アニメーター見本市だかなんだかだったり、巨神兵東京に現わるの脚本だったり漫画シナリオだったりといろいろなところで名前を目にする機会が多かったのでそんなにご無沙汰だとはまったく思わなかったのだが実は2013年に出たキミトピア以来、出版された作品としては舞城王太郎2年ぶりの純粋な小説作品かもしれない(Wikipediaをざっとみただけだから確信がない)。らしさを伴う相変わらずな文体と物語。ただし二人称的なチャレンジを含みつつジャンル的にはホラーに分類されるであろう作品で、三人の人間を名前も立場もわからない背後霊的な何かの立場から語っていく短編連作方式のようになっている。
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/05/29
- メディア: 単行本
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『映画なんかほとんど見ない。「二時間も座ってらんないんだよねー」って友だちに言ってるのも憶えてる。本気ですか……。映画が教養になるかどうかは判らないけど、あなたはほとんど本も読まないものね。マンガすら。』なかば呆れながらも、しかしその人生を並走し眺め続けている「私」の視点は三人称の無機質さから遠く離れ、一読者といった遠い距離感ともまた違い、常にべったりと実体的な干渉の出来る親とも異なる親密感をもって、まさにこの世界に存在している一人の人間専用の語り手としての存在感を露わにしていく。この語り手は後の「堀江果歩」では「俺」になったり最終章「中村悟堂」で再度「私」に戻ったり、そのパーソナリティも多様で、全てのケースで子供時代からすべてを観察しているわけではない。
読者とは違うと言っても干渉できず、泣き、笑い、呆れ、ツッコミを入れてくれるこの距離感は実に良い読書の同伴者となってくれる。最初の「中島さおり」の章では、先のように冒頭からいまどきの若い女子のように過去の名作などをてんで知らないし興味もない様に呆れながらも、次第に発揮される彼女自身が持っている強さに引き込まれ、感動していくことになる。福井などという田舎でのほほんと恋愛にうつつをぬかしたり大した将来観もないままぼんやりと志望校のことなどを考えながら暮らしている時に彼女は突如「私は光の道を歩まねばならない」と宣言する。それはこれまでの彼女のパーソナリティを考えればあまりに突拍子もない宣言であり、さっきやってたドラマか何かに影響されちゃったかな的にバカげているのだがそうした気持ちを背後霊たる「私」もまったく同じように受け取っている。『光の道って! 決意だよね。完全正しそう! 是非歩んで欲しいよ! 頑張ってさおりちゃん!』と、完全にバカにしきっている。
それでも、彼女は彼女なりの「光の道」を歩むことになる。それは火の玉を手の平から出すなどという現実離れしたことではないものの、やるにはそれなりのタフネスと覚悟を必要とする作業で、しかし彼女は一歩一歩オモリをつけて階段を上るようにしてそれをやってのける。彼女の勇姿をみて、最初は笑っていた「私」も『あなたを含んでいるという理由で、私はこの世界が好きだった。』と語ってみせる。しかしそもそも光の道とはなんなのか、それはそのまま考えれば誰にも恥じることのない行いをし続けることだとかなりそうだが一応作中ではそれなりの回答が得られる。
意表を突かれてあのときは思わず笑ってしまったけれど、そしてあなたがあのときの言葉を憶えてるかどうか判らないけれど、あなたはあの言葉のとおりに生きて、光の道を通ったのだ。間違いのない人生だったという意味じゃなく、大事なところで自分の役割を果たしてみせたという意味で。私はその証人である。あなたは果たしたのだ。
中村悟堂の章では「悟堂くんありがとう、悟堂くんがこの世に存在するってだけで救われる部分あるよ」と作中人物に語られている。主人公となる三人はみなそれぞれのやり方でこの混沌とし悪意も呪いもごまかしも混在している世界において光の道を歩もうとしているようだ。問題は本作にはそうした光の道を歩まんとする人間の足止めをする存在がいることで、時に赤ん坊の身体の中に潜み、時にはただの暗く丸い穴として、あるいは単純に人間が放つ呪いだったりと様々な形で三篇にあらわれていく。舞城王太郎が描くそうした「得体のしれない何か」の描写も人間社会の闇的ななんかアレとして恐ろしいのだが、これと併発的に起こる人間の人間に対して発する悪意の描写も迫真だ。
浮気相手の嫁に対して無茶苦茶な自己流の呪術を仕掛ける女、かわいそうな自分を演出し、相手の善意につけこんで自分の負担をすべてなすりつける女の、表面上は善意でコーディングされたどす黒い悪意。本当に怖いのは実体のないお化けではなく人間だとはよくいうもののお化け的な何かと人間の悪意が同時にマシマシで襲ってくるからたまらない。だがどれも普通の人が普通に起こし得る事態であり、発生しうる悪意だ。主人公らはそうした事態に巻き込まれていくわけだが、語り手の「私」や「俺」は、所詮背後霊的な、実体を持たない何かだからそうした悪意や呪いそのものと戦うことはできない。しかし──、当然だが、だからといって傍観していられるわけではない。長年付き添ってきた親近感と、三者三様のパーソナリティがあり、関わり方がある。危機をただ見逃し、呆気無くそれでなかったことにはできない。
それぞれの人物の観察者たる三者は、一方的に奪われ、見守るだけなのか? はたまた語り手はこの世界に干渉することができるのか? 干渉できるとしたら、それはどのようにして干渉しうるのか? 為す術もなく進行する目の前の危機に対して語り手が苦闘していく「語り手それ自体の物語」は、光の道を歩まんとする主人公等とその行く手に立ちはだかる人間本性から立ち現れてくる悪意、呪いとの戦いと並行して進行する。この語り手の苦闘と無力感はただ読むことしかできない読者の気持ちのあらわれともいえるし、だからこそ「本当に介入できないのか?」という問いかけは読者の心情にもシンクロしていくわけだけれども、それだけでもないんだよなあ。ここに関しては解釈のわかれるところだと思うが、それもまた面白し。
もちろん「語り手の物語」だけでなく光の道を歩まんとする者共の物語でもある。本作の主人公はそれ程突飛で個性的な人間というわけでもない(第二章の主人公は売れっ子漫画家だからちょっと違うけど、でもやると決めたら突っ走る普通の女の子だ)それぞれが巻き込まれる事件も、別に世界規模からしたら随分小規模な、せいぜい一人か二人が死ぬか死なないかといったレベルの問題だ。だが小規模な問題と苦闘だからといって、国家規模の問題と対処とくらべて偉大さが軽減しているようにも思えない。
一人の、自分の役割を確かに果たす偉大な人物は、『あなたを含んでいるという理由で、私はこの世界が好きだった。』というように、世界そのものにその価値を遡及させる。世界があったからこそ、たった一人が生まれえるのだから。極度にローカルな物語だ。それでもこの物語は世界へと向けて開かれている。