基本読書

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文体の科学 by 山本貴光

ほとんどの場合文体を論じるといえば小説かもしくは詩についてだが、本書は法律文から科学における文章、批評から小説、辞書まで幅広い分野の文体を視野に入れ、一つ一つ文章上の特性を確認していく内容になっている。さらには単に書かれた文章それ自体を見るだけではなく、「文章が載っている媒体や具体的なすがたかたち」まで視野に入れた文体論が構築できないかという問いかけもあり、文体論の領域を幅広く拡大しようという面白さと、今まで触れられたことのない部分に触れてくる、新しい刺激がある。

しかし書名から期待するとアレ? と思うかもしれない。たぶん単純にこの書名を最初に観た時のイメージって、文体って、科学できるものなの? 文体という大きく人によって差が出てくるものに、ものさしが使えるの? 分析すれば、私も円城塔や村上春樹みたいな文体が書けるようになるのかしらん? とわくわくするような感じじゃなかろうかと想像する(僕がした)。だが、そういうものではない。これを読んだからといって村上春樹の文章は書けない(当たり前だ)。その代わりに法律文の文章規則や、辞書の文章規則、あるいは文章の配置といった部分に思考がいくようになっているだろう。実際は連載中『文体百般』と掲げていた(掲げていたというのがどういう意味なのかわからないが)らしく、そっちの方が内容を正確にあらわしていると思う。どうしても本書は科学っていうイメージとはちょっとズレるんだよなあ

たとえば批評の項目では「新約聖書」を題材にして、ルターやエックハルトがどのように聖書を読み解いてきたかを、まったく同じ文言を前にしてなぜこれほどまでに両者の解釈が異なるのかを延べ、「なぜ読み方は人によって異なるのか」と問いかけて終わる。これは批評文の読み解きとして面白いし、それぞれの読み方も構成も異なることがわかって面白いが、だがそれはまた一種の解釈であって科学でもなんでもないだろう。だいたい最終的に「読み方が人によって異なる理由」について書いているのも、「読むとはどういうことなのか」を論じていて面白くはあるものの「それ、読み方の離しであって文体の話からも乖離していない?」と疑問に思う。

ようはまあ、普遍的で再現性のある『文体の科学』として読むのはオススメはしませんよということだ(著者の意図から大きく外れてしまう提案をしているようで心苦しいが)。しかし一方で古今東西いろんな媒体の『文体百般』として、あるいは我々が文章を読むことそれ自体について、小説や辞書、法律文に対話文、さらには人間の記憶や時間と認知領域まで幅広く考えてみたエッセイとして読むと面白いよと言いたい。本書を読む前と読んだ後では、文体と聞いて思い浮かべる領域がぐっと広がっているはずだ。

また、そもそも文体について考えるのはそれ自体がずいぶんと面白いことだ。それは文体というものが、文章を書く・読む上で「何が書かれているのか」とは全く別の側面で文章の本質を表しているからだと思う。僕も過去にいくつか文体について思いつきを書いてきた。たとえばこんな記事とか⇒文章のスタイルはいったいいつ確立されるものなのだろう - 基本読書 文字書きにとっての文体とはいってみれば絵書きにとっての絵柄であり、書き手の個性そのものという側面がある。文章の本質部分は「どこに目を向けたのか」「情報をどう構成するのか」「それをどう書くのか」あたりにあると思うが、どれひとつとっても書き手の経験を反映させるプロセスになっている。

かつて『博物誌』を書いたビュフォンは「知識なり事実なり発見なりは、たやすく盗まれ」るが、「文章[文体]は人間そのものであります。かるがゆえに文章[文体]は盗まれることも持ち去られることも変遷することもありえませぬ。」と書いた。ダーウィンの進化論としての発想・知識・発見は今や多くの人がコピーし、発展させ伝えられているがそれをそもそも伝えた手段であるはずの文章、文体はたしかに盗まれたわけではない。私はダーウィンの文体を完璧にコピーしました、なんて人間はいないだろう。文体はこのようにコピー不可能な部分を反映させるものでもあり、同時に法律や辞書、あるいは仕事のメールの定型文のように個性を消し去る規範としての側面もあり、我々はそうした文章にSNSなり仕事なり、日々様々な形で晒されているのだ。文体論を面白いと思うのも当然と言える。

しかし本書がチャレンジするようにわけへだてなく「文体とはなんぞや」に目を向けてみると、考えるべき箇所は存外に広い。根本的なところから考えると、人間の認知面での考察から入る必要もある。読むのには時間と空間が必要で、あまりにも長過ぎる文章は空間的にも時間的にも許容されえない。時間と空間をコントロールするという観点での文体、また人間の記憶領域は少ないから、読んだものを全部覚えていけるわけではない。読みながら忘れているが、それでもちゃんと読めるのである。こうした記憶面での文体論もあり得る。

もう少しレベルを具体的なレベルに落として見てみると、たとえば本書でも触れられている法律文の文体とはどのようなものだろうか。一例として「第三条 何人も、不正アクセス行為をしてはならない。」という法律文は命令文だが、ここには主語がない。つまり非人称の文だが、これは科学の文体にも通じる法則だ。『科学の場合は、自然の性質に関する発見が文章として報じられるわけだが、その際、発見された知識の記述は非人称で書かれることが多い。つまり、法律も科学も、特定の個人から離れて、誰にでも当てはまる普遍的なものとして書かれる必要があるために、本来そこにいるはずの人間の姿が隠されるのではないか。』などなど、想像も広がってゆく。

文章・文体という物凄く単純なものでも、それらを書かれた媒体、書かれた目的、読むための物質、構成・配置などさまざまな側面から総体的に捉えようとすると話はどんどんでかく、複雑になっていく。本書は最初に書いたように「文体の科学」として読むとちょっとどうかと思うような内容が多いが、「さまざまなシチュエーションに存在する文体を見ていこう」という感じで「文体百般エッセイ」として読むと、刺激され自分の中の「文体概念」が拡張されていく感覚が味わえるだろう。

文体の科学

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