基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ル=グウィンによるギフトのギフト──〈西のはての年代記〉

ギフト 西のはての年代記? (河出文庫)

ギフト 西のはての年代記? (河出文庫)

普段このブログでは比較的新しい本について書いているのだが、最近ル・グインの原稿を書くために作品を読み返していたらいてもたってもいられなくなってきたので〈西のはての年代記〉について簡単にであっても書き残しておきたいと思った。このブログがはじまったのは2007年のことなので、それ以前に読んだもののことってほぼ記録が残ってないんだよね(神林長平先生のほとんどの作品とかもそう)。

というわけで〈西のはての年代記〉である。これは『ギフト』『ヴォイス』『パワー』からなる三部作ものだ。ギフトと呼ばれる特殊な能力を持つ人々(動物の声を聴いたり、未来を幻視したり)がいる特殊な世界を舞台にしたファンタジィ作品である。ル・グインが『ゲド戦記』以来久々に書いたヤングアダルトファンタジィとして話題になっていたような記憶があるが、70を超えてなお瑞々しい筆致、それまでの作風──”物語ること”の力、ファンタジィが持つ力、”支配”と”自由”などなどル・グインが長年描き続けてきたテーマが洗練された形で炸裂する大傑作だ。

何度読んでも『ギフト』の完璧なラストの一文、『ヴォイス』で描かれていく生き生きとした世界と人々の情景、『パワー』で長い緊張が続いた後に訪れる「もう何にも心配しなくていい」ことのあたたかさに、涙がとまらなくなってしまうんだよなあ。ちなみに、三部作であるとはいえ、各作品ごとに主人公も時間も毎回異なっており、どこから読んでも構わないだろう。特にこだわりがなければ『ギフト』から読むことをおすすめする(ギフトの主人公がその後の二作にも出てくるので)。

ギフト

『ギフト』で主人公となるオレック少年は特別な力を受け継ぐ者として親から大事に育てられるが、父親はそうした彼の立場/能力をコントロールするために幾つかの巧妙な嘘をつく。それは一面としては親の優しさから出たものではあるが、同時に自分の都合のいい存在としていつまでもいてほしいという、”支配”の一形態だ。

子供にとって親というのは絶対的な存在で、そうした支配から抜け出ることは難しい。人間というのは、奴隷のように強制的な力の元に支配されているケースもあるが、時として知らず知らずのうちに精神的な支配を受けているものだ。私があの人のいうことをきくのは当然であって、これは支配ではなく当たり前のことなのだという”常識”になってしまう。そうした、オレックが向き合うことになる、自身でさえ認識していない支配は解きほぐすのが難しい。しかし、オレックには幸いなことに、物語と詩が。また、それらに深い感銘を受けることができる能力があった。

ル・グインは第一評論集『夜の言葉』の中の、「アメリカ人はなぜ竜が怖いか」と題する章のなかで、大人たちがファンタジィを拒絶するのはなぜかという問いを立て、それはファンタジーが真実だからであり、そこに含まれる自由が大人たちの束縛を、虚栄を暴き出すのが怖いのだと喝破するが、そのテーゼはこの〈西のはての年代記〉にも一貫して流れ続けている。物語や詩は、読み手が知っている生き方よりも大きな生き方をみせてくれる。読者はそれに触れることで時として新たな世界、新たな形の認識を知り、自分が支配を受けていたことを了解していくことになる。

ヴォイス

ヴォイス 西のはての年代記? (河出文庫)

ヴォイス 西のはての年代記? (河出文庫)

では、本自体が禁止されている社会では自由は消えてしまうのだろうか? 第二作目『ヴォイス』では『ギフト』から数十年後、侵略してきたオルド人によって文字の書かれたものがすべて捨てられてしまった都市アンサルを舞台にしている。ただし、書かれたものが完全に消え去ることはいつの時代もないのだろう。アンサル人のメマーは秘密の図書室に隠されていた本を見つけ出し、導き手である「道の長」によって読み方を習い、物語、詩、その底知れぬ魅力に覚醒していくことになる。

同時に成長したオレックもこの都市にやってきて、その類まれな物語る力によって、この都市に物語を供給していく。物語は決して紙の上に書かれたものだけではない。人の”ヴォイス”にも宿るのだ!

パワー

パワー 上 西のはての年代記? (河出文庫)

パワー 上 西のはての年代記? (河出文庫)

第三作目『パワー』は上下巻に分かれていることもあって、もっとも過酷でパワフルな物語だ。『ギフト』は北の高地、『ヴォイス』は南の都市だったが、少年ガヴィアは最初にいるのはその中間あたりの都市であるエトラ。彼はそこで奴隷としての生活を送っているが、この館では奴隷への待遇がよく、彼自身の抜群の記憶力も相まって教育を与えられ、軽んじられることもなく最初は姉と幸せに暮らしている。

彼は館の主人から教育を与えられていたが、奴隷以外の生活もあるようだということをなんとなく想像はできても、物心ついてからずっとそうした生活を送っているので”支配”されているという実感がない。だが、彼はあくまでも”奴隷”なのだ。時として災害にあうようにして暴力に出会ってしまうこともある。最終的に彼は慣れ親しんだ館から逃げ出す──逃亡奴隷となるのだが、その後も行く先々で、”パワー”による支配と出会い、次なる場所へと逃亡を繰り返すことになる。

その過程で彼は深く傷つくが、旅の合間にほっと心温まる瞬間もあり、本や物語を読み、語ることによって少しずつ、少しずつ回復していく。『ふたたび、ぼくは心の中でアルカマンドの教室や図書室に行き、本を開いて読むことができるようになった。天井の高い板張りの広間で人々の前に立って、口を開き、詩や物語の最初の一行を声にすると、残りは自然に出てきた。詩がぼくの口を通して、自ら語り、自ら歌った。物語は自らを新しくした。常に新しい水が流れる川のように。』

特別な力をどう制御するのか

そうした支配と自由をめぐる物語と同時に扱われていくのは”特別な力をどう使うのか”というテーマだ。『ギフト』でオレック少年が宿す「もどす」力は目でみた対象を問答無用で破壊することができる力だが、彼はその力が制御できず大切な人を失ってしまう恐怖から自身の目を隠し、何年も暗闇の世界で過ごすことになる。

『パワー』でもガヴィア少年は自身が持っている未来を幻として思い出す能力の扱いに苦慮するが──これは決して超常的な能力を持つ人達だけの話ではない。物語をたくみに語ること、動物たちとすぐに親しくなってしまうこと、書き手に対して心の底からの感謝を、それによって自由がもたらされたのだと伝えること──そうした普通の技能だって、特別な能力であり、”贈り物(ギフト)”なのだ。

ぼくに本を返して彼は言った。「ガヴィア・アイタナ。きみはぼくに名誉を与えてくれた。きみは読み手だけが書き手に与えることのできる贈り物(ギフト)をくれた。ぼくがきみにあげられるものがなにかあるだろうか?」

ギフトを受け取って、その力を使ったら、同時に他の誰かにギフトすること。これは、『ギフト』で能力を持つ高地の人々が自身らに課しているルールのひとつであり、同時にそれはギフトを持つものの責務──というよりかは、特別な力を制御するための方法でもある。ダレックからメマー。メマーからダレック。ダレックからガヴィアへ。ガヴィアからダレックへと、物語はめぐりめぐって豊穣さを増していく。

おわりに

本書自体が、ル・グィンのギフトのギフトであることはいうまでもないことだ。というわけで、久しぶりに読んだらこの記事を書かないわけにはいかなかったのである。来月25日はSFマガジンのル・グイン特集もあるので、そっちもヨロシク!