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押井守の演出・映画論が(自分のも他人のも)堪能できる映画半世紀──『押井守の映画50年50本』

押井守の映画50年50本 (立東舎)

押井守の映画50年50本 (立東舎)

  • 作者:押井 守
  • 発売日: 2020/08/12
  • メディア: 単行本
この押井守の映画50年50本は、1968年から始まって一年に一本ずつ、「いまの押井守にとっての、その年の代表する」映画をピックアップして語ろう、という本である。押井守の映画語り本は様々な切り口のものが何冊も出ているが、一年毎に一本を選んでいくというコンセプトは(当たり前だけど)はじめて。50年もあったら「適当に選んだわ」みたいな年もあるんだろうな〜〜と思いながら読み始めたのだけれども、意外とそんなこともなく、どの映画もしっかりと思い出とともに語られていく。

広範に、一作ごとにしっかりと語っているので映画本として読み応えがあるだけでなく、一年ずつに進んでいくおかげで押井守の高校生からはじまる、作品に対する(各種映画の)影響を時系列的に追っていくこともできるわけで、いろいろと楽しい一冊であった。あと、決して「その一年における映画史的に重要な作品を決める」試みではないこともおもしろい。たとえば、スタート年となる1968年といえばキューブリックによる『2001年宇宙の旅』が公開された年だ。だが、押井守は(特例的にこの作品だけは語っているけど)1968年の1本に2001年は選ばない。選んだのは、セルジオ・レオーネ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』だ。

なぜ2001年ではなくワンス〜なのか?

2001年は当然SF映画の傑作というだけでなく、映画史に残る作品だ。実際、押井守自身も初めてサントラを買ったぐらいに鮮烈な映画だった、「宇宙そのもののスケールを表現するために宇宙の時間を描いた、描くことができた」と大絶賛している。

だが、本書は「いまの」押井守が選ぶとしたら、という趣向である。確かに昔、この映画を観た時であればこの作品を選んでいただろうが、今は違う。『キューブリックとレオーネ。いま繰り返し見たい映画はどっちだ? となったら、そりゃあレオーネに決まっているんだよ。』だからだという。その理由は、レオーネの映画には「映画としての語り口の面白さ」があり、それこそが映画の本質なのだという。

押井守はこの項目で『僕はレオーネの直系だからね。自分のことを「わたしはレオーネの直系です!」と言ってもいいくらい。』と語っている。どちらかというと押井守といえば理屈っぽく緻密に台詞とレイアウトを埋めていく監督で、キューブリック系とされているのではないかと思うけれども、本人の自己認識としてはレオーネのように「映像と音楽の相乗効果を狙う映画の快感原則にのっとった」監督なのである。

一部の押井作品でキャラクタがやたらと喋りまくるのも、あれはダイアローグが持っている快感原則を狙っているんだと言うんだよね。これは何度も語っていることだがよくわかる。意味がどうとかいうよりも、押井守によるダイアローグは非常に気持ちがいい。だから、押井守にとってはレオーネの方が重要だ──と、こうした非常に個人的な理由から作品が選定されていくのがおもしろいわけである。

演出論としておもしろい部分

演出論としておもしろい部分も多い。たとえば、1981年に選んだのは出崎統の『劇場版 あしたのジョー2』。押井守は自身の劇場デビュー作の『うる星やつら オンリー・ユー』(1983)で、作品を「映画」にする方法がわからずにただのでっかいテレビにしてしまったと語っているが、次作でそれを乗り越えるために繰り返し観たのが『劇場版 エースをねらえ!』と『劇場版 あしたのジョー2』なのだという。

『逆に言うと、意識して演出しないとアニメーションは映画にならないんだよ。それを自分なりに確信して、ようやく実現できたのは、『ビューティフル・ドリーマー』ではなくて『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(08)。監督としての自在さを実感し、本当に自分で納得できるアニメ映画を作れたのは、『スカイ・クロラ』が初めてなんだよ』といって。スカイ・クロラには特別な何があるのかという問いに、「時間を描くこと」に成功している、と答えている。アニメは、キャラクタから風のなびきまですべて秒24コマの同じリズムで流れている。それは静止画の連続だから、そのままだと時間が流れない。その時間を変動させ「主観的な時間を描く」のだと。

で、その「時間の流れの描き方」として出崎作品を参考にした、という流れでつながってくるわけである。たとえば、『エースをねらえ!』の中盤で、主人公が窮地に追い込まれた時に頭上をヘリコプターが飛んでいくシーンがある。その時ヘリのローターがゆっくりとまわるのが描かれる。主人公ではなくヘリのローターという無関係なものをゆっくりと描写することで、「ちがう時間」を演出できるのだと。もちろんこれは数ある演出のうちの一つだけでしかなく、それを作品を通してできるようになったのが『スカイ・クロラ』であり、それまでのアニメ映画は習作だと語る。

他にも、『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012)での演出論、演出家の仕事は盛り上げることじゃない。1つの台詞、1つの表情、1つの構図、何らかの「ラスト」に向かってあらゆるカットやあらゆるシーンを用意していくのが演出家の仕事(の一つ)なのだと師匠の話をひきながら語ったり、演出周りの話は、演出論としても対象の映画評としても読ませる。

おわりに

必ずしも押井守に影響を与えた作品、凄く好きな作品が選ばれているわけではなくて、つまらないがゆえに記憶に残っていたり、勉強になるという作品なんかも選ばれている(スピルバーグの『宇宙戦争』とかポール・グリーングラス『ジェイソン・ボーン』とか)。本書の中身が立東舎のwebサイトで何本か公開されているので、気になっている人はまずそちらを読んでみるといいかも。『ベイブ/都会へ行く』で動物が喋る巨大な嘘を演出でどう乗り越えるかとか、『レザボア・ドッグス』からみる押井守のタランティーノ論とか、かなり読みどころのある部分が抜擢されているので。
rittorsha.jp