基本読書

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語り変えてゆく物語──『〈骨牌使い〉の鏡』 by 五代ゆう

本作『〈骨牌使い〉の鏡』は、ファンタジー作家五代ゆうによって書かれた長編小説の復刊というか、再文庫化にあたる。2000年にハードカバーが出版されてその後全三巻で文庫化されたが、それも2006年の事。初めて世に出てからおよそ15年、一度文庫になった後ようやく9年の時を経てまた再度読めるようになっている。時の経過から始めたのはなにも「この作品は古びていない」と繋げたかったわけではない。優れたファンタジーとは古びるとか古びないといった時間経過による経年劣化とは別の場所に、無時間的に存在しているものだと思う。そして本作はその優れたファンタジーそのものだ。それは本作が再度このような形で復刊され、蘇ってきたことからも明らかだろう。良い物語は滅ばず、何度でも蘇る。

人によってSFやライトノベルの定義が違うように、ファンタジーの定義や、そこに何を求めるのかも異なるものだ。たとえば僕で言えば、ファンタジーにはあくまでも現実とは「別世界」を求める。現実から時間的にも空間的にも切り離されたまったくの異世界を。それは、読者の場合は嗜好の一種で終わってしまうが、物を創る側の人間からすればそれは創作の基本性向となり得る。自分の信じ得ないもので何十時間もの時間をかけるのはなかなかに辛く、楽しみ甲斐のないものになってしまうだろうから。そしてたまたまというか意図的ともいうべきか、本作と同時に文庫化されている乾石智子さんの『ディアスと月の誓約』に五代ゆうさんが『現実と真実の物語』と題してエッセイを寄せているのを思い出した。それが五代ゆうさんのファンタジー観の表明にもなっていて興味深いので、道標として引用させてもらう。

 ファンタジーとは実はこの世ならぬものを扱いながら、その底に横たわる魂や生命や死、絡み合ってゆく人生や運命の織り目を、現実以上に冷酷に切り出していくものだと思っている。人間の思惑や策謀、金銭、情理などといった甘いものなど通用しない。
 世界と運命の底に横たわる「真実」は、時には残酷なまでに均衡と傷に対する代償を要求し、過ちや欠落は癒されるまで呪いのように主人公についてまわる。人の懇願も賄賂も金銭も愛や正義すらも通用せず、そこには冷徹な「真実」がただ存在し、人はただ、人であり自分自身であることによってのみ、この「真実」に相対することができる。

異世界というこの世界とは「別の世界」を立ち上げてみせ、そこにこの世界の「真実」をより明確に、明瞭に描き出してみせること。ファンタジーとはなんでもありの幸せな夢物語ではなく、それ以外書きようのない現実への楔であることが五代ゆうさんの考えるファンタジーの要なのだろうと思う。この文章はもちろん、ディアスと月の誓約 (ハヤカワ文庫 JA イ 10-1) by 乾石智子 - 基本読書 にあたって書かれたものだから、現代の五代ゆうさんのファンタジー観であることは言うまでもない。前置きから長くなってしまって申し訳ないが、この「真実」に相対するファンタジーとしての在り方は15年前の作品である『〈骨牌使い〉の鏡』に存分に現れている。

世界観とあらすじについて

さて、ここから多少具体的な内容の紹介になっていくが、まず世界観が凄いというか素晴らしい。かつてこの世界は、語られることによってすべてが生み出された。この世に存在しているものはすべて語られたものであり、必ずその中核に自らが語られた時の<詞>を持ち、自身の存在を支えている。一つ一つの存在が物語であり、それらがまたさらに集積され、一つの大きな物語である世界に組み込まれていく。<詞>は壊れることもあったり(その場合は原初の混沌でしかなくなり、異言者と呼ばれるものになる)、語りの力によって世界をある程度思うがままに「語り変える」こともできる。

 それが善き未来であれ悪しき未来であれ、骨牌使いは、自分の語った物語に責任を負わねばならない。占いにかぎらず、行く手に悪しき世界が待ちうけているとしても、語ることによってそれを変えることは十分にできるのだと、若い骨牌使いたちは教えられる。また、変えられるように努力するのが、真によき骨牌使いなのだ、とも。
 <より良き未来を語るもの>。<骨牌使い>の呼び名には、そういう意味がこめられているのだ。物語には、常に最良の結末を。幼い自分にそうさとした母の顔は今でも、瞼の裏に刻みつけられている。アトリは目を閉じた。

骨牌という「語り」の力を利用することのできる能力を持った彼女・アトリは普段はそれを占いの形で人々の役に立てている。当然ながら当てずっぽうの占いとはパワァが違う。物語はアトリが占いをした一人の青年が、数奇な運命を持っていた事と、彼によってもたらされたアトリの力の真実によって大きく動き始める──、アトリは巨大な力を持った<骨牌>であり、彼女の存在そのものがこの世界を大きく揺るがす鍵になりかねない重要人物だという。生まれ育った商業都市を強制的に離され、王国ハイランドへ、そして強大な力を持つ物の必然として詞の力を駆使する人々と、詞を破壊され異言者となった反逆者との大きな戦いへと巻き込まれてゆく──。

「語りで出来た世界」っていうのがもうたまらない。物語が、世界観のすべてがこの単純極まりない着想から次々と広がってゆく。詞を破壊されることにより整理のついていない混沌に堕ちる異言。物語が語り終えられた時にそれが集まる物語の大樹。語り損ねられた物語たちの溜まる場所──。幻想的な世界のすべてが「語り・語られること」に関連して生み出されている統一感。そしてそれは我々の世界とは似ても似つかないが、常に物語ること・物語られることと共にあるこの世界においての、一面的な真実でもある。何より、この世界は物語られ、いまもまた物語られ続けている世界であるという。であればこそこの世界は、語り変えられることを、強く求められている。

語り変える物語

フィクションを読むときに期待として存在している「最良の結末を」という欲望を、本作は中の登場人物たち自身が強く意識して、物語を大きく語り変えていく。読者側の欲望と、作中人物達との思いがシンクロし物語は相乗効果的にその勢いを増すことになる。本作はメタ・フィクションでさえあるのだ。ただしそれは決して楽な行いではない。物語なんだから好きな様に語り変えられるでしょう、とはいかない。最初に引用した五代ゆうさんの言葉の中にあるように、『世界と運命の底に横たわる「真実」は、時には残酷なまでに均衡と傷に対する代償を要求し、過ちや欠落は癒されるまで呪いのように主人公についてまわる。』

先ほど簡単にアトリについてのあらすじを語ったが、本作でもう一人の主要人物がいる。王となる男の物語だ。彼は世界を放浪し、自身が向き合うべき現実から逃避している。彼は、彼の血筋であれば当然持っていてしかるべき<骨牌>の力を持っていなかった。ただ、いずれ王となるべき立場だけがあり、能力の伴わぬ男。一方のアトリは力を有しながらも、その事によって望まぬ立場に強制的につかされようとしている。本作は生まれ持ったギフトというものをどう扱うかの物語でもあるのだろう。望もうが望まなかろうが、能力の有無はその人間の人生を大きくねじまげてゆく。そんなものはいらないといったところで、持ってしまったものは仕方ないのだ。じゃあ捨てましょう、といって捨てられるわけではない。王の立場も、骨牌の力も。

『人の懇願も賄賂も金銭も愛や正義すらも通用せず、そこには冷徹な「真実」がただ存在し、人はただ、人であり自分自身であることによってのみ、この「真実」に相対することができる。』それはただ「真実」としてそうなのだ。そしてそうである以上、向き合わざるをえないのだろう。つまり本作は生まれ持ったギフトの話であると同時に、それを受け入れ、自身の物としていく者達の物語でもある。王という立場を受け入れ、王である為にはどうしたらいいのかと自問してゆく一人の男、類まれで特異な骨牌の力を持ってしまい、その力を受け入れていく一人の少女、立場も境遇も違えどそれぞれがそれぞれのやり方で「事実」に相対しなければいけないことに変りはない。

五代ゆうさんの描く世界はあまりにもシビアだ。放っておけば人は死ぬし仲違いをする。どいつもこいつも自分勝手で思い込みで批判をする。異言との戦いは激しさを増し、国の存亡どころか世界の存亡すらかかった大きな戦争へと発展していくことになる。そんな世界は受け入れることができない、あまりにも自分の希望と違うのだからと、目をそむけてしまえばなかったことにできるかもしれない。それはアトリも王となるべき青年もたどる道だ。それでも本作はそんな逃避を決して許さない。物語も下巻に至り、事態がどんどんクライマックスへと加速していく中でアトリが、青年へ向かって語る言葉がじんと胸にしみる

 わたし、やっぱり、根っこのところでは占い師なのかもしれないわね。いつでも、運命は語り変えられるものなんだって、心のどこかで信じてる。生まれた赤ちゃんに、最上の人生の物語を贈るみたいに。わたしにできるなら、何もかも丸く収まるように、誰もが幸せになれるように。物語にはつねに、最良の結末をあげたいと思ってる

『いつでも、運命は語り変えられるものなんだって、心のどこかで信じてる。』そう、やはり本作はどこまでも「語り変える物語」なのだろう。たとえどれだけひどく残酷で、目を逸らしたいような現実が目の前にあったとしても、それを少しでもよいものに出来るように歯を食いしばって、踏ん張って物語を語り変えてゆく。シビアな物語だ。登場人物はタフじゃなければ生き残れない。だが、だからこそ、そこをぐっとこらえ、現実を見据えて、受け入れ、自分の物語を彼らが語りだした時に、大きな解放感が訪れることになる。

「語り変えられるのはこの世界観が「語り」の世界だからでしょう」という他人事感がまったく沸かず、アトリの語りがそのままダイレクトに僕に響いてきたのは、我々からすればフィクションの登場人物である彼らが決死の覚悟で自身の物語を語り変えていく様をメタ的に眺めているからなのかもしれない。少しでも善き未来をと語りかけてくる彼らの姿は、我々のものでもある。そして「物語にはつねに、最良の結末をあげたいと思ってる」「自分の語った物語に責任を負わねばならない」と語られてゆく内容は、著者の五代ゆうさんが自分に言い聞かせ、励まし、覚悟していることでもあるのだろう。

きっと、今日から15年経った時代にあっても時間の経過とは無関係にこの世界はこの世界として存在しているはずだ。*1

〈骨牌使い(フォーチュン・テラー)〉の鏡 (ハヤカワ文庫JA)

〈骨牌使い(フォーチュン・テラー)〉の鏡 (ハヤカワ文庫JA)

〈骨牌使い(フォーチュン・テラー)〉の鏡 (ハヤカワ文庫JA)

〈骨牌使い(フォーチュン・テラー)〉の鏡 (ハヤカワ文庫JA)

*1:本文中に入れるタイミングがなかったので脚注で強制的に挿入しますが(フェアネスの為)本作は早川書房高塚菜月様より『ディアスと月の誓約』と一緒にいただきました。面白い物語を、どうぞありがとうございました。