゃくちゃな設定になんとか理屈をつけようとするその姿勢には好感がもてるが、明らかにおかしい。しかも物語はここから「脱獄」するのが目的なのだから「そんな馬鹿な」といった気持ちもわかるだろう。

いったいどうやったら、隔離された何者も存在しない小惑星から脱獄できるのだ。でもJack Glassはそれをやってのける。そこから舞台は第二部へ。こっちはおっそろしく古典的な推理小説になる。金持ち天才姉妹がある日使用人の殺人事件に巻き込まれる。これまた密室殺人で、頭を木槌のようなもので叩き割られているのだ。これは誰がやったのかはすぐにわかるのだが──問題はWhy(なぜ)それが行われたのかだ。

この姉妹の妹の方がこの後話の主軸になっていくわけだけど、少なくとも千冊はミステリをよんでいる推理小説オタクで、ことあるごとに自身の推理を働かせようとがんばる上にタカビーなお嬢様キャラクタでぼくは大変好きでしたね(極々個人的な話)。なんというか、推理小説が好きな女子がどうも好きみたい。森博嗣さんのシリーズとか、コニー・ウィリスさんのシリーズとか。

読者への挑戦をうたっているだけあってか、なるべくフェアに、推理してもらおうとしているのか、何度も何度もこの妹の方が状況を確認し、誰が、一体全体どうやってこれをやったんだろう? できたんだろう? と自問しまくるので、正直言ってたいへん冗長ではある。しかも読んでいてまったくわからなかったし(これは理解力がないのか英語力がないのか)

しかし丁寧に積み上げられた宇宙空間の世界と、そこで行われる殺人事件の謎解きはやはりおもしろくて、最後はやっぱり驚いた(むちゃくちゃなのだが)。翻訳されるかどうかもわからないから書いてしまうが、Faster-than-lightが物語内で大きな意味をもってくる。Faster-than-light - Wikipedia, the free encyclopedia 極端な話、「光速を超えて移動ができる」という前提を入れてしまったらミステリなんかあっという間に成立しなくなるわけで(笑) オチはこれではないが、ようはそれぐらい「物事を前提から疑わないといけない」オチだということで。

FTL! We all know it is impossible ,we know every one of us that the laws of physics disallow it. But still! And again, this narrative has to do with the greatest mind I have known ─ the celebrated , or infamous,Jack Glass. (p1)

Jack Glass

Jack Glass

Who Owns the Future? by Jaron Lanier

『人間はガジェットではない』⇒人間はガジェットではない - 基本読書 を書いたジャロン・ラニアーによる新刊。人間はガジェットではないの中でラニアーは、ガジェットによって消されていく「個」があるが、いつだって何かを生み出していくのは一人の人間なのだとする「人間の本来持っている能力」へと焦点を当てた一冊だった。

Who Owns the Future? はそこでの思想を一歩先に進めて、今世界を覆っている超巨大IT企業──GoogleAppleAmazonのようなSiren Serverをやり玉にあげ、フリー化する社会では勝者総取りの「1割の勝ち組が富の大部分を得る」社会から「真ん中を起点としてまんべんなく富が散らばる=釣鐘状の線を描く正規分布曲線」社会こそが我々の目指すべき世界なのだとぶち上げる。

ラニアーが言っているのは単に「テクノロジーを棄て我々は山に帰るべきだ」というようなとんでもな文明批判ではない。文明批判ではないが、今のGoogleAppleAmazonといった巨大なIT企業が持っている力をどう個人に利益分散していくのか、個人が個人の価値によってうまれた現象に対する正当な評価をどう得たらいいのかを提唱しているのだ。

これがまたとんでもなくおもしろく批評になっているし、なかなか正当だとはいってもやっぱりとんでもな理論をぶちあげた怪書で、読んでいてわくわくが止まらない素晴らしい一冊。翻訳はもう決まっていると思うが、決まっていないかもしれないので面白い面白いといって応援しておく。ラニアーの案をそのまま現実に適用するビジョンはまったく浮かばないし、言っていることがおかしいと思う部分はたくさんある。

たとえばラニアーはGoogleFacebookTwitter社は本社に極少数の人数しかおらず、その規模に比べて正規に雇っている人間は驚くほど少ない。たとえばゼネラルモーターズなどのような製造業と比較した場合。たとえばGoogleゼネラル・モーターズの約7倍の市場価値を持っているが、Googleにおける労働者は5万3千人であり、一方GMの労働者は20万2千人も存在している。

音楽産業や本産業はすっかり荒廃し仕事はなくなりそうした利益はほとんどがSiren Server(FacebokとかAmazonとかGoogleとかみたいな企業のこと)へいく。そしてテクノロジーが拡散していくのになぜ我々は未だに苦しみ、経済は一度ならずの痛みを乗り越えてこなければならないのか? と連続していくつもの問いを発するが、失業や経済、生活環境といった複雑なからみ合いの問題を一部のシリコンバレー産業に押し付けるのはいくらなんでも横暴で聞くに値しない。

もちろんそうした横暴ともいえる議論だけではなくて、Googleウロボロスだ、という指摘などはなかなかおもしろい。いま大盛り上がりの3Dプリンタの登場などによって、物質のデータ(たとえばギターとか)までもがFreeでやり取りされるようになっていったら誰もそんなもの高い金だして楽器屋で買わないよね? そうなったら最後、いったいぜんたい誰がGoogleに広告を出すんだ? という。

そりゃあそん時は別のもの売ってるんだろうな、GoogleGlassとか、車の自動運転とか。とは思うもののまだそうしたところの収入はGoogleの核にはなっていない。こんごうまくそうした方向へ舵を切っていけるかどうかというのはさっぱりわからない。

しかしラニアーの最初の著作から一貫している「個人が生み出した価値へ、正当な対価を与えられる社会を」とする「幹」にあたる姿勢は読むに値するものだ。というかSF的発想で面白い。ラニアーはどういう制度でそれが実現されるかについても一応簡単に述べているんだけど、これなんか読んでてわくわくする。大体次のようなものだ。

あなたは将来オンラインのデートサービスで配偶者と出会ったとしよう。そしてあなたがそのたまたま出会った相手と相性がよく、そのまま長年付き合い最終的に結婚したとする。そうするとデートサービスはあなた達を成功例として自身の統計データに加え、よりアルゴリズムを洗練させ次のカップル成立に役立てるだろう。

ラニアーが言っているのはそうした情報に対して、僕らは金をもらうべきだという主張だ。これをラニアーはnanopaymentシステムといっている。もちろんそれは大量の収入にはならないだろう。だからこそ「nano」paymentシステムなのだ。しかしごく少額だとはいっても、僕らは普段の生活でFacebook apple Googleといった企業に日々そうした「自分の情報」を与えることで企業の価値上昇に寄与しているのを忘れてはならない。

検索エンジンであれ、ソーシャルネットワークであれ、保険会社であれ、あるいは、投資信託であれ、大規模な顧客の行動履歴を大量に取得し、分析し、自身の企業価値を、周囲の犠牲によって上昇させていく。我々はそうした搾取的状況から正当な対価を得るべきだというのが骨格なのだが、そうはいってもその対価として僕らは「金を払っていない」のではないかという反論が普通に出てくると思う。

問題は「GoogleFacebookといった企業が顧客から取得したデータをどのように利用しているか(政府などに流しているのか)我々にはわからない(相手が公表しようと思ったデータしか知ることができない)」ところに基本的にあるのではないかと僕は思っている。僕らがそれが「得なのか、損なのか」といったことを判断するにもまず正当な情報が開示されなければならないがその前提が崩れている、まずはここを是正すべきだろう。

反対に利点があるとすれば僕らは自身の情報の価値を自分たちで判断するまでもなく値付けして金をもらうことができる。またアメリカ政府が大掛かりなスパイ活動を行なっていたことが最近発覚され、それをばらした奴は実は中国のスパイだとかいや違うといった泥沼な状況になっているがそうしたスパイ活動に金がかかることになる。そして恐らくここがラニアーの主張の核となる部分だが、無料で広告によって収入を得るようなモデルでは、一流の物はできあがらないということだ。

自身のやったもの「自体」にたいして、相応の対価を得る。それこそがラニアーの考える世界では「自然」なことなのだ。『たしかにパトロンはバッハやミケランジェロを我々に与えてくれた。しかし、ウラジーミル・ナボコフビートルズスタンリー・キューブリックパトロンが与えてくれるとはとうてい思えない。』──人間はガジェットではない

なかなか想像の広がる話ではあるものの、一方そうしたシステムをどうやって構築したらいいのかについてラニアーの提言はほとんどないか、荒唐無稽だといってもいい。シリコンバレーに並ぶ巨大企業たちを説得するのはほぼ不可能だろうしだいたいそんなシステムをどうやって構築して、どうやって運用するんだ、それだけのコストをかける利益が得られるのかといえば──まあないだろうね。

でも最初の方に言ったようにこの本のおもしろいところは「緻密な現実的な理論をつくりあげた」ところではない。Freeへ強烈にNoを突きつけたその姿勢と、ベル・カーブ型の収入分布を目指して真に情報に適切な対価が与えられるような社会へと舵をキルべきだとする「幹」の部分への執着こそが本書の価値だろう。ほんとうにおもしろい一冊なので読む機会があればぜひ。

Who Owns The Future?

Who Owns The Future?

人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)

人間はガジェットではない (ハヤカワ新書juice)