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"フィクション"が"現実の台湾"を侵食していく──『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』

グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故

グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故

台湾の作家・伊格言による、原発事故サスペンスが本書『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』である。題材的にも作家のこれまでのキャリアからいっても社会批評の側面が強く、台湾文化は個人的に馴染みがないので(あまり小説とかのノンフィクションも翻訳されないし)"台湾という国家"そのものを新鮮な気持ちで読んだ。

舞台となるのは2015年と2017年の台湾。現在17年の日本読者からするとタイムリィであるけれども、書かれたのは13年なので至近未来SFとしての側面がある。作中設定では15年に台湾第四原発で事故が発生し、ダムが汚染されたことも手伝って国土の5分の1に被害が拡散。これに巻き込まれた第四原発のエンジニア林群浩(リンチュンハオ)はその時に記憶を失ってしまい、17年現在は総統府北台湾原発処理委員会の監視の下で、治療にあたりながら事実上の軟禁状態に置かれている。

ただでさえメールや行動が監視されている上に、治療に用いていた夢の内容の一部を映像化できるドリーム・イメージで抽出した写真(ちなみにこの技術はまったくのフィクションではなく、実際にもそういう技術は開発されている。)には、次期総統候補の知られざる秘密がうつっていて──と、より複雑な事態へと林群浩は巻き込まれていく。そうやって記憶を取り戻していく過程で、2015年の原発事故前に何が起こり、その後の2年間で台湾がどう変わっていったのかが描き出すのが基本的な構成。

サスペンスの構造自体は単純だが、台湾原発事故が"なぜ起こってしまったのか"という過程の綿密な描写、原発を生み出してしまったこの文明と我々はどう向き合うか、あるいは背を向けるのかといった現代文明論などがメインストーリーにしっかりと編み込まれ、"フィクション"が"現実の台湾"を侵食していく過程が重厚に描かれていく。でも台湾の描写なんだからピンとこなくない? と思うかもしれないが、日本人の多くは2011年に本物の原発事故を体験しているわけで、重なる部分は多くある。

たとえば下記は現場の激昂。僕も何冊か"原発事故で何が起こっていたのか"を書いた本を読んできたけれども、本書もそうした現実の緊迫感に肉薄している。

「それで間に合いますか? 上はまるで第四原発で飯でも炊くように一刻も早く燃料棒を装填するようにせっついてきてるんです。なのに、改善項目は数百にも上っていて、修理の工程表だけが延々と書き込まれていく状況なんです。かといって、見てみぬふりをしてしまえば必ず事故が起きます。畜生、これは放射能なんだ。一歩間違えば死人が出るってことを、上の人間はどうしてわからないんだ」

本書のもう一つの軸は、そうした原発を生み出してしまった文明そのものへの疑義である。それも、もう人間は文明から背を向けろ! とするアンチ文明的な疑義(も提示されるが)ではなく、今の文明は所詮、偶然で成立しているものにすぎないのだから、常に"また違った形の文明"がありえるのではないか? とありえたかもしれない文明の可能性を受け入れる柔軟性を提示するもので、これはこれでおもしろい(突然文明論が始まるので会話が自然じゃないように感じるんだけど、それはそれ)。

SF的には、汚染が確定した時の市民に発生したパニック/街の状況の描写が素晴らしい。最初は小さな村で大量の感染性胃腸炎の症状が現れ、違和感を覚えた医師は突然鼻血が噴出する。事態をもみ消そうとする政府。目に見えぬ放射能におびえ、街を脱出し無人となった台北市。四方八方へと逃げ惑う群衆。『台北でもとりわけ華やかだったこの並木道も、今ではすっかり巨大な駐車場に変わり果ててしまっていた。あちこちで車が玉突き事故を起こし、自動車のライトとひっきりなしに鳴り続けるクラクションの音が焦燥と不安に満ちたこの都市を照らし出していた。』

おわりに

描写だけでもゾクゾクさせられる本作だが、作品全体のトーンとしてはやはり非常に反原発色が強い(作中では事故って国土が5分の1も潰れてるんだから当然だけど)。台湾は2025年に原発すべての廃炉を目指して具体的なアクションを起こしている最中の稀有な国家だが、本書が書かれた当時はまだ政府が脱原発に向かうかどうかは不鮮明な、ぐらぐらと揺れている状況であったという。最初に書いたように、そうした台湾文化への興味も含めて楽しめた一冊であった。