基本読書

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ハーモニー/伊藤計劃

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

  • ネタバレ無

 発売した直後の作品なので一応ネタバレ無と有で区別なんかしてみたりする。あまり意味はないけれど。

 作品全体に死の気配が満ちている。どころか、構成とか話のネタとかは虐殺器官と似たりよったりと言い切ってしまってもいいぐらいに似ている。だが虐殺器官よりもさらに発展している。死ぬほど面白い。あるいはこんなに面白いと感じているのは、たまたま自分の考えと一致している作品を見つけて、その作品を絶賛することによって自分の思想を肯定しているだけという複雑な面白さの表現かもしれない。だがこの作品は、虐殺器官が好きな人間には一もニもなく薦められるし、虐殺器官がいまいち合わなかったな・・・という人間にも文句なしにいいから読め、といって渡せる。パワーが違う。複雑な考えとか関係なしに面白いはず。最後、345ページを読んだ時に味わった衝撃は生半可なものではたとえられない。

 ユートピアの極致とでもいうべきか、完全なる理想郷が最後に現れる。それは理想郷を目指したら地獄になっちゃった! なんていうまがいものの理想郷ではなく、文字通り完全な理想郷だ。ここまで読むことが出来て本当に幸福、幸運である。誰もが健康を管理され、居場所を特定され完全な管理社会が書かれている。がそんなの今さら真新しいものでもない。いきすぎた管理社会はSFでもテーマにされやすいが、実際のところそれは今現在自分たちが陥っている状況と対して変わるところがない。ライ麦のコールフィールド少年、希望の国エクソダスポンちゃん。未来に限らず今、現時点で、過去からもいつだって人々は何かに絞めつけられ続けるような感覚を味わっている。それはニーチェに言わせれば人間自らが欲している、もしくは痛みとしてさんざん記憶に刻み込まれた結果によることなのだろう。いろいろな物語がこのテーマに挑んできたが、オチのつけ方は様々である。折り合って行こうと受け入れる、断固戦う。大ざっぱにいえばこの二つか。本書はまた別のやり方でここにオチをつける。まったく新しいものを読んだという気がしてならない。いや、対して読書量が多いわけじゃないからこういった本もたくさんあるのかもしれないけれど、初めて味わう感覚である。

 ああ、それからとても攻殻っぽかった。一つ一つのネタとか、反応とか、雰囲気とか。攻殻というか押井っぽいというか。いつ公安九課が動き出してもおかしくないようなノリ。

  • ネタバレ有

 やはり虐殺器官と似ている。たとえば最後に人類全体がどうにかなってしまう点であったり、事態にはすべて引き起こしたラスボス的存在がいたり、ってあれ、こう書いていくと似ていないかもしれない。ちょっとよくわからない。まあどちらでもないということにしておこう。似てるとか似てないとか、些細な問題だ。この物語が虐殺器官の発展系であるとおもう理由の一つとして、ハーモニーには語り手と敵の張本人の対決があり、さらにそこで勝つことだ。何かケジメをつけたような感覚がある。結局虐殺器官では虐殺が起こり、ハーモニーでは人類の意識は刈り取られてしまうが、違いはケジメのつけ方にある。

 虐殺器官との対比はこれぐらいにして本書の内容に入っていく。言うまでもなくこの世界は異常である。きれいすぎる。たとえば今の社会でいうならば、花粉症は少し前までは何の問題にもされていなかった。だが今は問題となっている。何故か? 綺麗になりすぎた社会で、花粉症が浮き彫りになっただけだ。当たり前だったことがだんだん当たり前じゃなくなっていく。どんどん人間の抵抗力は弱くなる。薬で、道具で強くしていった先に待っているのは、薬や道具なしには生きていけない世界だ。そこでは綺麗に殺菌されつくしてしまった世界では人は細菌を求める。空の境界で痛みを見失ってしまった少女が痛みを求めて人を殺したように、綺麗なだけじゃ人は生きていけない。

 途中キアンだけが遺言を残して死んだ時に、あれひょっとしてこれはミステリ的なノリなんじゃないの? とか思い推理してみた。一番わかりやすいキアンだけが特異な自殺の仕方をした理由は、「偶然」である。例外はキアンだけである限り、これが一番わかりやすい。確かにその瞬間に何千人もが同時に自殺したのかもしれないが、そのちょうど同じ時刻に何の関係もないキアンが今までの罪の重さから解放された一時の幸福感から死を選んでも何ら不思議ではないのではないか。とかなんとかだらだらと想像していたのだが、まあノリ自体を間違えていたという事でこの推理はお蔵入りに。

 ウェルテル効果というものの説明がなされる。小説の影響によって何人もが死んだことから、知名度のある人間が死んだ時の波及効果のことを言う。初めて知った。そうか、村上龍がいっていたように小説は自殺しようとする人を助けることができるかもしれないけれど、自殺を促すこともできるのか。入ったんだから出ることが出来るとか言う理屈か! 人を助けることができるってことは人を殺すことができるってことなのか!?

 ちょっと話題がばらついてしょうがないが、またしても話題はべつのところに飛ぶ。一番好きな場面を書く。読んだ時はあまりに衝撃的で、考えがぐるぐるとまわっており体の制御がおぼつかなくなり本を手から落としそうになったぐらいだ。

 
 わたし
 

 こんなもの唐突に読んでも誰にもわからないだろう。だが読んだ人間ならば理解できるはず。意識が今まさに消えかかっており、わた、までしか言えなかったにも関わらず違う階層では無効となりながらもわたしを発言することができる。別の階層への移転。

 人間はね、意識や意志がなくともその生存にはまったく問題ないんだよ。皆は普段通りに生活し、人は生まれ、老い、死んでいくだろう。ただ、意識だけが欠落したそのままで。意識と文化はあまり関係がないんだよ。外面嬢は、その人間に意識があるか、意識があるかのように振る舞っているかは、全く見分けがつかない。ただ、社会と完璧なハーモニーを描くよう価値体系が設定されているため、自殺は大幅に減り、この生府社会が抱えていたストレスは完全に消滅する(P257)

 意識をなくして機械的に生活していた時の感覚を、ミァハは恍惚だと言った。これについて共感するのはおかしいのではないかと思いながらも、共感せざるを得ない自分がいるわけである。何故こんなに考えなくてはいけないのか、いつも考えていたからだ。とにかく世の中面倒なことが多すぎる。何もかも面倒くさい。特に何かを考えていなくちゃいけないことは煩わしい。かといって死を選ぶのも味気ない。ずっと機械的に生活したいと妄想していた。何も考えずに、ただ毎日決められた工程を繰り返すだけの日常を求めていた。今までほとんど誰にも理解されたことがないけれど、自由意思なんてものがまやかしだと思い始めた時から何もかもがただ面倒くさい意味のない選択になってしまった。あるいは何年かしたらあの時は若かったなと振り返ることがあるかもしれないけれど、偽らざる今の心情はただ機械的に生きたいという欲求だけだ。ただもちろんのことあくまでも個人的な欲求であって他の人たちまで適用しようとするこの作品の思想には同意できない。しかしこの最後の部分にはとても心が惹かれる。確かに人類の意識がすべて刈り取られてしまったら、すべては幸福だろう。涙でも出てきそうだ。あまりにも理想的で絶対にかなう事のない夢を見ているような。

 いま人類は、とても幸福だ。
 
 とても。


 とても。

 読んでいる間中ぐるぐるぐるぐると考えが渦巻いていた。何もかも漠然としてして、形になることはないのだけれど何かを考えている。特にミァハがあの宣言を人々に突きつけた時だ。これをたんにお話の中の出来事ととらえずに、自分だったらどうするかを真っ先に考えた。誰かを殺せ、さもなくば自分が死ぬ。これに付随して様々な考えが去来するわけである。たとえば人には根元的な破壊衝動が存在する。ならば案外殺してしまうのをためらっているこの感情は、まやかしなのではないか。案外簡単に、いったん殺すと決めたなら、いったん誰かに背中を押されたならやっちゃえるんじゃないかとか。とにかくこの宣言は、単純ながらも考える事をこちらに強いる。虐殺器官の時もそうだった。倫理面からなにからなにまで。神林長平作品を読んでいるとこちらは創造することを強いられる。伊藤計劃作品を読んでいるとこちらは考えることを強いられる。何かを突き付けてくる。これが文章の攻撃力とでもいうべきものだ。

  • 最後にちょっと疑問に思った点。

1.ミァハからカリスマを感じない・・・。ただの歴史マニアみたいな印象を受ける。読みこんでいないからかもしれないけど。
2.お父さんが突然家族の情愛とかなんだかよくわからないものに突き動かされてトァンを救ったのも説明不足っていうかふにおちない。理解はできるんだけど納得はできない。
3.一か所だけ明らかに不自然なパロディが挿入されていること。虐殺器官でも同じように物凄く不自然なパロディが入れられていたけど、いったいどんな意図の元やっているのか不明。