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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

This is a comedy,not a tragedy『All Clear』Connie Willis

い、いかんかった。信じられないぐらい面白かった。

もどってくるのが困難なほど引きこまれ、世界に没入して、最後の10%は涙が枯れ果てんばかりに泣きはらした。ありとあらゆる物語がこの世の中にはあるけれど、ここまで長大な物語にも関わらず、読者を飽きさせずに引きずり回し、追体験させ、そして最後にちゃんとオチをつけてみせられる作家が、他にいるだろうか(金庸が思い浮かんだ)。どんなタイミングでも読む手が止まらず、忙しい時には憎むべき敵ですらあったが、本書を読んでいる間は至福の時間でした。

2060年、オックスフォード大学の史学生三人は、第二次大戦下のイギリスでの現地調査に送りだされた。メロピーは郊外の屋敷のメイドとして疎開児童を観察し、ポリーはデパートの売り子としてロンドン大空襲で灯火管制(ブラックアウト)のもとにある市民生活を体験し、マイクルはアメリカ人記者としてダンケルク撤退における民間人の英雄を探そうとしていた。ところが、現地に到着した三人はそれぞれ思いもよらぬ事態にまきこまれてしまう……

↑はブラックアウトのあらすじになる。本書『All Clear』はConnie WillisによるタイムトラベルSF小説。Connie Willisはベテランの小説家で、その長いキャリアの中で長編の出版は数少ないものの、そのどれもが読者を飽きさせずに進めていく最高のエンターテイメント小説であり、SFならではのテーマまで備えた作品に仕上がっている。しょうじき僕はこれほど惚れ込んでいる作家は他に例がないぐらい、ハマり込んでいるわけです。

All Clearはまだ日本語訳がないのだが(2013年6月についに完結)、4月に分冊されて1が出るようです。そしてAll Clearには姉妹編というか、前編にあたる『ブラックアウト』(こちらは既に翻訳が出ている)が出版されているので、興味を持った方は絶対、なんとしても、読むと幸せな時間を味わうことが出来るだろう。ただその前に、……。

実を言えばこのBlack Out/All Clear は『ドゥームズデイ・ブック』『犬は勘定に入れません』に続く、3冊目の「オックスフォード大学史学部タイムトラベル・シリーズ」に連なる作品になる。しかもそのどっちも文庫版にして上下巻のぶあつ〜い物語なのだ。ただそれぞれ単独の作品として成立しているので、Black Out/All Clearを読むために読んでおく必要はないのだけど、舞台とキャラクタが一部共通しているので読んでいるとなお楽しめる。

実際僕は『犬は勘定に入れません』を読んでから前作のドゥームズデイ・ブックを読んだので、順番はたいして関係がないと思う。そして、どっちも超傑作なので、力を込めてオススメしたい。特に『犬は勘定に入れません』は、僕が読んできたラブストーリーの中では最高の一冊になる。今でもこの話を思い返すと幸せな気持ちになるんだ。本作はそれを超えたかもしれないと思ったけれど、もうなんか複合的な意味で好きすぎてうまく考えられない。

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↑このへんの記事が参考になるかもしれない。このAll Crear、ヒューゴー賞/ネビュラ賞/ローカス賞という主要なSFの賞を総なめにしている。これだけ果てしなく長い(どちらも合わせると1600ページを超えると思う)小説にも関わらず受賞できるってのは、それだけ本作の底力を感じるではないか。

これまでの作品でコニー・ウィリスは悲劇と喜劇を書き分けてきた作家になる。たとえば犬は勘定に入れませんは、基本コントみたいなかけあいをベースにした喜劇ともいえる作品で、ドゥームズデイ・ブックは悲惨な状況を書いた悲劇的な作品になっている。これについて著者はシェイクスピアを理想の作家に挙げていて、その理由は「シェイクスピアは悲劇と喜劇、どちらもこなしたから」だという。

本作にもシェイクスピアの引用が各所に出てくる。そして単なる引用ではなく、物語中その台詞や劇は、常に重要な演出として物語内で機能する。コニー・ウィリスは、悲劇と喜劇、その両方の側面から歴史を観ることでより立体的に、相対的に語ろうとしているように思える。そしてコニー・ウィリスが書いてきたこのタイムトラベルシリーズは、非常に単純化してしまえば最初は悲劇で始まり、次は喜劇だった。では三作目となる本作は──どうなんだろうか? これは悲劇なのか、喜劇なのか?

Black Out/All Clearの大長編二冊の中で、主軸として書かれる3人、メロピー、ポリー、マイクルはそれぞれの目的を持って歴史の中に飛び込んでいく。しかし思いもよらぬ事態が起きて、彼らは自分たちの身に何が起こったのかもわからないまま、歴史の中に取り残されてしまう。そして自分たちにできる最善のことを探しながら、その歴史の中に身をうずめていく。

本書には本当にすごいところがいくつもある。多くのことが起こる。第二次大戦下のイギリスには毎日のように空襲があり、そのたびに人々はシェルターに隠れ、不安な日々を送っていた。文字にしてしまえば「不安な日々を送っていた」で流されてしまうところが、本書では執拗に書かれる。常に空襲に襲われる不安。いつ友人や家族が死んでしまっているのかわからない不安。その状況下でも人を救おうとがんばっている人々がいること。

そして何よりある時代には、当然ながらある時代に生きている人達がいる。アガサ・クリスティがいる。アラン・チューリングがいる。パットン将軍がいるし、そこには多くの人達の生活があった。親を失った子どもたちが居た。度重なる避難に疲れ果てた人々を勇気づけようと演劇を始める人達がいる。そしてそれは先行きがいっさいわからない不安の中で行われたのだ。

本書のほとんどはそうした世界の中で生きている人達と、未来からやってきた3人がいかにして交わっていくのかを書いていく。そしてその状況は絶望的で、英語だから読むのに結構な時間がかかったのだが、そのおかげで僕もその絶望を、時間を費やすことで追体験することができた。彼ら彼女らが、闇の中でさまよい、自分たちの道を見つけていく。

その前に進んでいく姿と、この時代に不安の中で生活を送って、それでも小さな勇気を発揮して状況を変えてきたすべての人間たちが、だから本当に、最後には愛しくなった。何事にも別れはくる。果たしてそれは悲劇なのか? 喜劇なのか? 見る人間によって変わってくることでは? あるいはそれはどう捉えるかという意志によるものでは?

本作でコニー・ウィリスは悲劇と喜劇の両面を同時に書いてみせた。考えてみれば僕らは日常的に悲劇と喜劇に遭遇している。悲劇があって、だからこそ喜劇があるし、喜劇があるからこそ悲劇が起こったりする。人生はクローズアップでみれば悲劇だが、ロングショットでみれば喜劇だ、とチャップリンは言ったが、それがつまり人生であり、運命というものだろう。本書には喜ばしいことも、悲しいことも、そのどちらか判断がつかないよくわからないこともある。

そうした物事の連続を扱うにあたって、考えてみればタイムマシーンというのは非常に都合がいい。悲劇も喜劇も流れの中に含まれる俯瞰的な目線からみた「運命」を書くことが出来るからだ。だからこれは、運命とどう向き合っていくのかという物語なのだと思う。長い、長い物語だ。それだけ読者は登場人物たちと親密になる。友人といってもいい彼ら彼女らの決断と覚悟が、すべて嬉しい。

魂を震わせるんだ。

ブラックアウト (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

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All Clear

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