基本読書

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幻影の書/ポール・オースター

幻影の書

幻影の書

人は同じひとつの生を生きるのではない。多くの、端から端まで書かれた生を生きるのであり、それこそが人間の悲惨なのだ──シャトーブリアン

素晴らしい傑作。一度読み始めたら目をそらすことができない圧倒的なストーリーの構成、文章力! 物語全体を通して謎、それから欠落感が常に満ち溢れており、謎が解決し、欠落感が埋められたと思いきやさらに新たな謎と欠落が生まれる。まるで円環のように巡りつづける世界においてこの作品がなにを見出すのか、それは読んでみなければわからない。複雑な構成、飛び乱れる作中作、いっけん読みづらくなりそうなこの仕掛けがもたらすのは苦痛ではなくただひたすら快楽である。読み終えたときのこの感覚は漫画やアニメでは絶対に味わえないものであると、確信を持って言える。

作中では何度も出てくる謎の映画監督兼俳優ヘクター・マンの数奇なる人生に、彼の取った作品が作中作として何度か描写される。本来ならば、何の意味があるのだ? として読者に読み飛ばされてしまいそうなものなのだが不思議と読むのがダルくないのである。映画の内容を小説のように書くのではなく、それを見ている人間の視点から映画を書くという思ってもみなかった方法で描写がなされているのが一因かもしれない。ズーム、アウト、カット、場面転換、全てが書きこまれており、そのおかげで脳内に映像がズラーっと出てくる。また、映画についての記述も多くあり、そこでもハっとさせられることになった。

映画ではあまりに多くが与えられてしまい、見る側が想像力を働かせる余地が少なすぎる気がした。映画が現実を模倣すればするほど、逆に世界を表現することから遠ざかってしまうように思えた。結局のところ世界とは、我々の周りにあるのと同程度に、我々の中にもあるのだ。

世界とは、我々の周りにあるのと同程度に我々の中にもあるのだ。世界を見ようと思ったら、私の内部を見ればよかったというセリフがのちにも出てくることになる。このフレーズは作品を通しても重要な部分であると思われる。

おっと、先走りすぎた。この作品の内容を紹介してみようと思ったのだが到底できそうにない。多くの事が密接に絡み合っていて、どこか一部分だけを取り出してこれこれこういう物語だった、ということができないのである。本当のところを言えばどんな作品だって読んでもらうのが一番てっとり早く伝える方法なのではあるが、特にこの作品においてはその傾向が強い。さて、どんな物語か? と一言でいえば、物語についての物語であるというのが一番しっくりくる答えだろうか。

この物語の語り手は、家族を飛行機事故で失い深い絶望の底にいた。そんなある時ヘクター・マンという男の無声映画を見て、久しぶりに笑った。どん底にありながら、生きる楽しみがあることを思い出す事が出来た。ヘクター・マンはある日を境に消息を絶っていたが彼はヘクター・マンに関する研究書を書き始めた。書き上がり出版されてからしばらくして、ヘクター・マンと会わないか? という手紙が届く。失踪してから何十年もたっており、到底信じられないと返しながらも次第にヘクター・マンに近づいていく…。この途中で、ヘクター・マンの失踪してからの半生が語られていく。それはまるで作中作として登場する数々の映画と同じく、また別の作品として登場する。そこにあるのは確かに作品の中では現実なのだが、映画と同等、つまり作中作である。作中作が入り乱れていくうちに不思議な感覚にとらわれることになる。すべては作中作となって消えていく、語り手であるデイヴィッドの人生も、また物語なのである。読み手の人生さえも物語である、この考え方自体は物語がテーマになった時点での最初の到達点であるといえる。事実神林長平も、舞城王太郎も、ジーン・ウルフも、語り口はちがえど同じ事を示しているのである。本書が優れている点といえば、さらにその先へいったことだろうか。

自分が死んだら、失踪してから自分が撮った映画を燃やしてくれというヘクター・マンと対比してヘクター・マンの自伝的作品を書き残そうと奮闘するアルマの物語も語られていくことになる。これは書かれたとしても読まれなかったらその物語は存在しないのと同じであるという考え方と、なんとしても書いて、残しておきたい、物語が自分自身であるという執念の対比でもある。結果的にこれがどうなったのかまでは詳しく書かないけれども、終わり方に全てが集約されているのでそこだけ引用しておこう。

そしてもしそうだとしたら、ヘクターの映画は失われていない。行方不明になっているだけだ。いつの日かだれかが、アルマがそれらを隠した部屋のドアを偶然開けて、物語はまた一からはじまることだろう。
 私はその希望とともに生きている。