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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生 by 佐々木敦

あんまり評論家の人の文章は読まないんだけれども、佐々木敦さんは例外的にちゃんと読んでいる人だと思う。それは何も評論家の書くものはつまらないだとか言っているわけではなくて、ただ個人的に言ってることの意味がよくわからないことが続いたから避けるようになっただけなのだが。もちろん部分部分わかるところもあるし、理屈の通り方とその理論を単独で見た構築物として見たら面白いと思うのだけど、作品を読んだ時の実感と理論の繋がりについていけないというか。理論は面白いけど作品と本当につながってるのか……?? 全然わからない……となる。

佐々木敦さんの視点の置き方や文章はそういう意味で言うと、作品にキチンとくっついている安心感がある、というか作品のこういう要素が読者にこういう影響を与えますよね、と「読者に」接した地続きの論を展開しているイメージがある。といっても僕も佐々木敦さんの熱烈なファンというわけではないのでたまに雑誌で見かけたとか本の解説を読むだけで、著書を読んだのはこれが初めてだったりするんだけど。佐々木敦さんの他の本を読んだらまた違う感想を持つかもしれない(それは他の評論家の方々の文章も同様。もう何年も前から手を出してないから凄く疎い)。

だらだらと前置きを続けてしまったが本題は『あなたは今、この文章を読んでいる。』である。タイトルからなんとなく察せられるだろうが、メタフィクション論になる。第一部ではメタフィクションの定義、メタフィクションの歴史、代表的な作品と表現のされ方の紹介、一般的な分類とまっとうなメタフィクション概説として展開していく。メタフィクション論の方では、筒井康隆氏の虚人たちを例にあげて分析したり、東浩紀氏のゲーム的リアリズムを例にあげたり、舞城王太郎作品を分析したりとメタフィクションを軸に再検討していく過程はそれだけでもちゃんと面白い読み物としてまとまっている。正直メタフィクション論の方には言っていることの意味がよくわからない部分もいくつかあったんだけどまあ本筋的にはあまり関係がないのでおいておく。

しかし真に面白いのはそこからで、そこまでのメタフィクション論は下敷き、いわば前提知識だ。メタフィクション概説を180ページほど近く使って書いた後残りの100ページで「パラフィクション」という考え方、視点の提供、またこの視点を使った上での円城塔・伊藤計劃作品分析にうつっていく。後に多少解説を入れるけどこのパラフィクション論はシンプルで明快でわかりやすく、確かに確かに言われてみればその通りであると思わせてくれる出来だった。しかしパラフィクションとはまた俺様造語カヨ、批評家はホント自分の造語をツクるのが好きだよなと思うが、まあこれはなかなかヨイ事例じゃないかな(すげえ上から目線だな)。

何をもってして良い造語と判断し、何をもってして悪い造語と判断するのか、境界線を定めることは難しい。抽象的にぼんやりといえば分類を必要とするような既存の概念とは軸線の異なる概念を扱っていて、新しい言葉があった方が色々と話す時に便利そうだなという時は納得度が高い。当然ながら既存の単語で言い換えが可能だったり「それいうほど区別されている概念じゃなくね?」とか「使いみちが全く思いつかない」みたいなのは「造語ツクんな」と思う。たとえばセカイ系とか一時期本が出るぐらいには流行ったけど僕の中ではかなりグレーだな。

メタフィクションとはなにか

パラフィクションの面白さを説明する前に簡単にだけどメタフィクションについて。メタフィクションとはなにかについてはそれを定義する人それぞれの微妙に異なった内容があって、「これです」と決定版のように差し出すものはないのだけど、一番簡単なところでいうとフィクションについてのフィクションということになるだろうか。登場人物が自分は虚構の中の人物だと気がついていたりするようなものだ。あとは登場人物が読者に語りかけてきたり著者自身が著者として作品に出てきたりする。虚構の内部にもう一つ虚構が存在するようなことを意識にのぼらせるような作品群というとまたちょっと近づくか。

もっとも読む時に問題になるのは「メタフィクションとはなんぞや」ではなく「メタフィクション的な作法を作品に持ち込むことによって読者にはどのような影響が出るのか」であろう。定義だけ聞かされてもしょーもないし。簡単にいえば「書くこと」それ自体を前景化させることによって、フィクションを語ることそれ自体を語ったり、機能を点検したり、作品の成立それ自体をテーマにすることができるようになったことか。それは読者からすれば新しいテーマであり、新しい視点である。

また時代を経るにつれ「現実それ自体の虚構性」、「シュレディンガーの猫的な不確定な世界としての現実」がこの世そのものであると意識されるようになった結果虚構としての現実を表現するために虚構の虚構性を描くことが有効に機能するようになったとか、こうした例は無数にあげられるのでこのへんでやめておくか。現実的な要請と小説それ自体の蓄積と変化によってメタフィクション的な作法が必要とされてきた、というところだけ抑えておけば良い。

こうしたメタフィクション的なあれこれを見ていった先に出てくる問いかけとして佐々木敦氏が言うのが真に意味のあるメタとは何か、である。どういうことか。たとえば虚構内で登場人物が「これは虚構なのか」といっていたら、確かに登場人物的にはそれは虚構なのかどうか判断できないだろうと心情を想像し、我々が我々自身体験している現実の不確定性を軸にして共感することもできるだろう。が、読者たる我々としては「そうである。君のいる場所は虚構である。」というのは自明すぎるほどに自明である。虚構であることは自明であるがゆえに我々は「なぜ作者はキャラクターにわざわざそんなことを言わせるのか」と作者へ疑問を向けることになる。

 したがって、真に意味があるメタとは、「虚構内存在」が自分がそうであることを知らず、そこが「虚構内」であるとも知ってはおらず、しかし「読者」には当然それが自明であって、そしてその「自明」さを「作者」が踏まえた上で、それでも試みるメタ、ということになるのではないか。そうでなければ、メタフィクションの「読者」は、ただ読んでいる間だけ「ごっこ遊び」に参与していることにしかならない。それは「フィクションと世界」との関係、「虚構と現実」との閾を、微塵も揺るがせてはいない。そうではなくて、フィクションであり虚構でしかないものが、それ自体のままで、にもかかわらず、「この現実」「この世界」に働きかけてくる、ということが起こらなくてはならないのだ。

ふうむ。わかったかな? わからなかったかもしれない。僕もここだけ読ませられたらわからん。重ねて、砕けさせて言うと虚構内キャラクタが「うおおおここは虚構なのかどうなんだうおおお」と焦っているさまをみても読者からしてみれば虚構なのは当然なので茶番感あるよねという話だ。あとなんかここだけ読むと「真に意味があるメタしかダメだ!」みたいに感じ取れるような気もするがそんなことはないので一応補足しておく。メタフィクションにはメタフィクションとしての効果があり、その先・変化形があるとしたらどうなのかという考察である。

極端な話メタとはいくらでも重ねがけできるもので。作中作の作中作の作中作の作中作の作中作みたいなことがいくらでも続けることができる。しかしさすがに読む方もそんなに入れ子構造が続くと「書くこと」を前景化させるというそもそもの機能を超えて「こんなことをやっている作者は何をやりたいんだ」と考えだすことになる。しかしならば次なるメタとはどこにあるのか、「メタに対するメタ」は今書いたように無意味とはいわないまでもその効果を失ってしまう。ここから話は「パラフィクション」につながっていく。

パラフィクションとはなにか

どうしたらいいのかについて、佐々木敦氏はこれまでメタと呼ばれてきた回路の軸足を「作者」から「読者」へうつすことを考えている。何かを読んでいる時に確かな事実としてあげられる「自分が今それを読んでいること」と「それが誰かによって書かれたこと」について、メタが主に「それが誰かによって書かれたこと」を前景化させるのとは逆に、「自分が今それを読んでいること」をターゲットにした小説があるのではという指摘だ。たとえば小説の冒頭から「よう。あんた、今これを読んでいるんだろう?」と話しかけてくるような話があるとすれば、そうした読者を虚構上に引きずり込むような話だというのが一番シンブルな喩え話になるだろうか。

「誰かが読んでいること」それ自体を問題にしている小説、その代表例として本書後半のパラフィクション論でメインになって語られていくのは円城塔作品だ。デビュー作のSelf-Reference ENZINEからはじまってこの問題にたいして最も迫ったであろう短編『さかしま』、さらには伊藤計劃氏と円城塔氏の共著となった点でも注目を集めた『屍者の帝国』と連続して分析されていくが、確かにこうやって特定の視点を通してみてみると円城塔氏の作品が続けて「読者」を作中に巻き込む構造をとっていることがわかる。たとえば『さかしま』の印象的な場面を引用してみよう。

 この文章を目にしているあなたの今この瞬間の感想を次の中から選んで下さい。そして冒頭の数字にあなたの一番好きな数字を掛け、どこかに覚えておいて下さい。その計算で何が起こるわけではありませんがこうして多少の時間を稼ぎ、あなたの気を当面の行く先から逸らす効果があります。
        1:またこれか
        2:まさかそれか
        3:何も思わない

 1を選んだ人は次の段落へ、2を選んだ人は次の次の段階へ進んで下さい。3を選んだ方は好きにして頂いて構いません。

ここまでいったらもうゲームブックじゃねえか、つまりこれ自体選択分岐型のメタフィクションじゃない? という批判はあるだろうが、とにかくこれを読んだ読者は「自分はたしかにこれを読んでいる(そしてこのフィクションを読むことで、フィクションを稼働させている、共犯関係にある)」ことを強く意識するようになるだろう。これは一応、一番わかりやすい形として引用したものであり、本来的に佐々木敦氏が提唱するパラフィクションはもっと幅の広い概念だ。たとえば本書では触れられていないが読んだ人間に呪いが拡散されていく設定の体験談風ホラーなどはパラフィクション的な要素を完全に備えていると思うし。非常に単純化してしまえば「書かれたものである」ことに自覚的である(メタフィクション)と同時に「読まれているものである」ことにも自覚的であることが構造的に組み入れられている小説こそがパラフィクションなのだから。

もちろん問題はそうした構造を持った小説があることではなく、それはどのように読者に機能して、面白くさせるのか? だ。読者はパラフィクションによってフィクションにとりこまれる……というよりかは、読むことによってフィクションが発生する。それは読書体験としては比較的新しく、新鮮なものとなるだろう。本書の言葉を借りれば『何が起ころうと究極的には作者の権能へと回収されるフィクションとは決定的に異なった、読者の意識的無意識的な、だが明らかに能動的な関与によってはじめて存在し始め、そして読むこと/読まれることのプロセスの中で、読者とともに駆動し、変異していくようなタイプのフィクションのことを、パラフィクションと呼んでみたいと思うのだ。』

読むことそれ自体がトリガーとなって物語が駆動していくこと、そうやって表現されてみると確かに円城塔作品の特異性がとりわけ浮かび上がってくる。もちろんそれは円城塔作品の専売特許ではなく、より広い範囲の作品に適用される概念である。本書はこうした前提を背景にして個々の作品分析や、様々なパターンを模索していくがその辺は読んでたしかめてください。『屍者の帝国』とか、僕はあれ小説としてぜんぜん楽しめなかったんだけどコンセプト部分、構造として目指しているところ自体は面白いと思っていて、ただうまく言語化出来ずに放置していたのが心残りだった。

そんなもやもやとした感情を抱えさせられていた『屍者の帝国』だが、本書の解説でようやく「そういうことだったのか」と明快になったよ。良い本だと思う。早川は惜しくも逃しましたね(この本の元となる原稿はSFマガジンで連載していた)。

あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生

あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生