基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

Neptune's Brood by CharlesStross

 チャールズ・ストロスによる長編スペースオペラ。相変わらず時代はずっと先で、人間はsoulをチップに入れバックアップをとることができ、当然ながらsoulだけを情報として別の場所に送ることもでき、銀河系全体に人類が広がっているおかげで経済の仕組み自体も大きく変わっている。そりゃまあそうだろうなあ。まあようは我々が知っている現代とも、ちょっと先の未来とも全然違う、未来世界だ

 語り手のKrinaは姉であるAnaを最初、自身の就職活動の為探している。Anaを就活で頼りにしていたのに、突如連絡がとれなくなったので、情報を集めに彼女の行方が知れなくなった場所まで、まずは移動することにしたのだ。カネがないがなんとか潜り込んだ宇宙船で今度はなぜか自身を目的とした海賊船に遭遇してしまい、Krinaは大変な事態へ巻き込まれていく……というのがおおまかなあらすじ。

 もちろんチャールズ・ストロスの長編なので中身はハードな未来描写が渦巻いている。KrinaとAnaは同一の情報を元にしたメタヒューマンであるし、人間(といっていいのかどうかよくわからないが)はその身体を水性生物にでもなんにでも換装することができる。元々からして宇宙空間や海底でも活動できるように身体を徹底的にリ・クリエイションされていて、そもそもバックアップがいるので死に対しての観念が現代人とはまったく異なる。

 まったくことなる状況、まったくことなる前提へと想像力を飛躍させることで、さまざまな情念を発動させるのがSFの一つの醍醐味ではあるが、ここまで現代人と隔たっているとなかなか入り込むのも難しかったりする。その突き放しっぷりがまた、魅力ではあるのだけれども。ただノーフォローかといえば、時折みせる普通の人間的感情だったり、ずっと未来の話のはずなのにやけに現代っぽい喩え話などはちゃんとなされている。*1

 ただ舞台設定がいろいろと作りこまれている反面(もっとも宇宙船が飛んでいる仕組みとかほとんど説明されない部分との楽さが大きいのだが)、中で展開されるプロット自体は宝探し、人探し、突如襲ってくる宇宙海賊、となんだか昔ながらのスペース・オペラだね〜〜と言いたくなるようなシンプルさ、わかりやすさ。これはまあ、ストロスぐらいごてごてと世界設定への描写に重きをおくと、プロット自体はシンプルな方が良いのかもしれない。これでプロットまで複雑だとついていけない。

Slow money

 主人公であるKrinaからして、経済学史の研究者であることからもわかるように、本書で中心をなす要素は経済である。光速で一年以上隔たった惑星間にいる人間同士による経済活動はどのように可能か、というストロスが考えだしたアイディアが中心になっていく。そういえば僕が読んできたあまり多くはないスペースオペラでは、ワープ航法があったり、極度に離れた場所までは利ざやを稼ぐ宇宙の運び屋がいたりして、深く考えている作品をみたことがない。

 それではいったい全体どうやってストロスはそれを解決する方法を考えたのか? まずこの世界ではお金を3つの分類にわけて考えられている。fast moneyはその名前の通り、手早く決済が可能な「現金」のこと。medium moneyが土地や株などのように、すぐには変えられない「資産」のこと。ここまではわかりやすい、現代にもあるものだ。しかしもし惑星間で、10年も経って家や土地を換金しようとしたら価値が極端に変動してしまってまっとうな取引なんかできっこないだろう。

 そもそも10年も経ったら実際のブツが消失していてもおかしくはない。取引が完了しましたー、げえ、家がない! あ、取引はなかったことにしてくれ……なんてことになったら誰も取引なんてしないだろう。そこで最後に、これを解決するために本書オリジナルの概念としてslow moneyというものがでてくる。これはようは金のやりとりに強制的に数年を要する決済方法で、確実にその支払処理が実行されるように第三者の星系による銀行機関によって保証されるような仕組みになっている。

 たとえば別星系において僕があなたのsoul copyを労働者として、10年単位で雇ったとする。その場合支払いはSlow moneyで行われ、これは第三者の銀行機関に保証される。金のやりとりは銀行を介在して行われる。最初に金を受け取る時に、一度受け取ったものにサインをして保証をしてくれた銀行機関に送り返し、その認証が通って初めてアクティベーションされるのだ。

 これらはすべて遠く離れた惑星間を通してやりとり、往復されるために、必然的に換金されるまでに数年を要する。この取引の遅さがあるせいで、slow moneyという呼称になっている。七面倒臭いシステムだが取引が終わってみたらもうその物はなかった! なんて自体にはならないのだからこれはこれで必要なことなのだろう。

壊れやすい身体、ひとつの惑星に縛られた人類

 ストロスの作品はぶっちゃけハードSFにありがちな、テクノロジーの描写に傾注してしまったあまりに、キャラクタの魅力が全然なかったり、プロット自体があんまり惹かれるものではないという非常に残念な欠陥を抱えていると思う。それにギャグでやっているのかまじめにやっているのかよくわからない頓珍漢な描写があったりして(僕の読解力の問題かもしれないが)とても全部が好きにはなれない。

 全部が好きにはなれないのだが、それはそれとして、こうやって果敢に何百何千年も先の未来を描いてやるぜ、人間を全く別の生命体につくりかえて、その全く別の生命体とかした人間が織りなす社会を書いてやるぜ、壊れやすい人間を克服し、一つだけの惑星に縛られていた人類を超越し、遠くまで広がっていった世界を書いてやるんだ、っていう意気込みとアイディアの奔流は毎度楽しくて、今どきこんな楽観的な、宇宙に広がっていく人類像を書く人間もなかなかいないだろう。

 イーガンほど人間離れさせない、ストロスの間合いがあるんだよね。本作もその独特の間合いが十全に発揮された、良い長編だった。

Neptune's Brood

Neptune's Brood

*1:あるいはそれは読者に最低限でも合わせるために日和った描写といういいかたもできてしまうものかもしれないが。

Ancillary Justice by AnnLeckie

いやーこれは面白かった。Kindle版がなかったから仕方なくペーパーバックでお風呂のお供にしてふやふやになるまでじりじりと読んだけど正解だった。先日こんな記事を書いたが⇒A Calculated Life by Anne Charnock - 基本読書 The Kitschies Golden Tentacle という賞を、『A calculated life』と『Ancillary Justice』は共にノミネートされており、これを受賞したのが本作『Ancillary Justice』になる。賞についてはよく知らないんだけど、どうもデビュー作限定の賞っぽいね。

先日円城塔氏がフィリップKディック賞の特別賞を受賞していたが円城塔さん、米SF文学賞特別賞を受賞:朝日新聞デジタル 『Ancillary Justice』も『A calculated life』も、候補作だった。円城塔氏の作品も含めて、この三作しか読んでいないけれど受賞はなっとくかな。『A calculated life』は面白いがすっきりまとまった良書で、『Ancillary Justice』はこれまた面白いんだけど三部作のうちの第一部という扱いなので一冊の完成度で考えると円城塔氏の作品がやはり飛び抜けている。

話を戻そう。From Nebula and Arthur C. Clarke Award nominated ということでノミネートされた賞の数だけでも、全般的に評価の高い一冊であることが窺える。ジャンルとしてはスペースオペラに近いのかな。遠方の惑星で独自の文化を発展させている帝国が舞台で、千を超える兵士の死体をリンクさせた人工知能で巨大なスターシップだったりいくつもの個体を持っている人工知能が一貫して語り手として登場する。

技法的なユニークさ

小説技術的にユニークなのが、人工知能で個体をいくつも従えているので全く別々の場所で同時進行していることを一人称視点なのに、三人称視点のように同時に見ることが出来るんだよね。

これには著者も自覚的で、ペーパーバック版の最後にはInterviewも収録されているんだけど真っ先にこのbreqというキャラクタの特異性に触れている。複数の場所で、複数の物語が進行する形式を適切に表現することが難しかったが、このやり方なら複数の事象を感情的に語らせることができるので非常にマッチしたのだという。複数の場所で事件が進行しつつそれが合流していくときのどきどき感はたしかに今まで味わったことがないもので、それだけでも読んだ価値が会ったと思うぐらい。*1

最終的にBreqはいくつもの個体と繋がっている状態を捨てざるを得なくなり、たったひとつの人間の身体をかかえて復讐の鬼と化す。復讐の相手はかつての自分と同様に、たくさんの身体を持ち、ほとんど不死であり、帝国の王なのだ。この絶望感! それだけでこの復讐劇の面白さもわかろうというもの。Breqが「私の目的はあいつを殺すことだ」といったときの、その絶望感。「無理だよ、だって相手は千体以上の個体を持ってるんだよ? 殺し尽くすなんて不可能だ」という常識的な反論さえも抑止力にならない復讐の炎!

しかし帝国の独裁者が何人もいてしかも死なないのだったら、有能である場合には、これって実にいいシステムだと思うなあ。ようは独裁者の問題点というのは、ほとんど後継者問題なのだ。いかに優秀なリーダーが一代にして改革を成し遂げても、その後継者がダメなやつだったら後に続かないという。だからこそマシな、平均的な手段として民主主義が産まれてきたのであって、死なない上に個体が千を超える数いれば市政にばらまいて声を聞くこともできるし良いシステムになりえる可能性がある。

大量虐殺をするひどい国ではあるのだから前提である「独裁者が有能であれば」というところは既に崩れていて、しかも複数体の人工知能をつかった全体監視システムを創りあげられるのだから何もかも終わってるんだけど。単なる絶望的に古臭い世界なのかといえばそういうわけでもなく、後に書くがジェンダーの区別がほとんどされていなかったりと先進的な面もみせる魅力的な国でもある。

舞台について

Radchという帝国が主な舞台になる。帝国であるから上に独裁的なトップがおり、近隣を縦横無尽に征服していく。古代ローマなどを参考にしたとInterviewでは語っているが、まさにそんなかんじ。人工知能にはいくつもの身体がリンクされているとさっき書いたが、そうした身体の元はこうした征服した場所におり奴隷化したやつらを空っぽにしたあとにつかっているようだ。本書のプロットには主に2つの軸があって、それらが十数ページごとに交互に書かれていくのだけど、1つめがこの征服中、複数体からなる人工知能が一体にまで減少して復讐を誓うようになるまでの物語である。

もう一個の軸が、いざ復讐を誓った(個体化してしまった)Breqの復讐の物語になって、後半でプロットは結合する。数千の人工知能体から個体への変異の過程が劇的で、アイデンティティに悩む人工知能の物語であり、面白いポイントだ。基本的には全部の個体は同じように感じ、同じように反応する。IとはWEのことであり、その逆も又然り。そのはずなんだけど身体自体は別々だから次第に考え方や反応が異なってきて、I=WEとは自明のものなのだろうか? と違和感に悩み、全体の意志と個々の意志がちぐはぐな状態になってくる。

意識と身体は分けられるものだろうか?

これはそのまま「私とはいったいなんなのだろうか」という個人のアイデンティティをめぐる問題に直結してくる。これはSFでは珍しい問いかけではない。が、問いかけている対象がただの人工知能ではなく、いくつもの身体を有する人工知能であると話は別だ。本書の宣伝文句にも使われているSF作家のJohn Scalziは自身のレビューの中でこの点について特にくいついている。The Big Idea: Ann Leckie | Whatever

John Scalziの主張は明確で、ようは人間の身体と精神は不可分のものなのであるというものだ。これはある人が意識だけを別の人にうつして、うんうん、あそこに自分がいるぞ! と冷静に認識して、また元に戻して……ということは不可能だとする考えになる。まあ、わからなくはない。我々の感覚、認識、趣味趣向はすべて身体の影響を受けて、生物学的な脳と直結して、そこからの反応で意識的なものが産まれているから、それらを容易に切り離せると言われても「そうかなあ?」としかいいようがない

その問いかけ自体はJohn Scalziが思いついた時点で唯一の物ではなかったが、しかしもっとも基本的な問いかけの一つだったと書いている。『These weren’t the only things I came up with, when I asked myself what about this story interested me. But it was one of the first, one of the most basic questions. 』 身体と意識が別物なのではなく、一体化しているものなのだという主張派の、本作は面白い回答の一つだと思う。「身体」、というよりかはその個体が経験してきた各種事項によって「区別」が生まれ、「わたしたち」とは異なる「わたし」が生まれてしまったわけだから。

このことに気がついていく、テーマ性とプロットが相互に関連しあって盛り上がっていくクライマックスは見事の一言だ。デビュー作とは思えないぐらい技巧的なんだよなあ。

ジェンダーについて

この小説にHeは一度も出てこなかったと思う。人間はすべてSheとして表現されている。それは男がいない世界だからというよりかは、性別は常に曖昧なものとして表現されているからだ。性行為抜きで繁殖することができるが、性行為自体はジェンダーに関係がなく行われている。これ、全てsheだからといって性別がまったくないということではなさそうで、maleだと告白したキャラクタに対してもsheの人称が使われる。あんまり英語が得意じゃないから最初意味がよくわからなかったよ。あれ、こいつは男なんだっけ? 女なんだっけ?? と。

このように小説を読むときに男だか女だかといったことは常に意識させられてしまうものだが、本作ではそれをあえて外しにかかっている。たとえば最初、雪の中からSeivardenをBreqが救出する。もちろんSeivardenは女性であるべきだし、Breqはそれを救うヒーロー、男性であるべきだと、これまでの物語の文脈からすれば、誰もがそう思うはずだ。しかしBreqはSheと呼称されるし、Seivarden はその後自分はmaleだと告白する(しかし人称は一貫してShe)。

この奇妙な性別における表現は強い違和感となって残る。実際の性別がよくわからなくて小骨が刺さったような嫌な感じが残るのだが、読者とのフォーラムの中で各キャラクタの生物学上の性別について著者自身から答えが出されているので興味があれば見るがよろしい。⇒Author Ann Leckie is here to talk to you about Ancillary Justice ただし、Breqのような複合的な人工知性体からの派生は当然ながら性別という概念は持たないし、そもそも社会的に性別の区別をつけないので「あまり深く追究しない」のが本来の読み方なのだろう。

ジェンダーの不鮮明さからそれが恋愛モノに陥らずに信頼関係だか、擬似的な恋愛関係だかよくわからないところにとどまっている奇妙さもまたよかった。性別における区別がまったくない世界というのを、人称を統一することだけで強烈に表現しているのだからよく考えたものだ。とにかく旧来からの役割と性別の感覚を持ったまま読み進めると不思議な読書感覚を味わうことになるだろう。

こうした不可解な事象、違和感をもたらす視点、認識が次第に「そういうものもありかな」と新たな視点として自分の中に定着していくのは、『闇の左手』なんかでル・グインが試みた一種のジェンダーSFとしての感覚に近いものがある。性差別に関しては日本はまだまだ後進国だが、アメリカでも十全の状況ではない。本当に性別の区別がなくなった社会、誰しもがそうしたことを気にしない社会とはどういうものなのかを、本作は端的に教えてくれる。

Ancillary Justice (Imperial Radch)

Ancillary Justice (Imperial Radch)

翻訳版でたよ〜
叛逆航路 (創元SF文庫)

叛逆航路 (創元SF文庫)

*1:まあそのせいで人工知能の癖にやけに感情たっぷりな人間としてのキャラクタになってしまったがその辺にも一応理由付けはされている。

A Calculated Life by Anne Charnock

Anne CharnockによるSF小説。21世紀後半、主に遺伝子工学が発展した世界での人造人間とその世界自体を描いていく。著者はNew Scientist, The Guardian, Financial Times, International Herald Tribune and Geographical,といったそうそうたる媒体で書いてきた科学ジャーナリスト

文章もそうした経歴を反映しているのか、正確さを基調としたしっかりと事実を積み上げていく描写のテンポが心地よく、ロジカルな人間として設計されている主人公によくマッチした文章だ。Philip K. Dick Award 2013、The Kitschies Golden Tentacle (Debut) 2013にノミネートされており、デビュー作にして評価も高い。

昨今売れに売れているというHe's a clever son of a bitch『The Martian』 by AndyWeir - 基本読書などと同じく本作も元はKindleDirectPublishing(要は個人出版のこと)で出され、後に出版社に見出され再出版されている作品になる。日本でもKDP発から出版社に拾われた作家が次々と誕生しているところだけど、アメリカだとこの流れが加速しているようだ。

結局のところ、まだそれだけ出版社そのものの力があるということなのだろう。それが編集によるものなのか、全体へ紙を届けられることなのか、宣伝力によるものなのか(まあこれが大きいだろう)、細々とした雑用をやってくれるアシスタント的な役割を求められているのか、そうしたものを全部ひっくるめた力が。思えばKDP発で「書評家の年間ベストに入った」とか「出版社に拾われた」とかは聞くけど、全部これまでの流れを含むところへ「吸収」された話ばっかりで、まだ会社組織の力はなくなってはいないようだ。

話を元に戻そう。どんな話か。まずディストピア小説に分類されるだろう。遺伝子工学が大いに発展した21世紀の後半。ヒロインであり主軸となるJaynaはロンドンで働く分析統計学者である。彼女は数字の扱いに非常に長けているが、それもsimulant(模擬物質と訳で出ているが、そもそも模擬物質がなんなのかよくわからん)で、計算能力を目的としてロジカルな人間として人造的に作られたsemi-robot-humanだからだ。

彼ら彼女らはひとつの場所に集められ、生みの親である企業からリース契約でその能力を活かすように規定され、生かされている。監視はされていないが、給料はなし、毎日決まった時間に出社し、仕事をし、帰り、夜の八時には寝る。性欲や普段の行動を外れるようなアクティブなものは匂いによって制限されているが、彼女たちはその事実を知らない。日々のイベントは極めて精緻にコントロール、ルーチンワーク化されており、彼女たちは自分たちがコントロールされていることを強く意識することもなく日々を過ごしている。

彼女は単に数字に強いというだけではなく、数字間に存在する隠された関係性を見抜く力が飛び抜けている(北東からの風と犯罪率の有意な相関を見つけるなど)。その為所属企業でも優れた統計学者としてスタープレイヤー的に扱われていたが、ある時その優秀さ故に、もっと正確な予測をする為には、社会そのものである個人個人のことをもっと知らなければならないと考えるようになる。

ランダムネスを取り入れたルーチンワークを意図的に設定し、実行すること。未知の体験と彼女の能力、その相互作用によって、ルーチンワークから抜けだした彼女は自分が今まで見たこともなかった人間社会の複雑さ、会社の陰謀、自分たちの状況の異常さなどに気が付かされていくことになる。しかし非常に単純な環境下で動作するように設計された彼女たちはそうしたランダムネスが横溢する状況に関しては重大な欠陥もあって……。そこからの脱出がメインプロットだ。

生活の描写を丹念に行いながら、ゆっくりとした立ち上がりで語られていく物語は、プロットそのものよりも彼女自身が次第に感じていく人間世界その物への感触や、今までルーチンワークの中からいっさい外れたことがなかった無機的な人間が、ランダムなイベントが次々と起こる世界へと踏み出していく興奮、未来世界そのものを書くことへ注力しているように感じられる。

これは何もよくありがちな、人間とは違う存在(ロボットとか)に人間の感覚を理解させて涙を流させるような、まったく違う存在に人間の感覚を押し付けるアホな演出とは違って、「半人間」としての存在が自身と、それ以外との違いを明確に見極めていく過程にほかならない。たとえば自身に明確な両親がいないこと、子供時代というものがないことを、実際の子供と親を見ていくことで実感として埋めていく。

しかしそれは「そうしたものが欲しかった」という羨望になるのではなく、「それは私にはないな」という自己認識へと繋がっていくだけだ。元からしてクールに設計されているのである。そうしたクールな感覚は明確に「そういう存在」なのだと、異質さを際立たせる。また彼女が自分自身の抑圧された環境に気が付き、その謎に抵抗し自身の境界を広めていく過程がそのままディストピア世界の描写へとダイレクトにつながっていて演出として非常にうまい。

本作では、社会との戦いなどはほとんど書かれない。ここにあるのは実に地味な個人的な自由と、あらかじめ決定された境界線の中でいかに生きるかという考え方の前進の話である。そこには内面的な喜びと、葛藤があるけれど、その丹念な描写がとても楽しい。極々丁寧にsemi-roboからの実感と社会を書いた一作としてまとまっている。逆にいえばまとまりすぎていて物足りない部分もあるのだが(200ページしか無いし)、まだデビュー作だ。

これから先キャリアを積み重ねていく上で長大な物語を本書のレベルで制御する能力が備わってきた時の作品は、とんでもない傑作になるだろう。

semi-roboの人生、ディストピアな世界

この時代、人間と非人間の違いは非常に曖昧になっている。Jaynaのように半人間が当然存在している。そして生身の人間も遺伝子工学によって変質を遂げ、産まれた時からneural implants によって変更を加えられ、その後も継続し続ける。より生産的に、より有能に。だがその代償として人間社会から行き過ぎた煙草や酒、薬といった道楽や、反社会的な傾向、暴力的な衝動などは制限されるようになっている。

"Look how safe it is for everyone now: hardly any crime. You've all been liberated" .

面白かったのがこれが「徹底的な悪」としては描かれていないところ。無論恐ろしい助教ではある。しかし彼女たちはそうした世界に、嫌でも生きているのであって、そして実際のところ、これは我々の社会の延長線上のものなのだ。暗い雰囲気がありながらもそこには子供がすくすくと育っていて、犯罪は減少し、より安全になっている。その代償として監視社会化、人間の無力化はどんどん進んでいる。

でもそれが「当たり前」になってしまうと、声を荒らげてやめろという反抗精神もうまれなくなる。「産まれた時から犯罪傾向を抑制されている」そう言われたって、「そんな産まれた瞬間にされたことなんか知らないよ」というわけだ。自分が今まで持ってきた感覚は「当たり前」で、それが実はおかしいのだと言われても、反抗すべきことだとも思わない。

そうした状況を「普通の人間枠」から外れた人工人間から指摘されるのだから皮肉もきいている。いずれ人間は人間以外の存在からお前らはいったいなんなのかといったことを問いかけられるはめになるだろう。人間を真に客観的に見れるのは、同等の能力を持った「別の」何かだろうから。いくつかこうした「人工知能」系を読んできたが、特に最近のものは人間を客観的に見れる存在として描かれていく傾向があるように思う。

今までロボット、人工知能といえばチューリングテストを代表とするように「人間を模倣するもの」「人間を代替するもの」としての役割が強かったが、今はその軸足を「ロボットや人工知能ならではの思考とは何か」といった方向の描写へうつっているというか。人間の感情を機械にもたせることを「是」とするのではなく、機械知性とは何か、機械が自律的に動き、自己を規定するようになるとしたらそれは何なのかが問われている。

ようするに自分たちの物語を語り始めているのだ。本作もある意味ではそうした話だ。成り立ちの違う人間として、彼女たちは自分をどう規定していくのか、どう規定するのを是とするのか。これはそうした「新たなる普通」の創出の物語であるといえよう。一方日本では神林長平が「未来のロボット達の聖書となるような」物語、超弩級の傑作を既に『膚の下』で書き上げているのだが……それはまた別のお話。

A Calculated Life

A Calculated Life

こんなようなレビューをいっぱい書いた本を出しました。
冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

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ロボットと未来について

Immigrants from the future | The Economist
New roles for technology: Rise of the robots | The Economist

ロボット産業についての話で面白い記事だった。ロボットというのは人間が行けない場所にいったり、人間にできないことをやらせたり、あるいは肩代わりさせたりといった方法で様々に役に立つ可能性があるが、今のところ自立機動させるにはわりとお馬鹿さんである。

New roles for technology: Rise of the robotsの方の記事では今後こうした状況が変わっていくであろうことについて、デジタルセンサーやシリコンチップによる可能性の増大とは別に3つの原因をあげている。1つは research and development、研究と開発が過去の蓄積とソフトウェアの発展によりもっと簡単に、安価にできるようになっていっているkと。2つめにGoogleAmazonのような企業がRobotics分野へと投資を進めていること、金を集めやすくなっていること(実際は軍事産業が大きいだろうが)。

3つめがイマジネーション。この数年であらゆる場面でロボットの活躍が観られるようになってきてより身近なものになっている。これから先のロボット産業はより人々の生活に身近になっていくし、我々の生活はそれによって楽になるのかもしれないし、仕事を奪われてしまうのかもしれないが、何にせよそれらは生活を一変させてしまうだろう、というのがおおまかな記事の内容である。

金を稼ぐために制作されるロボットのデザインはそのほとんどが多関節ロボットであり、蜘蛛型のロボットだったりピザ型のお家装置ロボットであるが、DARPAロボティクス・チャレンジ(国防高等研究計画局(DARPA)が主催する災害救助用のロボット競技大会である。)ではロボットの形態はそのほとんどが人型であるという。*1

人型に収束していく理由は災害救助用ということで、環境が人型を要請するところにある。ロボットである以上、原発事故のような人間が入り込んでいけない箇所に投入されることが見込まれるが、そこはドアやはしご、バルブといった人間に最適化された環境の中だから、というわけだ。凸凹の道もあるだろうし、消化ホースのような細かい道具を扱わないといけない場合もある。

ロボットのプログラミングは必然的に、人間に最適化された環境の中でいかにして多様な状況の変化に対応するようにオペレーションしていくのかが問題になってくる。人間に集約していく傾向は偶然ではなく、このような指向はある意味ではこれまでサイエンス・フィクションの中で書かれてきたものと同一のものだ──とこの記事ではチャベックが考案した起源としてのロボットからアシモフの創造した労働者としてのロボット、手塚治虫のアトムへと話が続いていく。

でも、どうなんだろうな。

人間に最適化されてきた空間を「ロボットと共存できる空間」に作り変えていく方が今後の課題なんじゃなかろうかとも思う。たとえば福島第一原発の時もロボットが多数投入されていたがこの時ロボット用の作業動線が作られていたら──と思わずにいられない。歴史が技術と人間の相互作用で発展してきたというのであれば、その技術がより人間を支援しやすいように環境の方を変化させていくのは筋の一つだと思うが、どうだろうか。

話をヒューマノイドロボットの方に戻して、ちょっとおもしろかった話。ロボット研究者に話を向けると海外の研究者はロボットに興味をもったきっかけをきかれるとすぐにアシモフと答えるし日本の研究者はアトムだと答えるというが、これはちょっとおもしろかった。しかしアトムもアシモフも今じゃちょっと古いよね。現役世代に聞くとしたら何に成るんだろう。ドラえもんとかガンダムなんだろうか。それ以後だと「誰もに共通の象徴」はなくなってしまう。

東大出身のベンチャーであるSCHAFT社についても触れられている。これ、さきに書いたDARPAから開発資金をもらって開発し、DRCでも見事勝利した企業なのだが、先日Googleに買収されてしまった。Googleは次から次へとロボット関連の企業の買収をはかっているけれども、その最終的な使いみちについてはずっと沈黙を保っている。人工知能への投資も盛んなGoogleで、一体全体何が行われているのか想像も困難だが、10年後の未来は町のいたるところにロボットがいるような未来がきていてもまったくおかしくはない。

だいたい部屋には既にルンバが当たり前のような顔をして居座っているのだから、二十年前はネットがそれほど一般的ではなかったことを今思い返すと信じられないような気がするのと同じレベルで環境が変わっていてもおかしくはないのだろう。Amazonの配達ドローン構想もあるし。⇒Amazon、ドローンでの配送サービス「Prime Air」構想を発表 - ITmedia ニュース

「ロボットは金になる」となればあっという間に市場は開拓され、整備され、「当たり前」になっていく。ソフトウェアは一度創りあげられてしまえばコピー可能でチップについても量産されればそれだけ値段は下がる。そして導入されるべき場所はいくらでもある。ジャーナリストに、農家に……一般家庭においてもルンバが常用されているように、実際ボタンをポンと押せばそれだけで時間がかかったとしても洗濯物を干してくれ取り込んでくれるとなったら、ひとつの革命だろうと思う。

拡張するものとしてのロボット

ほとんどの部分において、ロボットは人間を置き換えるものではない。ロボットは現状を拡張するものだ、とThe Economistの記事では書いている。たとえばSCHAFT社のロボットがいかに優れて人間と同じようにバルブの開け閉めが出来るといっても、それは人間が後ろから操作しているからだ。ルンバも完全に自立して掃除を行うわけではなく、人間の手助けあってこそである。人間はロボットが一人ではそうそう簡単にできないことを、協調して行うようになるだろう。

ロボットと人間の協調といえば、ハリウッドで作られるロボット物の映画はロボットが反逆を起こすものが多い。しかし「good design」によってつくられたロボットであれば、技術への共感を覚える(Especially when helped along by good design, people can be quite empathetic towards technology.)というあたりの話はまんまBEATLESS - 基本読書によって描かれたアナログハックの世界だ。

日本だとロボットといったら恋に落ちるものだからね。見た目が可愛ければそれだけで人はころっと騙される。映画の敵役として出てくるロボットはどれも怜悧な印象を与えるし、恋人になるロボットは当然ながら美少女、美男子の姿をしている。そこに心があるのかないのかに関わらず、見た目によって判断してしまうのが人間の本質的な弱さだ。

2000年代の中頃に行われた人間(プロチーム含む)とコンピュータが入り混じってのチェス大会で、優勝を遂げたのはなんとプロチームでもなく一流のコンピュータプログラマーが作ったチェスソフトでもなく、人間と市販のチェスプログラムの混合チームだったという。人間よりも、ロボットよりも、人間+ロボットが最強だとしたら、いつまでその状況が続くのかはわからないが、しばらくは人間とロボットが協調行動をとっていく光景が観られると思っていいのだろう。

BEATLESS

BEATLESS

SFレビューを集めた本を出したのでよかったらよんでね
冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

*1:例外としてRoboSimianのロボットがあるが、それはここがNASA等の惑星探査ロボット制作を請け負っているからであって人型に拘る理由がないからだ。

Afrofuturism: The World of Black Sci-Fi and Fantasy Culture by YtashaL.Womack

Afrofuturismという言葉があるらしい。知っているだろうか。Afroは髪型のアフロをさしているわけではなく、この場合アフリカ系の、という意味だ。Afro-Americanであるならばアフリカ系アメリカ人、というわけだ。本書の言葉を借りるなら「一般的にいってAfrofuturismとはブラックカルチャーのレンズを通してみた想像可能な未来のことである。」ということになる。

アフリカに限定したものではなく、どちらかといえば多民族的な、価値観を反映させた未来、ファンタジー世界を考えることで未来を想像することそのものの観点のことだ。またややこしい観念であって、日本のセカイ系みたいな一部の胡散臭い批評家が盛り上がっている造語なんじゃないの、とうたぐりながら読み始めたのだけど、思っていた上に関わっている範囲も、人も多い。

で、驚いたんだけどAfrofuturismの専門家とかがいるんだよね(もちろん著者もそうだけど、大学でちゃんと研究している人という意味)。なんとも日本にいるとあまり強く意識されることはないけれど(日本だって単一民族国家じゃないから軋轢はいくらでもあるんだけどさ)、こうして本で一冊がっつりと様々な角度から問題をじっくりと捉えていくと、人種間の溝は未だに根深いのだと再認識させられる。

ついでに著者であるYtashaL.Womackの経歴もざっと紹介しておこう。著述家であり映像作家でありダンサーでありFuturistであるという黒人の女性。公式サイトをみてもこれ以上の情報は何の大学を卒業したかなどしか書いてなくて素性が実際問題よくわからない人だ。⇒Author 

で、Afrofuturismがどうしたの? といえば、内容としては音楽、フェミニストサイエンス・フィクション、それからエイリアンのアブダクションが奴隷制度のメタファーだと語ってみたり、タイムトラベルについてなど、どれもblackやアフリカ系の観点から「どんなAfrofuturismがあるのか」という紹介をしていく一冊になっている。*1映画でいえば多民族共同体を書いたマトリックスのような作品、音楽で言えばサン・ラのアフリカの民族音楽? ものだ。

別に告発的な調子もなく、未来をもっと多民族的な視点で捉えてみようよ、西洋一辺倒じゃなくてさ、という提案の趣きが強い。そうやって未来を想像して、多民族がいることが「普通」の未来を当たり前にしていくことが現在から先へとつながっていくんだからと。言われてみれば未来の物語でも、殆どの場合出てくるのは白人系ばかりで、多民族の視点が得られる物語って比率からいえばそう多くはない(ウィルスミスが一人奮闘しているけど笑)。

ファンタジーでも妖精はほとんどの場合ティンカーベルのような愛らしく真っ白で清楚な感じで描かれる。あまり意識しないまでも自然と「人種の選択」をしてしまっているところもあるわけだ。なぜならそれが「あたりまえ」になってしまっているし、それ以外の「あたりまえ」が我々の視界にあまり入ってくることもないから。たとえばアフリカ発の技術、科学的発見ってほとんど聞いたことがない。アフリカにだって研究者、技術者はいるはずなのに、研究者でもない人の目にはそうした存在はあまり目に入ってこない、そうすると「いない」ことになってしまいかねない。

目に入ってくるものといえばなんだか汚い砂漠だったり常に紛争しているようなニュースだったりで、あまりいい印象もないときたものだ。たかだかテレビのニュースから伝わってくる情報なんてものは、印象がNegativeかPositiveかのどちらかに収束してしまうもので、知らず知らずのうちに世界はそうしたステレオタイプでこりかたまっていってしまうと著者はいう。

まあそれはそうだよね。あんだけ常にフェミニストが燃え上がっているアメリカだってまだまだ女性の権利が完全だとはいえないんだから。ある種の先入観といったやつは、それがあること自体意識に上らないことがほとんどなので対処も難しい。それをまずは「クリエイティブな領域から潜在意識を変えることで」対応しようというのは、考え方として面白いと思った。

The imagination is a tool of resistance.Creating stories with people of color in the future defies the norm. With the power of technorogy and emerging freedoms, black artists have more control over their image than ever before.

Afrofuturism的な観点から創られたSFや音楽といった文化で興味深いのはやはり神秘主義的な部分とテクノロジーが別々の物として存在しているのではなく、融合したものとして書かれていくところだろう。技術や人間性といったテーマが太陽と、月と、星々と、儀式とがすべて並列に語られ結合されていく。魔術信仰と科学が同時進行するというのはぱっと聞くと違和感があるかもしれない。

が、世界はもともとそのような混沌だったのであって、今もそうなのだともいえる。世界が高校の教科書にあるように「正しく」把握されるのが正しいとは誰も保証することはできないだろう。デカルトの発想もガリレオの発見もすべて当時の錬金術やら間違った医療やら宗教観の中で産まれてきたもので、それらがいかにして彼らの発想に影響を与えたか誰にもわからないのだから。

具体的な作品名とそのあらすじや特色をあげていくだけ、といった側面が強いので本としてそれまで評価が高いわけではないのだけど、まあ概念の一つとして抑えておくぶんにはなかなか面白い本だ。なにしろ類書なんてほとんど存在しないわけだし。以下にはついでなのでAfrofuturismな観点を多少なりとも反映している作品をいくつかあげてみよう。

ヨハネスブルグ出身のライターが書いたSF小説ZOO CITY 【ズー シティ】 by ローレン・ビュークス - 基本読書 ではそういえば主人公は能力持ちになってしまった女性なのだが、その能力は絶対動物とワンセットになっているというアニミズムのような思想が混入されている。この作品のごみごみと技術とか魔術信仰がごちゃまぜに語られているのは確かに面白さのひとつだった。

イランで紙とペンだけで誰も想像もしたことがなかった研究をしていることが事件の発端になる作品もある⇒オービタル・クラウド by 藤井太洋 - 基本読書 たんに南アフリカを舞台にした、というのであればこれは凄い。『ヨハネスブルグの天使たち (Jコレクション)』 - 基本読書 もある。

Afrofuturism: The World of Black Sci-Fi and Fantasy Culture

Afrofuturism: The World of Black Sci-Fi and Fantasy Culture

*1:エイリアンのアブダクションが奴隷制度のメタファーってのはしかし驚く解釈だ。あんまり納得いっていないけど

フラニーとズーイー、訳文を比較してみる

フラニーとズーイ (新潮文庫 サ 5-2) by サリンジャー - 基本読書を久しぶりに読み直して、やはり傑作だと確信を得たが、読んでいて「どうもかつて読んだものと随分違うような気がするなあ」という違和感が常につきまとっていた。訳が違うのだからあたりまえだとはいえ、うどんとそばぐらいに違うような違和感があった。

気になって仕方がなかったので野崎訳をわざわざ買い直して比較してみて、せっかくなので記事にしようと思った。あまり訳文を比較する機会ってないと思うけれど、やってみるとそれぞれの個性が強く出てくるのでおもしろい。次に引用するのはクライマックス部分。ズーイー(ゾーイー)が、妹のフラニーに対して懇懇と語りかけていく場面だ。前者が村上訳で、後者が野崎訳なのでよろしく。

「もうひとつだけ。これでもうおしまいだ。嘘じゃないよ。ただね、君はうちに帰ってきたとき、観客たちの愚劣さについてくそみそにこき下ろしていた。ろくでもない『場違いな』笑い声が五列目の席から聞こえたって。うん、そうだよ、たしかにそのとおりだ。そういうのってほんとにめげちゃうよな。僕もそれに反論はしない。でもね、なおかつ、そいつは君の知ったことじゃないんだよ。君がとやかく言うべきことじゃないんだよ、フラニー。アーティストが関心を払わなくちゃならないのは、ただある種の完璧さを目指すことだ。そしてそれは他のだれでもない、自分自身にとっての完璧さなんだ。他人がどうこうなんて、そんなことを考える権限は君にはないんだ。本当にその通りなんだぜ。そんなことにいちいち頭をつかうべきじゃない。僕の言いたいことはわかるかな?」

以下野崎訳

「あともう一つ。それでおしまいだ。約束するよ。実はだね、きみ、うちに戻ってきたときに、観客の馬鹿さ加減をわあわあ言ってやっつけたろう。特等席から『幼稚な笑い』が聞こえてくるってさ。そりゃその通り。もっともなんだ──たしかに憂鬱なことだよ。そうじゃないとはぼくも言ってやしない。しかしだね、そいつはきみには関係ないことなんだな、本当言うと。きみには関係のないことなんだよ、フラニー。俳優の心掛けるのはただ一つ、ある完璧なものを──他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものを──狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ、絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。分かるだろ、ぼくの言う意味?」

こうして比較して強く実感するのは、村上訳からくるとてつもない「村上春樹っぽさ」だ。たとえば「くそみそにこき下ろしていた」とか「そういうのってほんとにめげちゃうよな」なんてのは、村上春樹が自身のエッセイで書いていてもおかしくないような調子の軽さをはらんでいる。「ある種の」の使い方なんかもそうだ。ある種の──というとき、僕はいつも村上春樹の独特な比喩が始まる前兆のように思えて、村上春樹にまるで関係がない文章でもちょっとした緊張状態に陥ってしまうのだが……、それは余談だった。

権限と権利、野崎訳で多用される「──」など、他にもいろいろ細かいところで語句の選択の違いが非常に面白いが、全体的にいって訳の違いからくる印象を考えると、村上春樹役のズーイーは野崎訳に比べて幾分か軟派な人格を備えているように思えてくる。野崎訳は幾分硬いし、文の切れ目が特徴的なところがある。「とにかく、本当の意味では、ないんだ。」という文の区切り方を最初に野崎訳で読んだ時、その区切り方になんだかよくわからない衝撃を受けたものだった。

さて、たしかに違いがあるが、訳者ごとに出てくる当たり前の違いのようにも思う。翻訳教室という本で、たしか柴田元幸さんの訳と村上春樹さんの訳したポール・オースターの短編が載っていたことがあったが、それも随分と異なるので驚いたものだ。今回の例が特別というわけではなく、訳者が違えばこれぐらい違うのは当たり前だろう、という範囲におさまっているような気はする。

そういえば村上春樹はたしかこの作品にたいして「関西弁で訳したい」というようなことを言っていたと思うが、ソレほどの変更は加えなかったようだ。⇒白水社 : 村上春樹・柴田元幸『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を語る (5/5)

村上 『ナインストーリーズ』はできたらやってみたいなという気持ちはあります。実際にやるかどうかはわからないですが。それから『フラニーとゾーイ』の関西語訳をやってみたいというのは、前々からちらちらと考えてます(笑)。ゾーイの語り口を関西弁でやる(笑)。売れるとは思えないけど。

しかし一体全体関西弁で訳したい英文とはどんなものなのだろうか。村上春樹がこの作品を「なんだぜ」とか「めげちゃうよな」とより軽妙さ、親しみやすさを備えたズーイーにした理由も知りたい。たまたま、というわけでもないのだが手元に原書の『Franny and Zooey』があるのでこちらも参照してみたい。

”One other thing. And that's all. I promise you. But the thing is , you raved and you bitched when you came home about the stupidity of audience. The goddam 'unskilled laughter' coming from the fifth row. And that's right , that's right─God knows it's depressing, I'm not saying it isn't. But that's none of your business, really. That's none of your bisiness, Franny. An artist's only concern is to shoot for some kind of perfection , and on his own terms , not anyone things, I swear to you. Not in any real sense, anyway. You know what I mean?”

こうして読むと野崎訳は随分と原文に忠実だなあと思う。shoot のところなど原文だと特に印象的な部分だが、野崎訳ではここをそのまま「狙うことなんだ」と意味どおりに使っている一方村上訳では「目指すこと」に置き換えられている。狙う、というのは日本語だとちょっとだけ違和感があるな。rightの訳語が権限と権利でわかれているのも興味深い。

'unskilled laughter'という語についても分かれていて、村上訳では「場違いな笑い声」野崎訳では『幼稚な笑い』になっている。幼稚な、という言葉の使い方は妙にそぐわないような違和感があるけれど、unskilledには合っているのかな。そういうところを一箇所一箇所みていくと野崎訳の、原文への忠実さがわかる。熟練の技もまた感じさせるが、遊びの部分は村上春樹訳の方が上だな。

と、こんなかんじで三冊を比較しながら読んでいるので異常に時間がかかる。気になる所、個々の判断のばらつきが非常に面白いが、そもそも原文からして素敵なリズムを持った文章なので心地良い。関西弁で訳したいというのは未だによくわからないが……。ネジ曲がって自分自身随分と生きづらそうなズーイーがそれでもそのネジ曲がったままに妹にたいして、真摯に誠実に話をしていくナイーブさ。

フラニーの自意識が肥大化して、周囲の要請に自分がどう対応していっていいのかわからなくなり右往左往してどうしようもなくなってしまうような鬱屈した感じなどは、関西弁とはどうにもあまり合わないような気がするなあ。とかいろいろ考えるのが愉しい。

日本語に翻訳されるおかげで我々は何パターンものサリンジャーが読めて大変幸福であると思う。生まれが米国で、英語がたとえ最初から読めたとしても、サリンジャーの文章を1パターンしか読めないのだとしたら、それは随分と残念なことだ。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

Franny and Zooey

Franny and Zooey

Privacy is dead『Dragnet Nation』 by JuliaAngwin

日本だとあまり話題になることもないが、privacyの侵害が安全と比べた時にどの程度まで許されるべきものなのかという議論が米国では活発だ。

GoogleのサービスであるGmailはメールの中身を読み取って内容に合わせた広告を出してくるし、検索履歴から滞在時間、クリック率まで全て追跡されている。会員登録は日常的にあらゆるサイトで行われ住所や名前、年齢といった個人情報は他所の企業へ流れていく。企業だけならまだしも国家ぐるみで形態の通話記録やインターネット情報を監視していることまで明らかになってきた。

議論が活発なのは何も、スノーデン氏の告発により国家がインターネットや電話回線の情報収集活動などを積極的に行っていたことが公になったから──というわけでもない(もちろんその一件以来議論は加速しているのだが)。たとえば9.11に代表されるテロとの戦いからセキュリティに関していきすぎだという議論が続いていた。それ以前の問題としてそもそも人は状況をコントロールしたい生き物であるといえる。親が子供の安全を願って子供に様々な対策を講じるように。

本書『Dragnet Nation』はそうした米国のPrivacyを侵略する監視網の各種状況を見渡していきながら、我々はいかにしてそうした状況に対抗していくのかといった「対策の一作」になっている。短くまとまっているし(本文約230頁)すっきりとしたいい本だ。具体例が多いのには辟易するけれども。こうした情報は日本語だとあまりない上に、洋書の方が切迫感があるので、好んで読むことになる。テーマが一部重なっているぐらいだが⇒Who Owns the Future? by Jaron Lanier - 基本読書 とかもオススメ。

何しろ日本ではIT系ジャーナリストとして認知されているはずの佐々木俊尚さんが、Googleが主導するような「トラッキング」情報を提供する代わりに無料でサービスで使用できていることをさして「共犯」関係であるなどとふざけたことを書く有様なのだから。*1、自分でまったく知らないまま自分の行動履歴、個人情報を好き勝手に使用されているような今の状況を肯定するのだとしたらただの「売春」でしかない。

「共犯」などというのは、お互いがお互いのことをある程度知っている状況で使う言葉だろう。少なくとも姿が見えない相手に対して使う言葉ではない。本書ではPrivacyについての現状を、公害の状況に似ていると書いている。ようは、最初は誰もが好き勝手に環境を汚染し続けているが次第にその深刻な危機に気がついていく、「見えない被害」であるがが故に、好き勝手にPrivacyが汚染され続けている状況が今なのだ。

ちょっとだけ、未訳の本なので著者情報についても触れておこう。著者のJulia Angwinは2003年から2013年までThe Wall Street Journalのレポーターをやっていた女性。Privacy調査で2011年のピューリッツァー賞Finalistになり、2010年のGerald Loeb Awardの受賞者でもあるというもとよりその道の専門家であった人のようだ。

本書の価値は現状いかにして我々の情報が抜かれているのかといった状況の把握を別にすれば「個人がいかにしてそこに対して対策を打てるか」に焦点をあてたところにある。対策の話の前にざっと現状の話をしておくと──PRIZMの暴露によって電話はすべて監視下にあることが判明。また私企業は自身らに打ち込まれた登録情報を好きなように売りさばく。著者の調べたところではあるデートマッチングサービスでは個人情報に加えて性癖や薬物の常習癖まで含めて売りさばくのだから大したものだ。

もちろん──双方が同意の上であれば問題ないのだろう。しかしこの双方の同意というのもまた難しい考え方だ。たとえばGoogleはメールの中身を読み取っていますよ、と公になっている今でも(システムが読み込んでいるだけで人間は見ていないと発表しているが……)ほとんどの人がGmailを使っている。だったら「共犯」関係なの? といえば、そうではないだろう。

普段直接的な害を受けないので、煙草の害のように即時何かが変わる、といったものではないため、ほとんどの場合特に意識にのぼるわけでもなく見過ごされているだけだ。Privacyについては殆どの場合何の実害もないのかもしれないが──、個人的には煙草のパッケージのようにトップにでかでかと、どのような情報を収拾しているか載せたほうがいいんじゃないだろうかと思っている。

ただそうした状況でもできることはある、というのが本書の主張。たとえば名前や住所を入れるところに、わざわざ本当の情報を載せる必要もない。坂本太郎さんなんて架空の人物を創りあげて、彼に防波堤となってもらえばいい。他には、携帯を使ったやり取りではSilent Circleと呼ばれる情報を暗号化できるサービスを使うことだってできる。プリペイド携帯を使えば電話会社に重要な個人情報を軒並み渡すこともさけられる。Passwordは単純な物をさけてランダムな配列にして別途1Passwordのようなソフトで管理したり──。

もちろんどれも完璧とは言いがたい。住所なんて人との関係を完全に断つことが不可能な以上、漏れるところからは漏れる。Silent Circle内のSilent Mailというサービスは、国からの要請に従わなければいけない可能性があるとして、セキュリティの安全性をうたった会社として当然の対応ともいえるがサービスを突如終了させてしまった。情報を渡すぐらいならやめてやらあ、ということだろうが、まあそんな状況なわけだ。

Privacy is dead もう諦めるしか無いのか……といえば、個人よりも組織を変えていける可能性もある。営利企業ゆえに、企業の態度はサービスを選ぶ側の意識次第で変わっていくものだ。実際今も米国ではユーザの検索履歴やメール情報をいかなる意味でもプールさせない「安全性」を謳ったサイトがいくつも出てきている。ユーザがGoogleを好むよりそうした安全性を優先させるようになれば、現状はそれだけで変わる。

公害を垂れ流していた企業を「ランキング付きで発表」することで企業に対して環境配慮へのインセンティブを発揮させたように、セキュリティ面での評価指標が重要なものとして用いられるようになるのもそう遠くないように、今のPrivacyへの議論の盛り上がり方とかつての公害や煙草の状況の移り変わりを見ていると思う。煙草吸いが今のような状況にまで追い込まれると30年ほど前にどれだけの人が予測しただろうか。

ちなみに著者のサイト⇒Julia Angwinでは実際にオンライン上で自分の情報を守るためのToolの紹介やDigital Trackingについて米国の情報収集機関である「PRIZM」で誰が何をどうやってどこでやっているのかといった具体的な情報がまとめられていたりする。本の方向性からしてしょうがないが、「個人がいかにして追跡を逃れるか」に終始していて「Privacyを損なわない為の合法的なルール作り」についての分析は浅い本だが、それはまた別の機会にご紹介するとしよう。

Dragnet Nation: A Quest for Privacy, Security, and Freedom in a World of Relentless Surveillance

Dragnet Nation: A Quest for Privacy, Security, and Freedom in a World of Relentless Surveillance

He's a clever son of a bitch『The Martian』 by AndyWeir

いやあ、これは抜群に面白かった。元は著者のAndyWeirによってkdpで個人出版されたものの人気が爆発して最近ちゃんとした出版社から再出版された作品。シンプルながらそのオリジナリティは他の比するものがなく、先がわからないどきどき感と「今自分はかつてないものを読んでいるんだ」という興奮がある。

あらすじを簡単に説明するならば火星有人探査中に強烈な嵐にあって通信断絶、他の乗組員はコンタクトがとれずに軌道上に退避し、火星に一人取り残された植物学者兼エンジニアの男が、火星でSurvivalを実行する「ハードSF」。この「ハードSF」という部分が肝だ。作中では自分が生き延びるために必要なカロリー計算と、それに見合うだけのポテトの栽培、それに必要な水をなんとかして得なければならぬ、と次から次へと難題が降ってきてその科学的解決が「生存戦略ー!!」とばかりに必死に行われていく様はまさに「知的格闘技」だ。圧倒的な現実の不利を知識と思考によって強引にねじふせていく。

369ページの本作だがその中で何度も主人公のMark Watneyは死にかけることになる。当たり前だ。大気は希薄、あってもほとんど二酸化炭素。土壌は食物を育てられる環境ではない、使えるエネルギーといえば太陽があるぐらい。人間は火星で生きていくようにはできていない。環境のありとあらゆる場面がMarkにとっては致死的なダメージとなりえる。もちろん生存に絶対不可欠な酸素ジェネレーターや当面の食料などの生存に不可欠な物がひと通りは揃っているわけだが、本作においてほとんど唯一の御都合主義はそこにしかない(なきゃ即死だ)。

しかも火星に一人取り残された彼を生きているとは地球の誰も思っておらず、次に火星探査が行われるのは予定では4年後、Markが一人取り残された場所から3200㎞も離れたところで──。絶対☆絶命というほかない状況だが、Mark Watneyは状況を一つ一つ確認していって、このままじゃ間違いなく俺は死ぬが、かといってやれることがないわけではない。植物学者としての意地をみせてやろう、火星で生き延びてみせる……といって覚悟をきめてみせる。

そうやって「いかにして生き延びるか」の思考を開始するときの「きたーーーー」感はなかなか味わえるものではない。それは「主人公の決めた覚悟の凄さ」だけに盛り上がるのではなく、火星で一人の人間を生き延びさせる科学的な道理を考えてみせようと宣言してみせた「作者」の覚悟に、メタ的な盛り上がりが追加されているのである。だって、普通ありえないでしょう、火星で人が一人、しかも人類生存環境に整えられてもいない荒野で生きていく覚悟を決めるって。

その後は問題を科学的に解決し、地球へ帰還するその日に向かって歩みを進めていくが、この科学的な努力がそのままプロット、物語の原動力になっていく。

ハードSF

そう、この作品、ハードSFなのだ。ハードSFとは何かといえば、大雑把にいってしまえば架空の出来事を、出来る限り科学的に理屈を持ったこととして書くような形式のことだ。つまり火星で、Mark Watneyはなんとかして生き延びようとするが、地球から支援を送ろうにも時と場合によるのだが200日程度どうしてもかかってしまう。人間は飲まず食わずでは200日は生きられないから、まず食料を生産しなければならない。そうした不可能的な状況をあくまでも科学的に解決していこうとするのが、「火星でのSurvival」というある意味使い古されたテーマを現代に刷新させている大きな要素だ。

面白かったのが、現実とさえリンクさせて、全力で解決をはかっていくところ。とにかくどんな手段を使っても、存在するものはいくらでもつかって生存を目指す。火星にいまだ人類は足を踏み入れていないけれど、無人探査機なら何度も送り込んでいる。過去にたいした活躍もせぬまま行動を停止してしまった無人探査機などもいて、場所もわかっている。本作はそうした無人探査機までも物語に取り込んでみせる。たとえば、マーズ・パスファインダー - Wikipediaとか。パスファインダーの話が出てきた時にまず思うのは「そこまでやるのか」ということであり、当然そこまで徹底して「火星で生き延びる」ことを行ったのがこの作品なのだ。

そしてその書き方が、また丁寧。クリティカルな生命維持装置ひとつとったって、酸素ジェネレーターと大気から水を生成する装置と複数にわかれているが、その説明が「そういうもんです」で終わらずにどういう仕組で成り立っているのかということを化学の授業か、ってぐらいちゃんと一から機構を説明してくれる。「普段私はSFを読みませんが……」から始まる、しかしあなたの作品は楽しく読めましたというメールをたくさん受け取ったと著者はInterviewで語っているが、コアなファン以外に忌避されることの少なくないハードSFなのに一般まで行き渡っているのはそうした丁寧さからくるものだろう。

逆に言えばハードSFであってもこうした説明の丁寧さと題材に(この題材の時点で革命的なアイディアなのだけど)気を使えばハードSFだとしてもここまでいけるということだろう。

新たなヒーロー観

読んでいて信じられないような盛り上がり方をみせるのが、たったひとりで孤軍奮闘を続けるMark Watneyに、地球側が気がついた視点が入るところからだ。最初ほとんどの部分、Mark Watneyが「自分の苦闘を百年後でもいいから誰かが発見してくれるように」という悲観的な心情からとっているlogの体裁で進んでいく。ところが、途中から地球側の視点が入るのだ。彼らは廃棄されたはずのミッションの跡地で、動くはずがないものが動いていることに気がつく。

当然、騒然となる。NASAはあっけにとられているし、もう三度も人類が火星の土を踏んでいる程度に進展している世界でも、一人の宇宙飛行士の命が失われたことは大きな話題になって、悲しみと共に受け入れられていた。そんな男が実は生きていて、しかも生きるために孤軍奮闘しているというのだから、世界中のメディアがこのネタに飛びつかないはずがない。Mark Watneyの方に交信環境がないため、地球側が気がついたとしても何かの合図を送ることもできない。ただ火星におかれている軌道衛星から取得されてくる情報を元に、彼の状況を計算し、推定し、いかにして彼を助けるのかという国家がかりの対策がとられることになる。世界中のメディアは熱狂し、科学者は全力を尽くす。

何か問題を起こすときに、登場人物を馬鹿にすることで簡単になる。たとえばチェックを怠ったとか、知らなかったでも検討していなかったでもいい。でもこの場合登場人物は宇宙飛行士であり、それを支えるエンジニアである。彼らは世界中でそうした「人間が本来持っているはずのどうしようもなくおこってしまうミス」から最も遠い場所で戦っている人達だ。だからこの人達はミスを絶対に起こさないような仕組みを考える。そんな「プロフェッショナル」の物語でもある。

ちなみにfilm rights(映画化権)も既に買われているようなので(Twentieth Century Fox optioned film rights in 2013*1、数年以内に大画面でみられるようになるかもしれない。映画における観客とは物語に一切関与できない存在であって、火星でサバイバルする男とそれに熱狂する世界人類という構造は映画とその観客に、実によくシンクロすると思う。その構造はもちろん読者と主人公のものでもある。つまり我々はこの作中で書かれる「火星でたったひとり生き延びようと奮闘する男」に心情をシンクロさせるのと同時に(その孤軍奮闘は読者である我々しか知らないのだから)、そこに対して読者の側から働きかけることの出来ない地球側にも強く心情をシンクロさせていくのだ。

解説的背景情報

著者のAndy Weirは本書が商業ではデビュー作。先ほど書いたように元々KDP(KindleDirectPublishing)で出されたもので、KDPで出す前は個人サイトで無料の連載小説として公開していたという。著者自身もInterviewで語っているように、Mark Watneyが一つ一つ思考を推し進めて、「よし、これでもまた少し生き延びられるぞ……」と歩みを進めていく様は先がわからないはらはらどきどき感がある。著者自身この主人公がどういう理屈で生き延びるのか、連載開始の時点では考えていなかった。連載を続けていくと同時に、どんな理屈でなら彼が生き延びることができるのかを発見していく。

And the deeper into the book I got, the more excited I became, because I found that I was arriving at that place writers dream of: I was coming up with plot twists that genuinely surprised me, yet felt totally organic to the situation I’d dreamed up. This allowed me to do what writers treasure more than anything else: *2

著者は元々趣味の小説書きであり、職業は15歳の頃よりプログラマーであり、趣味として軌道力学をやっていますというとんでもない親父だ。これは本作とはあんまり関係がないが、『オービタル・クラウド』の藤井太洋さんもどこから得た知識なのかさっぱりわからないがエンジニア出身であんなテクニカルな物語を産み出すし、プログラマは宇宙に精通しているのかと錯覚してしまいそうになる。

まあ、映画化もされるようだし売れてもいるようだから、しばらく待てば日本語訳されるでしょう。出たらオススメ。※2014年8月28日時点で既に翻訳版がでています。また全く関係ありませんがちなみにこんなようなレビューをたくさん載せている僕のKDP本もあるのでよかったら読んでね。

The Martian: A Novel

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冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

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火星の人 (ハヤカワ文庫SF)

火星の人 (ハヤカワ文庫SF)

Beyond the Rift by PeterWatts

『ブラインドサイト』のピーター・ワッツによる最新短篇集。長編であるブラインドサイトはなかなかの出来だったけれど、短篇集はどうかな、と思ったら、これがまた凄い。長編より短編の方がむしろキレているのではなかろうか。もちろんブラインドサイトの評価が低いわけではないのだけれども。短編ごとに語りも文体もがらっと変えていく。短編としては長いものから短いものまで含めて13編収録されており、最後の1編は読者へ向けられたエッセイになる。

“The Things” “The Island” “The Second Coming of Jasmine Fitzgerald” “A Word for Heathens” “Home” “The Eyes of God” “Flesh Made Word" “Nimbus” “Mayfly” (w/ Derryl Murphy) “Ambassador” “Hillcrest vs. Velikovsky” “Repeating the Past” “A Niche” Essay: “Outro: En Route to Dystopia with an Angry Optimist”

しかし彼が作家として1990年に最初に作品を発表してから24年。彼が発表した短編はたったの18編しかないらしい。短編佳作作家だなあ。それは彼の短編が下手くそで求められないからというわけではなく、一つ一つのアイディアに時間をかけて発酵させ、文体を煮詰めていくといったクォリティの底上げの為の期間だったのだろうと各短編の完成度をみると思う。

そのうちThe Thingsについては最近『遊星からの物体Xの回想』としてSFマガジン誌上で発表されている。島(The Island)と天使(Ambassador)についても同様。ただ、これで邦訳済みは全てなので、未訳作品がほとんどになる。収録されている作品の多くは人工知能や意識についての問いかけを含んだもの、もしくは将来実装されるであろう技術的な展開についての面白い問いかけを含んだSFになっている。

この短編集全体を通してみたときの面白さを表現するのならば、それは技術と、技術が見せる恐怖の融合をまずあげられると思う。もちろんすべての短編がそれをなぞるわけではないが(The thingとかは全然違う)、最先端の技術が示されると同時に、その向かう先はたいていの場合恐怖の形となって現れる。技術はもちろん利点があるから用いられるものだが、演出としてピーターワッツはそれを「ホラー」として扱うことが多い。

たとえばブラインドサイトでも使われている手法だが、異生物を描いていくときに彼が採択したやり方は「わからないもの」として扱うということだった。どこから何が現れるのか分からない。相手が何なのかさっぱりわからない。なんとかしてコミュニケーションをはかり、相手の実態が明らかになっていくにつれて、ホラー的感覚が薄れるのと同時にサイエンス(ありえる異生物とはどんな形なのか)への興奮が現れてくる。

彼が持っているテーマというのは現実に接続されている。たとえばアフガニスタンを舞台にし、テクノロジー面で優勢な勢力が民間人の中にいる戦闘員を攻撃し続けている状況を描いた『Ambassador』のように。この短編は自立的な行動能力を持つ無人兵器を主軸にして描かれる異色作だが、現に起こっている米軍との戦いとそこで進展していた無人兵器が人を殺していく実際の状況を下敷きにしているのは明らかだ。

ピーターワッツとDystopia

彼自身は巻末に納められているエッセイ『OUTTRO: EN ROUTE TO DYSTOPIA WITH THE ANGRY OPTIMIST』の中で、GoogleでPetterWattsを入力すると人間嫌いだとか、dystopianだとかが出てくる、実際はそんなことないんだけど、と書いてみせる。最初の一文はこうだ。『私は実際、かなり陽気な男だ。もっかのところ、みんなはこれを聞くと驚くけれども。』

彼の作風は先に述べたようにあくまでも現実に依拠し、現実的にありえる選択肢を書くものだ。未来についてのもっともらしく見えるビジョンを描くことこそが、science fictionを他のジャンルと識別する為の特徴だと彼はエッセイに書いている。だからこそ彼は出来る限り「ありうること」と読者に認識させるために、フィクションでありながらも科学的に誠実たらんとし、作品を創る。ブラインドサイト by ピーター・ワッツ - 基本読書

しかし──と。それで、僕の書くものがdystopia的になっていっているのだとしたら、──それは現実が、実際にそうなりつつあるのだろうとぬけぬけといってみせる。実に堂々といってくれたものだ。そしてこう続ける。君たちがdystopiaだというそれはまさに現実にあるし、現実の延長戦上にあるのだと。むしろ「dystopiaだとしても、誰もが気がついていない状況」こそが、真のdystopiaなのだとしたら現在はどうだろうか?

気候の大きな変動が目前に控え、ゴミが土地を圧迫しつつある。飛行機に搭乗する際、テロへの警戒は行き過ぎていて頭の中を抜き取らんがごとくだ。米国の監視システム『プリズム』は既に周知の物になり、無人機が人を殺す。今、かつて想像されたようなdystopiaはとっくに現実になっているのに、我々は大して気にもせず、割合幸せに暮らしている。dystopiaはunhappyな状態じゃなかったのか? どうもそうではないらしい。

ピーターワッツが書いているものはあくまでも彼の定義するところのSFでありそれがdystopiaにみえるのだとしたら現実がそうなりつつあるのだというのは、なるほどひとつの面白い意見であろうとも思う。一方で、こうして短編を読んでいくと単にピーターワッツが駆使するホラー演出が結果的にdystopia的な雰囲気を帯びているだけのような気もする。

つまり現実がというよりも彼の話の作り方、要請からきているところが大きいんじゃないかと。もっともこれはdystopia的の現状についての世界認識があり、それを有効活用する為にホラー的手法が生まれたのだとする、鶏と卵どっちが先に生まれたのか問題になってしまうので確かなことはなにもいえないのだけれども。

以下いくつか気になる短編を拾って上に述べたことを簡単に確認していこう。結末に触れているので注意。以下に述べているもの以外で特に面白かったのは『AMBASSADOR』の無人機物(日本語訳あり)。デビュー作である『A NICHE』は著者の専門分野(海洋海洋哺乳類の生物学者)をいかしているが、そこまでではない。むしろこちらの真骨頂は『Starfish』からだろうと思う。

THE EYES OF GOD

たとえば『THE EYES OF GOD』という短編を取り上げてみよう。空港のテロ防止対策が行き過ぎた結果、頭の中の思想までもをチェックできるようになった未来。箱のなかに入って出てきたら一時的に聖人のようになるという素敵さでガーっと機械的にチェックされていく。アウトであれば……『”It knows what evil lurks in the hearts of men”』といって別のところに連れて行かれるが、逮捕されるわけではない。

ヘルメットを被せられ、二日間だけ人に害を与えよう欲望を抑えられるだけだ。それはそれでどうなんだと思わずにはいられない。俺はまだ何もしていないといったところで「どんな犯罪者だって実行に移す前はそうなんだ」としか言われない。まあ、割合定番のテーマではあるか。最近もPSYCHO-PASSというアニメで犯罪係数を測定して逮捕したりしていたし。

結局この問いかけは「倫理的、道徳的に個人の自由はどこまで保証されるべきか」という話になってきてどこかで明確な線が引かれるわけではない問題だ。もちろん人格を変更させるなどというのは問題外だと思うが安全性の為であれば攻撃性を「一時的に」抑えるなどの処置はありえるかもしれない、といったようにその時々の安全性と自由の線引を社会が決め揺れ動かしていくような部分ではなかろうか。

本作はそういう意味では至極単純なギミックと「一人の男が罪もおかしていないのになんか処置を受けさせられたぜファック」という話でしかないが、非常にシンプルな短編なのでギミックの描き方のみに注目した場合はできがいいと思った。

MAYFLY (WITH DERRYL MURPHY)

こちらは意識についての面白いアプローチのある短編。4歳の女の子──jeanがわーぎゃー泣き喚き、あたり構わず殴り散らす。出生時に失われていた脳を置き換えていくプログラムに従事している為、ケーブルが脳に繋がれていて感情が制御不能に陥っている場面からお話が始まる。彼女の感情表現がうまくいっていないのは実は……という謎解きのような構成になっている。「実は……」の部分が明かされるところが、SF的には奇想的なアイディアの表現になっておりミステリ的には驚きの表現であり、構成としておもしろい。

と、そこで説明をやめるのもどうかと思うのでネタばらししてしまうと、「いかにして人工的に意識を創りあげるか」という話である。問題は一から脳をつくりあげたり、コピーしようとしてもうまくいかないところだ。しかし──、gene、つまり遺伝子ならどうだ? 『We cant't build a brain, he said , but the genes can. And genes are a lot simpler to fake than neural nets anyway』serverの中で育てられていた脳の萌芽はjeanの中で成長し置き換えられていき──。

なかなか恐ろしい話である。ホラー風味のが多いなあそういえば。これは最後のエッセイでも書かれていることだが、技術を未来的に追究してしまうと恐怖感を煽るような物になってしまうのかもしれない。『REPEATING THE PAST』とか、体感型残虐ゲームをしきりと繰り返す孫にお説教を解き続ける他は何も起こらないという小説なのだが、最後のオチが「将来にわたってお前を手助けしてやるからね」でようは脳内でお前をずっと教育してやるからなと言っているわけで恐ろしくて仕方がない。

Beyond the Rift

Beyond the Rift

下記のSFマガジンには『遊星からの物体Xの回想』が載っている。原題The Things。遊星からの物体Xという映画にインスパイアされたらしいが映画は未読。Wikipediaを読む限りでは人名も展開もほぼ同一で起こったことを地球にやってきた異生物視点で体験していくものっぽい? 

人間の間に入り込む異生物視点からみることによって「世界観を反転させる」SF的な世界観認識の転倒の面白さに溢れているものの、この作品群の中だと個人的に弱め。つっても人間をバイオマスと捉え次から次へと自身に取り込み融合していくことが「当たり前だ」と認識する生物の思考の流れと描写は練りこまれていて圧巻だ。

こんなようなレビューを大量に載せているKindle本を出したから良かったら読んでね。
冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

Time Warped: Unlocking the Mysteries of Time Perception by Claudia Hammond

ポットのお湯が湧くのを待っているのに、ただその目の前でじーっとしているとほんの数分が永遠のように感じられるものだ。一方でちょっと離れてパソコンの前に座ってメールのチェックでもしようものなら気がついた時にはお湯は沸騰していくらか時間が経っている。特にやることがないときの時間は苦痛でしかないが、愉しいことが次々とやってくる休日はあっという間に過ぎ去って、気がつけばサザエさんが始まっている。子供の時はあんなに一日が長かったのに、いくらか歳を重ねると1年があっという間のように感じられる。

こうした一つ一つの事実に、現在ある程度の答えが与えられつある。たとえば歳をとるほど時間の流れが早くなるのはなぜ? に対する最もシンプルな答えは「四十歳にとって一年は四十分の一だが、八歳にとっての一年は八分の一で、一年に対する重みが違う」からだ(もちろん他にもいくらでも理由はあるが)。実際三分を、時計を見せずに計測させる実験でも、Young Peopleはだいたい3秒のズレが、MiddleAgeだと16秒、60代70代になると40秒も多く見積もってしまう(全部平均)。

A year feels faster at the age of 40 because it's only one fortieth of your life, whereas at the age of eight a year forms a far more significant proportion.

こうしてみていくと、やはり時間というのは客観的な時間は誰にも等しくやってくるにも関わらず主観的には状況によって随分と異なるようだ。つまり早くなる時もあれば、遅く感じる時もある。そして一貫して時間の流れは早く感じられるようになっていく。これは平均的な事実だと思われる(体験的にもそうだし)。

というわけでその人によって異なる主観時間の流れ方について、どのようなものがあり、それに対抗するため、我々にできることは何なのかを教えてくれる時間の心理学が本書『Time Warped』だ。いやはや、しかしこの主観時間の変化っていうのは誰もが日常的に経験していながらも「どういうときに」「なぜ」「どうやって」起こるのかを、まったく解説されることがないであろう不思議なトピックのひとつなので読んでいて「そうだったのか!!」の連続だった。

考えてみれば身近なところに不思議なことっていっぱいあるんだよなあ。ちなみに具体的に、どういう時に時間が遅くなり、早くなるのか。たとえば苦痛に耐えている時の時間は長く引き伸ばされる。これと同様に深い憂鬱状態にあるとき、憂鬱状態でない時に比べて時間間隔は2倍に引き伸ばされるという。極度な恐怖に襲われている時、強い感情に襲われている時(スカイダイビングをしている時とか)、退屈な時に主観的な時間は遅くなる。また精神疾患を抱えている人の時間認識も遅くなるようだ。

いったいぜんたいなんでそんなにころころと時間認識が変わってしまうのかといえば、一つにはドーパミンシステムが関係しているのだという。ドーパミンが増せば増すだけ時間認識も加速していく。「私達は自分の時間認識を自分たちで創りあげている。神経細胞の働きは身体の生理学上の反応およびそれを受容する脳によって基本的に決定されている」とClaudia Hammondはいう。時間は基本的に化学的な要素から成り立っているというわけだ。だからといって主観的な時間認識の重要さがいささかも減るわけではないけれど。

こうした「主観的な時間認識がなぜ常に変化しているのか」とは、別に過去に思いをはせ未来を想像するときにいかに僕らの時間認識が間違いやすいかの話もある。たとえば二ヶ月以上前の個人的なイベントを思い返すときに、六ヶ月前だと思っているのならそれは実際には七ヶ月前の可能性が高い。八年前だと感じているのなら、それは九年前の可能性が高く、逆に2ヶ月前だと思うのならばもっと最近のことである可能性が高い、といったように。

記憶というのは想起されるものというよりかは、毎度毎度思い起こす度に新たに「創りだされる」物だ。その為なのかなんなのか、ある一定以上の期間がおかれることによって時間認識にズレがでてきてしまう。これはもう、どうしようもない事態のようだ。一方で正しい時間間隔へ向けての解決策としては、ある事象に個人的な出来事を結びつけて考えることだという。ある出来事が起こった時に、どこにいて、どんな仕事をしていて、夏だったか冬だったか、といったように一つの出来事にできるだけ多くの情報をひもづけるのだ(You can also look for time-tags; the personal events that tether our memories of the news.)。

このあたりは時間版のダニエル・カーネマン『ファスト&スロー : あなたの意思はどのように決まるか?』 - 基本読書みたいな感じかな。時間に関する人間の本質的な欠点を明らかにし、認識することによってはじめて対処が可能になる。またその機能を明らかにすることによって、コントロールさえも可能になる。

誰にも等しく与えられているのは「時間だ」とはよく言うが、実際にはその時間の運用方法によって「主観時間」が人によって大きく差として現れてきてしまう。たとえばより記憶、思い出として残りやすいのは何かといえば、「はじめての経験」だとか「印象深い経験」だというのは経験的に同意していただけると思う。

だからこそ、みな子供時代のことがより鮮明に思い出せるのだ。はじめての恋、はじめてのセックス、はじめて学校にいった日、はじめて仕事に行った日、はじめて親抜きでいった旅行、なんでもそうだが「はじめて」の経験は実によく記憶に残るものだ。逆にいえば、毎日毎日同じことをしていると後を振り返っても圧縮されてしまって何も残らないに等しい。*1

ゆえにもしあなたが、過去を振り返った時の情報量を増やしたいのならば──まずテレビを観る時間とゲームをする時間を減らそう、と本書ではいう。テレビはつかれていて何もしたくない時に、うってつけの娯楽ではある。しかしそれは一斉に注意をあちこちにそらせ、先ほどの例で言えば「taskが積み上がった状態」に視聴者をさせる。ゲームも同様で、taskだけはいっぱいある。時間だけはあっという間に過ぎていくが、振り返ってみると……ゲームを1000時間、テレビを1000時間見たところで最終的にその時間のどれぐらいを覚えているだろうか。

ただ漫然と道を歩いている時でもいい。いつもと違う場所を見、いつもとちょっと違うところを通ってみる。ちょっとした変化をつけるか、はたまた今までみてきた視点をちょっとずらしてみるか。何にせよ新しいもの、変化を見つけようとする姿勢が記憶の情報量を増すことに繋がるだろう。もちろんまったくテレビを観るなという話でもなく、自分の時間をある程度コントロールしたかったら、それなりに自分で打てる手があるということ。

たとえば、テレビを観る時間を減らすとかして。「the happier the time, the shorter it seems」というようにNon-ScreenActivityでもScreenActivityでも、興じている時の経過速度は等しく早い。が、現在が積み重なっていく主観的な時間間隔と、後から振り返って追想するときの時間間隔はまったく異なるのだ。

時間について普遍的に陥る錯覚、たとえば我々は1ヶ月以上先の予定になると想像がおいつかなくなってしまい、大抵楽観的になってしまう。結果締め切りを設定したりしてとてつもない苦労をするはめになったりする。予定がなんにも立っていないから随分暇なような気がするのだが、実際その日がきてみれば今日と同じように忙しいのだ。本書は時間について、それにどう対抗したらいいのかを教えてくれる。

翻訳が出たらオススメしたい。ちなみに和書だとテーマがだいぶずれるけどこれが面白かった⇒真木悠介『時間の比較社会学 (岩波現代文庫)』 - 基本読書 

Time Warped

Time Warped

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

*1:こうした心理現象を専門用語でReminiscence Bumpと呼ぶ。若いころに記憶の大半があること。

Poor Numbers by MortenJerven

2010年にガーナのStatisticalServicesはGDPの上昇率を60%だと見積もった統計を出してきた。成長率60%ってなんやねん、アホか、どうやったんだと疑問に思うところが、単純に前年までの計算が極度に間違っていたからだ。その後より正確さを増した為、60%もの急成長を果たし低所得国から低所得国の中でも真ん中の国家へと格上げされたことになる(low to lower-middle-income country. )。

それがガーナだけの特殊事態かと思ったら大間違い、アフリカのGDP調査におけるそのお粗末な状況、不正確さ、複数の調査機関で出てくる数字に10%以上開きがある上にランク付けしたものなんて、何から何まで順位がばらばらになっている。そのどれを参照したかで議論がまったく変わってくるなど「実際問題、アフリカにおけるGDPの数字はどの程度正確なのか。そして、なんでそんなことになっているのか」について書かれたのがこのPoor Numbersだ。

GDPとはGross Domestic Productの略で日本語だと国内総生産にあたる。市場で取引された資材とサービスにかかった生産が計上されており、前年度からの伸び率などをみて成長率を出したりする、もっともポピュラーな指標のひとつといっていいだろう。多くの議論がこれを下敷きにするわけなので、この数値がそもそもまるで当てにならないとなったら正しい議論が成り立たなくなることはいうまでもない。

差し出される数値をみていくと唖然とするばかり。調査方法はお粗末極まりなく不確かな情報、エラー要因となるえる方法がとられていることが多い。そもそも市場自体の整備が為されておらず、記録されない取引が多すぎると、調査自体が困難だという事情もある。データがほとんど取得できなかった分野に関しては、人口から値を推測で出したり、似たような状況にあった隣の国の値を流用してみたりするので、値が正確になるはずがない。

またGDPについては基準年(BaseYear)を設定してその価格から総生産を評価しなおしているのだが、基準年が現在と離れすぎると、「技術の進歩が早い分乖離が大きくあてにならない状態」になってしまう。IMFはこの基準年について5年に一度更新するすすめを出している。が、アフリカでの基準年は実質10年以上放置されていることがほとんど。その間に携帯電話普及率があがり自由主義への傾向が加速しグローバル経済の中にアフリカが組み込まれていくといった変化があるのだから10年も前の基準が多くの場合あてにならない。つまりはだいたいにおいて「過小評価」されているといえよう。

ガーナの例で言えば2010年から大幅に成長率があがった前の基準年は1993年だった。実質17年前の基準年を使っていたわけで、これは他のアフリカ諸国も例外ではない(ナイジェリアの基準年は1990年)。著者が調べた限りではWorld Bank とthose published by the national statistical agencies での比較結果は情報の食い違いが大きく発生している。

※たとえば3つの調査機関、CBN,FA,FOSが出しているナイジェリアにおける年ごとの作物生産量を見る(%Growth)。1987年CBN⇒14.8、FAO⇒-8、FOS⇒-35.4 1988年CBN⇒1.6、FAO⇒0.7、FOS⇒41.4 お前ら一体何を見てその値を出してるんだとツッコミも追いつかないようなばらばらの値で、本気でやっていることとはどう考えても思えない。CBN⇒Central Bank of Nigeria. FOS=Food and Agriculture Organization. FOS=Federal Office of Statistics.

アフリカの経済を論じ行く末を想像するために必ず参照されるといってもいいGDPの値がそもそもまるで正確じゃありませんでしたとなったら、そのデータを基にしたあらゆる議論の正確性など消え去ってしまう。データの正確性、それも信頼され参照元になることの多いGDPのような値がそのような不正確な状況の下に置かれているというのは衝撃だ。

Zendegi by GregEgan

『白熱光』の訳者あとがきで今後のイーガンの発刊予定が書いてあったのだが、早く訳されろ訳されろと願っていたこのZendegiにはまるで触れられなかったので読んだ。次は『Orthogonal』で2015年秋だって。遠未来か!*1 もちろん早川以外から出る可能性もある(独占契約があれば違うのだろうが、イーガンに独占契約もなにもないだろう)ので絶対に出ないということもないのだろうけれど。現代パート(2012)と近未来パート(2027−2028)に分かれており、「特に説明なく人類が肉体を捨ててる」といった常識を一から構築し直す必要がない為イーガン作品の中では非常に読みやすい部類だ。

読みやすいからといってイーガンの読み味が損なわれているわけでもなく、手堅い一作。個人的にはイーガン長編作品の中ではかなり好きな部類に入る。人類がついに自身をソフトウェア上で走らせ、不死になっちゃおうぜ!! と活動を開始する時代であり、バーチャルリアリティの発展が極まりつつある時代である。これはその後普通に精神をアップロードした人間的生命体が出てくるイーガン史的には、直接繋がっているわけではないとはいえ、重要な作品だ。

タイトルのZendegiはまったく意味がわからないと思うけれど、ペルシャ語で生命を表す。『The title of the book means "life" in Persian』*2物語はMartinというジャーナリストとNasimというbrain mappingを専門とするcomputer scientistが主な面子で、Martinが物語の発端、Nasimはマッピング技術といったテーマの側を担当しストーリーの核となっていく。親子愛であったり、死への恐怖といった普遍的な感覚が密に描かれていて白熱光のReviewで散々「イーガンが人間を書けねーのはいつものことだけどー」と枕詞のように批判を受けていた(4つぐらいReviewみたけど全部書いてあったと思う。)ことへの反逆かと思ったりした。

「人間が書けていない」といった指摘はまあ、Reviewする側も本気ではないだろう。なにしろ一般的に想定される人間なんかそもそも出てこないんだから人間を書けるわけがない。本作で俺(イーガン)もやろうと思えば書けるんだぜ、といったことを証明してみせた。人によっては初めてかもしれない『泣けるイーガン』になっているのがよい。相変わらず淡々と事実のみを追記し、ラブロマンスなど一切発生しない作風なのは変わらないが、ここには確かに親子愛がある。『自分が死んでも子供のことを守り、必要なときには善きアドバイザーとなって不要になるまで付き添っていてあげたい』という強い思いが、「不死への欲望」となって現れているからだ。

昨今日本では仮想体験型オンラインゲームに取り込まれて脱出不可能になる小説群が大人気だが、本作でも重要な位置を担う。イーガンがおそらく本作で書こうとしたのは「不死環境化へとリフトオフした瞬間の世界」ではなく、その一歩手前だ。デジタル的に0と1ががきっと切り替わるのではなく、アナログ的に段階進化していく過程で起こるであろうイベントを書いている。そもそも人工知能はSFでは一足飛びに大前提として「人間並みの知能を獲得」、していることがあるが、そこには技術的に大きな飛躍というか、断絶があったはずだと思う。

つまるところ記憶といったものを獲得し、言語を理解し人間文化を理解し、適宜適切な対応をするといった経験をどのように積ませるのかという問題がそこにはある。人間が幼少期を通して周囲の人間の活動を観察し行動を模倣し自分のものにしていく過程をどのようにしてプログラミングするのか。Siriのような人工知能はまだまだ人間のパターンを自分の中で蓄えているにすぎないが、数えきれないほど存在し日々生み出されるパターンを取り込み続ける=Siriをそのまま正当発展させてSFで描かれるようなAIにするのはちょっと現実的じゃないような気がする。

人間の微細な運動をすべてアップロードするにしても、大脳皮質の神経細胞だけで百四十億を超え、神経膠細胞までふくめると神経細胞のおよそ十倍は超える。そんなものをどうやってプログラムしたらいいんだろう。自己学習型のコンピュータの開発が進んでいるところだから、いずれこちら方面での革新が何かを起こすのかもしれない。生物化するコンピュータ by デニス・シャシャ,キャシー・ラゼール - 基本読書 ただ今のところ人工知能や人間のトレースについてはまったく先が見えない状況だ。

イーガンはまさにそうした「よくわからんごちゃごちゃした状況」を『Zendegi』で書いた。それは技術的なことだけではなく「不死の世界へとリフトオフしようとしたけど宗教団体とかいろんな抵抗勢力に襲われたぞ」とか「人間をアップロードすんの思ってたより技術的に難しいぞ」とか「創りあげた代理人格の検証方法とは何か」や「仮想現実と現実が融合していく過程」といった地道な部分の描写がメインとなっている。

先ほど仮想体験型オンラインゲームが本作で重要な位置を担っていると書いたのは、このガジェットが親子の絆を深め子供の成長に不可欠な要素として描かれていくところだ。現実or仮想現実といった区別がなくどちらも取り混ぜられて人間関係が進展していくのが当たり前になっていくということだろう。人類はある日をさかいにいきなり人格をまるごとアップロードして不死になるわけではないし、人類はいきなり仮想現実に移住するわけではない。

それは言われてみれば当たり前の話だが、イランの国内選挙の不正に端を発するデモ運動などを通して「仮想現実と現実、仮想人格とオリジナルな人格」がだんだんと混ざり合っていく人類の歴史過程を辿っていく本作を読んではじめて「ああ、これが当たり前なんだよなあ」とある意味初めて想像するようになった。割合地味な話だがめちゃくちゃおもしろかったのはそうした「あたりまえだけど普段の生活ではあまり想像することのないところ」を丁寧に描いていたからだろう(イーガンはイランを描写するためにわざわざ視察旅行にまでいっていてそれを長文で日記に残している。*3)これは時間があるときにでも訳しておこうか。

そもそも本作で出てくるVirtualな代理人格というのは、まだ完全なオリジナルの映し身がつくれるわけではない。具体的な方法はあやふやだが、脳波測定で被験者に思い出や、怒りといった多様な反応を引きずり出して、その時その時で脳波パターンを取り込み、代理人格として転写するといった感じで「そんなんで実現出来るとはどうしても思えねーけど」な原始的なやり方でつくりあげている。無理があるのはキャラクタも当然承知していて、「完全な人間の再現は今はまだ無理だ。子供のサポーターになる、といった単一の目的のためならなんとか出来るかもしれない」という程度の存在でしかない。

LPレコードをMP3に変換する。英語で書かれた小説を日本語に変換する。ある対象を別の形式へと変換する、あるいは要約VERをつくるには情報の欠落が必ず伴ってしまう。このことは一貫したテーマになっていて、それはつまるところ「人間の精神についても同じだ」ということになる。え、じゃあ本作の代理人格はどうなっちゃうの……といえば、もちろんうまくいくはずもなく……大変なことになっていく。『"If you want to make it human, make it whole." 』*4変換される時の情報の欠落がテーマになっている以上、原書で読む意義は高い一冊だと言える。

VRやAIといったテーマでいうなら、日本ではソードアート・オンラインを読んでおけばいいと思う。いわゆるライトノベルなる分野に属す作品だが、これ以上ないほど本格的にVRを主軸に据えた紛うことなきSFである。わざわざこうやって強めの言葉で宣言するのは「どうせラノベだろ。エセSF」などという不当な評価を見ることが3度ほどあったからだ(証跡を出せればいいんだが今更探すのも面倒くさい)。

Zendegi

Zendegi

ソードアート・オンライン〈1〉アインクラッド (電撃文庫)

ソードアート・オンライン〈1〉アインクラッド (電撃文庫)

ついに翻訳版が出ました。
ゼンデギ (ハヤカワ文庫 SF イ 2-8)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫 SF イ 2-8)

*1:ちょっと読んでみたがあまりに意味がわからなくて死んだ。白熱光よりヤバイ

*2:Zendegi - Wikipedia, the free encyclopedia

*3:Iran Trip Diary: Part 1, Tehran

*4:Zendegi's closing statement.