基本読書

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恐怖の作法: ホラー映画の技術 by 小中千昭

ホラー映画を記憶にあるかぎり見たことがない。あのリングも見たことがないし呪怨も見たことがない。学校の階段も見たことがないしそれに類するドキュメンタリー系の心霊現象番組も見たことがない。それに関連してお化け屋敷に入ったこともなければジェットコースターにも乗ったことがない。ようは「なぜこわい思いをわざわざしたがるのかわからない」のであり、そうした経験をさせられそうな場合でも力いっぱい拒否してきた。なわけでめっぽう本を読んだり映画は……あんまり見てないけど、ホラーというものがどういう仕組みで動作してどのように人を恐怖に叩きこむのか、まるで知らないままここまできた。

著者の小中千昭さんはそのキャリアの初期においては怖い話やホラーを撮り、脚本を書き、時には特殊造詣にすら関わりながら徹底して実制作の中で「ホラーとはなにか」を問い続けた人である。実制作を長年行いながら、演出の変化とそのフィードバックを重ねた理論は非常にシステマチックであり理屈が通っており納得度が高い。「そうか、人間を怖がらせるためにはこうすればいいのか」という要素が凝縮された、非常に濃密な一冊になっている。小中氏自身は、ホラーのみでキャリアを積み上げてきたわけではなく後半戦ではホラー以外のジャンルにも幅広く手を伸ばし、特撮脚本やアニメーション脚本も手がけている。有名ドコロで言えば『serial experiments lain』や映画『キノの旅』、『神霊狩/GHOST HOUN』などにも関わっている。まあ、どれも見たことないんだけど。そもそもホラーにうとかったのもあるし、アニメをそんなにみないからなあ……。

lainの評判はいまだに素晴らしいと聞く。ただ作品を一つも見たことがなかったとしても氏の脚本術、そもそも観客に恐怖を発生させる演出技法については、洗練されたものであることは疑いの余地がない。結局こうした実際的な技術みたいなものは、実制作に触れていない人間がいうことの何倍も、実製作者の言葉の方が重い。そのキャリアの中で突き詰めて考え続けてきたのは製作者側であり、さらには自身が行った試みが一般ユーザにどのような反響をもたらし、どのような反応を返ってくるのか、大雑把にいってしまえば影響力測定のようなものができるのは「自分がどんな意図を潜みこませたのか」をすべて把握している制作サイドのみであるからである。このフィードバック情報があるからこそ制作サイドの発言には重みが出てくる。

本書がまるまる一冊「人間を怖がらせるためにはどうしたらいいのか」について書かれているのかといえば、これがまたちょっと違うので解説しておこう。ちょっと変わった一冊だが、三部作に分かれている。第一部は既に発表済みであるが絶版となっていた『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』の再録。第二部はまた別の趣向で書かれた人が本当に怖いものとはなにかの分析、またネットに流通していた怪談分析なども語られている。第三部が本書発刊の書きおろし。第二部が書かれた2009年から現在までに何をやっていたのかと、第一部と第二部で語られる映画創作における小中理論のアップデート版を載せている。

全編にわたって理論的な解説が行われるというよりかは、一種の回想録のような形をとって関わった作品、幼年時代から(なんと小学生時代から弟と一緒に映画をとっていたのだという。凄いな)映画を作り続けてきた経験を混ぜあわせながら話が進んでいくのと、第一部と第二部は趣向の違う文章なので純粋にホラー演出作法を学ぶにはやや冗長な本かもしれない。第三部では小中氏が2007年以後、とりわけ2009年以後表に名前が出てくるような仕事がなくなってしまった原因についても触れられている部分がほとんどだ。ただこのような、非常に個人的な部分での思考が氏の創作に与えてきた影響は大きいのであり、読めてよかったと思う。脚本業から自然に離れていくきっかけになった部分についても、クリエイタの業や、それまでの監督とのタッグを組んできた思いが汲み取れる内容だった。

さて、肝心要・恐怖の作法とはいったいなんだろうか。著者自身が次のように自称するごとく、非常にシステマチックに展開されている。『私は脚本家として自分を「構造主義者」と呼んでいる。映像フィクションは、三十分、六十分、九十分と、媒体によって規定された時間の中で過不足なく物語を伝えるメディアだ。一般的な観客の認知能力には自ずと限界があり、その上限の辺りで人物や物語を展開させる必要があり、当然これには全体を構造として認識し、それを支配する必要がある。』氏の理論の代表的なところでいうと「怖さ」というのは、突然何か恐怖の対象がわっと出てくるショッキングなシーンそれ自体にあるのではなく、恐怖というエモーションを抱くまでに段階的な情報を提示していくことそこに至るプロセス自体に宿っているのだという話とも呼応する。

読んでいて意外だったのは、ホラーには主人公に感情移入させる必要はないということだった。普通の物語であれば僕もそう感情移入するわけでもないし、感情移入はなければないでいいものだと思っているが、ホラーは恐怖を受けることが一つの目的であり、登場人物にある程度感情をシンクロさせる必要があるのではないかと考えていた。だが必要なのは、これは他のフィクションでも同じだが「こういう人間はいる」という確かな証拠であり、共感させることで、感情移入は必須のものではないのだという。ふーん。そもそも純粋なホラーを見たことがないので実際に自分がどのように恐怖を感じるのかはよくわからないな。

また怪談ではよくあるオチの「その部屋では実は自殺者がいて」といった因縁のネタが割れてしまう話も恐怖を薄れさせるとして批判的に語っている。恐怖とは圧倒的な暴力性を持ってその体験者に襲いかかるものであり、正体不明の不条理なものこそが恐怖の源なのだと。得体のしれない相手が襲ってくるから怖いのであって、それがたとえば「エイリアン」だとわかったらじゃあ相手の生態を調べて対処法を試してと科学的なプロセスに落とし込まれてしまうからだろう。自殺者の霊が〜という話になってもそれだったら供養するなり逃げればいっかで解決してしまう。

なぜホラーを求めるのか

この本を読もうと思った理由の一つに、自分が極端にホラーや怖いことを避けることの理由か、もしくはわざわざホラーを見に行く人の気持がわかるんじゃないかというのがあったが、これについては仮説がちょびっと述べられている。この辺は生理的な部分が大きいからそら映画製作者にそんな理由を求めるのはそもそも間違っているのだが。個人的に考えていたのは、安全が担保された恐怖を味わうことによって生きている実感などは得られるのかもしれないなあという程度のことだった。が、別に恐怖なんか感じなくても生きている実感や生きている事自体への感謝は充分すぎるぐらい得られるんじゃないかと思うし。

小中氏の仮説をトレースすると、まず「怖い」は慣れる。実生活において怖いと感じる局面は回避したくなるものだ。しかしどうしても回避されない時だってある。こうした時に、とっさに身体が固まってしまって何も行動できなくなることは最悪だといえる。現代においてはそうでもないが、トラなんかに遭遇した時かたまったら死んじゃうよ。だからこそホラー映画は、そうした心のリハーサル的な作用があるのではないか、というのが小中氏の仮説である。まあそれはそういう面もあるのかもしれない。僕が1秒すら見たくないという恐怖を恐怖している感覚は依然としてよくわからないが。

怖さのない時代

本作では他にも人体図を使った「実際に撮影する時にこういう撮り方はNG」という「やってはいけないこと集」だったり、実際に書かれたごく短い映像脚本がそのまま載せられたりしており、脚本の勉強としても面白い部分はある。もちろん本格的に脚本を学ぶには他の本を参照したほうがいい。メインは恐怖である。昔はたけのこのようにたくさんやっていた心霊テレビも今ではすっかりその数を減らし、純粋に恐怖を煽る映画も呪怨などいくつか生き残っているものはあるが、1990年代や2000年代前半ほどの勢いを保ってはいないようにも思える*1

今後恐怖に立脚した脚本が減っていったとしても、恐怖が人間に根ざした根源的に忌避し、しかし一方で求められるものでもあるというこの矛盾した状況はなくなることはないだろう。また純粋ホラー以外に目を向けても、あらゆる作品に恐怖は導入できるし、また存在してもいる。ミステリ的な手法があらゆるジャンルに拡散していったように。だからこそこうした恐怖をとらえた本がきっちりと出し直されたことの意義は大きいと思った。

恐怖の作法: ホラー映画の技術

恐怖の作法: ホラー映画の技術

*1:まあこれも数字にあたったわけではないのであやふやな印象論なのだが。いまだに海外に持っていって戦えるのはアニメやゴジラなどの一部特撮を除けばジャパニーズホラーのみといっていいぐらいだし、ムーだって未だに生きている。意外と元気かもしれない。