基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「異常」と「正常」はどうやって生み出されてきたのか──『誰も正常ではない――スティグマは作られ、作り変えられる』

近年、ADHDや自閉症、うつ病などの精神に関わる病にかかること、かかったことを周囲の人間に伝えることは徐々に当たり前のものになりつつある。精神病は誰でもかかりうるものであり、うつ病はこころの風邪であって、調子が悪いときにはメンタルクリニックに行けばいいのだと、特に若い世代を中心にして認識が変わってきた。

数世代前までは自閉症やうつをカミングアウトすることには重いスティグマが伴ったことを考えれば、大きな変化である。スティグマとは汚名や烙印を指す言葉だが、ようはそれを公表したり、バレたりすることで自身の恥、不名誉となり、解雇や排除されたりといった相当な不利益を背負うもののことをさす。現状、精神病に関する認識は変わってきたとはいえ、まだスティグマは残っていて、誰もがおおっぴらに公表できるわけではない。それが治療を受けようとしない原因の一つになっている。

いまや誰も正常ではない

本書『誰も正常ではない』は、精神病者が「異常」と見なされ、周縁化され、差別されてきた歴史的過程について書かれた一冊だ。たとえば、いつから精神病者は「異常」な存在だと見なされるようになったのか? また、精神病を患っていることがスティグマとなり、公表できなくなったのはいつ頃で、どのように変化してきたのか?

著者は精神科医ではなく心理人類学者だが、様々な地域のスティグマの形成過程をみていくことで、社会からスティグマを軽減する方法についても知ることができる。今よりもスティグマがなくなれば、我々はそれを公表しやすくなり、自殺などの致命的な状態に至る前に病院や多様な治療法を選択することもできるようになるはずだ。

著者は、アメリカの子供は8〜9%がADHDであり、自閉症の有病率が2%を超え、8〜10%の子供が不安障害を持つといった現状を示した後、「正常な人は、もはやどこにもいないのでしょうか?」という学生からの問いに次のように答えている。

 それに対して私は「もういない」と答えた。いまや誰も正常ではないのだ。私たちは長きにわたって、誰を社会に受け入れ誰を排除するかを決めるために、「正常」という概念を使ってきた。だがもういい加減、正常とは有害な幻想であることを認識すべきだ。

資本主義

本書では「資本主義」、「戦争」、「医療化」という3つの軸を通して精神病のスティグマを理解しようとしている。もっともわかりやすいのは最初の「資本主義」だ。資本主義社会では働いて金を稼げないことは典型的な疾患とみなされ、精神病のスティグマの源泉となる。働く能力を制限する何らかの障害を抱えた人の多くが、それを知られたくないがために治療を受けないことを選択してもそう不思議なことではない。

資本主義社会の状況が変化することによって、スティグマにも変化が生まれる。たとえば、自営業やパートタイマーや自宅での労働など、多様な働き方が許容されるようになった21世紀の社会であれば、以前ならば職場から排除されていたようなタイプの人間にも仕事や高い評価が生まれる。一昔前なら蔑まれていた、ギーク的な志向を持った人々が、今ではヒーローのように扱われるようになることもある。

資本主義以外の社会ではどうなのかといえば、ナミビアのカラハリ砂漠で暮らす狩猟採集民のジュホアンシ族では、西洋の医療で「統合失調症」と診断される症状を示す人がいても、彼らの文化では統合失調症に相当する概念を持たず、それを異常とみなす文化的背景がないので、ほとんどスティグマを受けることもない。

スティグマは時代と場所によって大きく変わり、また無知や、日常生活を送るために必要な個人の能力の欠如や、公的な露出によってではなく、社会が描く個人の理想像から生じる。タムゾやゲシェの病いの経験が彼らの社会とその歴史によって形作られているのと同様、アメリカにおける病の経験もアメリカ社会とその歴史によって形作られている。

資本主義社会では家族への依存は不名誉なことで、日本でも30代で親と同居していると子ども部屋おじさん・おばさんなどといってバカにされるが、ジュホアンシ族のような社会では、言葉が話せずひとりでは生きていけない自閉症者であっても、近所の人々が支えてくれることが当然で、親が子供の自立を心配する必要もない。

このように、スティグマの有無には大きく社会的・文化的要因がかかわってくる。

故障した脳モデルとスティグマの軽減

個人的におもしろかったのは、精神病は脳の故障によるものであり、体と同じように精神も治療可能であるとする「故障した脳」モデルが、精神病のスティグマを軽減するどころかスティグマ化の中心的役割を果たしてきたと述べているところにある。

故障した脳モデルが人間から生物学的器官へと責任の所在を転換してくれることを期待している人も多い。あたかも「それは私のせいではない。脳のせいだ」と言いたいかのごとく。だが、これから見ていくように、「他のどんな病いとも変わらない病い」モデルがスティグマの軽減に一度でも成功したことを示す証拠はほとんどない。

個人的に、まさにこの引用部に書いてあるような理屈で故障した脳モデルはスティグマの軽減に役に立つと思っていたので、これは意外な記述であった。

その理由はいくつも説明されていくが、たとえば精神病者を脳内化学物質のアンバランスさや異常な脳神経回路を持つ人として捉えると、生物学的にその人を恐れなければならない理由、恒久的な障害を持つ人として見るべき理由を与えることになる。また、医師が投薬によって脳を治療しようとして、薬が効かなかった場合、治療を受けた人は自分が面倒で救いのない患者であり、自分に欠陥があると感じるだろう。

脳スキャンによって正常な脳と異常な脳を分類することはいまだに不可能であり、診断に使うに足る証拠がないという話もある。『現時点では、脳スキャンを精神病の診断や治療の基盤に据えるべきことを支持する証拠はほとんど得られていない。たとえそれが可能になったとしても、濫用されることにならないだろうか? たとえば、脳スキャンでは異常が見つかったものの、行動異常を呈しているわけではない人が、職を失ったり、医療保険や生命保険の契約を拒否されたりしないだろうか?』

もちろん、本書は精神病の原因を脳や遺伝子といった生物学的要素に求める研究を否定するものではなく、それだけがすべての原因であるというのは危険だ、と主張しているわけである。たとえば、そうした極端な考えが、かつてはロボトミー手術や断種政策に繋がってきた。もはやそんなことは起こらない、と思うかもしれないが、自閉症などが事前の遺伝子検査で判明するようになったら、堕胎の判断に繋がるだろう。

遺伝子がすべてではなく、自閉症もまた「正常な人間の多様性の一部である」という考えが広がっていれば、そう簡単に堕胎という判断にはならないはずだ。

おわりに

他にも、精神病が「異常性」と結びつくようになったのは、犯罪者と狂人を社会から分離するために監獄が設立されてからであるとか、第一次、第二次、ベトナム戦争など数多くの戦争が精神障害をストレスの反応に対する当たり前の反応と世間の認識を変えスティグマが軽減されるなど、400ページ超えの大著の中に無数のトピックスが埋め込まれていて、たいへん楽しく充実した読書体験を得ることができた。

専門用語もそう多くなく、比較的読みやすいので、興味がある人はぜひ読んでみてね。