基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

孤独の価値 (幻冬舎新書) by 森博嗣

思考を自由にするために、思考をする。この『孤独の価値』を読んでいて、森博嗣さんがここ何年か出している新書群を一言で言い表すなら、こういう表現が良いのではないかと思った。たとえば昨年出版された「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書) - 基本読書 は、仕事にやりがいを見出すこと、楽しく働くことがあるべき姿のように吹聴されており、それを真に受けて現実の自分とのギャップに苦しんでいる人がいるが、仕事は本来辛いもので生きるため=金を稼ぐための手段でしかないからそう割り切るのも一つの考え方だという「押し付けられた幻想」を打ち壊すための「思考」について語っている。

本書はこの例にのっとっていえば、孤独、寂しさを感じることは一般的には「悪いもの」とする風潮があるが、それは本当かと問いなおす一冊だ。孤独とは何なのか、寂しいと感じるのは何か不利益をもたらしているのか? そして孤独でいることには、大きな利益も産むのではないだろうか? こうしたことを一つ一つ考えていくことで、我々は「寂しさを感じるのは悪いことだ」とする思考の枷を外すことが出来るかもしれない。それは「孤独に生きろ」「いろいろな人と付き合うことをやめろ」ということではない。ただあえて孤独と呼ばれるような環境・心境に身を置くことが絶対的に悪とされる選択肢ではなく、価値のあることだと意識するだけでも、生き方のルートは大きく広がっていくだろうとする考え方の拡張だ。

もちろんこのような思考の枷、「こうでなければならない」「こう感じなければならない」とする、自分で自分を縛り付ける思い込みは孤独や仕事に限らない。世の中に溢れている情報、たとえば広告なんかはその最たるものだが、広告をうつ側が自分の望む側に、見た人を誘導したい場合である。情報というものは本質的にそのような、発信者が望む方向へ読者・視聴者を誘導する性質があり、我々は常にそうした「他人が強制してくる思い込み」にさらされているとも言える。たとえば漫画やアニメ、小説、ドラマなどエンターテイメント系の作品では「一人ぼっちは寂しいことだ」「だから友達をつくらなければならない」「一人ぼっちの子を仲間に引き入れてやるのはいいことだ」「大勢で何かを成し遂げるのは素晴らしい」というような単純な価値観で溢れている。

確かに人間は基本的に群れをつくる生き物で、襲われず、集まることそれ自体に価値があった(ある)ことは確かだ。だからこそ仲間がいないこと、仲間を失うことを本能的に寂しいと感じる。が、現代においては我々は別に一人っきりでいたからといって命が危険にさらされるわけではないし(特に都市部では)理性的な部分で考えると一人でいることを否定する要素はないように思える。極端な例かもしれないけれど、本能として性欲は生殖行動を求めているわけだけれども、そうした本能に振り回されて性欲対象をレイプし始めるわけではない。自分なりの理性にしたがってそれを処理していくわけで、孤独も本能に根ざすものであったとしても理性(思考)で対処・利用することが出来るはずだ。

というわけで、考えてみる。寂しいと何か悪いことが起こるのか? と。寂しいことは寂しいことであり、それはとても嫌な状態だから悪いことだというかもしれないが、でも別に腹が壊れるわけでもない。まあ、精神的に不調になる場合もあるだろうし、焦りで何も手につかなくなってしまうなんてこともあるかもしれない。それはしかし、考え方によって変えられないものなのだろうか? また一人でいることは実はめちゃくちゃ楽しいことなのではないか? たとえば僕は一人が大好きな人間で、大学に入った時は「これで四年間誰とも会話しないですむ!」と思って本当に嬉しかったし、卒業して会社に入った後もずっと一人になりたくて、結果的に辞め、家で誰とも会わず、会話もしないで仕事ができる環境を整えた。

一人でいれば自分の好きな時にトイレにいけるし、突然歌いだそうと思えば歌い出せるし、犬を撫でたいと思えば撫でられ、ニコニコ動画がみたいと思えばみれ、本を読みたいと思えばすぐに読める。ようは法律に違反していなかったり他人に迷惑をかけなければ、自分がしたいことを何も考えずにできるのであって、そこには他者からの制約が一切ない。自分の好きなことをいくらでもできる(たとえば僕で言えば本を読んで文章を書き続けられる)ので、めちゃくちゃ幸せだ。もちろんたまに誰かと会話をするのは良い息抜きになるけれど、なくたって構わないものでしかない。誰もが僕のように一人っきりでいること、客観的にみれば孤独な環境に身を置くことに価値を見出すとは思わないが、そのような生き方もあるのである。

つまり、寂しいことは本能的な部分を別にすれば何も悪いことなどない。むしろ、いいことさえある。現代はつながりっぱなしの時代といわれるほど、ツイッタやFacebookのようなSNS、LINEやらSkypeでいつでもどこでも人とやりとりが出来てしまうが、むしろそれだけに誰とも接続されていない時間、一人っきりでいる時間の重要性も浮き彫りになってきているのだろうし、求められているとも感じる(たとえば現在大人気のライトノベル『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』も、そうした孤独の肯定という側面を持っている。)。

本書はここからさらに「孤独であるからこそ発揮されるもの」があると続いていく。たとえば小説は一人でつくるものだし、漫画だってアシスタントを使う前段階、ネームの段階では個人作業だ。アニメも集団作業だがその元となるのは脚本・絵コンテといった個人作業の集積である。孤独から生産されるものというのは意外と多い。創作は孤独に通じているようだ。あえて孤独に身を置くことは本能を思考で制御する、人間性そのものにも通じる価値のある行為であるともいえる。

孤独を受け入れるために。創造と孤独

だが、そんなこと言われたって寂しいもんは寂しい、思考の枷を外そうとか言ってることはわかっても、無理です! という人向けに、孤独を受け入れるためのもう少し具体的な手法についても本書は最後の方で触れている。森博嗣さんの新書においてこの辺の具体的な親切さみたいなのは過去にあまり読んだことがなかったような気がするので驚いたけれども、まあ、創作だったり、研究だったり、あえて無駄なことをするなどいろいろ述べられている。

あえて付け足すことがあるとすれば、日記でも何でもいいから「書く」ことだと個人的には思う。それはブログでも個人的な日記でもいい。でも誰も読んでくれないし……といっても、PVや読者が現代にいるかなんていうのはあまり関係のないことだ。文章というのは、時と場所を超えるもので、いつか、これを、誰かが読むかもしれないと思って書くだけで、たとえ現在時点において自分の周りに誰一人いなかったとしても、そこには他者性が生まれえるのである。これはたぶん「書く」ことだけではなく、創作全般に通じることだともいえることなのだろう。だからこそ孤独を受け入れることと創作には深いレベルでの繋がりがある。

そもそも何を隠そう僕がこのブログを書き始めたのが、神林長平先生(SF作家)が書いた『膚の下』という作品の、下記の一節に触れて、いてもたってもいられなくなったからだった。神林長平 膚の下 - 基本読書*1

「なにもしない」と慧慈は言った。「互いに寂しいことに気づいた。実加もわたしも。それだけだ。読み書きができるようになれば、実加の寂しさを埋められるとわたしは思って、それを習うことを勧めたんだ。あの子はおそろしく孤独だった。それを彼女は自覚したんだろう。わたしも、自分の身の上は実加以上に孤独だと思った。無人の地球で独りで死んでいくんだ。その前に殺されるかもしれない。でも実加は、わたしが死んでも、わたしの日記を、火星から戻ってくる二百五十年後に読んでやる、だから寂しくない、とわたしに言ったんだ。実加が本当にわたしの日記を読むかどうかなど、そんなことはどうでもいい。わたしは彼女から生きている実感を与えられたんだ。実加のような人間がいる限り、わたしは孤独ではない。初めての経験だった」──膚の下

これを読んだ時に、自分が孤独だ、寂しいと感じていたのかは思いだせない。が、とにかく自分も何かを創らなければならない、創らないにしても、何かを書き記さねばならないと思ったのは確かだ。まったく悩まずにブログをつくって、ブログ名を考える時間も面倒くさかったから最初に思いついたシンプルな『基本読書』をつけて、小説もなにも書いたことがなかったからとりあえずこの衝撃を書き留めねばならぬと思い、有無をいわさず書き始めた。この『膚の下』という小説がどれだけ僕にとって衝撃的な本だったかはとても語り尽くせるものではない。しかし『膚の下』の書評を書く為に衝動的に始めたこのブログが、八年もの時が経ってもいまだに熱量を落とさずに更新され続けているだけでも、多少は僕が受けた衝撃が伝わるのではないだろうか。

一応小説の補足を入れておくと、慧慈は人間に創られた人造人間(アートルーパー)で、地球から逃げ火星へ移住する人間とは別に地球に残って任務を果たすことになっている。人間に創られた存在がはじめて自立的に考え、行動していくことになるとはいったいどういうことなのかを「創造」という主題を中心に据え語っていく本作において、孤独と寂しさ、またそれを打ち消すものとしての書くこと・創造することが提示されている。読み書きができない少女に読み書きを教えることで、孤独を知らなかったアートルーパーが孤独を知る。しかし同時に、彼女が自分の書いた日記を将来読んでくれるかもしれないと「仮定」することで、彼は深く安心するのである。

なんだか『孤独の価値』のレビューというよりかは『膚の下』のレビューのようにもなってしまったが、孤独において考えるにあたっては必読の一冊だろう(膚の下がじゃなくて、孤独の価値が)。そして森博嗣さんの本を読む価値はテーマとされている部分について考えるだけでなく、思考の枷を外す為にはどうやって考え、疑ったらいいのであろうかといった部分への理解につながるところにある。表層のテーマだけにとらわれず、より抽象的に読むこと、応用可能性のある題材、思考の骨格として読むことで、価値は飛躍的に高まっていくだろう。

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚の下 (下)

膚の下 (下)

*1:このブログの、一番最初に書かれた記事。はてなブログ上では最初の記事ではないが、それは移転した時に適当に記事を並べたからである