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マレ・サカチのたったひとつの贈物 by 王城夕紀

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

マレ・サカチのたったひとつの贈物 (中公文庫)

痺れたなあ……。『太陽・惑星』といいここ最近の日本SFの新人作家はハヤカワ創元以外からもとびきり先鋭的な作品を出してくる。『天盆』に続く二作目の作品である王城夕紀さんによる『マレ・サカチのたったひとつの贈物』は、ド直球のSFでありながらも我々の現実の地続きのところにある世界をポップに描き、最後まで走りきってみせる傑作だ。さまざまな要素を投入しバランスを取ることが難しい綱渡りのような話を展開しながら凡庸な結末に落ちるのではなく危ういまま渡りきって見せた。

あらすじとか世界観とか

物語は「量子病」という奇病に冒された少女/女性である坂知稀を中心に展開する。概ね彼女が量子病を宣告され、そしてその後どのような人生をたどっていくのかを1ラインとして描いていくが、未来のシーンが挿入されたり、まるで意識の流れの中で突如過去の映像がフラッシュバックするかのように、他人の発言や場面が挿入されていくことになる。あくまでも彼女を中心においた、この世界の物語だといえるだろう。

世界情勢も現在とは随分と異なっており、アフリカと南米の勃興によって国家間格差は平準化、結果的に全世界は一握りで点在している富裕層と大多数の貧困層からなる社会へと変転を遂げた。死にかけの資本主義への心臓マッサージの如く祝祭資本主義なる概念が提唱され、戦争ではなくワールドカップ、オリンピックを始めた祝祭を連続させることで経済を無理やり循環させようとする勢いも生まれている。当然インターネットや諸技術の発展も著しく自動翻訳のおかげなどもあって世界は現在よりフラットな状況を迎えている。

「軽さ」でコーディングされた「重い」物語

こうした未来世界観は現状の実感ともよくあっていると思う。そんな現代とは違った世界を、坂知稀は量子病によってぽんぽんと場所を移しながら世界中を跳び回っていく。彼女は問答無用でぽんぽんと跳んでいってしまうから、人との長い関係を積み重ねることもできない。一つのところで何かを成し遂げることも当然できない。積み重ねというものから根本的に捨てられてしまっている人生だ。持っていけるものはなぜか「青い」持ち物だけ。当然お金も何も持っていくことが出来ずにほぼ着の身着のまま跳ばされることになる。

数々の場所を跳んでいく彼女だから世界中の姿を経験していく様もやはり断片的に語られていく。秘境のような場所の祝祭、国名こそ明らかにはならないものの、アジアから南米、アフリカのような場所と様々な場所に行き、まるで世界そのものを雑誌をぱらぱらとめくりながら拾い読みでもするかのように坂知稀は体験していく。それに加えて本作は冒頭から量子論の講義から始まるように、量子論、世界経済、テロ、インターネットと主軸に据えて展開するにはいささか重すぎる主題を扱う。しかし物語はあくまでもその軽さを失わない。決して長々と量子論を説明したりせず、世界情勢を綿密に書き込んだりもせず、それぞれがコラージュのようにして物語に編み込まれていく。

もちろん、関係を継続できず土地にも縛られない彼女の生活が「軽い」ものであるはずがない。行った先で何が起こり得るかわからず、彼女には地面につなぎとめてくれる「碇」がないばかりに常に浮遊した先で関係性を瞬時に作り上げなくてはいけない。世界が破綻に向かっていく一つ一つの描写は軽く、まるで歴史か何かのように断片的に語られていくが、そのロジックはあくまでも現実的なものだ。一見したところ、確かに本作は全体的に「軽い」。会話は短いながらも印象的なやりとりが繋がれていきテンポが早く読みやすく、決して読み味を損ねない一流のストーリーテーリングと説明の技術。

だが、本作の軽さの内側には「重さ」が秘められている。現実世界そのものへの冷静な洞察が、彼女が背負っている運命の過酷さ、つらさが、彼女の周囲の人間の優しさと能力が、たとえ表面上は軽く流されていったとしても、ずっしりとその存在感を放っている。テクニカルで軽快な本だ。油断しているとするすると読めてしまう。だがなんてことのないような親子の会話が、現地人と坂知稀との短い会話が、この世界そのものの断片的な「現実」を表していて、テンポよく展開する会話の応酬はにじみ出る質量を感じさせる。

坂知稀がぽんぽんと世界中を跳び回っていってしまうのも、量子の話も全ては繋がっている。我々はインターネットのおかげで家にいながら、トイレにいながらにして地球の裏側で起こったことを瞬時に把握することができる「軽さ」の中にいる。革命が起きれば、戦争が始まれば、テロが起こればそれをすぐに知ることが出来る。しかしそこで実際に起こっている、重たさを体験できるわけではない。坂知稀が世界中を跳び回っていくのは、即座に世界中とつながってしまうネットの実体的な表現かもしれないが、そこにはネットだけでは存在し得ない「体験の重さ」も伴われている。

 生きていると死んでいるの重ね合わせの状態?
「猫をそんなことに巻き込むな」というのが、彼女の弁。

出会いと別れ、諦念と選択、永遠と偶然

物語の中で彼女はさまざまな人に出会う。彼女は確かに自分の意志とは無関係に跳ばされてしまうが、そこには必ず誰かを求めている人がいる。だから彼女は常に人との出会いの中で生き、会話を交わしながら危うい人生を送っていく。その出会いの中で彼女自身もまた変化を受けていくわけだが、物語の中で何度もリフレインしていくのは人生という、変えることができない運命に対する諦念──そしてその上でいかにして生きるのかという問いかけである。

「出会いは神様の意志。でも、再会は人間の意志」

「どんな経験をするかは、普通の人だって選べない。人生は、事故のようなもの。私だってウォールストリートの王子と結婚する予定だった」うふふ、と緑の女性は笑う。

生まれた場所は選べないし、どのような遺伝子を持って生まれ、どんな人に出会うのか、我々は自分の意志でコントロールすることはできない。坂知稀の量子病だって、彼女がそれを発症した事に生活の不摂生などの理由があるわけではない。彼女は突如として量子病にかかり、突然跳ばされる人生を強いられてしまう。表向き彼女は誰とでも一瞬で打ち解け、跳んでばかりいても髪は伸びると笑うことさえできるタフな女性だ。しかしだからといってそれが楽な道のりであるはずもない。

この先、どんなふうに生きていったものか。
どんなふうになら、生きていくことができるのか。

どこまでは変えることのできない運命で、どこからは変えることのできる現実なのか──。偶然を受け入れ、起こったことを必然へと変えていくこと。これは彼女が自分の人生における運命そのものをどのようにして受け入れ、意志でもってその先を展開させていく物語でもある。彼女が見ることになるアクチュアルな世界、そこには量子論のような観測によって成立する不確定な偶有性に支配された世界であり、同時に自然的に同期を見せる統一された世界でもある。世界をまるで雑誌でもみるようにしてぱらぱらとめくっていく──と書いたが、本作はまさに一冊の小説を通して世界の姿を、法則を、そして未だ尽きることのない謎の探求を提示してみせるかのようだ。物語の冒頭で教授は語る。

「不思議を感じられなくなったら人間は終わりだぞ、諸君。不思議を感じる力こそ人間のすべての原動力だ。これはまぎれもなく不思議なことだ。そうではないか。今この教室にいる諸君ひとりひとりが、誰も自分を見ていないわずかな瞬間に波となって分布して消えたかと思えば、次の瞬間遠く離れたナポリにいるようなものだ。これが不思議でないとすれば、何だというのかね?」

『「喜べ、諸君の大好きな謎だ」』本作のラストに至るまでに世界は大きな変動を迎えていく。度重なるテロ、墜落していく世界経済、現世はもはや人間にとって自由な場所ではなくなってしまう。それならば──と、そんな中彼女がとることになるのは、重ねて語られてきた量子論、同期する世界、何より彼女が出会ってきたすべての人との出会いから生まれてきたからこそ出てくる結論だ。その結論を聞いた時、危うい綱渡りを見事に渡ってきた本作が明確に傑作として渡り切ったと確信した。素晴らしい、現代の物語だ。

「行きなさい。抗っちゃダメ。流れなさい。できれば、楽しみなさい。そしていつか、貴方が見てきたもの、貴方だけが見てきたもので、新しい選択をするの」