基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

丁寧でよい科学ノンフィクション。僕は日本語が母語なのでこうして日本語をてけてけと書いておりますが、仮に母語が英語だったら、僕の思考プロセスはどう「影響」を受けていただろうか。言語は思考に影響をおよぼすのか、およぼすとしたらそれはどの程度なのか。おっと、その問いに行くまえに、言語は自然由来のものなのか、はたまた文化(本能がもたらすもの以外をさす)由来のものなのかを考えなければならない。

後者への答えは難しい。自然由来の部分もあるし、文化由来のものもある。そもそも言語とは文化に依存したものであることはいうまでもない。日本人だから日本語が話せるわけではなく、日本に産まれて子どもの時から日本語の環境で育ったから日本語がしゃべれるわけだから。でもたとえば子どもがどんな形であっても犬とただしくわんわんと分類できるように、本能的に区別をつけられる部分も存在する。

もちろんすべてがそうやってわけられるわけではない。たとえばフランス語にもドイツ語にも英語におけるマインド(心、精神)にあたる単語が存在しない。逆に英語にはフランス語における「エスプリ」にあたる単語、概念が存在しない。だからフランス語やドイツ語を喋る人間には心がないのかといえば当然そんなことはなくある国が独自の習慣と生き方を通して作り上げた概念(文化)が他の国では育たなかったというだけの話。

また言語の複雑さは、話し手の生きる文化と社会を反映しているという結果も明かされる。僕らはなんとなく「未開の地」に住んでいる辺境人は単語の羅列で喋るIQの低そうな感じをイメージしてしまうものだと思うけれど実際は正しくなく、単に未開の地に住む人に無理矢理自分たちの言語(たとえば英語)をはなさせればカタコトになってしまう状況からそんな誤解がうまれてしまったらしい。

文化が言語の複雑さにどのように影響を与えるのかといえば、100人程度の村社会を想像するとわかりやすい。みな顔見知りで、複雑な会話をする必要がないことがわかるだろう。家族間の会話が「あれとって」とか「そういやあれどうだった?」でだいたい通じてしまうように親密な関係の中ではこうした指示情報が単語内で表現されるようになる。

その結果一単語における情報量は増し、数は少なくなる傾向がある。単語量でいえば英語が大型辞書で7〜8万単語あるところを、文字をもたない小規模社会言語では3000〜5000程度しかない。まあでっかい家族ぐらいの集まりでそんなに語彙が必要なわけもないから妥当っちゃあ妥当なのだろう。

ここまででだいたい第一部の要約がおわった。つまり言語は文化と自然の影響どちらも受けているのは当然のことだが、文化は単に自然が切り分けた分類に名前をつけているだけではなく、文法の構造や概念の切り分けにまで関わっていることがわかったことになる。次はそれがどれだけ僕達の認識に影響を与えるかが気になる。

本書では言語は話者に対して認識に影響を与えるとする立場をとっている(言語学の主流からは外れる)。言語が認識に与える影響を裏付ける実験が3つ紹介されている。1つが空間。2つめにジェンダー。3つめに色彩。

1つめの空間について。おどろくべきことに世の中には位置関係を全て東西関係で表す言語がある。たとえば昨日僕が台所に向かって右側にあったパンを食べたとして、それを話すときに「東側にあったパンをとって食べた」というようなものだ。この言語を使う部族がすごいのは、過去の話をするときでも完全に物や人と自分との位置関係を東西南北で把握しているところにある。

通常東西南北なんか意識しないから、過去のことを思い出してもわかるわけないけど、この言語を喋る人たちは把握できている。幼少期から誰もが東西南北を使って位置関係を表現するので位置感覚を日常的に記憶していなければ相手が何を言っているのかわからないのだからしょうがない。

2つめのジェンダーは割と有名な話。ドイツ語では無数の対象物を男性と女性にふりわけて考えている。椰子は彼女、蜂も彼女、蝶が彼というふうに。無機物をすべてItで片付けてしまう英語とは大きく違いがある。そしてこの違いがどう認識に影響を与えるのかといえば、蝶のイメージを描かせた時にドイツ語話者では男らしいイメージが並ぶことだ。

無機物にジェンダーがついていることで、本来は存在していないはずのイメージがくっついてしまっている。そうした文化をもたない日本語話者の立場からしてみるとそれってどうなんじゃろ、ややこしいし、だいたい納得がいかないようなきがするんだけど、話者(著者もそうだ)は世界を活気づけ豊かにしてくれるものとして喜んでいる。

3つめの色彩は実験がややこしくあまりおもしろくないのでパス。青を表現する言葉がブルーしかない言語と、ライトブルーとダークブルーの二種類ある言語では、後者の話者の方がブルーの色彩を見分ける速度が速いという話。これも一応認識に影響を与えている例だろう。なんかあんまり大したことなくてかなり拍子抜けしたけど。

兎にも角にもこれで言語が、たしかにガッツリとは認識を変えないかもしれないけれど、ある程度は認識に対して影響を及ぼしていることがわかっただろう。僕が期待していたのは実はもっと劇的な変化だったんだけどね。たとえば日本語では相手を罵倒する単語が少ないけど、相手を罵倒する単語が多い言語と比べてどれぐらい喧嘩数に差があるのかとかさ。

言語はだいたい何でも表現できるけれど単語と文法っていうルールがあって、何を表現できるのか、何を表現せざるをえないのかには制限がある。罵倒語がまったくなかったら相手を罵るのも一苦労だ。そうした制約からくる実際的な状況の違いがもっとわかれば面白かったなあというのが正直なところ。

でも堅実でおもしろかったのですよ。

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ