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ゾンビ日記

著:押井守でゾンビ? それはいったいどんなものになるんだ? とわくわくして読み始めたらなるほど。狙撃銃に関して偏執的で変態的な描写を重ね、ゾンビというあまりにも明白な「死のメタファー」を目の前にして戦争と、死についての思考を続けるフィクションらしからぬフィクションであった。あと特徴だけど、押井さんの小説って銃器の偏執的な描写と食事の描写がほとんどイコールになっていておもしろい。身体の感覚を色んな物とつなげる異質さがある。

あらすじ

運命の日から数年後、生きている人間を探し求めて東京を彷徨ってきた男は、静かな絶望のなかにいた。男と共存するのは、犬や猫の動物ではなく、徘徊するゾンビのみ。人を襲わず、なにも食らわず、何にも関心がない。男の他には、“生きている”人間はいなかった。残された食料で生き続ける男は、無偽な生活から逃れるように、やがて銃を手にする――。ゾンビたちが出現した理由は? 運命の日には何が起こったのか? アニメ・映画監督の押井守が描く、新しい小説世界!

本作でのゾンビは一般的な意味でのゾンビではない。ただ徘徊するだけで、人を襲うわけでも、よって感染させるわけでもない。ただ徘徊するだけであり、死んでいるのに生き続けているだけだ。でもそのぶん「死のメタファー」としての機能はより直接的である。目に見える、普段は意識することのない「死」を意識せよと伝えてくる。

押井守さんは直近の新書『コミュニケーションは、要らない』で、「今生きている人間にとって一番大切なのは、死生観であり、もっと言えば、死とどう向き合うかだけだ。」と書いていた。ようするにこれは押井守さんなりの死生観であり、死と向き合った形なのだろう。作中で主人公の狙撃手は一人であり、ゾンビと狙撃銃を通して延々と向き合い続ける。

その死生観のベースとは、「死があるからこそ生がある」というか、死と生は同じものなのだという認識だと思う。人間は誰しもが100%死ぬ。100%死ぬのだったら、死について考えることは生きることにつながる。近い未来だけを生きているわけではなく、遠い未来を考えてこそ現在が生まれるからだと。

本作がフィクションの形をとっているのは、そういった「死を受け入れる神話」が現代にいたって失われてしまったからではないかと思う。たとえば現代より時代を遡ると儀式というのはもっと力を持っていた。死者の魂という存在を信じていたし、イタコやシャーマンといった存在が交信の役割をになっていた。今では葬式があるが、その力は過去より強くない。ほとんど誰もが信じていないからだ。

科学全盛の時代では「そんなの当たり前だろ」と思うかもしれないが、神話というのは死を受け入れるための文化装置としての役割を果たしていた。ようするにだれもが納得して、受け入れているのだったらそれが科学的に正しいかどうかなんてどうでもよく、意味があるのだ。死と日常的に交信していた人達にとって、死はもっと身近なものであり生活の一部だった。今はこの「神話の力」がどんどん弱まっている時代なのだろう。

だからこそフィクションで「神話の再興を」となるのかといえば、『ただ遺憾なことに、現代のような分業化しすぎた芸術には、死生観を創出する力はない』と本作の語り手に言わせている。まあ、そうなんだろうな。本作ではこういった死への思考を、過去の戦争を織り交ぜ、分析しながら進む。人は死をどのようにして飼い慣らし、目から逸らそうとしてきたのかがそこでは語られる。大変おもしろかったのだが、一点だけさらに先が読みたい部分がある。

文化の発展の歴史をみるに、人の生活から「死」の存在が隠蔽されるようになったのは明らかである。しかし「なぜ文化は死を生活から排除する」のだろうか。この問題に対しての考えが読みたいと思った。ちなみにこの問いへの考えで面白いのは『唯脳論』の養老孟司さんの話である。ちょっとだけ解説。

現代人は何事も理性で判断すべきだ、と考えている。理性はきちんとしていて、正しいから、みんなが理性的であるように求められる。相撲では八百長はゆるされないし、電車は遅れてはならない。タバコを吸うなんて健康に害があって、無意味だから、ゆるされない。我々は「世界は説明可能である」という宗教的世界にいるのかもしれない。

しかし死は「世界は説明可能だ」という暗黙の了解を破壊する。「なぜ自分だけが死ななければならないのか」といった理性的答の出ない問題に答えることが出来ない。世の中には理性で説明のつかない物事が存在し、その最たるものが死である。だから現代人はより死を排除する方向に向かってきた。死体は人々の目に入らないように掃除されてしまうのだ。

ちょっと面白い考えじゃないだろうか。上に書いたのは僕の考えも混ざっているので養老孟司さんだけの文章ではないが、こうなってくると次に考えたいのは「なぜ我々は世界は説明可能であると思いこむようになったのか」とかだろうか。たとえば科学とかって、人の生活を一変させて、恐らくだけど幸せな方向に人を向けたから、科学的な思考法を信じる宗教が蔓延したのかもしれない。

いやあ色々発想が広がって、おもしろいですね。『ゾンビ日記』からちょっとズレてしまったけれど、そんな感じでした。世界は理性だけで割り切れるものではなく、だからこそ生を充分に生きるためにも、死を忘れてはならないのですよ

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