翻訳者エッセイは面白いよなあと日頃からぼんやり考えていた。なぜなんだろう。なんらかの理由はあるのだろうか。
まずひとつ言えるのは、翻訳者は自身が訳す作品を「身体を一回通している」ということだ。批評家が一つの作品の取り組む大抵の場合よりも、翻訳者はひとつの作品とつきっきりで付きあうことになる。何しろ最初から最後まで読むだけでなく、ひとつの言語から別の言語へとうつしかえていくのだから。その過程で膨大な量の「選択と決断」が迫られ、訳者によってまったく異なる作品になっていく。それはほとんど作品の再創造に近いものになるだろう。
鴻巣友季子さんのエッセイ『全身翻訳家』では批評家と翻訳家の違いについてこう書いている。『他者のことばを実際に「体験」できるのは翻訳の方だということだ。ある翻訳学者が言った「批評は作品へのかぎりない接近であり、翻訳は経験である」ということばの重みが、近ごろとみにこたえる。』翻訳者が本について語るときのそれは「評価」というよりかは「こんなだったよね」というより真に迫った「実感」のようなものであり、訳者あとがきなどは「映画を見た後の「愉しかったね」というやりとり」に近いものがあって批評家が書いたものより好きなことが多い。
その距離感の違いこそが批評家や解説屋と翻訳者の違いであろうと思う。実際、翻訳者が選択し決断することってかなり多いんだよね。たとえば、人称がまず大きな要素になってくる。『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』という村上春樹さんと柴田元幸さんの対談本での村上春樹さんがキャッチャー・イン・ザ・ライを訳した時のエピソードをもってこよう。これは村上春樹さんゆえの特殊事例でもなく、文芸翻訳者であれば多かれ少なかれやっていることだと思う。
『ライ麦畑でつかまえて』では野崎孝さんの訳だと、フィービーというのはとてもかわいく、主人公のことを「お兄ちゃん」と呼んでいる。もちろん原文ではyouなんだけど、訳では「お兄ちゃん」になっている。村上春樹さんはこれは「どう考えても「あなた」としか訳せないし、あれを「あなた」と訳しちゃいけないと、もし言われたとしたら、僕としてはこの本は翻訳したくないですね。」という。
なぜならそこには作品への読み込み、解釈が含まれているからで、「なぜか」の部分はこちらの記事に書いているので割愛するが⇒翻訳夜話2 サリンジャー戦記 - 基本読書 ようは翻訳者というのは言語を右から左へ移し替えるだけでなくその過程で必然的に作品への自身の「解釈」のレベルまで理解を求められるということだ。
翻訳には「完璧など存在しない」ということでもある。訳す人によってまったく違った形が現れるし、そもそも情報を「変換」しているのだからそこで誤差が生まれてしまうのはもうどうしようもないことだ。だからこそ翻訳者は「絶対に交わらない線」をいかにして「接近させるか」に苦心賛嘆することになる。翻訳者というのは、一文一文そういうレベルで戦っている人たちなのだ。
みんな楽しそう
あとこれは特筆すべきことだと思うのだけど、みんな実に楽しそうに翻訳の事を語る。文芸翻訳なんていう食えないニッチな仕事で生きて、しかもエッセイまで依頼されるぐらいの超一流の人間達だからこそ楽しそうだという言い方もあるかもしれない。が、それにしたって作家のエッセイだってこんなに楽しそうに自分の仕事を語らないぞ、というぐらい楽しそうに語る。これが随分不思議だった。
長距離走の経験などないから、走り続けるうちにランナーが恍惚として味わうという「ハイ」な状態を実際には知らないが、翻訳者も「ハイ」になることがあるのは確かだ。何とも嬉しい無我夢中の境地とでもいおうか。そんな状態に至るには、作品の魅力に加えてもうひとつ、当然ながら、訳す行為自体がもたらす快感が大きな要素となる。──『翻訳教育』
でもこれは──主に作家との対比で語るけれども、翻訳と作品を創るということの単純な違いからきているからかもしれないな、と思った。作家の場合はいくら頭のなかにどでかい構想があろうが、傑作だという予感があろうが書き始める前は無である。書き始めてからしばらくもほとんどは無で、本当に自分の思い描いているものが実現できるのか、できあがってみたら大したことがなかったりするのではないかという不安に苛まれるだろう。
その点翻訳は最初から物がある。それが駄作であってそれでも翻訳しなければならないのであれば別だが、惚れ込んだ作品の場合はクォリティ的な意味で言えば成功は確約されたようなものだ。訳さえうまくいけば、だが。言ってみれば山を一歩一歩踏みしめていく感覚であり、再創造の過程が含まれるといっても基本的には愚直な作業なのだろう。先ほどの引用部で翻訳行為がランナーにたとえられていたが、ゴールは決まっておりあとはそこにどれだけ良いタイムで漸近できるかの勝負なのである。
やはり「自分は絶対に正しいことをしているのだ」という確信がやりがいに繋がるのではないかなと思う。自分がとにかく向かっていることは正しいのだと。このすごい作品を日本語にして送り届けるのだと。あとはそれをどううまくやり遂げるかだけだ。
それにしても、「翻訳は大変だ、大変だ」と言いつつ、訳者たちの顔の晴れやかなこと。大変なのが楽しくて仕方ないようだ。金さんは「でも日本の翻訳家は大切にされているのよ。『名訳者』なんてことばがあるのは日本ぐらいでしょ」と言う。なるほど。──『全身翻訳家』より
この「大変だ」といいつつも「顔の晴れやかなこと」というところに僕がいった山登りとしての翻訳者の楽しさが現れているような気がする。日本語書籍が訳された物の英文レビューなんかを読んでいるとわりと頻繁に「この訳をやったやつはいい仕事をしたよね」という文章を見かけたりするからたぶんそこまで光があたらない職でもないと思う。が、日本はたしかに翻訳者が表に出る環境は、ある程度整っているのかなあ。訳者あとがきがあるしね。
日常の話もおもしろい
翻訳者が書いた本についての話もめっぽう面白いものだが、鴻巣友季子さんのエッセイや岸本佐知子さんのエッセイなどを読んでいると日常の話がやけに面白かったりする。主いつもつかないところに目をつけて、そこから途方も無い空想を引き出してみせるのだ。まあこの二人はなんか、例外のような気もするけど……。
さっきも書いたように翻訳者は「解釈」と「変換」をするのが仕事である。一語一語を丹念に読み解き、解釈し、それが綿々と積み重なったものが翻訳書だ。日常に起こったことを言語的に解体し、別の形へと変換する能力というのが、翻訳者はその経験のうちに蓄えられていくのではないかとも思う。
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