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村上春樹☓柴田元幸対談集──『本当の翻訳の話をしよう』

本当の翻訳の話をしよう

本当の翻訳の話をしよう

「本当の翻訳の話をしよう」とはいうものの誰も知らない翻訳の真実がここに! ということは全然なく(当たり前だ)単なるフレーバー・タイトル*1であり、実態は村上春樹と柴田元幸が対談しているだけである。とはいえ、僕はもともと柴田村上両名のファンであるし、柴田さんの『翻訳教室』的な翻訳教授あり、ほぼ『翻訳夜話』でありと、たいへんに満足な一冊である。対談の他に、柴田さんが独演で行った講義である日本翻訳史・明治篇も入っている。寄せ集め的といえば寄せ集め的である。

基本的には柴田元幸さんが責任編集を務める雑誌『MONKEY』に載った二対談と、絶版になった古典を新訳・復刊する企画である村上柴田翻訳堂に載った対談が集められており、この作家はどうおもしろい? 的な作家ベースのテーマが置かれているのが特徴といえば特徴か。村上柴田翻訳堂絡みで、あれとか絶版なの? どうなの? えーあんなにおもしろかったのに絶版なんだ!(こればっか)と語り合う「帰れ、あの翻訳」など、繰り出される膨大な作家・作品についてページの半分を覆う脚注でフォローしており、海外文学を読む指針のひとつとしても良いだろう。

村上春樹の作品がたり

村上さんのエッセイでも文庫解説でもこうした対談でも読んでいておもしろいなと思うのは、とある作家なり作品なりにまずざっくりした感覚的なことを言って、その定義を埋めるのではなくその外堀を埋めるようにして語っていくことで「なるほど、たしかになあ」と説得させられてしまうところにある。本書の中でいえば、チーヴァーについての章の中で、だいたい暗いオチで終わる同じような話なのに、またかと思わないのが不思議だと語る柴田さんに対し、村上さんは次のように返答している。

村上 僕は、大事なのは礼儀じゃないかと思う。チーヴァーの小説に出てくる登場人物の多くは、礼儀をわきまえている。どの小説でも基本的な礼儀正しさを感じるんです。その礼儀が話の暗さを救っているんじゃないかと僕は感じる。礼儀正しい小説はあんまりないんですよね。

「礼儀正しい小説」というのはどういうことなのか、ぱっと聞いただけでは(なんとなくはそりゃわかるが)わからない。柴田さんも「礼儀正しさというのは登場人物の振る舞いのことですか」と聞くが、そうではないという。いわく、それは文章を書く姿勢というか心持ちのことであり、『チーヴァーの小説では泥棒に入る話でも、盗み方が礼儀正しい。そういうところじゃないかな』であると言っている。泥棒なり浮気なりの悪徳が描かれていても、そこでは常に最低限のモラルが守られていると。

だから話が暗くとも──というわけで、なるほどねえと思うが、こういうなんというのかな、「礼儀正しさ」みたいな、本来小説やその文体、姿勢についてはあまり用いられない言葉をぽんっと持ってきて、それをこうじゃないかなあと説明していくスタイルが好きなのだという話である。というより、何万文字も書かれた作品や書いてきた作家のスタイルは実質まるごとひとりの人間、あるいは生物のようなものであり、それを簡単に形容できるはずがないだろうという思いが僕にはあり、できているかどうかはともかく、僕も自分がとても好きな作家や作品に対しては、そうしたスタイルごとに「もっとも適切な言葉」を持ってこれたらいいなあといつも思うのである。

おわりに

村上さんは短篇小説の書き方、システムとして、ひとつの言葉、断片からどんな話を紡げるかという実験であると語っているが、僕はだから村上春樹短篇がほとんど好きじゃないんだよなあ笑 とあらためて思った。短篇については、作家には短篇向きの作家と長篇向きの作家がいるとも語っていて、自分自身でも言っているがまあ、村上さんは長篇向けの作家といえるだろう。でもその見分け方もおもしろい。『カーヴァーとペイリーに関しては、本一冊が丸ごとの作品として成立しているんです。そこが優れた短篇専門の作家と長篇も短篇も書く作家の違うところじゃないかな』

課題文として選んできた文章をお互いが訳してその違いについてあーでもないこーでもないという公開対談なんかもしっかりと読みごたえがあり、翻訳・翻訳小説好きにはぜひ読んでもらいたいところ。まあ言われなくてももう買ってるだろうけど。

*1:と、ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』オマージュ