基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

アルジャーノンに花束を〔新版〕 by ダニエル・キイス

七〇周年を記念したハヤカワ文庫補完計画の第一弾。久しぶりの再読となるがいまなお鮮明な作品である。最後は思わず泣いたよ。そこに至るまでの過程も小説を読むことそれ自体の純粋な驚きに満ち溢れており、この快感と感覚の一体感は文字以外ではなかなか表現が難しいだろうなと思う。だからこそ小説における傑作としていまなお多くの人間に愛される小説であるのだが。

32歳でありながらも幼児並みの知能しかないチャーリイ・ゴードンが知性を増強させる手術/実験を持ちかけられ、それに同意した結果知能は著しく増大する。だが同時期に手術を受けて知性の増大を見せていたアルジャーノンの様子はだんだんおかしくなっていきチャーリイ・ゴードンの未来もまたそこに暗示されることになる。

なんといっても冒頭から始まるチャーリー・ゴードンの経過報告・日記形式の語りが素晴らしい。最初はたどたどしく、言葉も知らず、ものすごく簡単な文章しか綴ることのできない経過報告日記。それが手術を受けた後次第に単語が徐々に増え、構造がしっかりとし、内容がきちんとしたものになっていく。チャーリー・ゴードン自身が知識を増し、知性そのものに触れた時の興奮も相まって彼の変化が文章からダイレクトに伝わってくるのだ。たとえばまだ実験前の段階ではこんな経過報告しか書くことが出来ない。

 きょーわけんさがあった。ぼくわしぱいしたとおもうのできっとぼくを使てくれないだろー。どういうことがあったかというとひるやすみにいわれたとーりニーマーきょうじゅのところへいくとひしょのしとがドアに心理と書いてあるところへつれていてくれてそこには長いろーかがあて机や居すしかないちーちゃい部屋がずらりとならんでいます。

一方知性が増大していくにつれ、彼自身も気がつかないうちに書かれる報告書はより内実を増していく。

 するとストラウスはかせが近づいてぼくのかたに手をのせてチャーリイきみにはまだわからないだろうがきみはどんどんかしこくなってきているよといった。きみはしばらくは気がつかないだろう時計の短い針がうごいていくのが見えないのとおんなしだ。きみの変化もそれとおんなしだ。じょじょに起こっているのでよくわからない。でもわれわれはてすとやきみの話し方やこーどーや経過報告なんかでその変化を追うことができる。チャーリイきみはわれわれや自分に信らいをもたなければだめだ。これが永きゅーてきなものかどおかわからないけれどもきみがもうじき高い知のーをもった青年になるのはまちがいない。

その後も本作は天才を褒め称えるわけでもなく人間の能力を大幅に超えた天才を物語の中で想定することによって、本来人間が持っている知性の小ささと、それでもそこには確固たる人間の生活・地道なあゆみのようなものがあることが描かれていく。研ぎ澄まされた知性は意図したか意図しないかにかかわらず周囲の人間に影響を与えてしまうものだ。高速道路を突っ走るようにして知性を獲得してしまったばっかりにゴードンは女の子の誘い方も知らなければその知性のふるいかたもまた覚えていかなければならない。これは中盤の読みどころの一つ。

物語も終盤に至って、ゴードンは一度得た知性をまた失っていく。文章で知性を得ていくことの喜びとそれをまさに文章そのもので示した先鋭さ、知性を得た天才とその周囲のズレを書いた空想性。本作におけるダニエル・キイスの天才性はいうまでもないが、この終盤もまた飛び抜けている。ゴードンはその最後に向けて恐怖を覚えるが、彼はそれをできる限り受け入れようとする。いったん得た物を捨て去らねばならぬこと。科学者含め多くの人間がこれが出来ないがために道を誤ってきた。ゴードンが直面するのはそんな現実である。

苦闘──というわけでもない、それはただ起こってしまうものだから。諦め──ともまた違う。知性が失われていくことは確かで、彼はそれを受け入れ、肯定してみせる。本作を本当の本当の本当に最期の一点に至るまで傑作にしているのは、彼がこの問題を彼だけの問題として捉えなかったことだろうと思う。外部に向かって大きく開かれている。取り込んでいる。今こうして思い返しながら書いていても涙が出てくる。序盤、中盤、終盤と傑作じゃない部分が見当たらない。研ぎ澄まされた、いまをもってなお先鋭的な作品だ。これを書いた時のダニエル・キイスは何か偉大なものにとりつかれていたとしか思えない。

アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)

アルジャーノンに花束を〔新版〕(ハヤカワ文庫NV)

英語版との比較検討

ちなみに──文章が次第に精彩を得ていくのは、僕は原文より日本語だからこその部分も大きいと思う。何しろ漢字とひらがなとカタカナが混じった複雑怪奇な特殊な言語だから、段階を踏んでその彩りが増していく事を表現するのには素晴らしくあっている。英語だとこうした表現はどうしても「単語を完全に書けない」とか「文法が間違っている」などに著しく制限されるから。逆に言えば翻訳の腕の見せどころでもある作品だろう。たとえば特に印象的な場面である最後の部分。

P.S. please tel prof Nemur not to be such a grouch when pepul laff at him and he woud have more frends. Its easy to have frends if you let pepul laff at you. Im going to have lots of frends where I go.

P.S. please if you get a chanse put some flowrs on Algernons grave in the bak yard.

 ついしん。どおかニーマーきょーじゅにつたいてくださいひとが先生のことをわらてもそんなにおこりんぼにならないよおに、そーすれば先生にわもっとたくさん友だちができるから。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。ぼくわこれから行くところで友だちをいっぱいつくるつもりです。

 ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。

単語欠けをそのままには翻訳してないのが面白い。flowrsはちゃんと花束になってるしP.S.とかのちゃんとしている部分は「追伸」とはしていない。花束だけ漢字になっているのとか、ところどころ漢字になるのが僕的にはぐっときたなあ。まあ、英語で読もうが日本語で読もうがこの場面の素晴らしさはまったくもって変ることがないのだけれども。