基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「正常な忘却」は決して悪いことではない──『忘却の効用: 「忘れること」で脳は何を得るのか』

基本的に記憶力が良いことはこの社会を生き延びていくにあたって「良い」ことだとされている。記憶力を高めたいと思わない人がいるだろうか? 認知症でもないのに忘れっぽかったり覚えが悪かったりすると、心配されることもあるだろう。しかし、「忘却する」ことは脳にあらかじめ用意されている、とても有益な機能でもある。

本書『忘却の効用』はコロンビア大学の神経精神科学教授であるスコット・モールが、忘却の利点について解説した一冊だ。記憶力が良い人、何もかも忘れない人(時折、そういう人がいるのだ)にも良い点はあるが、そうであるがゆえのデメリットも存在する。僕も人に呆れられるほど忘れっぽい方で、もう少し記憶力がよければなあと思う局面も多い(たとえばトークイベントで昔読んだ本の話をしようとしても全然内容を思い出せないと本当に困る)。しかし、本書を読めば認知症などではない「正常な忘却」が発生していることは、けっして悪いことばかりでもないと実感できるだろう。

現在、神経科学が発展してきたこともあって、忘却が具体的にどのようなプロセスで行われているのか、その過程がよくわかってきた。同時に、忘却が正常になされないと人間に何が起こり得るのかも。本書はそのあたりの情報を、わかりやすい筆致で伝えてくれている。イスラエル育ちの著者による、「忘却」に関する過去のエピソードや患者、同僚たちとのエピソードもふんだんに盛り込まれ(しかもその語りがまたうまいのだ)、科学的にもストーリー的にも読み応えのある一冊に仕上がっている。

多くの人が、ものを忘れること、言い換えれば、私たちが一生のほとんどでつき合っていく正常な忘却のことを心配する。だが、この正常な忘却への不安は誤解から生まれるものであり、そのような不安を和らげたいというのが、私が本書を執筆した動機だ。(p.226)

特に、僕と同じように自分は忘れっぽいなあと思っている人には読んでもらいたい。

忘却のメカニズム

そもそも「正常な忘却」とは何なのかと言えば、生まれつき備わっている機能としての忘却のことだ。たとえば認知症なんかは病によるもので、本書では病的な忘却として(正常な忘却と)区別している。こちらを恐れるのはもっともなことだ。

忘却について説明するためには記憶の説明から始める必要がある。まず前提として、脳に保存される記憶の基本単位は神経細胞(ニューロン)だ。神経細胞は枝のように分岐して伸びる樹状突起という突起部分で構成されていて、樹状突起の表面にある小さな棘状の構造のことを「樹状突起スパイン」と呼ぶ。ニューロンはお互いに結合することで情報を伝達するが、その時結合するのがこの樹状突起スパインなのだ。

情報が伝達・結合されたからなんやねんと思うかもしれないが、樹状突起スパインはわれわれが経験することによって常に変化・成長するので、ようはこれが重要な「新しい記憶の形成」に繋がる。神経細胞が一定以上の強さで同時に刺激されるとニューロン同士は深く繋がり、スパインは成長し、記憶として定着していくのだ。

そんな機能があるなら無尽蔵にスパインを成長させで全部覚えてればええやないかいと思うけれど、それには問題がある。スパインの成長があまりに盛んだと神経細胞がスパインに覆われ、雑音だらけなってりニューロン間の送受信がうまくできなくなるからだ。だから、記憶の成長はコントロールされる必要がある。

で、そうした記憶にたいして行われるのが「忘却」だ。スパインが刺激によって成長するのなら、刺激がないと自然とスパインは減少していくの? と思うが、これについては過去数年の研究による新たな知見から、正常な忘却ではスパインを成長させるのとは別の一群の分子(忘却用の分子群)が関わっていることがわかってきた。これが働くと、意図的にスパインを分解し、スパインのサイズが小さくなるのだ。

積極的なスパインの縮小プロセスは、時間的にばらばらな入力を神経細胞が受けるか、それまでの入力を無効にする新しい入力を受けると引き起こされる。そして、記憶ツールボックスがスパインを徐々にとは言え着実に成長させるのとちょうど反対に、忘却ツールボックスはスパインを慎重に縮小させる。(p.51)

忘却は認知機能にとってどんな意味を持つのか?

さて、それでなんとなく忘却のメカニズムについてはわかったと思うが、仮に忘却のメカニズムが働きづらい時、その人には何が起こるのだろうか?

人間で実験することは難しいが、同じ記憶のメカニズムを持つマウスなどでの実験はできる。たとえば動物を迷路に放り込んで通り抜けさせる迷路実験では、記憶のメカニズムのボリュームを上げると、新規の迷路の複雑な構造や出口への道筋については素早く学習できる。しかし、道筋を一回習得した後、迷路のゴールまでの構造をわずかに変化させた場合、記憶のメカニズムのボリュームを上げるより、忘却のボリュームを上げたほうが成績がよくなることがわかっている。

最初の記憶は地図をゼロから書いていく行為だが、迷路が一部変わっただけのケースでは、地図を一から全部書き直すよりも、地図の一部を消しゴムで消して部分的に書き直して認識してやった方が効率が良い。それが記憶と忘却の関係なのだ。

行動の柔軟性を生み出すことは大理石の彫刻を作ることに似ており、忘却のノミが優位な役割を担っているのだ。(p.61)

行動の柔軟性に関する研究によれば、一度覚えた後の別の道筋を学習する効率やスピードは、記憶よりも忘却に依存している。逆にいえば、この忘却の力が機能していないと、一度道を覚える時はともかく、道が工事で使えなくなったりと柔軟な対応を求められた時に対応が難しくなることが考えられる。

自閉症と忘却

実は人間でも同様の事例が確認できる。たとえば、自閉症に関連することが多い遺伝子ネットワークには、忘却を促進する分子経路を妨害する特徴があり『自閉症者では、総じて忘却のボリュームが下がっているようなのだ。(p.66)』という。

忘却が抑制されることで、一部の自閉症者は特別な記憶力を持つ。それは強みでもあるが、マイナスに働くこともある。たとえば自閉症児の臨床的特徴として、同じ通学路を使うことにこだわったりと「限定された反復的な行動」がみられることがあるが、これも実は忘却のメカニズムと関わっているというのだ。

忘却のメカニズムが機能していた場合、通学路が変わっても、消しゴムで消して書き直すように覚え直すことができる。しかし忘却のメカニズムが働きづらいと、既存の記憶を削りとる調整が難しくなり、いらだち・行動の硬直性に繋がり得る。

忘却メカニズムが弱いと、似たようなものをすべて細部まで覚えてしまうため、一般化・抽象化能力が低下する可能性も示唆されている。自閉症者が時として細部にこだわりを見せるのは、そうした特性の現れなのかもしれない*1。忘却には不便も伴うが、変化の激しい環境・時代においては、有効な面が多いとはいえそうだ。

おわりに

個人的におもしろかったのは睡眠に関して書かれた章。睡眠時には樹状突起スパインの大きさが広範な領域で縮小を引き起こすことがわかっていて、ようは「睡眠時に忘却が起こる」のである。これは、睡眠が長時間に渡る説明にもなっている。

スパインを縮小させるのは瞬間的にできることではなく、その分解には数時間かかる。だからわれわれは、長時間の睡眠を取る必要がある──その間に夢は記憶の要点をザッピングしてつなぎ合わせ、忘却を伴う記憶の整理を行う──のである。そして、目が覚めたあとからすっきりとして新しい記憶の定着に向かって歩き始めることができる。この章を読めば、忘却だけでなく睡眠がいかに重要かもわかるだろう。

本書では他にも、PTSDのメカニズムやアルツハイマー病などに由来する忘却と正常な忘却は何が異なるのかといった、忘却に関したトピックが次々と語られていく。忘却を経験しない人はこの世にはほぼ存在しないから、本書は誰もに関係する一冊といえる。興味がある人は、ぜひ手にとってみてね。

*1:自閉症スペクトラム症の症状は多彩で、成長過程で症状が変化していくことから「自閉症者は◯◯である」といった過度な一般化は危険である。だが、本書では次のような記載の上である程度の一般化が行われているので、こうした表現にしてみた。『それでも大多数の研究で、自閉症における感覚情報の処理には低次のハブへの偏り、つまり森ではなく木を見る傾向があることが確認されている。』