基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow by 殊能将之

僕は正直なところ殊能将之さんの作品を一つも読んだことがないし、本書の元になっている「Mercy Snow official homepage」も本書が出る前は存在すら知らなかった。殊能将之作品を読んだ時の思い出話とか、彼の小説本と本書の関連を論じるとか、なんにもない。この本について言及する為の大きな適性を欠いているように思われるのだが、それはそれとしてこの本は面白い。語りは個人のホームページ特有の気の抜けた、どこから入ってどこから抜けても構いませんというゆるさに満ちていながらも、視点と語り口はどこまでも読み手の感情にぴたっとくっついて離れない。

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow

ロジカルに作品を分析できる人というのは、けっこういるのだと思う。難しいのは自身が感じた純粋な喜びや驚きを文章にうつしかえ、読者の脳内に転写し類似の実感を呼び覚ますことだ。理が勝ちすぎれば実感から遠ざかり、実感に寄り添いすぎれば理が薄れる。ところが殊能将之さんの文章は、読んだ時の興奮や喜びがそのまま伝わってくるのと同時に「なぜそんな喜びが起こるのか」あるいは「何を評価しているのか」といった理の部分までどこまでも納得のいく形で文章に落とし込められている。余計なプライドや見栄、思想信条といった要素は容易にその人の文章を実際の実感から乖離させるものだが、殊能将之さんの文章からはそうしたズレが殆ど感じられない。

誠実さと本気さが同時に伝わってくるような文章群。そしてそれが日常的に、自身の生活に沿った形で展開されていくのである。本の中に埋もれ、本の中で寝起きしているように止めどない本への語りがシームレスに紡がれ続け、興味範囲の移り変わりが手に取るようにわかり、読書を通して書き手の人柄まで存分に伝わってくる。「基本読書」というサイトでやりたかったのはこれなのだ、と読んでいて考えないわけにはいかなかった。本来は日記サイトにしたかったのだ。本を読み終わらないのであれば、読み途中の感想を書いてもいい。もっと広いテーマで何か考えたことがあるんだったら、それを書いてもいい。何でも思ったことを書いて、それでいてどこを読んでも面白い読み物として成立させること。それが目標だったこの「基本読書」だが、まだその領域には達していない。

基本的な情報

基本的な情報を幾つかお伝えしておこう。殊能将之さんは『ハサミ男』でメフィスト賞からデビューした作家で、2013年に亡くなるまでに著作7冊と決して多くはない。しかしデビュー作『ハサミ男』の評判は何しろ凄まじいものがあったし(僕も名前だけはやたらと聞いていたので存在は知っていた。)、「Mercy Snow official homepage」のreadingページは英語やフランス語で書かれた未訳の原書を次々と読み、あらすじを提供し評価をし宣伝を行いと多くの人の印象に残っているようだ(ようだ、と観察・伝聞形式でしか書けないのがつらい)。

個人的な読書日記だと割り切っていると、お金をもらって読ませるレベルにまで水準を上げるのは難しいというか、意識しないとなかなか「そうはならない」。それでもべらぼうに読みやすく、攻めるべきところは攻め、守るべきところは守り情報として載せるべき物は載せて、と基本が完全に揃っているこの読書日記を読むと、やはりプロとして個人的に金銭目的なしにWeb上で発表するものであっても「恥ずかしい物は出せない」という矜持があったのではないかと思わせられる。あるいは、そこまで強く意識しなくとも地力があまりにも高いために力を抜いて書いてもべらぼうに面白くなるのか。どちらもありそうな感じだ。

mercysnow official homepage ⇐HPについてはその跡地が残っている。readingのページ以外にもmemoやdreamといったページが存在するが、まとめられているのは基本的にreadingのページのみ。『「reading」ページからデータが発見された部分をまとめたものです。』とあるので、全てのページを記載しているのか、はたまたある程度不必要な情報と思われるものについてはカットされているのかはよくわからないのだが、とにかく2000年から2009年までの「主に邦訳なしの原書」読書日記がまとめられている。邦訳された本の感想などはmemoの方に書かれていたようなので、今回はそこが切り離されているんですよね。この原書読書日記が面白いもんだから売れに売れてmemo側の方のまとめ本も出て欲しい。切実に出て欲しい。

読書「日記」

さて、先に書いたように何しろ「読書「日記」」がまずいい。寝ても覚めてもとにかく本の中に埋もれ、よく熟成されたワインのように本を読み文章を書く楽しみの中に日常的に浸り続けている人間にしか出せない味があるものだ。殊能将之さんの読書日記は、なんてことのない一文であっても味が染み込んでいてぐっとくる描写に満ちている。そして、そこには生活が現れているのが良い。たとえばこんな感じ。『3ヶ月近くかけて、ひーひー言いながら読み進めてきたジェイムズ・ブリッシュ『脅威博士』(Doctor Mirabilis, 1964)をようやく読了する。読んだというより、ページに目を通したとか、一応最後まで字面をながめたというほうが近いですが。』とか、この生活に密着している感じが凄く好きなんだよね。

読書「日記」の面白さのもう一つは、その人の価値観の変遷や「いま・その人の中で流行っているもの」がダイレクトに実感できることだ。同時に、書き手の価値観がいままさに変わっていく瞬間を、読者はその文章をおっていくことで一緒に体験することが出来る。殊能さんも、フリッツ・ライバーにハマっているときは延々とフリッツ・ライバーの未訳読書について語る日記が連続して、「わあこの人おもしろい! 次代もう次! 」「これもやっぱりおもしろかった!」と今まさに興奮が続いている様子が観察でき、「ライバーの思想をひと言で言うと〜」と結論を出せるまでになったり、「いくらライバーといえども〜」と面白い中にあまりよくないのが混じっていたり、ライブ感がある。

『わたしはこういう偶然にはあらがわないことにしているので、「いま時代はフリッツ・ライバー(……少なくともオレにとっては)」と確信して、日々ライバーのことを考えているわけだ。』『いくらライバーといえども、この短さでは技を発揮する余地もなく、話はご都合主義的に展開するし、(筆者略)』『ライバーの思想をひと言でいうと、「巨乳は邪悪、貧乳は善良」となるんじゃないでしょうか』さんざん読んできて思想的な結論がそれなのか! 

ポール・アルテを巡るあれこれ

こうした思想の変遷、個人的な流行が最もよく現れているものの一つがフランスの推理作家ポール・アルテについて書かれた一連の文章だろう。最初はフランス語の辞書と文法書を買ったことをきっかけにフランスミステリを読み始め、それがポール・アルテのデビュー作だっただけだ。ただ実に馬が合ったようで褒めようも熱が入っている。

 これだけすごければ、注目を集めるのも当然だろう。傑作、ではない。「よくできている」とか「うまい」とか「斬新」というほめ言葉もあたらない。しかしながら、なんというか、気迫がすごいのだ。
 「おれは大好きなディクスン・カーみたいな小説を書いて、読者をわくわくどきどきさせたいんだ! 文句あるかっ!」
 という、すさまじいまでの気迫が行間から伝わってくる。処女作ならではの迫力といってもいい。

この後も次々とポール・アルテ作品を読破していき、そのまままとめて評論本に出来そうなポール・アルテ論が日をまたいで投稿されていく。この時はまだ日本での翻訳がないのだが、後に『第四の扉』の翻訳が日本で発売され、一部評者の評判が良くないことを受けて、殊能さんが書いた反論文があるのだがその文章がもう絶妙なのだ。アルテに興味が出るとかそういう問題じゃなく、評者としての矜持というのかな。「あなたはそう作品を評価したのか。だが、俺はこうこの作品を評価しているのだ。」という明快な考えの表明に、小説について評価を書く、そのあやふやな行為の中にある黄金のようなものに触れたように爽快な気持ちになった。

 「古くさい」「まがいものである」「カーの域に達していない」
 ああ、ご説ごもっとも。まったくそのとおりです。でも、そこが(少なくとも私にとっては)アルテの最大の魅力なのです。
 どうしてみんな本物ばかり尊ぶんだろう?
 本物の「古い」ミステリを読みたいのなら、英米黄金期ミステリを読めばいい。本物の「フランス」ミステリを読みたいのなら、いまはフレッド・ヴァルガスが最適だろう(けっこうおもしろい。ただ、ちょっと地味)。本物の「カー作品」を読みたいのなら、ディクスン・カーを読めばいい。
 この三つのどれとも似ていながら、あるときは微妙に、あるときはあきれるほど大幅にずれてしまう。それがポール・アルテだ。
 これはアルテが下手だからではない。通時的に読んでいくとわかるが、小説技術はどんどん向上している(それでも下手と言われるかもしれない、というのはまた別の話)。それでもなお、ずれてしまうのだ。繰り返すが、この点がアルテのオリジナリティなのである。偽物を書くことによって独自性を獲得しているのだ。

引くべきところは引いて、押すべきところは押す。大胆に疑義を提示し、明快にそこから自分の論を展開してみせる。「それがポール・アルテだ。」という宣言は途方もなくかっこいい。憧れてしまうぜ。僕がこの境地に達することが出来る日はいつかくるのだろうかと読んでいてついつい考えてしまったが、そもそも好みも指向するものが随分違うから、違う道をいくしかないのだろう。

2000年から2009年の、それも殆どは未訳の小説読書日記だから、そんなものを殊能将之ファン以外が買うのかどうか不思議に思うが(まさに僕が買っているが)、それでもここには本を読むことの純粋な喜びが表現されている。たとえそこで紹介されている本を読むことがなかったとしても、その喜びは伝わってくるはずだ。