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フランケンシュタインからジキル博士にモロー博士、ホームズまでが混交するごった煮エンタメの傑作!──『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』

この『メアリ・ジキルとマッド・サイエンティストの娘たち』はアメリカ在住作家のシオドラ・ゴスによる第一長篇にして、ローカス賞受賞のSF作品だ。

記事名に入っているようにフランケンシュタイン(の子孫)からジキル博士(の子孫)、シャーロック・ホームズ(本人)にワトスン(本人に)……と多数の著名キャラクターが織り成して展開するメタフィクションであり、ヴィクトリア朝時代のロンドンを主な舞台にした歴史改変物の系譜でもあるので、スチームパンク系の作品でもある。

フィクションの愛好者達は自分が慣れ親しんだ過去の偉人とかキャラクタが作品の垣根を超えて冒険を繰り広げる作品っていうだけで大好きになってしまう条件反射を持っているわけだけれども、本作はそれだけじゃない。まず、とにかく出てくるマッド・サイエンティストの娘たち(主に5人)のキャラクタ性がとにかくぐっとくる!

それぞれが自身の親の実験体になっていたり、”怪物的”(モンスター)と白い目でみられながらも必死にその人生を生きる中、とある事件を通してまったく別々の場所で暮らし、価値観も考え方もまったくバラバラだった5人が”一つのチームとしてまとまっていく過程”がしっかりと描かれていて、もうたまらないわけですよ!

丁寧に原典の作風やキャラクタ性を受け継いでいく原典への気配り、「それをどう5人の友情の、家族の、歴史の、そして科学の物語として発展させるのか」という手付きのよさもずば抜けていて、シオドラ・ゴスは本作を単純なマッシュアップ以上のものにしてみせた。というわけで、抜群におもしろい長篇(話自体はきっちり終わっているけど、本書は三部作のうちの第一部なのには注意)である。

舞台とか

まず、物語の舞台となっているのはヴィクトリア朝時代のロンドン。21歳のメアリ・ジキルが母を亡くし、途方に暮れているところから始まる。母が亡くなって悲しいこともあるが、そもそも父親もすでに亡くなっていて、とにかく金がないのだ。

父親はもともと資産家であり、使用人も何人もいるぐらいだったが、なくなった時にとある理由からその資産が消失。残った母親はわずかな金で立ち回ってきたが、亡くなったことでそのあてもなくなってしまった。だが、メアリがわずかに残った使用人を集めて解雇を告げた後、彼女の亡くなった母親がどこかの施設に、「ハイドの世話題として」毎月月初めに振込みをおこなっていた事実を告げられる。

その口座はメアリのものとなるだけでなく、殺人事件を起こして消えてしまった父親の助手の名前(エドワード・ハイド)として覚えがあったので、メアリはかつてその殺人事件に関わったシャーロック・ホームズの元を訪れることになる。メアリはその後、ワトスンとともにその施設に赴くが、そこにはハイドの娘だというダイアナ・ハイドがいて、同時に身体の一部を切り取っていく謎の娼婦連続殺人事件が発生。

その容疑者の一人として失踪したはずのエドワード・ハイドが浮かび上がってくる──といった感じで、娼婦連続殺人事件を通して様々な”マッド・サイエンティストの娘たち”がメアリの元に集まる大冒険が幕を開けることになるのだ。

様々なフィクションの混交

本作には様々なフィクションが混交している。たとえば、メアリ・ジキルの父親は『ジキル博士とハイド氏』の登場人物だ。ジキル博士と〜はヘンリー・ジキルと、悪の側面のみを抽出した人格を出現させることができる薬品を飲むことで生み出された人格エドワード・ハイドの物語で、本作(メアリ〜)のメアリとダイアナはつまり、同じ人物から生まれた子供だということになる。

シャーロック・ホームズとワトスン自体は言うこともないと思うが、他の”マッド・サイエンティストの娘たち”を先にざっと紹介しておくと、ウェルズの『モロー博士の島』(動物を人間化する生物学実験の物語)からは、モロー博士の娘キャサリンが。『フランケンシュタイン』(死体を繋ぎ合わせて作り上げられた人造人間についての物語)からはフランケンシュタイン博士の娘ジュスティーヌが。短篇「ラパチーニの娘」(父親の実験により身体に毒を帯びることになった娘の話)からは、そのまんまラパチーニの娘であるベアトリーチェが本作にそれぞれ参戦していく。

「ラパチーニの娘」はそのまんま短篇からとられているせいでベアトリーチェは毒を帯びていて──と、それぞれの娘たちには父親がマッドサイエンティストであるがゆえの巨大なハンデであったり悲哀の過去を持っている。だけど、ひどいめにあっているメアリやダイアナがほとんど臆さずに事件に首を突っ込んでいくように、そうした境遇をめそめそ悲劇的に語るのではなくて、どちらかというと「なんぼのもんじゃい!」みたいに跳ね飛ばしていくような力強さが全員・全篇に共通している。

語りの特異性について

そうした「悲劇的な話を悲劇的に語らない」スタイルに貢献しているのが、本書の特殊な語り口だ。本作は、モロー博士の娘であるキャサリンがメインとなって、彼女たちが実際に体験したことを後から小説として書いていくホームズを踏襲した設定になっている。ただ、それだけではなく、書いている原稿を途中で他の仲間たちに読ませてしまったばかりに、作品の至るところに彼女たちのツッコミが入っているのだ。

それは本編の前から始まっていて、たとえばエピグラフではこんな感じ。

ここに怪物あり

メアリ この本にふさわしい題辞とは思えないけど。
キャサリン じゃ、あんたが自分でろくでもないことでも書けば。だいたい、あたしいったいなんでこんなことに同意しちゃったんだろ。
メアリ お金が必要だからよ。
キャサリン やっぱりそれか。

とにかく作中のいろいろなところにツッコミが入る。「○○が頭の中をよぎりつづけていた」と登場人物の一人の内面を描こうものなら、「なんだか大衆小説のヒロインみたいに書くのね。わたしはあのときそんなこと考えていなかったわよ」と反論がくるし、美しく描写したら「素敵な描写だわ、キャサリン」と褒められるし、「顔が赤らむのが自分でもわかった」と紋切り型の表現を使ったら「自分の顔が赤くなるのを感じたりなんてできないっての」と誰かからツッコミがとんでくる。

素晴らしいのは、とにかく冒頭からずっと情け容赦なくツッコミが飛ぶので、”「作中ではまだ出会っていない彼女たち」がこの物語が進むうちに出会い、こうした遠慮のないボケツッコミができるぐらいの関係性にまで進展していくんだ!”という確信が得られることである。ある意味では全員生存するし殺人事件が解決することもわかってしまって緊張感がないともいえるわけだけれども、殺人事件はメインと言うよりも彼女たちがどのような存在であるのか、どのような関係性になっていくのかを描き出すための道具にすぎない。これも、本人らがこの欄外で言っていることだ。

これはあなたの書くスリラー小説とは違うの。わたしたちがどうやって出会ったのか。わたしたちがどういう存在なのかを描こうとしているの。ただのホワイトチャペルの殺人事件の謎解き物語じゃない。これはわたしたちの物語なのよ。

容赦なくツッコミを入れあっているけど、お互いが強固な信頼関係で結ばれていることも会話の端々から伝わってきて、それがまたいいんだよな〜〜〜様々なフィクションを混交させたメタフィクションらしい語りと言えるだろう。

おわりに

特異な語りとは書いたけどこれ、ひぐらしのラストとかにある「物語が全部終わったあと登場人物が出てきて自分たちの物語について座談会するやつ」に近いよなと思いながら読んでいた。小説書きとか漫画書きがよくやってた/やってるやつ。

冷静に考えると若干気恥ずかしくなってくるけど、おもしろいのは間違いない。このそれぞれまったく異なる背景と頑固さを持った5人がどのようにしてチームとしてまとまっていくのか、ぜひ読んで確かめてみてね。