基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

自閉症者だからこそのユニークな読書体験を描き出す、「読み」の探求──『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書──自閉症者と小説を読む』

この『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』は、副題に入っているように、本書の著者が自閉症者と共に色んな小説を読んで語り合ってみたという、ただその体験を記しただけの本である。体験記と文学評論のあいのこのようなもので、何か、これによって自閉症者と読書にたいする普遍的な傾向を見出したりするような本ではない。

自閉症といっても症状は多様であり、数人をとりあげて一緒に本を読んだところで、普遍的な何かを言えるわけではないから、それは当然だ。では、なぜそもそもの話、自閉症者を対象とした個人的な読書会の体験記が書かれなければいけなかったのか。

理由としては、著者には自閉症を持つ息子がいること、英文学の教授であること、ニューロ・ダイバーシティ(神経多様性)についての取り組みを行っていることなどいろいろあるが、最重要なものに、自閉症者らがいわゆる神経学的な定型発達者とは異なる読み方を提示してくれるのではないか、という仮説の探求がある。

自閉症者と文学を読むというこのプロジェクトを始めた当初から、私の狙いは、自閉症の欠陥にばかり目を向ける習慣的なやり方を取らず、感覚で対象と関わる彼らの才能──そしてもちろん、感覚の強さ──が読書のプロセスに生産的に寄与するのではないかという点を探求することにあった。

自閉症者にはコミュニケーションの障害、想像力の障害、社会性の障害の3つの障害があるとされてきた。他者の内面を類雜し、理解して、気づきを得ることが難しいのだと。他者の心の状態に思いが及ばないのだとしたら、自閉症者は小説の中に現れる登場人物らの心の動きや、比喩に隠された意味についていくことなど到底できそうにないと思える。だが、自閉症者が書いた文章が増えていくにつれて、自閉症者らが文学作品を感情豊かに、そしてユニークに読み解いていくこともよくわかってきた。

本書は基本的に一人につき一冊のテーマ本(『白鯨』、『儀式』、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『心は孤独な旅人』、『ミート』『ジ・エクスタティック・クライ』)が設定され、それを細かく読み解いていく過程が記されていく。これまでの研究から、自閉症者はものを考える際に(定型発達者からすると)異常なほど後頭部の感覚野に頼っていることがわかっているが、そのおかげか、彼らの中には、文字に実際に触れ、情景を立体的に捉え、匂いを嗅いで音を聞き、と物語を「感じながら」読むことができる人が多い。彼らは文学作品の理想的な読者なのかもしれないのだ。

自閉症者らと著者の感想戦の合間には、その時一緒に読んでいるのがどのようなタイプの自閉症者なのかという紹介と、自閉症に対するステレオタイプな見方(たとえば、彼らには共感能力が欠けているなど)を覆していく様子が、最新の研究や知見と共に語られていく。「自閉症者と一緒に読んでみた」だけでなく、自閉症の現在について、ざっくりとではあるが知ることのできる一冊にも仕上がっている。

ティトと『白鯨』

最初に取り上げられていくのはメルヴィルの『白鯨』で、著者の相手は読書会当時19歳、言葉を話すことができない古典的自閉症児のティトである。重度の自閉症者にはほとんど内省をしたり深く考えたりする力はないと思われていた当時、見事な知的能力で何冊もの本を書いて(当時すでに3冊)自閉症者として有名な青年であった。

ティトの世界の感じ方は(定型発達者であるニューロティピカルからすると)特異で、たとえば新しい環境の中で、簡単に情報の統一をはかることが難しいという。たとえば船をみたとき、大カテゴリとしての船があるな、と認識し、そこから帆や甲板を認識していくのではなく、それらを無視していきなり船板の木目に注目するようなものだ。細部に焦点があってしまうので、意図的に見すぎないようにする必要がある。これは、音などでも同じで、音が聞こえる時に、環境中のほかの音よりも人の声を優先することができない。川のせせらぎと友達の声が区別されずに入ってくる。そのせいで、口で言われたことをただ理解することも容易にはいかない。

こうした彼の世界の見方、感覚は、『白鯨』を読む際にも反映されていく。たとえば、『白鯨』の語り手であるイシュメールは、見張りに立つ間、本来求められている鯨や海やマスト・ヘッドという観念を忘れ、『「いま……享受している生命とは、おだやかにゆれうごく船からさずかった生命にほかならぬ。海をとおしてさずかった生命……にほかならぬ」』と見張りとは関係のない感覚の中に沈み込んでいく。これにたいして、『ティトによれば、イシュメールのこの言葉は自閉症者が感覚の中に我を忘れるようすを限りなく見事に表現しているという。感覚は気持ちを苛立たせることも多いが、感覚に魅了されることも同じくらい多いのである。』

ティトはこの時、『白鯨』になぞらえた一つの詩を送っているが、そこで彼は、自分に届く声は音の周波数であり、意味は把握されぬままに通り過ぎていってしまうという自閉症者における会話の状況を見事に描き出している。このように、彼らは17ヶ月 を通して一つ一つのシーンを丹念に拾い上げ、詩を書きながら精読していく。これは、「細部」に注目しそこから全体像に至る、自閉症者的な読み方といえるだろう。

文学という調停

本書でもう一つ重要なのは、ニューロ・ダイバーシティ(神経多様性)の観点だ。たとえば、自閉症者は音や視覚で情報が押し寄せた時、抽象化や一般化がうまくいかず情報をそのまま受け取ってしまう。一方、定型発達者であるニューロティピカルがそうならないのは、抽象化や一般化することで情報を省略することができるからだが、これはある意味では細部が失われることを意味している。自閉症を、ただ治すべき障害として捉えていると、自閉症が持つプラスの側面が見えなくなってしまうだろう。

どちらが良い、悪いというものではなく、ニューロティピカルと自閉症者、どちらにもプラスとマイナスがあるし、障害として排除するのではなく、それを認めよう、というのがニューロ・ダイバーシティの基本にある。そして、著者は、文学は自閉症者とニューロティピカルにとって、調停の手段として機能するのではないかと書く。

自閉症者は感覚が思考を圧倒し、ニューロティピカルは思考が感覚を圧倒する。だが、文学は感覚と思考を結びつける。文学は、言葉によって読者の脳の非言語的な領域を活性化させ、体験をシミュレートさせることを狙うが、これは自閉症的な世界の認知の仕方に近いものだ。一方、感覚が過大な自閉症的認知からは、文学を読むことで、感覚を超えて思考に至る訓練になるのではないか。『文学は、言葉による安息の地、故郷のようなものになりうるのではないかと私は考えるようになった。』

おわりに

最後に収録されているテンプル・グランディンとの読書会では、自分の仮説を立証することと本の構成のために、意図的に誘導じみた質問を重ねていて、おいおい、そりゃルール違反じゃねえのと微妙な気持ちになったりもしたが、総体的には魅力的かつ、示唆に富んだ一冊だ。特にディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読む章はSF好きとしてもおもしろかったのだけど、気になる人は読んでみてね。