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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり by 片岡 義男,鴻巣 友季子

翻訳とは原語があるといってもそれぞれの単語がすべて一対一で対応しているわけではない以上、十人訳せば十通りの訳がぽこんと出てくるものだ。誤訳はあっても正訳はないというところか。しかしだからこそ、揺らぎの世界で第一線を張っている翻訳者の言葉は面白い。本書は片岡義男さんと鴻巣友季子さん、どちらもベテランの翻訳者二人による翻訳バトルとでも表現すべき本だ。お題とされる本を二人で相談して決め、各自規定された一部分を訳してお互いに「なぜこのように訳したのか、あるいはなぜ訳さなかったのか」を検討していく形式になっている。

オースティン、チャンドラー、サリンジャーと有名どころの作品を訳していくのだけど、既訳も参考にしながら一語一語を検討していく様を読んでいると一ページ訳すのに訳者が何十回と異なる選択肢の中から最適なものを選ぼうと決断を重ねていくプロセスがみえてくる。で、やはりというか当然というべきか、出てくる翻訳は面白いほど違う。「どうしてこういう翻訳をしたのか」についての検討はだから、お互いの翻訳観のバトルのようになっていくのが面白い。鴻巣さんはやはり片岡さんに遠慮して話をじっくりと聞くことが多いけれども、どちらもベテランの翻訳家であるからその語り合いは緊張感が漂っている。

タイトル一つとってもそれぞれまったく別のものを提出してくるからなあ。たとえばオースティンのPride and Prejudice、日本では高慢と偏見として広く知られている小説を片岡さんは『思い上がって決めつけて』と訳し鴻巣さんは『結婚狂騒曲』と訳している。これはまあもちろん実際に出版するものではないから遊びを入れているんだろうけれども、面白い違いだ。

冒頭部分も随分違っていて片岡訳が『金運に恵まれた独身の男は奥さんを欲しがるはずだとは、世の中の誰もが認めるところだ。』、鴻巣訳が『世間一般にきまりきったことで、男は独り身で財産があるとなれば、さあ、あとは妻を娶らなくては、という話になる』となっている。ちなみに原文は『It is a truth universally acknowledged, that a single man in possession of a good fortune, must be in want of a wife.』となっている。面白いのはtruthの扱いで二人共真相とか真実とかいう言葉は使っていないところだ。鴻巣さんはこの点について「真相」であるならばuniversallyやacknowledgeされているとわざわざ強調される必要はないだろうとしている。

その他にもいろいろと理由を重ねていくのだが、まあtruth一語で考えることがよくもこれだけたくさんあるものだと感心してしまう。僕だったらやっぱり『世間一般で認識されている真理として独身男が金を得る幸運に預かったとしたならば、妻を得ようということになる』みたいなたいして面白みのないできるかぎり原語の単語を拾おうとする訳になるだろうな。

もちろんこうした一つ一つをどのように訳していくのかというプロセスも面白いのだが、二人の翻訳論がかいま見えるあたりもたいへん興奮する。特に片岡さんについては自身も作家であるからこその文章への思考が突き詰められていて読んでてなるほどなあと思うことばかり。

片岡 日本語を無理にあてはめることで、原作者の文章が持つ論理の動きを止めてしまいます。これは翻訳でいちばんやってはいけないことです。文章は言葉が先頭から後ろに向かってひとつにつながっているのですから、言葉をつなげばつなぐほど、先頭は前に向けて進んでいきます。この動きを止めてはいけません。そしてこの動きが書き手の論理なのです。書き手が言葉を選んでつないでいくことが文章の前進力になるのです。その動きを可能なかぎり止めないようにするのが、良い翻訳です。文章の論理をよく理解して、それに反しないように、日本語をあてはめる必要があります。

他にも○○である、○○であった、○○だ、というそれぞれ文章の論理の動きを止めてしまう言葉がある、という考えが良い。これらの日本語は状態を表現したいのであって、だ、であるといった表現を使うことで論理の動きが止まってしまうんだ、というわけですね。今まで意識したことはなかったけれども、それは確かにそうだなあ。他には鴻巣さんの『細かいことではありますが、「ある」と「入ってくる」、このような小さなちがいの集積によって、小説全体のダイナミズムが決定され、静的なナラティブになるのか、もう少し動きのある語りになるのか、といったちがいが出てきます』というのも翻訳の中心的な部分を捉えているように思う。

自動翻訳の機能が年々上がりつつあり(日本語についてはまだまだだが)いずれ海外の本をKindleで自動翻訳しながら読む日も近いと思う。というより現状Kindleではすでに範囲選択をしてからの翻訳機能がついていて、もうその日は着ているともいえるけれど。だが、翻訳が一対一で完璧なものがアウトプットされるという仕様ではない以上、まだまだしばらくは翻訳家の仕事はなくならないだろう(翻訳物を読みたいと思う人間が少なくなることによる需要面では仕事がなくなりそうだが)。翻訳家の底力を見せつけられた。

翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり

翻訳問答 英語と日本語行ったり来たり