- 作者:ユヴァル・ノア・ハラリ
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2019/11/19
- メディア: 単行本
これまでハラリが何千年に渡る過去、そして未来をその射程に入れてきたが、本書ではこの数十年、場合によっては数百年までの社会的、経済的、政治的危機を中心に取り扱っている。たとえば、雇用の減少、年々難しくなる教育、世界的な気候変動などなどである。ハラリはあいもかわらず明確な語り口で、複雑化する一方の現代の様相をわかりやすく描き出し、物事をじっくり考えるだけの糸口を与えてくれている。
いつか起こり得るであろう非有機的生命体が社会をどれほど変えてしまうか、といったかなり空想の領域に入り込んでいる論調は(そっちはそっちで、もちろん魅力だったのだけれども)ナリをひそめ、地に足のついた問題を扱っている分、これまで敬遠していたり、ちょっと合わんなあと思った人でも楽しめる一冊であると思う。
取り扱われているテーマについて
取り扱われているテーマは雇用や移民といったシンプルなものから、SFや瞑想のような意外なものまで、21個用意されている。本書の読みどころは、そうした諸問題に対して、大上段から答えを提示してあげよう、というのではなく、我々はこれから先そうした問題についてどう考えていけばいいのだろう? 考え始める前にどのような情報をふまえるべきなのだろう? と、そもそもの考え方の土台や、思考の余地を提供し、もっと立ち止まって困惑せよ、と提示してくれているところにある。
たとえば、最初の「幻滅」の章では、いかにこの現代が自由主義に対する幻滅に満ちた世界であるかをまずは丹念に解説していく。2008年の金融危機以来、世界中の人々は自由主義の物語に次第に幻滅するようになった。イギリスでEU離脱が是認され、トランプが当選し、壁やファイヤウォール、移民や貿易への抵抗は増すばかり。
とはいえ、自由主義が崩壊の危機に至ったのはこれがはじめてではない。第一次世界大戦の中、帝国による権力政治がグローバルな進歩の流れを中断した時も、ヒトラーが現れた時も、1930年代から40年代にかけてはファシストの嵐が吹き荒れ自由主義の流れは勢いを削がれた。続く50年代から70年代にかけては、世界は共産主義の方へと傾いていた。そうした過去の事例と比較して、今の状況はどうなのだろう。
そもそも「自由主義」と一言であらわしたとき、それは具体的にどのようなものを指しているのか──と様々な歴史的経緯を踏まえ土台を固めながら「幻滅」というキーワードを広げ・深堀りしていき、次第に「仮に自由主義体制が完全に崩壊するとしたら、他のどんなビジョンが自由主義の物語にとってかわるだろうか?」や、「(自由主義に)代替される物語がないとしたら、単一のグローバルな物語という発想自体を捨てるべきなのか?」といったさらにその先の問いかけにたどり着くのである。
そうした問いかけに対して、わかりやすい明快な結論は存在しない。
現時点では、人類はこうした疑問に関して合意に達するには程遠い。人々が古い物語への信頼を失ったものの、新しい物語はまだ採用していない。幻滅と怒りに満ちた虚無的な時期に、私たちは依然としてある。では、次にどうすればいいのか? 最初のステップは、破滅の予言を抑え込み、パニックモードから当惑へと切り替えることだろう。パニックは傲慢の一形態だ。それは、私はいったい世界がどこへ向かっているか承知している(下へと向かっているのだ)という、うぬぼれた感覚に由来する。当惑はもっと謙虚で、したがって、もっと先見の明がある。「この世の終わりがやって来る!」と叫びながら通りを駆けていきたくなったら、こう自分に言い聞かせてみてほしい。「いや、そうではない。本当は、この世の中で何が起こっているのか、どうしても理解できないのだ」と。
我々は難しい現代の諸問題について、わかったつもりをするのではなく、しっかりと座り込んで当惑すべきなのだろう。理解できないことをしっかりと「なぜ、まだ理解できないのか」と理解すべきなのだろう。こうやってハラリが描き出していく明快な歴史認識や論理、現状認識については賛同できない側面もあるが、明確であるがゆえに反論もしやすく、それ自体が(考えるきっかけになるので)また価値でもある。
SFについて
SFファン的に興味深いのはSFについての章があることである。実はハラリはけっこうSFについて言及していて、『21世紀初頭における最も重要な芸術のジャンルは、SFかもしれない。』と言及していたりもする。フィクションに言及するのはハラリの「虚構の操作能力が人間を今の地位に押し上げた」とする主張からすれば必然的に感じられるが、ではなぜ中でも特別にSFが重要なのだろうか。
それは我々人間は未来の出来事を知ったり予測しようとする時にフィクションを通すことが多いからというシンプルな理由だ。ただ、ハラリは本書のSFについての章の中で無条件にSFを賛美しているわけではない。重要であればこそ間違ったメッセージを発す作品については否定的な見解を持っている。たとえば「エクス・マキナ」という女性型のロボットと恋に落ちる研究者についてのSF映画については、生物的な特徴である性をAIに実装する必要なんかどこにもないしAIの描き方が明らかに間違っているし、知能と意識を混同している映画ってたくさんあるよなと否定的だ。
実は批判されているのはSF映画としては超大人気作の「マトリックス」もだ。何が批判されているのかというと、あの映画の「幸福な夢をみせる偽りの世界とは別に、辿り着くべき真実の世界があるのだ」という構造そのものである(なので、「トゥルーマン・ショー」も攻撃されている)。というのも、実際には、テクノロジーの支配から逃れて真の自分を取り戻せる「ここではないどこか」など存在しないからだ。
現実には「真実の世界」などどこにもない。我々はすでに現実をフィクションとして解釈する脳の中に閉じ込められているのであって、虚構の中から逃れることはできない。『あなたがマトリックスを脱出したときに発見するのは、さらに大きなマトリックスだけだ。』。実はそういう今我々が直面している現実をすでに描いているSFがあるんだよなーといってオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の解説をして本章は幕を閉じる。ハクスリーが描き出したのはマトリックス的な世界への脱出ではなく、そこに脱出することはできないのだという諦念だから、それはそうだろう。
- 作者:オルダス・ハクスリー
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2017/01/07
- メディア: 文庫
おわりに
本書ではこのあと、第一部でテクノロジーに関連した社会の難題(労働や自由)を取り扱った後、第二部では考えうる多様な対応を考察していく(AIを用いて人間の自由と平等を保護するグローバルなコミュニティを創り出せるか、など)。
第三部ではテロの脅威やグローバルな戦争の危険に対して何ができるか、第四部は抽象度を増し、悪行と正義をどこまで区別できるかなど相互に関連し合った多様なテーマを追求していくことになる。21という数字にほぼ意味はあないので数合わせの章があるだろうなと思っていたが、たとえば労働の章では今後アルゴリズムに権限を移行する流れは避けられないとして、その時に問題になるのは「自由」である──と自由の章につながっていくので、(意外と)きっちり相互に関係しているのも好印象。