基本読書

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フラニーとズーイ (新潮文庫 サ 5-2) by サリンジャー

久しぶりに読み返してみた。僕のような特に専門教育も受けておらず特段の極秘情報を持つわけでもない人間がこうした感想を書くことにドレほどの意味があるのかわからないが、サリンジャーの作品はどれも僕の中で深く根を下ろしていて読むとやはり引き込まれてしまう。サリンジャーの作品についてそのどんな要素が僕にとってそれだけの深い感覚を思いおこさせる原因なのか、これまでもよくわからないままきた。

前回読んだ時の記憶はそれほど定かではないが、こうして読み返してみると実に多くのこと、さまざまな視点から話を考えるようになったものだと思う。たとえば最初に読んだ時は主軸となっているグラス家の子供達は、芸術的に通常の人間たちとは明らかに隔絶しており、その特異的な能力故に周囲の空っぽの人間に我慢できず決定的にズレていってしまうのだ、特別な人達なのだとそちらにのみ焦点を当てながら読んでいたと思う。

ところが今こうして読み返していると、フラニーと付き合っているレーンの方にもずいぶんと視点がいくようになっていた。というか、正直な話レーンに感情移入していた。フラニーがずいぶん乱暴に見えるし、レーンは彼なりにできることをやっているように感じる。凡人なりに。極々平凡な、空っぽとさえ表現されてしまうかわいそうなレーンの方に気持ちがいってしまうあたり、前回読んだ時は自分が「グラス家」側だと考えていたのかもしれない。

エゴだらけの世界に欺瞞を覚え小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニーと、それをズーイが才気とユーモアに富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出すと裏のらすじには書かれている。実際読んでみるとフラニーはずいぶんお安く泣きの入るクソったれな小賢しい小娘に見えてくるし、ズーイにあるのはユーモアというよりかは相手への配慮のなさからくる、相手を傷つけずにはいられない、才気だけだ。

でも相手をふとすれば致命的に傷つけかねないような致命的なやりとりの中に優しさや経験を積んだ物の情愛が込められている、そんな感情の機微についても、前よりよく読み取れるようになったように思う。歪んでいるのは確かだが、その歪みを強制的に直すわけではなく、当てる角度を変えることで正しい方向に導いていくような。ほんのちょっとの、何気ない描写、だれかが何かに気がつく所とか、今まで相手に抱いていた印象が一瞬でがらっと変わるとか、日常を過ごしているとたしかにそういう一瞬がある、と思えるような「切り替わる」瞬間の描写が信じられないぐらいの感動を覚えるのだ。

たとえば母親とズーイがレーンがいかに空っぽかという話をしている場面で、母親がズーイに投げつける「おまえはね、誰かをすっかり気に入るか、あるいはぜんぜん受け付けないのかどちらかだ」から始まる洞察の言葉がズーイに与える衝撃の場面など、読んでいるだけで頭がじんじんとしびれてくらくらしてくるような、小説を読むことでしか刺激されないどこか特殊な場所をゆすられるような、そんな感覚を覚える。

 ズーイは大きく振り返って母親の顔を見た。彼がそのとき大きく振り返って母親の顔をまじまじと見た様子は、長年のあいだ折にふれて、ほかの兄弟や姉妹(とりわけ兄弟たち)が大きく振り返って母親の顔をまじまじと見た様子と、寸分変わりなかった。そこにあるのは、手の施しようがなく見える偏見や常套句や月並みな表現の集積を貫いてときとして立ち上がってくる──それが断片的であるにせよないにせよ──真実に対する客観的な驚嘆だけではなかった。そこには賞賛があり情愛があり、何より感謝の念があった。

この後はまた母親の側の描写にうつりこうした敬意を常に悠然とした態度で受け取ることにしていた、という文章に続いていく。これ、なにがどう素晴らしいのかってうまく言葉にできないものだ。本当に残念ながら。この文章にはたしかにリズムがあるし、そしてそれを活かすだけの物語的な情報が載っている(愚直過ぎる母親が突如として反転し鋭い洞察をみせるところからの、驚きと母親への賞賛)。

僕は一時期あまりにサリンジャーの文体が好きすぎるので、ナイン・ストーリーズの文章を写経するという宗教的な行為にすら及んだが、その一片さえも自分の中に取り込むことはできなかった。とにかく、なにひとつ先を自分で予測できるような規則的な文章ではないのに、いざ文字にされるとそれ以上の物はないといった驚きに満ち溢れた文章だった。机の上にあるものを描写するだけで痺れるのだよな。一体全体机の上にあるものを描写することがどう感動に繋がるのかさっぱりわからない。

でも机の上の物を表現していくだけでそこには何か大いなる意味があるのだと実感させるような、とにかくそれだけの「文章のリズムそれ自体が興味を持続させる」作家だった。ナイン・ストーリーズは好きすぎて原書まで高い金を出して取り寄せてしまったぐらいだ。

村上春樹的にいえば次のような賛嘆の言葉が飛び出してくる。

『フラニーとズーイ』という小説のどこがそんなに面白いのか? 一人の小説家として率直に意見を言わせていただければ、この小説の面白さはなんといってもその魅力的な文体に尽きる。ハイパーでありながら、計算し尽くされた文体だ。内容がどうこうという以前に、文体の凄さにのっけから打たれてしまう。これはもちろん『キャッチャー』についてもそのまま言えることだが、すべては文体から始まっている。サリンジャーはまず文体というヴィークルをしっかりと設定し、そこになにやらかやらを手当たり次第に積み込み、人々を座席に押し込み、素知らぬ顔でひょいとスタートのスイッチを押す。そのようにして驚異のジェット・コースティングが始まる。そのいさぎよさというか、出所のストレートさに、僕らは息を呑み、恐れ入ってしまうことになる。──〈村上春樹 特別エッセイ〉こんなに面白い話だったんだ!(全編)|村上春樹『フラニーとズーイ』|新潮社 より

うーむなるほど。さすがにうまいこというな。冷静に読むと何を言っているのかさっぱりわからないのだがとにかく滑るように一読するととてつもなくうまいことを言っているような気がしてくる。何度も繰り返し読んだが、翻訳すると一定の文体を最初に設定した後修飾やらなんやらの技巧や特殊な単語をどかどかのせたあと文章のドライブ感をガンガンあげていくみたいな感じだろうか。翻訳してどうするんだ。

さて、村上春樹訳だが──元々の訳とはかなり違う。印象的な場面ひとつとっても、まるで意味が違ってきている。村上春樹は翻訳についてそれは作品を解釈するのだという趣向のことをよく言っているが、村上春樹の解釈が、たしかに訳を比較していくだけでよくわかる。たとえば俳優と元の訳が書いているところで、村上春樹訳ではアーティストと、より広い意味での芸術家としての言葉が使われていたりする。

僕は村上春樹訳の補い方、解釈の方が全体的に好きだな。新訳となって、これでまたサリンジャーの作品に触れる人が出て、その人達がまたサリンジャーの魅力にとりつかれるだろう。いつ何時、どんな立場になってから読んでもどこかしらに居場所がある、そんな作品だと思う。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)