読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

特別料理〔新版〕by スタンリイ・エリン

ハヤカワ・ミステリ文庫から出ているし、表題作はミステリマガジンのオールタイム・ベスト短編部門の第二位をとっているぐらいなのでミステリ短編集と呼称したほうがいいのだろう。が、殆どの作品は別段謎を解くわけでもなくむし殺人などの事象はジレンマがこじれていった結果、盛り上がりがピークに達した瞬間に行われることが多く、物語はサスペンスの手法で展開する。ぎりぎりまで凝縮し、洗練された文体は「確固たる自信と信念を持って物事を実行する」善人悪人含めた人間達の高度な戦いを表現していること相まって、物語のボルテージをどんどん高めていく。

特別料理 (ハヤカワ・ミステリ文庫 エ 2-6)

特別料理 (ハヤカワ・ミステリ文庫 エ 2-6)

冒頭の一文からグッと物語に惹きつけられ、同時にキャラクタの内実に一瞬で到達することのでいる信じられないような文章の切れ味をこの短編の端々で体験することになった。たとえば短編『決断の時』は次のような一文からはじまる。『あまりに徹底的な自信家は他人から好かれないという原則から、ヒュー・ロジャーは例外だった。』このヒトコトだけでヒュー・ロジャーがどのような人物かが一瞬で掴み取れる上に
そんな男の経歴と、その後何が起こるのかに惹きつけられてしまう。

セロニアス・モンクというジャズ・ピアニストはかつて、どうやったらそんなに素晴らしい音をピアノから叩き出すのかと聞かれ、「新しい音なんてものはどこにもない。鍵盤を見ればわかるけど、音はもうぜんぶ決まってるんだ。でも音に十分な意味を与えてやると、その響きが違ってくる。ほんとうに出したかった音になるのさ!」と答えたという。誰もが同じ言葉というツールを使っていても並び替え次第で百花繚乱の効果を発揮する。長年、一万に届くかというレベルで本を呼んできた僕でも、「こんな文章のつなぎ方があるのか」と幾度も新鮮な喜びに浸ることが出来るのは小説を読む楽しみの一つだ。

どの短編も恐ろしいほどの密度の高さだが、読んでいてしきりと頭をちらついてくるのは漫画のジョジョの奇妙な冒険だった。著者の荒木飛呂彦さんが自著の映画について語った新書本でバカみたいなポカをやらかさないプロフェッショナルとプロフェッショナルの戦いだからこそ物語は加速度的に盛り上がっていくんだ(大意)と言っていたが、本書『特別料理』に収録されている短編群にもそれと似たようなところがある。プロフェッショナル同士の戦い──というわけではないが、登場人物の多くはみな自分のやることをはっきりと悟っており、その信念にのっとって(時にそれは物凄く奇妙なものである)行動を開始する。場合によっては相手側にも同等の覚悟を持った相手がおり、その相対はジレンマに直結し「殺すか殺されるか」といったところまでボルテージが上がっていくことになる。

アブルビー氏の乱れなき世界

たとえば僕が特に好きな短編の一つに『アブルビー氏の乱れなき世界』というものがある。この物語も最初の一文から主人公の人柄と物語の性質をよく表している。それは次のようにはじまる。

アブルビー氏は縁なしのメガネをかけ、白いものがまじりかけた髪を五分わけにして、秩序正しく構成された世界に偶然のはたらく余地はないと確認することにまっとうな喜びをあじわうといった、小柄の几帳面な人物だった。したがって自分の細君を片付ける最も有効適切な方法を穿鑿すべき時にたち至っても、どこをさがせばそれが見つかるか、ちゃんと承知していた。

几帳面であるべき形にこだわる彼は金の為に幾人もの嫁を、巧妙に事故にみせかけて殺していく殺害者だった。しかしそこには悪意や快楽といったものはなく、ただ彼は彼が望む環境を構築するために金を必要とし、その為に必要とされる手順を実行しているだけだった。冷徹な殺人者ではなく、ただ人を殺すことにたいした罪悪感を持たず作業と捉えているだけの職業的・事故演出人といった男である。几帳面な性格が幸いして(被害者にとっては災いして)、今のところ誰にもその尻尾を掴ませていない。

ある日彼は、自分とは正反対に思えるだらしない女性であるマーサ・スタージスと出会う。ところが彼女はそれを補って余りある財産を持っており、アブルビー氏は早速自分の仕事にとりかかるのだが──当然、マーサ・スタージスはただのだらしない女ではない。彼女もまた明確な意図と自信と、その自信に見合うだけの能力を持った気高き女性である。絶対的優位にあったはずのアブルビー氏と、それを逆手にとって自分優位に状況を展開させんとするマーサ・スタージスの戦いと緊張感は能力者や波紋の使い手こそいないもののまるでジョジョだ!

好敵手

もう一つ特にお気に入りの短編をあげると、『好敵手』は奇想と表現するのがふさわしい出発点からあれよあれよという間に笑っていられない納得感のある展開を仕立てあげてみせる。何しろ冒頭からしてなんともへんてこなのだ。物語の主人公であるジョージは結婚もしておっさんになってからチェスの道具を譲り受け、その魅力にべた惚れしてしまう。しかし残念ながら相手がいない。しょうがないからジョージは、自分で自分を相手にすることにした。僕も小学生ぐらいの頃は、遊ぶ友だちがいなかったから遊戯王カードを一人二役でデッキを組んで遊んだものだが、まあ何しろ相手の手札がわかっているわけだからぜんぜん面白くない。

それでもなんとか遊べたのは想像力豊かな子供だったからというべきか。今となってはそんなことやろうとも思わないだろう。だが、ジョージはそれをやる。当然「相手の思考が読めてしまう(自分だから)」という弱点にぶち当たるのだが、彼はおかしな人間なのでそこで諦めずに真っ当に解決しようとする。たとえば一手ごとに座る場所を変えてみたり。それも嫁さんに「何バカなことやってんの!」と怒られて(当たり前だ)やめざるを得なくなってしまう。どうしても諦められないジョージは一手ごとに脳みそを切り替えることに全身全霊をかけるようになる!(バカかな?

 けれども一度の勝負ごとに、一つの指し手ごとに、一つの努力をはらうごとに、ジョージはそれだけ目的に近づいていることを感じて、歓喜に胸をふるわせた。きっとその瞬間がくる、と彼はすさまじいばかりの確信をもって自分にいいきかせた。──盤の向こう側を客観的に、まったく無関心に、その意図や計画について、本当にそこに坐っている生身の人間を相手にする場合以上の知識なしに眺められる時が。そしてその日がきたら、彼は彼にさきだつどんな名勝負師もものにしたと主張することのできない種類の勝利をかちとったことになるのだ!

『そしてその日がきたら、彼は彼にさきだつどんな名勝負師もものにしたと主張することのできない種類の勝利をかちとったことになるのだ!』ってそりゃそうかもしれないけど、それがなんなんだ感が半端ない、アホみたいな努力だ。そんな勝利を勝ち取るよりもゲームを一緒にやってくれる友だちを探したほうがよほど有意義だろう。だがついに彼はそんな努力の果てに、自分の中に白側をコントロールする人格をあらたにうみだしてしまう! なんてこった! その人格は彼でありながらもコントロールしきれない別個の人格として振る舞うようになりついには──。

バカバカしい短編という他ないのだが何しろ「チェスにハマり込むが相手がいないから自分一人でチェスをやることに邁進する男」という設定が面白すぎ、しかもその描写が信じられないような迫真性を伴っているもんだから笑い飛ばせない切実さに満ちている。もちろん、取り上げなかった二作品以外も傑作揃い(全10編だから、取り上げなかったものが8作ある。)。たとえば序文でエラリイ・クイーンが書いているように(エラリイ・クイーンが書いているのだ。解説は森晶麿。こちらも『特別料理』を中心に語っている)表題作の『特別料理』はこの世に「美食家に応えるための料理店があるとしたらどのような店か」という問いかけを描写として成立させたかのような圧巻の作品である。

どの短編にも概ね共通しているのは最初に述べたように、どの人物も自分の信念を自信と確信を持って行動にうつし、それが時に別の信念を持った相手や、信念を覆すような事象・環境とぶつかり、ジレンマと盛り上がりとして昇華されていくところにある。その迷いなき登場人物たちの台詞運びはどれ一つ取り上げても名言のように成立しているし、たとえそれが結果的に殺人をおかす悪党であろうともたまらなくカッコイイ。彼ら彼女らは伊達や酔狂や遊びでもなんでもなく、まるで存在証明の如く、魂をかけて勝負を賭けているのだ! たとえそれが「チェスを一人で楽しく遊ぶ」ということであったとしても! バカバカしい目的や動機であっても登場人物はみな本気でそれに臨んでいるのだ!

一編一編のボルテージが凄まじく高いので読み終える頃には疲れ果ててしまった。記事も心なしかテンションが引っ張られていつもつかわない「!」を連発していたり、荒ぶっているような気がする。僕はミステリを読まないわけじゃあないけど、古典系の作品はほとんど読んだことがないから新鮮な驚きを提供してもらった。読んだことがない人がいたらこの機会に是非。