基本読書

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警士の剣(新装版 新しい太陽の書3)/ジーン・ウルフ

警士の剣(新装版 新しい太陽の書3) (ハヤカワ文庫SF)

警士の剣(新装版 新しい太陽の書3) (ハヤカワ文庫SF)

 人間たちの首塚が遠くに消え失せる。
 わたしは次第に小さくなり──今はだれにも知られずに、いなくなる
 しかし愛情のこもった書物の中で、子供たちの遊戯の中で
 わたしは死から蘇って、いうだろう──太陽! と。
                     ──オシップ・マンデルスタン

 このバカデカイ剣でヒゲを剃るセヴェリアンを想像するとなんともいえない気分になる。常に使うことによって剣になれるんだぜ、みたいなことを言っていたなあ。料理する場面とか書かれていないけれど、この剣で料理するのだろうか。それからこのでかい剣を必死に持ちながら歩くピアを想像すると萌える。そして絶体絶命のピンチを救ってくれる素晴らしいテルミヌス・エスト。多機能だなあ。ヒゲはそれるしわけのわからん機能はついているし。枕になるし。そして壊れてしまった。こんなに呆気なく壊れてしまうなんて…。

 いやーしかし一巻二巻と比べて読むのにだいぶ時間がかかった。いつもならこれだけ時間をかけるパターンだと途中で飽きて読むのをやめてしまうパターンが多いのだが不思議とそういうことにはならず。牛歩のようにゆっくりと読み進めていった。何故安心して読み進められるかというならば時折挿入される現在と思われるセヴェリアンの落ち着きだろうか。それからラストへの期待。過去と未来と現在のすべてが渾然一体となっていくこの感覚。読みとれるものだけでなく、読みとれない何かに手で触れられるような気がする。想像以上に深くて、広い世界があることだけはわかっているのにうまく手を突っ込むことができないこのもどかしさ。それら全てが、安心につながっている。

 エピグラフがなかなか印象的である。セヴェリアンは完全記憶なので過去を回想すると、それがあまりにもリアルに思い起こせて「過去」が「現在」になる。その世界ではセヴェリアンが愛していたセクラや少年セヴェリアンやその他大勢(ひでえ)がみんな生きているのに、その世界に耽溺してしまわないのは何故なのだろうか。そしてセヴェリアンの在り方はまんま本だよなーと。本を開けばそこでは愉快なキャラクターが、甦る。読み終わったとしてもそれで終わりではない。日記を書き残したら、文字を記す事を覚えたらもう孤独ではないんだといった膚の下の慧慈を思い出してちょっと泣きそうになった。

 ──あなたは独りでも寂しくない
 ふと、その実加の言葉が浮かんだ。読み書きができなかった。志貴一族の少女。輸送機の中で文字を教えた。日記とはなにかを説明すると、その少女は、たしか──
 慧慈はその日のページを探して、思い出す。
 『日記、読んでやるよ』と実加は言ったのだ。二百五十年後に火星から帰ってきたら。
 『だから、あなたは死んでも寂しくないのよ』といった。

 慧慈は読み書きを覚えれば孤独ではなくなるということを、教えてくれた。そのとおりだった。わたしはもう寂しくない。
 慧慈、あなたも寂しくないよ。日記の中で、わたしはあなたと再会したもの。約束どおりに。

 い、いかん涙が…! いやいや、これは泣くだろ。常識的に考えて。しかし今は膚の下について語っているわけではない! 本筋へ回帰するのだ!

 ここまで三冊新しい太陽の書を読んできて、ずーっとセヴェリアン君を読んできたわけであるがこいつムカつくやつだなあと思ったことが一度でもあっただろうか。いやないだろう。ないない。どの行為も凄く自然なのだ。作中でタロス博士がセヴェリアンのことを偏見がなく、だれであろうと来るものを拒まずの精神を教えられていると評価している。だからかなあ。何事が起こっても荒波を立てる方向に話がいかない。いきり立っているアギアに対しても凄く紳士的だ(紳士的というのとは違うかも知れんが)そしてこの何事も水の如く受け入れるセヴェリアン君はやはり読んでいて、大きなカタルシスを得る事はないもののひっかかることもない素晴らしい主人公なのだといわざるを得ない。言わざるを得ないなんて書いたのは、女の子も水の如く受け入れてしまうセヴェリアン君に対してドルカスがあまりにも可哀想だからである。ドルカスからしてみればひどい男だよおまえは!