基本読書

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GARM WARS 白銀の審問艦 by 押井守

映画『GARM WARS The Last Druid』いまだに劇場公開日さえ決まっていないのに小説が先に出てしまった。監督である押井守さんによるノベライズ作品。ノベライズといってもこの作品に興味があったわけではないので『GARM WARS 白銀の審問艦』が映画のシナリオを小説化したものなのか、まったくの別物なのかすらよくわからない。とりあえず今公式ホームページを観てきた限りでは登場人物はとりあえず共通しているようだ。話は……どうかな? ただ映画と小説はやはり基本的には別物なので(話がどうとかじゃなくて、表現媒体として)、この記事では映画の背景情報などもなしに小説作品のみにフォーカスをあてて書いていきたい(調べるのも面倒だし)。

僕は押井さんの映画はあんまり観てないのだが書いたものについてはめっぽうマメに読んでいて、小説も好きだ。Avalonも好きだしゾンビ日記も好き。押井さんの小説で僕が好きなのはプロットやキャラクタではなく、明確なコンセプト。そして人間味を感じない部分の執拗な描写(銃器とか戦車とか戦闘機とか)にある。ガルム小説は重力制御が可能な世界だがそれも万能の技術ではなく我々のよくしる推進剤などの技術と組み合わせて執拗に描写していく。説明が難しいんだけど、この重力制御が万能じゃなくて推進剤なんかで補助的なコントロールをして運用してなんとか……みたいなところにグッとくる。

それは単にその重力制御が万能の技術だったら描写は極端につまらなくなるから。結局面白いと感じるのは「苦闘」そのもの。SF技術を使った苦闘は「普段想像もしないもの」で、そうした自分では想像の及ばない領域の「苦闘」を描いてくれるところに僕は面白さとSFであることの意味みたいなものを感じているんだと思う。だから僕は本作をド直球のSFとして評価している。たとえばこんな描写が冒頭からつらつらと続いていくのでもう冒頭から、描写それ自体から快楽を得られる人間からすれば「きたきたきたきたーーーーー」と盛り上がってしまう。

哨戒機に限らず、コルンバの戦力の基幹を成す艦載機は、実は母艦の放射する重力波を翼に受けて滑空する一種の重力凧であり、行動の全てを母艦に依存していた。雷爆撃を担う艦載機は推進剤を用いた空中機動を行えるが、その消耗は激しく搭載量は僅かだから、所詮は補助的な推進機関でしかない。何らかの理由によって母艦を喪うか、その重力波圏外に出れば翼の揚力のみを頼って滑空し、不時着して回収を待つしかない存在だった。その意味でコルンバの全航空戦力は単独の戦力単位というより、母艦の戦闘システムの一部を成す端末と呼ぶべきだった。

押井守小説作品の中でも突出して好きな作品だ。プロットにこだわったりキャラクタに注目する人にはウケが悪いだろうけど、小説が他の表現媒体に比べて優っている部分はなにかっていうところと、それから自分が本職の文字書きではないことに自覚的な書き方ではあるかなと思う。よって、やはり最大のウリは我々のよく知る現実からかけ離れた世界観そのものだろう。

何しろ普通の意味での人間はまずいない。重力波はその主要なSFギミックだが他にも記憶転写で同じ個体が死んでも何度も蘇って戦線に経つとか経験の他個体へのコピーとか古代言語やら目的も意味も一切が不明の敵と「一気に出されてもわかんねえよ」的要素でごっちゃごちゃになっているから一読で把握するのはけっこう大変。巻末に用語集があるから一読したあと用語集読んでもう一回頭から読み返すか、よくわからなくなったらいったん後ろに回って用語の意味を把握してからにしたほうがいいかも。

簡単にあらすじ

シンプルなプロット部分だけ抜き出すと押井守版戦闘妖精・雪風と言った感じ。このガルム世界にはもともと八つの部族があって、ちょっとまえに覇権争いで今は三つしか残ってない。で、今いるのはほとんどガルムっていう義体メインの人達で、死んでも保存されたデータからクローン体へ記憶を転写して戦闘に復帰できるから永久不滅ポイント、じゃなかった永久不滅存在。五十代めの冬木糸一ですみたいなのが普通にいる。彼らにとっては死とはいったん意識が中断してまた戻ってくるまでの停止期間、いわば1ゲームオーバーみたいなものに過ぎない。

それじゃあそもそも彼らは何と戦っているのか。今も内輪揉めの殺し合いかといえばそうではない。12周期ごとに”セル”と呼ばれるものの襲撃をこの世界は受けている。これは正確に周期としてあるので、そこには何らかの意図のようなものが感じられる。でも誰かからその意図が明かされることはないし、結果からその”セル”が何を目的としているのかもよくわからない。いわばclearする為の方法もわかれば相手が何なのかもわからず延々とゲームオーバーを繰り返すだけのゲームをやっているようなもんだ。ガルム達は「いやわしら別に死ぬのはかまへんけど、せめて納得して死なせてくれえや、意味もわからず死に続けるのはちょっと堪忍やわ」といった感じになる。

スズメバチに対するニホンミツバチ的なアレ

この”セル”の描き方が面白い部分で、大地に落下してくるんだけど攻撃することも破壊することもできないんだよね。それは大地に降下してその時はじめて実体化するからで、それまではどんな物理的な手段であっても攻撃を通せない。大地に落下したら手も付け用もない破壊力を発揮してしまう。落ちるまでは無敵モードで落ちてからも無敵モードってそれ打つ手なしやないか、と思うし実際この世界では”セル”に長い間ボコボコにやられていたんだがつい最近有効な戦術を編み出して──という時期の物語だ。

生み出された有効な戦術は”セル”の針路上に重力偏倚を起こして迎撃部隊をあらかじめ集中させた部分に落として──みたいな無茶苦茶な方法。「勝ちようがない相手に無理やりでもなんでもいいからとりあえず勝つ方法を見つけ出した」みたいなのって、なんか燃える。単体じゃ絶対にスズメバチに敵わないニホンミツバチがスズメバチに集団タックルをしかけて自分の身体を震わせて熱で熱死させるとかいう無茶苦茶さに通じる物がある。お前らよくそんな事考えついたよな、っていう。

この辺の「苦闘」については、最初の方で書いた「SFだからこそ書き得る、想像したこともない世界の苦闘」に共通するものがある。話が若干それたが、だからこそこの物語は「この”セル”とはいったい何なのだ──?」を明かしていく過程でもある。「我々は何のために死ななくてはならないのか」を知る為の物語だ。なんだ、単純な話じゃあないか──と思うし、実際単純な話ではある。ただこの世界にはガルムを創った創造主がおり、ガルム達は自分たちの起源を忘却してしまっている。”セル”の襲来や残された資料が高度な言語体系によって綴られているために失われているのだ。”セル”の意図、意味を解き明かしていく過程、この世界そのものの謎を解き明かしていく過程が同時並行的に進行していく。

それもロジカルに歴史が綴られるというよりかは神話的な世界観だ。死が存在しないことから我々の世界からは想像もつかないような独特な宗教も発達している。宗教的、神話的、ファンタジックな世界観と記憶転写や複雑なプログラムを実行する補助脳、重力制御技術に義体技術といったSF的な要素もてんこもりで骨格がシンプルだったとしても周辺ディティールが半端ないことになっているのがこの作品最大の──押井守作品のというべきかもしれないが、特徴といえるだろう。「面白いのか?」といえば、そうしたディティールや執拗な描写に意味を見いだせる人間であればもちろん面白い。無理なら、まあムリだろう。

なにぶんしばらくは映画も公開されそうにないので、映画の前に話をある程度把握する予習の為とかでも読んでおいたら良いんじゃなかろうか。ここまでのごった煮世界観にはなかなか出会えるものではないので僕個人としては強くオススメしたいところだ。

GARM WARS 白銀の審問艦

GARM WARS 白銀の審問艦