本書『読めない人が「読む」世界』(原題:Readers Block)は、型破りな方法で読む人を取り上げていく一冊だ。たとえば認知症の患者は、少しずつ記憶が抜け落ち、短期的な記憶力も低下していく。長篇がスラスラ読めた人であっても、認知症が進行するにつれ、一ページ分の記憶も持たなくなり、話の筋が追えなくなる。そうした人たちは単純に「読む」という営みから除外されるのかといえば、そうではない。
ある認知症患者は長篇を読む喜びを諦めた代わりに短篇をじっくりと読み、楽しむ方向に切り替え、物語の展開よりも一文の美しさなどを意識するようになったと語る。『読書とはこうあるべきだという考えを改め、プロットではなく頁に集中する読書に変えたことで、ミッチェルは読書をつづけていけたのだ。(p.319)』
自閉症者によく現れる過読症、ハイパーレクシアと呼ばれる人々は文字を認識する能力が高く流暢に文字を読むこともできるのに、それを理解できていないことが多い。それでも活字には並々ならぬこだわりを持ち、(全員が全員という話ではないけれど)おもちゃで遊ぶ代わりにひたすら文字を眺めていることを好む。
こうした人たちは、「読む」とは物語の意味を探ったり、書かれている意味を理解することだという社会通念を持った読者ら(ニューロティピカルな読み手)からすれば異質な存在であり、その特性は「欠陥」、あるいは「病気」の兆候として扱われていた。
しかし、彼らは彼らの読み方で「読んで」いるともいえる。過読症の人々には何百回も同じ本を読んでその文字列をすっかり暗記してしまう人もいれば、内容よりも句読点や単語のパターン、そうした並びの美しさにだけ興味を惹かれる人もいる。句読点の並び、無数の単語パターンへの興奮、気になる単語を探すためのザッピングなど、彼らは意味を理解し解釈する以外にも様々な楽しみのために「読む」のだ。
彼らは、テキストの体裁の見過ごされやすい側面を容易に察知できる特権的な立場にいる。ラルフ・サヴァーリーズが自閉症の読者と関わったときに目の当たりにしたように、「コミュニケーションを媒介する媒体が消えずに残っている」のだ。(p153)
難読症──ディスレクシア
本書で最初に紹介されている事例は、シンプルに読字に問題を抱える難読症、ディスレクシアと呼ばれる症状を抱える人々だ。誰もが同じ問題を抱えているわけではなく、自閉症者が大きく異なる特性を持つように、難読症にも個人差がある。
難読症の人々は読むことに関しては問題を抱えているわけだが、同時にパターン認識、空間認識、直感的な問題解決など、難読症による潜在的な利益、創造性があることも報告されている。そのため、現在では難読症は「能力の欠如」というより、「認知的差異」の観点からとらえるのが慣例になっているようだ。
だからといって、難読症による心の痛みが消えるわけではない。現代社会は読むことを前提として成り立っているから、「読めない」ことを他者に知られることは、羞恥心など多大な心理的負担につながる。からかわれ、誤解され。学校の授業で行われる音読は、彼らにとってはクラスメートとのあいだに亀裂が走る瞬間になる。
愛読録──愛してやまない本についての本──は、苦労せずに文字を読める人には人気のジャンルだ。対照的に、ディスレクシアについて書かれた本は、嫌読録とみなしてもいいかもしれない。そこには、大好きな本の思い出や、読書の喜びは書かれていない。ディスレクシアを抱える人々は、児童文学の黄金期の作品を辛い体験と結びつける傾向が強い。(p.85)
読むことにまつわる多様なエピソードを集めると、そこには必然的に「苦しかった」と語る人々の体験談も入ってくる。読書が好きでたまらない人たちが語る読書や読者の歴史からはこうした人達はこぼれ落ちやすいが、だからこそ本書は最初に、「読書によって苦しめられた人々」を取り上げたのだろう。
さて、難読症の人々は読むことに困難を覚えるが、だからといってまったく読まないわけではない。この記事を読んでいる大半の人はスラスラと文章を読んでいるだろうが、難読症の人たち(がみんな同じではない)は後戻りを繰り返し、語順を間違え、単語も間違って読み、と通常の何倍もの時間をかけてじわりと読み進めていく。
彼らには文字が踊ったり二重に見えたり、点滅したり揺らめいたり、様々な現象が起こる。『Living with Dyslexia』によれば、ある子どもは「said」を認識するのに三年間の努力を必要とした。ある難読症の人々は、じっと読むことができないのでちらっと文字列を確認して、あとは推測でなんとかするという。かなりの部分を推測に頼って読んでいた人物は、読字を「自由翻訳」と呼んだ。彼らにとっての「読書」は、ニューロティピカルな読者とは異なっている。しかし、これもまた「読書」なのだ。
共感覚──シナスタジア
「特殊な読み方」でもっともわかりやすいのは、共感覚を持った人々のケースだ。たとえば、Aと記されたアルファベットをみた時、そこに赤いイメージが現れる──というように、本来無関係なはずの”文字”と”色”が結びついてしまうのである。
著名人でいうとナボコフはこの共感覚者だった(英語のaは雨風にさらされた木材の色合いを持つが、フランス語のaは光沢のある黒壇を思わせると書いている)し、物理学者のファインマンも広く使われている数式に褐色の「J」が見えていたのだと語っている。当然、彼らの「読む」体験はほかの人々とは異なる。あるドイツ人女性は、白黒の母音が「それぞれの色がきらめいている」と表現し、頁を見ているうちに、紙がオレンジがかったピンクに染まっていくと報告した人もいる。共感覚は読書に際して集中力が増すなど良い方向に左右することも多いが、一方で瞬時に湧き上がる感覚が五感を圧倒することで、理性的な思考の邪魔になると答えている人もいる。
こうした共感覚は脳の混線(色と感じる部分と形を感じる部分など)によって起こると考えられているが、それは共感覚が「文字と色」だけが組み合わせではないことも意味する。ある共感覚者は文字を読むことで舌先、口蓋、喉の奥に特定の味や食感が誘発され、「chairman(議長)」という単語は砂糖漬けのチェリーの味がするのだという。『味覚の共感覚者にとって、本は試食のメニューのようなものだ。(p.227)』
小説家野村美月さんの代表作に、本の頁をむしゃむしゃと味わって食べる文学少女が出てくる《“文学少女”》シリーズがあって僕は大好きだったけど、これはこうした特殊な共感覚の文学的表現といえるのかもしれない。
おわりに
本書を一冊通して読めば、本の読み方が一通りではないことがよくわかる。内容を理解せず、解釈せずに読んでもいいし、紙の本の匂いや手触りを楽しむだけのことも「読む」でもいいのだ。注意、感情、記憶、生理、感覚など、すべての状況・知覚が読書体験を変質させる。『この本を読み終えたニューロティピカルな読者のみなさんは、「定型的な」読者などというものは存在しないことを知っている。(p.331)』
「読む」こと、その多様性を知りたいと思う人に、ぜひおすすめしたい一冊だ。